就活生はたくましい。就職活動を終えた同級生の大きな変化に驚く日々。
卒業後の進路は
大学に進学する時にわたしは、卒業したら一年間アルバイトをして学費を貯めて、大学院に進学する予定だった。
ところがこれが卒業したら結婚すると言い出したものだから話が変わってしまった。卒業したら東京に行くことになってしまったのだ。
帰ってきたゼミ仲間たちは
就職活動(タイトルには「就活生」と書きましたが、当時はまだ「就活」という言葉はありませんでした)に出るみんなを見送りながら、わたしは少し困っていた。自分のやりたいことがわからなくなっていた。
夏休みが明けると就職先が決まったゼミ生たちがゼミに戻ってきた。
以前はどこか自信なさげに発表していた同級生が、堂々としていて、人間としても大きく成長していた。わたしは就職活動がどれだけたいへんかということをこの時に間接的に感じた。
もしわたしが就職活動をしていても、こんな風にはなれなかったと思う。
他人まかせなわたしは
思いも寄らないことに、Gさんの就職が決まらなかった。東京の出版社から一本も電話がかかってこなかった。昔はメールというものが存在しなかったので、内定が決まった人には自宅の電話に連絡が入ることが多かった。
就職が決まらなかったGさんは「これからのことは今日の家族会議で決めるから」と言った。
この言葉にわたしの中の何かがはじけた。「家族会議」をするようなきちんとした家庭で育ったGさんと、喧嘩ばかりの家庭で育ったわたしが結婚するのはとんでもない間違いではないかという気持ちが飛び出してきたのだ。
目標に向かって挑む人は
ゼミ生の中には就職が決まらない人もいた。Sさんは希望する仕事に就くために、日本中を巡っていた。Sさんはわたしに「大丈夫、やりたいことがあるんやから大事にしたらいいやん、お互い」と言ってくれた。
Sさんの言葉にわたしは本当に恥ずかしくなった。本当は、わたしは大学院進学から逃げたのだ。英語の試験が思っていたよりはるかに難しいことがわかったからだ。
どこに進学するにしても英語は必須になる。少し調べればわかることを、勉強してこなかったわたしがおろかだったとしか言いようがない。
どうしても書けなくて
だんだん大学から足が遠のき、家にいる時間が増えた。家にいる時間が増えるとともに布団から出られない日が増えてきた。
しかし卒論提出が迫っていた。
実はわたしは卒論を書かなくてもいいとK教授に言われていた。三回生の時に書いたレポートを卒論にすればちょうどいいとのことだった。
この三回生の終期レポートは自分で言うのもなんだが、いいものが書けた。教授も認めてくれて、他学部の教授にも読んでもらったと教えてくれた。哲学科の教授には三回生とは思えないと褒められたとK教授も喜んでくれた。
けれども、卒論だけはきちんと書きたかった。
大学に来ないわたしのことをTちゃんは、「こうちゃんは卒論ちゃんと書きたいんやろうな」と言っているとM子からの電話で聞いた。嬉しかった。
電話線の向こうでは
卒論の締め切り日の朝が来た。わたしは布団の中で、今日を過ぎればとりあえず落ち着くと気づいた。大学は休学しようと思いついた。電話が鳴った。
同級生のQちゃんだった。特に親しかったわけでもないというのに、何度か電話をくれていた。
「こうちゃん、今からでも間に合うから!!」
「いや、もう間に合わへんから」
「タクシーでも間に合わへん?」
「……、」
大学生がタクシーを使うという発想がわたしの頭の中に全くなかったので、わたしの頭は驚きのあまり真っ白になった。
しばらくして、
「間に合えへんと思う。Qちゃん、ごめんな」と言って電話を切った。
居場所を失って
春休みに入った後、どうにかこうにか休学届を出しに大学に行った。
親には大学はやめると言ったらしい。でも覚えていない。
この辺りの記憶は本当にとんでいて、ここに書いたことしか思い出せない。この覚えていないという現象に意味があるとは思っていなかった。
ついには介護の日さえ出られなくなっていた。Bさんには早くから、しばらく行けないと電話をしていた。代わりの人を見つけるのも無理だと頼み込んだ。
気づけば、わたしはどこにも属さない22歳のプー太郎になっていた。
シリーズ
【坂道を上ると次も坂道だった】
でした。
今回は全く上っていませんが。
地味に生きておりますが、たまには電車に乗って出かけたいと思います。でもヘルパーさんの電車賃がかかるので、よかったらサポートお願いします。(とか書いておりますが気にしないで下さい。何か書いた方がいいと聞いたので)