ソシオニクス タイピング用質問 回答: N
https://casual-typology.blogspot.com/2023/12/socionics-test-list.html
Ne
1: (1301字…!?!?)
人生には意味があると思いますか?
人生自体に意味は無いと思う。
だけど、生じさせることはできるんじゃないかなと思います。
それは別に、「意味を見出す事」に意味を見ている訳ではない。
「夢や目標を持とう」とも少し違う。
せっかく「人生の意味」を考える事ができるのだから、考えてみよう、が近いです。
例えば、犬や猫が、人生の意味を考えているようには、私には見えないけれど (本当の所は知らない、彼らの「私が規定する考え」に触れた事がないというだけ)、ヒトにはそれを考えている人も多いようにも、考える力があるようにも私には見えるし、少なくとも私は考えることは出来るから。
だから、私は人が人生に意味を見出す事ができると思うし、私は私なりの人生の意味が生じると良いなと思っています。
人生に意味があるという場合、その意味は何だと思いますか?
うーん、足跡じゃないかなぁ。
振り返った時に、自分の足跡が刻まれていたら、それはこの世界に干渉したという事がわかる。
それを見て、誰かがポジティブなものを持ってくれれば、それは意味があったことに自分の中ではなる、と思います。
例えば、私たちは死んだ人が書いた本を読む事ができる。
そこに書かれている事に、書いた人の考えや想いに、求めているものがあった時、求めているもの以上のものがあった時、深く心を動かされた時、その人に「ありがとう」と思ったりする。
彼彼女は感謝なんか期待していなくても、その時はこちらが勝手に感謝したくなる気持ちがあるんじゃないかなと。
そういうものを紡げた時、自分がここにあった意味、自分の人生にも意味があったと言えるんじゃないかなと。
私はもうこの世にいない誰かの、人生の意味を感じたいから本を読んだり、絵を観たり、映画を観たりするんだと思う。
でも、なので、自分の人生に生じた意味を知らないまま生きて、死んでいくことの方が多いかも知れない。
でも知れれば嬉しいけれど、人生の意味を感知する必要はないのかも知れない。
でももう一つ、限られた人生の意味もあると思う。
例えば、育てた子供が自立して、生まれてきて良かった、育ててくれてありがとうと思ってくれたら、自分の人生にも、より一般的にわかりやすい意味があったと言えるかもしれない。
共通するのは、自分以外の何かのために、自分の人生が役に立った時かも知れないですね。
人生の意味は、全ての人にとって同じだと思いますか?
絶対違うと思います。
判然と、共通する部分はあるかも知れないと思って、今ちょっとそれを考えてみたいとは思いましたが...。
でも、おそらく意味なんかないと思っている人にとって意味がないのが正解だと思うし。
おそらく、「その人の考える人生の意味」がまずあったとして、その人が「誰か他者の人生」を「この人生って意味あるよな」って考えることがあっても、それで、思われた本人にとって「人生の意味があった」とはならないので。
決まってはいないものだと思う。
何かみんなが同じものを逆に決められたとして、絶対に反発する人はいるんじゃないかな?
そんなもの自分の人生の意味じゃない、勝手に規定しないでくれって。
だから、主観で捉える人生の意味というものは、同じではないと思います。
だから、客観的な人生の意味を規定するべきではないんじゃないかなと思います。
2: (1064字)
未知の人に出会った時、すぐに「おそらく、この人はこういう人だろう」といった情報を掴むことはできますか?
客観的に掴めているかは、当然評価できない場合も多いのでわかりませんが。
過去の経験から「当たりをつける」みたいなことを勝手にやっていると思います。
この表情、話す速度とか言葉の抑揚から、「こういう人かな?」をイメージしている。
でも、もちろん完全に固定されている訳ではなくて、情報からアップデートを繰り返しているような感覚です。
それはその人に対してもそうだし、自分の中のデータベースもそう。
どちらかいうと、データベースがアップデートされることで認識に修正が入るという方が、自分の大切にしているものとしては正しいです。
自分の中では、何よりパターンの精度を上げることが、1番心地良いことです。
もしかしたら、それも、とても限られた、人生の目的の一つかも知れません。
自分の中で、より統合された理論を持っていたいという要求は、何より強いかもしれません。
上記のような情報を、あなたはどうやって掴んでいますか?
