雑踏の中で

何十本もの針の穴に糸を通すように歩かなければいけない雑踏の中、急に人を避けるのが嫌になったのはあまりにも割りを食っていると思ったから。

目の前の目の前に歩いてる人も、横にそれるために左後ろを振り返ったところを歩いている人も、横にそれて歩いていくとまた避けなければならなそうな2人連れも、誰も彼もが前を見て歩いていないから。
自分だけ周りを見ていると言ってしまえば、そんなことはない。と言われることはわかっているけれど、どうにも雑踏を歩くしか無い東京でそう思わざるを得なくなってしまった。

電車の中で、改札で、階段で、歩道で、交差点で、バスの中で、どこでだって。

ぶつかるのは嫌だ。
その人をまじまじと見てしまう。理解の範囲を超えた存在として。
多分私のほうもその人の理解の外にいて、電車を待っているときにぼうっと目の前を眺めたりすること。信号を待っているときに空を眺めること。そんなことがおかしなこととして映るのかもしれない。むしろ、彼らはそんなことを許されていない状況にあるのかもしれない。

もしかしたらその人は、今日中にどうしても見なければいけないコンテンツがある。しかし、これから人と待ち合わせをしていて、家で集中して見る時間がない。仕方ない、集中力を極限まで上げて移動時間に鑑賞する。そして帰ったらそれを記事化して提出し、報酬を得る。それで生きている人なのかもしれない。

もしくは、親しい友人から相談があると長文のメッセージを、付き合っている人から来週行く旅行の予定を決めるためのメッセージを、前に付き合っていてまだ心残りがある人から3年ぶりに上京したからもし時間があったら会えないかとメッセージが、兄弟から来週姪っ子を預けられないかというメッセージを、それぞれ連絡を受けてそれをすぐに返さないとならず、それぞれのメッセージを同時進行で対応しつつこれから大事なバイトの面接に向かっているのかもしれない。

見ないといけないし、返さないといけない。
時間がないのだ。時間は有限、一つのことしかやらないなんて贅沢なのだ。歩きながら空いている目を、手を使わないで生きていこうなんて甘い。そんな意見だって、切実な生活だってあるのかもしれない。そんなことを想像する心の余裕を失っていた自分を恥じた。ごめんなさいと、心のなかで彼らに誤った。私が甘かったと。

けれど、そんな人はほとんどいない。
大体が、なにも考えないなにかに依存しつつある人か、中毒者だ。

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