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今日は洪鐘弁天大祭!!




先日、江島神社へ参拝に行きました😊

秋の限定の御朱印を頂こうといつものように階段を登っていくと


おぉ、60年に一度のお祭り😳


洪鐘祭(おおがねまつり)ってなんだろう?って調べてみると


二度にわたる元寇(蒙古襲来)を戦った執権北条時宗公が、国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うために円覚寺の建立を発願、1282(弘安5)年に開山してから740年が経ちます。



円覚寺にある国宝・洪鐘(おおがね)は時宗公の遺志を継ぎ、子の貞時公が鋳造させたものです。二度にわたる鋳造失敗、円覚寺第六世住持の示唆による貞時公の江島弁財天への参籠、弁財天の啓示を受け、1301(正安3)年、鋳造に成功しました。これを機に江島神社より人頭蛇身の宇賀神像を勧請し、円覚寺の鎮守としたとされています。



洪鐘は鋳造成功から720年の間、時を伝え、人を集めることのみならず、円覚寺の梵鐘(”梵”は神聖・清浄を意味する)として、鐘の音とともに功徳・「世界平和」の祈りを広く伝えてきました。



江島弁財天への鋳造成功のお礼として円覚寺と江島神社が共同で神事・仏事を行い、儀式に併せ、山ノ内の村人が洪鐘弁財天を奉戴し盛大にパレードする洪鐘祭(おおがねまつり)は、鹿山略記に1480(文明12)年開催と記され、その後も60年毎の庚子(かのえね)年に続いてきました。



円覚寺建立・開山の目的、梵鐘である洪鐘の歴史を再確認し、江戸末期(1840年)、明治(1901年)、昭和(1965年)のパレードを参考に、60年後、120年後の後世に繋げるべく、洪鐘祭を2023(令和5)年10月29日(日)に開催いたします。

洪鐘弁天大祭オフィシャルサイトより

夫婦の弁財天

鐘が完成した後、この完成を祝い、江島神社から人頭蛇身の弁財天を円覚寺に勧請し、洪鐘(おおがね)の本当の姿、真体として円覚寺の弁天堂に安置しました。円覚寺の弁財天は、「洪鐘大弁才功徳尊天」といい、宇賀神と習合した弁財天となります。
そのため、江の島の裸弁財天と、円覚寺の弁財天(宇賀神)は夫婦弁天と呼ばれ、洪鐘祭で60年に一度出会います。



洪鐘弁天大祭オフィシャルサイトより



御朱印を頂いた時にパンフレットも添えてくださいました。





大パレード✨✨✨

パレード

洪鐘祭は、江戸時代の記録にある絵巻でも、明治時代の記録にある絵巻でも、長いパレードを行っており、たくさんの人々が参加している様子が見て取れます。
神仏融合でもあり、地元の方々の参加もあり、東京の芸者さんなども参加しており、いろいろな垣根を超えたお祭りであることを感じる絵巻です。


江戸時代、明治時代、昭和に実施された祭りの記録をもとに、令和の時代に合ったパレードを計画しているそうです。

パレードは、車に乗って祭りに2回体験者した幸運な方や、江島神社の唐人囃子、山ノ内の面掛祭りの行列が入ったりと、様々な人々が列をなして、パレードしている様子が記録で伝わっています。


祭礼のパレードは、寺社、地元の人々の協力も相まって、開催されます。
さまざまな垣根を越えて、一丸となって作り上げていく祭礼であることを感じ、円覚寺の成り立ちでもある、敵味方関係なく平和を祈念するという目的を再確認し、令和の洪鐘祭も、鎌倉の町の様々な関係者が協力して、経験したことのない貴重なお祭りを次へつないでいくためにも実施されます。

昭和40年から65年後に実施される令和の洪鐘祭。世の中は大きく激変しました。
この貴重な祭礼が実施され、記録され、次は60年後となります。
60年後に想いをはせるといったいどんな世になっているのでしょうか。

洪鐘弁天大祭オフィシャルサイトより


見てみたいけど、行けなーい💦
と思ったら、ネット配信ありました🩷





また一つ勉強になりました😊

洪鐘弁天大祭の成功をお祈りします🙏


                 ✨みぃわ✨









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