ちょっとフライングで書いてしまいがちですが...上で挙げたように、表情とか話し方、が1番かなと思います。
「この人はこういう人だ」と理解するのに、どれくらい時間がかかりますか?
そもそも完全な理解は無理だと思っています。
今では大枠、傾向については、話してすぐからだいたい自分の中の認識があって、それはそんなに外れないと思います。
でも、人間には細かい機微があって、矛盾した考えや選択もするので、すべてなんてまったくもって理解できないです。
その矛盾は、理解、把握出来ていないとは別のもので、傾向ではカバー出来ないものなんじゃないかなと思っています。
そう考えるのは、自分ですら、「自分ならこうするだろう」と思っていても、必ずしもそうでないからです(なんなら物語の方が人工的な分予測しやすいですよね)。
その結果、逆説的ですが、私は「個性の存在」を認識する事ができるようになりました。
ずっと修正してるんですよ、この人に会う度、あの人に会う度に。
パターンで認識しているのに、逆に個々のデータベースが充実してくる。
それがもっと高次なフレームでパターン化する事になることもありますが、そうすると矛盾的な思考や行動に触れることも増えると気付きました。
これは自然界の物理法則とは違うのでは?と思いました。いや...同じ可能性はあるけど、違うとしておく方が誰も傷付けない気がしています。
個人的には、人は、他者を害さない矛盾を許容すべきだと、今は思っています。
社会になると難しい部分もありますが、個々の心は出来る限り大切にした方が良いと、個人的には思います。
枠組みに当て嵌めすぎることは、心を害することに繋がるんじゃないか、それはより社会悪を生み出すんじゃないかなとも思います。
3: (1054字)
アインシュタインの名言に「この世には2つ、無限なものが存在します。それは宇宙と人間の愚かさです。もっとも前者が本当に無限なのかどうか、私にはわかりません」というものがありますが、愚かさの本質とは何だと思いますか?
アインシュタインらしい皮肉に富んだ名言ですね 笑 この名言の話をするには核などに触れるべきかも知れませんが、私はここでの本質ではないと思うので割愛します。
人間は、まず生き物として、自分の見たものが正しいと思わないと生きていけないのではないか?という考えがあります。
例えば大きな鉄球が飛んできた時、「あれは本当に飛んで来ているのだろうか?質量があるのだろうか?」とか考えていたら死んでしまうからです。
少なくとも、そう考える個体は生き残って来れなかったと思うので、そういうリスクが比較的減った世の中だったとしても、マイノリティにしかなり得ないのではないかと思います。
でも、見たものがどれくらいの真実を含んでいるかって、本当はとても難しい問題です。
アインシュタインが相対性理論をまとめ上げられたのは、「目に見えないものを信じる事が出来たからではないか?」と、私は思っています。
だから彼はすごいのだと。
それでも、そんな彼でも色んな場面において賢い選択が出来た訳ではなかったと思います。神格化することを、個人的には良しとしません。
人間は、自分が信じたいものを信じる事が多いと思います。
それが、本来持つ「賢さ」を歪めている気がします。
だから、そういう人間のさがが、愚かさの本質かも知れません。
なぜ愚かさは無限なのだと思いますか?
もう上で書いた事が本質なのですが。
人間は、自分が信じたいものを信じる事が多く、それが愚かさの本質だと考えています。
しかし、自分が信じたいものは必ずしも自分のためになったり、社会を脅かさないものではない、正しいものではない訳で。
本当は唯一正しいはずではないのに、それが正解だと思って殺し合ったりしてしまうのではないか...そう思っています。
本当は人々にとって有用なものも、そういう排他的に凝り固まった信念で捻じ曲がって用いられる、人を物理的に、精神的に傷付けたりする。
歴史は繰り返しているように思えます。
そう理解したとしても、また「今回は違う、自分だけは違う」そう信じて繰り返す。
それって無限の愚かさなんじゃないですか?
少なくともアインシュタインが言いたいことを、私はそう解釈している。
アインシュタインの言葉は、自戒の言葉でもあるんじゃないかな?
愚かな人と、そうではない人の違いは何だと思いますか?
もし、愚かじゃない人がいるとするのなら...
