生きているんだ。生きて行くんだ。
父の13回忌があった。
みんなの都合で命日から日が過ぎてしまったけど、お食事しようかと集まることになった。
その日の朝、父のお墓へ一人行ってきた。
亡くなって何度ここを訪れただろうか。
たわいもない話や子どもの話。これからの話なんかもして「またくるね」と後にした。
父との思い出はやはり西伊豆だろう。
会社の人たちと一緒に、幼い頃は毎年夏になると恒例の行事で西伊豆の宿に泊まった。でっかい伊勢海老🦞を食べたり港?で海釣りをしたり😊
一度フグが連れて🐡大騒ぎしたこともあったよね。
あれから電電公社がNTTへと変わり、父の会社がなくなった。
そこくらいから、仕事をいくつか変えてペンキ屋さんになった時もあった。ペンキ屋さんは儲かるんだけど、体がついていかなくて結局体を壊してまた違う仕事を始めた。
そんなこんなで家計は火の車だったと思う。
そして入院をするたびにギャンプルを覚えてくる父🤣
わたしの知らぬところで沢山の母の苦労があった。
母働けば?と思った方もいらっしゃるかと思いますが、まず働けない理由に弟の障害があった。
自閉症に重度の発達遅滞。言葉も喋れず、家からもいなくなってしまうという現実。
ちょっと田舎に住んでいたので、数時間パートなんてする場所すらありませんでした。
それでも母は父と喧嘩するわけでもなく、文句も言わず、子どもの世話と家事とを毎日こなし今思えばすごい母だなと思います。
父が肺気胸で入院して手術した時も母はしっかり寄り添っていました。管に繋がれる毎日でちょっと精神的に疲れた父が凧揚げをしている動作をずーっとしているのを「凧揚げしているらしいよ」と笑って言ってました。
亡くなる直前の入院の時も時間の許す限りそばにいました。
「お父さん、寂しがり屋さんだからね」って。
看護師の姉は父の容態がどんどん悪くなって行くのも、死期が近いことも全部わかっていて母にお別れが近くなることも伝えてあげていました。
先生に呼ばれて、延命治療をするかどうか聞かれました。
少しでも長く生きていてほしいと願う生きている人たち。もうしゃべることもご飯も食べることもできずに苦しさもありながら生き続けさせるのか、看病を続ける事が本当にできるのか?二つの選択にみんなで悩みました。
自然に任せよう。
これが結論でした。
母は泣きました。
でもどちらかの選択しかないのならば、自然に任せるという事がみんなにとっても良い結果に繋がるとそう信じて。
最後の瞬間はわたしは間に合いませんでした。
でも愛する母に見守られてあまり苦しまずに旅だったそうです。
痩せてガリガリになった父を病院から家に連れて帰ろうと霊柩車に乗せると
「すみません、車が動かなくなってしまったので、別の車を持ってきますのでもう少しお待ちください」と言われました。
不思議なことは起こるものです。
みんなで笑っちゃいました。
そうそう、我が家はみんな笑顔が素敵なんです。
笑って笑ってそう言っていたのかもしれませんね。
自宅に帰ると、近所の人やら親戚の人やらいっぱい迎えてくれて最後のお別れもしました。
その傍で姉と葬儀屋さんとの打ち合わせや喪主の言葉等まとめたり、母はぼーっと座って父のそばにいたのを覚えています。
出棺の時、急に雪が舞い落ちました。
父からのさよならのサインなのでしょうか?
これまた不思議な出来事です。
父はとっても信心深い人でした。
周りの方からとっても慕われていて沢山の人が父の周りにいました。
〇〇さんのお話はとっても素敵だわ。
とファンらしきマダムもいました。
歌がとっても上手で
ちょっとイケメンでした🤣
ヘアートニックの香りがする父でした。
父をイケメンにする為に、母は嬉しそうに父に似合う服を買って着せていました。
父は「俺は天涯孤独だから…」と言って母を口説き落としたらしいのですが、結婚してから次から次へと妹が現れてついでにお母さんもお父さんもまだ健在でびっくりしたらしいです🤣
二面性のある父、面白すぎ🤣
父がわたしに言ったこと。
「お前は美しい和を作れる人になりなさい」と。
そう名前に託したと。
ふふふ。
できてるかなぁ😊
素晴らしい出会いは沢山あるよ✨
楽しい仲間もたくさんいるよ😊
色んな事があるけれど生きていけてます😊
父が毎日ご本尊様に手を合わせていたように
わたしは空を見上げ、八百万の神々様に手を合わせています。
似ているのかな?
お父さん、そちらの世界はどうですか?
何をしていますか?
こちらはみんな元気です。
いつかまた会えるかな😊
💜みぃわ💜
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