「自分が愚かになりうると、理解してる」かどうかじゃないですかね。
どんな人でも愚かになり得ると思う。
ここまでそれを書いてきたつもりです。
だからこそ、立ち止まるために考えることが、愚かへの抑止力となるかもしれないと思っています。
4: (1440字)
真実、半分だけ真実、虚偽:この3つを区別する基準は何だと思いますか?
純粋な真実や、純粋な虚偽は存在すると思いますか?
真実とは、対義語である虚偽、嘘偽りのないことかなぁ。「事実」よりも、「まこと」であることを求められる言葉なように感じます。事実はあくまで手触りのあるもの、そこにあるもの。
真実は概念的。
ここから始めたいと思います。
虚偽、次の質問に繋がりますが、純粋な虚偽は不安定過ぎて存在できないんじゃないかな?
だって、全部嘘偽りなんて話、存在できる?
それはもはや言語ではないんじゃないかな?
嘘偽りは、真実の中に紛れ込むことで成立する性質があるように思う。
そういう意味で、最初の私の定義は間違っていて、虚偽は真実の対義語ではない気がする。
私の虚偽の定義 (すべてを今言葉にはできないのだけれど) では、純粋な虚偽は存在しない。
それは形而上でもそう。
だけど純粋な真実は存在すると思っている。
でもそれは、概念上でのみの存在あって、形而下には降りてこないものな気もしています。
形あるものになれば、純粋で存在する事は難儀だからかなと。
とにかく真実と虚偽は対義語ではないのではないか。
区分を考える中で、「半分だけ真実」は上手く想像できない。
例えば真実と虚偽の割合が1: 1だとしても、真実と虚偽が溶け合う姿を、私は想像できない。
それらは分離的に存在するものだし、かと言ってその状態は純粋ではない。
ここまでが、私が捉える真実と虚偽について。
またその純粋性があるかについて。
区別の基準を考える訳ですが、そもそも私は「半分だけ真実」の認識がよくわからない。
なので、この区分自体に違和感を覚えるのですが...そもそもの質問が、区分する基準を求めているので、それに合わせて回答してみます。
この区分を適応するなら、全体に対して真実と虚偽がどのくらいの割合であるかで区分するのが妥当ではないかと考えました。
つまり話の内容を分節して、それぞれに対して分析して、「真実」か「虚偽」を確定させるのです。
その結果、例えば、1つの話を「全体」として、真実と虚偽の配分を定量的に考える訳です。
その上で、「真実」「半分だけ真実」「虚偽」を分ければよいので...
とりあえず、真実が100%から、真実: 虚偽=3: 2くらいまで「真実」にしておきましょうか。
真実: 虚偽=1: 1の時だけを「半分だけ真実」に割り当てても良いですが、なら「区分」として考える必要はないと思ったので。
で、真実: 虚偽が3:2から2:3までが「半分だけ真実」、残りが虚偽にしましょう。
いくつかの具体的な事実やデータが組み合わされた結果として虚偽が生まれるメカニズムを教えてください。
色んなケースがあると思いますが、まず思いついたのが、数字はデタラメですが、
・りんご1個の重さが平均200 gです。
・りんごが今トータル100 kgあります。
・だからりんごは500個あります。
という説明。
これは典型的な統計量を使ったウソです。
そこにりんごがあるので、ちゃんと数えて下さい。
あとは、パラドックス。
カメがウサギに永遠に追いつけないという話とか。
ウサギの寝てる間にカメが先に行ってる状況で、ウサギがカメのいた場所まで進むと、その間にカメも進むので、永遠に追いつけない...みたいな。
結局どれもパラドックスか。
一つ一つの事象は正しいけれど、その因果関係を間違えると虚偽になる。
私がこのソシオニクスの質問のTiか何かで、「論理的」とは「石を積み上げる事」だと言ったと思う。
石は間違って積み上げた瞬間、嘘になる。
積み上がる物も、積み上げ方も、積み上げる場所も、決して間違ってはいけないものだと思う。
だから難しいんだと思います。
5: (764字)
アイデアが優れているかどうかにおいて、必ずしも正確性は重要ではありません:この考えについて、あなたはどう思いますか?
必ずしも正確性は重要でありません、に同意します。
もう少し突っ込んでいくと、私の捉え方について、正確性が重要な場面と、そうでない場面についてある程度言語化できると思うので、その点について述べていきます。
正確性が重要な場面:
それを実用的に用いる場合。例えば社会的に実装する際のアイデアです。
そうでない場面:
それ以外。特に概念的な話を考える際や、構想を練る段階。例えば学術的思考において深めるべき問題点を挙げる時、社会実装的であっても企画段階で、などです。
正確性が重要な場面として、私が基準に考えていることは、純粋なアイデアではなくて、主にアイデアが具現化される段階で人に影響を及ぼす状況であること、があります。
アイデアを具現化する際には、そのために多くの人が動かなければならないし、具現化した際にはその結果多くの人に影響を及ぼす事が想定されるからです。だから正確性が重要となります。
目的と違う効果が出て被害を被る人、そんな間違ったものを作り出すために多くの人の時間や労力、経済的コストを割くこと。
それは実害を生むことになるからです。
なので、この場面でのアイデアには、『正確性も、アイデアが優れているかの評価に内包されるべき』と、私は考えます。
逆に、概念的な話を考える場合や、企画段階なら、もしそのアイデアが正確でなかったとしても、そこから派生するアイデアを生むメリットもあります。
また、逆に正確性に固執することで、生まれるはずだった自由なアイデアが制限されてしまう、世に出てこなくなる可能性もはらんでいます。
この場面では、出てきたアイデアが実害を及ぼす前に検討することも可能だし、ブレインストーミング的な非制限的なアイデアの表出が大切で、正確性を加味せず、アイデア自体が純粋に優れているかどうかを評価すべき、と思います。
6: (1030字)
想像力という言葉の意味を、あなたなりに解説してください。
ここに無いものを思い描く力。未だ訪れていない出来事を見通す力。
例えば、一枚の絵があって、白地のキャンパスの中央に小さな青い丸(◯) みたいなものがぽつんと描かれていたとして (言葉だけで説明しても、今頭にあるイメージは私の捉え方を挟んでいるけれど(というか、これも想像に過ぎないのだけど))、
「これから波紋が生まれる瞬間」と、想起する力。
例えば、友達が「明日から中東に行く」と言った時に、「もう準備は終わったのかな?」「友達のことだからパスポートとか忘れてないといいな」とか「やっかいなことに巻き込まれないと良いな」とか「帰ってきたらお土産話を聞ければ楽しいな」とか、頭に浮かべる力。
例えば、人生の目的とか、愚かさとか、真実みたいな概念的なことを、頭の中で料理してみたり、人に伝わる形を考えて加工してみたり、どうすれば聴きやすいか考えて話してみたりすること (自分が上手くできるかは置いといて)。
全ての人が想像力を持っていると思いますか?
ゼロの人はいないんじゃ無いかと思う。ヒトは大なり小なり持っているんじゃないかな?
もしまったく持ってない人がいたとしたら、1から10まで説明しておかないといけない。
「明日は遠足があるから8:00に学校集合して下さい」と言ったら、手ぶらで来る、みたいな人じゃないかな、想像力皆無って。
そんな人見たことも、聞いたこともない、、、はず。
もちろん家出る前に親が止めて説教する場合もあると思う。←こう考えてるのも想像力
あなたは自分に想像力があると思いますか?また、それはどのような形で発揮されることが多いですか?
みんなあるし、自分にもあると思います。
じゃなきゃそもそも想像力の説明もできないような。
発揮されてるのは大喜利でしょ、間違いない。
自分の想像力は、0から無限に広がるようなもの (MBTI的Ne?) よりも、その事象が属するパターンとかフレーム...より高次的にはどう捉えられるかから来るものが多い様に思う (MBTI的Ni?)。
例えば、
雲を観て→あれは水だと学んだ→蒸発すれば気体になるから空気中に拡散するけど、でも地球外に出ないのは地球に引っ張られてるから?→今度どこまでわかってるか調べてみよう
みたいな感じとか、
トマトを観て→植物→そう言えば小学校の時、押し花作ったけどあれまだあったっけな? (MBTI的NiからのSi?)とか。
あとは、複数の事象を観たり、想起した時に、その共通項を見出したり。
それは概念的だけど、想像力を発揮することで可能にしていると思う。
特殊なことというよりは、そういう方向で物事が思い浮かぶ事が多い。
7: (1242字)
誰かが(またはあなた自身が)他の人と異なっていて、その違いが目立っている時に、あなたはどう感じますか?
他者が他の人と異なって目立っていても、基本的には特にどうとは思わないと思います。優劣がない場合は特に。
自分の中で優劣がある事柄の場合は、羨望を覚えたりすることはあると思います。でも、逆はあまりないと思います。
自分の場合は...目立ち方にもよりますね...。
違っていることに対する居心地の悪さを感じることは多いと思います。
それは恐らく、「他人からどう思われているか?」を気にしているからだと思います。
昔ほどは思わなくなりましたが (自分は自分、どうとでも受け取って?のマインド)、それでも、ネガティブな目で見られていたら嫌だなって気持ちはあります。
良い事柄だと尚更そうかも知れません。
例えば、「自分すごいから自分を褒めたい」とか、「見て?凄いでしょ?」みたいな気持ちも0ではないけど、圧倒的に、他人から負の感情を向けられることに対して辛さが強いです。
MBTI的Fe的なものを客観的に働かせているからなのかな?
「この人は他の人とは違う」あるいは「この人は他の人と同じだ」ということを、あなたはどのような基準で区別していますか?
『自分の中での、社会に存在する「その属性に属するヒト」の最大公約数的行動・思考』と照らし合わせた時、違うか同じか...じゃないですかね?
その点は、一般的な定義にかなり沿っているんじゃないかなと考えています。
それが定量的にどのくらいから同じと認識するか、どの程度で差異があると見なすかですかね。
それは難しいかもしれません。
その集団で8割くらいが同じ選択をしてるのに、違う選択をしてる人がいたら、「違う」と思うとは思います。
6割でも思うかな?
6割赤い帽子なのに、2割白い帽子、2割青い帽子なら、白と青は「違う」とみなすかも知れない。
6割赤に4割白なら...思わないかもしれない。
自分は知らないけど、こういう感覚を定量的に評価できる指標はあるかも知れませんね。
「他の人とは違う」という在り方が容認されるのは、どのような状況や条件が満たされた時だと思いますか?
これは難しいけど面白い質問だと思いました。
基本的にはシンプルで、「受け手の問題」なんじゃないでしょうか。
受け手が容認するかしないかなので、他人に害を為さないという状況や条件を満たせば容認する人もいれば、極論そんな制限抜きですべて容認すると考える人もいるかも知れません (私は前者的だと思います)。
じゃあ前者の場合、「害とは何か」という話になるかも知れませんが、今はそこに突っ込む元気がないので割愛します。
逆に、例えば「気に入らないものは容認出来ない」と言う人がいたら、その「気に入らない」を分析しないといけなくなります。
そういう問題ではなくて、「現状、社会はどこまで容認すると思いますか?」という質問なら、個人的に感じる所はあって...「多様性の時代」などという割には「自分の認める多様性以外に排他的」みたいな部分を持ってる方も散見される様に思っています (先程の「人に害を与える」はやっぱり除かれた方が良いと、個人的には思います)。
結局総合的に考えても、私には、現状の社会としても、「容認する人によるが、その幅が人によって違い過ぎて、結局あまり容認的でない社会になっている」というのが近い様に思えます。
Ni
1: (516字)
人はどのようにして変化するのだと思いますか?
人に対して変化を作り出す1番の因子は「認識」と「目的」の連鎖なんじゃないかな?と思いました。
例えば何かに挫折した時に立ち直ろうとするのは、「このままではダメだ」と認識した後に、「立ちあがろう」とか「ここまではやってみよう」という目的を設定することから始まるんじゃないでしょうか。
例えば好きな人に振り向いて欲しいと考えた時に、「今の自分じゃダメだ」と認識した後に、「もっと知識をつけよう」とか「美容室に行ってみよう」とかなるんじゃないでしょうか。
結局人は、今居る自分の立ち位置に疑問を投げかけた時、その疑問を解消するような、新しい場所に移ろうとするような気持ちの時に変化するんじゃないかなと思います。
あなたは、こうした変化についてどう思いますか?
まず思ったのは、「素晴らしい人間の営みだな」ということ。変化があるから、人は今居る場所から動いていけると思うので。
そのために現在地を認識すること、どこに向かうかを考えること。そうして変化していくのではないかなと。
それは人に与えられた能力じゃないかなと思います。
他の動物も、なくはないかも知れない。
でも、ヒトはその力を使って今の社会を築いていると思います。
他の人は、こうした変化に気付いていると思いますか?
気づいているんじゃないですかね?
そんなに難しいことだとは思いません。
2: (534字)
「時間」という概念の意味を、あなたなりに解説してください。
自分なりに、で良いのなら、それは空間とあまり変わらない物です。
ここに自分があって、上があって、右があって、時間もあるという感じです。
何かがどこにあるのかを考える時に、空間と時間を規定することでその在処を決める事ができます。そのための重要な因子の一つです。
一般的には、もう少し、具体的というか、実際目の前にあるものについて指し示される方が多いんじゃないかと思います。
「時間がない」みたいな使い方の方がしっくりくる方が多い印象です。
あなたは「時間」という概念に対して、どのように感じますか?
とても大切な物ではある。根本的な物理量なので、その基礎的な概念にとても魅力を感じる部分はある。
ただ、それ以上でもそれ以下でもない。
それ自体には、意外と惹かれない物でもある。
性質として、もっと好きであっても良いと思うのだが...そう考えると不思議な存在かもしれない。
その時間の中で、何を考えられるか、何を見出せるかの方が重要だと思う。
あなたは「時間」に囚われずにいることができますか?
基本的には囚われてはいないと思う。
ただ、社会生活を営む上で、締切に追われたり、約束を果たすためには気にする必要があるので、そういうレベルでは囚われていると言えるかも知れない。
ただもっと俯瞰した目線で見れば、それは些細なことだとも思う。
自分が慌てていることを後から客観視して、面白く思うことは多い。
3: (676字)
どれくらい時間がかかりそうか予測を立てる時、他の人の手助けが必要ですか?
それは場合によって変わるというのが答えになると思う。
情報を得ないと予測が立たないことはあるし、逆に自分が1番予測するための情報を持っている場合もある。
例えば、初めて行く首都圏の駅からの移動時間を私は読むことはできないから、そういう場合その情報を知っている人の助けがあればありがたいなと思う。
自分にない時間に関わる具体的な情報を持っている人がいれば、その方の助けがあることでより正確な予測が可能になるということだと思う。
例えば、自分が何かを為す時の情報なら、自分の能力などを加味しやすいのは自分である事が多く、助けは必要ないかもしれない。
おそらく、時間に関わる予測自体には、自分に自信があるため、具体的な事象に関わる時間的情報だけ他者に求めているのだと思う。
他の人が立てた時間の予測を、あなたは信じるほうですか?
その人の判断能力と、その人がもっている情報によるので、人と場合による。
そういう面で信頼できる時は信じるし、自分の試算の方が確からしいと思ったら提案するか、心の中で「うーん」と思うかすると思う。
信頼する人に関しては、自分と同じように時間について把握しているかどうかを基準にしているにかもしれない。自分の時間的感覚を信頼していると思う。
後者の場合、別に相手が悪いとか思うわけではなく、ここで対案を出すよりも、相手のプランに乗る方が楽だと考えているという感じ。
そこで自分の時間感覚の正当性について主張しようとは、あまり思わないと思う。不思議な感覚だが、「こちらの方が正しかろう」と思えば思うほど、主張する気がなくなる気がする。
実際はどうやろう、自分が予測を立てた方が良いと思うことも多いとは思う。
4: (614字)
あなたは遅刻したり、締め切りをオーバーしてしまうほうですか?
想定外 (電車が朝から止まっているとか、どうしても先に片付けないといけない仕事が出来たとか、訃報とか、限界な体調不良とか) の出来事が無ければ、基本的には時間を守ると思う。
少なくとも、「してしまう方」ではない。
ただ「余裕を持って終わらせる」ような訳でもない。
例えば何か仕事などをする場合、構想部分に時間を費やす事が多い。
自分の中に浮かんだ方策やタイムスケジュールを批判的に見て検討したり、組み上げてみてバランスが悪ければ修正してみたり。
そういう部分に時間を割く事が多い。
結果的に、仕事に取り掛かる時間は、集中的にやることが多い。
周りから見たら、オンオフが激しいかも知れないし、もしかしたら不安定に見えるかも知れない。
SJ的な考え方の人が見れば、「まだ手をつけないのかな?」と不安になったりするかも知れない。
自分はとにかく「自分の中の構想」を大事にしている。
他の人が遅刻したり、締め切りをオーバーしてしまった時、あなたはどう感じますか?
「自分との約束」という観点で答えますね。
人にもよります。
その人の時間感覚がしっかりしていれば、何かあったんやろうと思うので、
「大丈夫だったのかな?」と心配します。
それは信頼関係に近いかも知れない。
グループで「時間感覚がしっかりしていない人」が混在していたら、仲の良さのバランスにもよりますが、「この人が遅れるならなんか理由があるんやろう」と言葉にしたり、ポーズで注意するけど、後で「大丈夫やった?」と聞いてみたりすると思います。
毎回そういう人なら、多分そういう人なのだろうと感じます。別にそれで怒ったりはしないです。
「そういう人だ」という認識になるので、例えば絶対遅れられないイベントには誘う選択肢は無くなるったり、期日をきっかり守らないといけないものを頼んだりはしないみたいなことはあると思います。
こちらでバランスを取ります。
5: (447字)
「人と会う約束をした」という状況を想像したうえで、以下の①~⑤の時のあなたの気持ちと行動を回答してください。
① 会う約束をした瞬間
約束の時間のことを想像して、「ある程度確実に約束を果たせるかな?」を考える。
② 約束した時間の20分前
待ち合わせなら、だいたいもうすぐ到着できる、という段階にいると思います。
会ったら話す事とか、1日の流れを想定しながら移動しています。
③ 約束した時間の5分前
ちょっとそわそわしていると思います 笑
「もう来るかも知れない」「来るならこっちからかな?」「あの人〇〇さんに似てる。これからデートかな?」とか、色んな妄想をしてる気がします。
④ 約束した時間になったのに、相手が来ない時
そろそろかな?と思いながら、引き続き待ってます。
⑤ 約束した時間から20分過ぎたのに、それでもまだ相手が来ない時
「これは遅刻だな」と思いながら、連絡が来ていないか確認する。
相手との信頼関係にもよるが、信頼関係が強く無ければ連絡する。
強ければ、心配はするものの、まだ連絡はしない。
⑥ ⑤の後、さらに時間が経っても、相手が来ない時
1時間くらいまでは待つ。どんなに信頼関係が強くても、30分経って音沙汰が無ければこちらから連絡する。
大丈夫かな?とか、寝てるだけならいいけど、とか考える。
信頼関係があまり無ければ、1時間待って反故になり、相手の理由を自分が受け入れられなければ、怒りの感情も湧くと思う。
6: (566字)
時間とは、祝福だと思いますか?それとも呪いだと思いますか?
少なくとも、呪いではないと思います。
何かを限定するものではない気がしています。
ただ、自分が「今ここにあるもの」を、そのまま楽しめているかというと、ちょっと違う気はしています。
あまり縛られてはいないけど、受容...「受け入れている」に近い感覚かもしれません。
祝福とも違います。
ただそこにある概念。
もちろんその時々の主観によって、呪いと感じることも、祝福と感じることもあるとは思います。
でも、「時間自体」がそのような、自分にとってポジティブであったりネガティブであったりするものではないです。
数字に近いもの。
この捉え方は割と一貫していて、ここまでの回答にも出ている気がする。
運の良し悪しは、あなたの人生にどのような影響を与えると思いますか?また、そもそも「運」とは何だと思いますか?
まず「運」は、「タイミング」に近いものがあるんじゃないかなと思い浮かびました。
影響で言えば確かに凄いあるかもしれないですね。
どのような影響かぁ...
例えば「運が良」ければ、不確定だった部分に対して想定していた通り、または想定以上の結果が得られたり、そもそも想定していない事柄に対して勝手に良い結果が舞い降りてきたりする。
それは人生にとっては「ご褒美」みたいなものかも知れないですね。
「運の悪」さは、真逆です。悪い方向の結果になったり、想定外の嫌な事が起こる事。
人生にとっては「事故」です。
こう考えると、「運」は巡り合わせ、の様にも思えます。
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