「でもやっぱり人間向いてないわ」ずっとないものねだり
「ずっとないものねだり」という本のタイトルはどうかと思う。じゃあ内容をどうするかとかそんなの決まってないのだけれど、表紙はどうしようかとか内容よりも違うところにこだわってみようかとか思っている。誰の手にされなくとも自己満足で1冊本にしてもいいかなとは思う。ネットの中ではなくて、目に見える形として残してみたいという欲がある。
上記のように考えるのは、多分私に余裕があるからだと思う。調べてみると案外簡単に作れてしまうらしい。けれどきっと私はこだわってしまうから、簡単にはいかないように思う。
そんなくだらないことを考えるのがとっても大切な時間だけれど、そんな時間が増えすぎると私はいらないことまで考えて、多分生きてるのが辛くなってしまう。
そうそう、なんでこんな題名を思いついたかというと、私が人生の分岐点に立たされているからである。結局人生というのは1日では大きく変わらないのだと思っているだけれど、この1日1日が、まるでジェンガを積み重ねるような気がしている。それがゆくゆく見た時に全体に大きくするのは間違いないわけで、ここに来て急に、慎重になりに来ているというわけである。
昔、監督が「(自分がいいと思った)誰と結婚しても同じだ」と言っていたが果たしてそうなのだろうかとシミュレーションしてしまう。
シミュレーションは現実ではないので確かめようがないのだが、後から監督に詳しく聞くと「多かれ少なかれ悩みは出てくるものさ」と返ってきた。となると、私がいいと思ったの基準が大事になるわけである。
すると自分を疑い始め、私はたちまち躊躇してしまう。本当に戻れないような失敗というのは限られているように感じるが、私は今分岐点と表現するしかないわけである。そんなこともない気もする、自然な成り行きでもあり、でも、大きな決断でもある。
将来の自分が「よかった」と思うかどうかなんて、同じ自分であっても時空が違うのでわからない。けれど、それは将来の自分に託してもいいのではないかと思う。そして、今の自分は過去の自分に「よかった」と認められる存在になることではないかとさえ思う。そんなnoteに書くほど、器用にできないのはわかっているけれど、noteくらい少し理想を書かせてほしい。
私のnoteの下書きに何個も記事が溜まっていて、それを自己満足で納得の行ったタイミングで出しているのだが、私が書きたい内容って結局「ないものねだり」な話ばかりなのではないかと思った。それが少しずつ監督とは話していて思ったことで、私はまた指を動かしている。
これを投稿する前に「カテゴリーでみられること」について書いていた。それを書こうと思ったのは、私の家族が学歴や職業で人を判断するからだ。彼らのお目にかかった人は基本的に何をしても正しく許される。大目に見られるのだが、お目にかからなかった場合は、何をしてもボロクソに言われる。彼らは学歴や職業に誇りを持っていて、それを武器として使うのだが、むやみやたらに人を傷つけるべきではないと思う。そんなことをされるのはもう慣れていて、予想を裏切らないので最近は何も感じなくなったが、やはり家族というのは血がつながっていることもあって少し心に響く。学歴や職業で人を判断しない家族だったらと思うこともあるが、紛れもなく彼らは私の家族なのである。
相手から下に見られるマウント取られるのは嫌なのに、自分が下に行く羨ましいというのは率先して行ってしまう。でもどちらであっても、手元にある自分の持ち物や環境を目一杯精一杯めでられないだろうか。
家族の反応は、変化球というのはなく、予想通りであるのだが、私は諦念に達していなかったように思う。私が思う諦念の心境に陥るというのは、感情が動かないということも含まれているのだが、私はそこまで行けていない気がしている。
その話を監督に話したら、「それはとても後ろ向きだね、成長しなさそう」と言っていた。
偽者論に書いてあった「諦念」というところの私の印象は、後ろ向きの中で、かっこよさがある。この「かっこよさ」というのはなんだかブランドのような印象を受けるが、私が作り出す「諦念」というのは、監督が言うように成長しない感じと、どことなくダサさがある。これは感覚的な話で、上手く私も言葉にはできないのだが、今の整理段階ではここまでしか書けない。
家族の他にもないものねだりをしてしまう時があって、結婚に関しても、いざ結婚が見えてくると、相手の人が嫌だとかそういうことではなくてなんだか「誰のものにもなりたくない」と思ってしまった。自然と、結婚というのが「嫁に行く」とか「嫁にもらってもらう」とかそういう言葉から、人のものになるような感覚があるのだと認識する。そんなことないのだけれど、私の全てが変わってしまう気がした。でも、結婚は自分から望んだ変化で、自分から不幸になる必要ないのに、なんだか今はこの目まぐるしく変わる環境の変化に対応できていない気がする。私は彼と2人だけではなくなってしまったことに嬉しくも、なんだか寂しく思う。それは上記の家族のことももちろん関係しているのだろうが、私はいつでもなんだか、ないものねだりしている気がしている。
このないものねだりは、多分理想と現実のギャップを感じているからあると思っていて、よく行けば私は成長だったり、理想に近づけるのだろうけれど、親を人ごと変えることは出来ないし、今までの人生を変えることだって決してできない。そこに「○○だったらなぁー」というのは、私にとって負担になりそうだ。
結婚したら何かが変わる気がしていたけれど、監督は言っていた。
君は君のものだよ。
知らず知らずのうちに、自分の人生の中で、自分が脇役になりそうになっていた。
そうだ、私の人生は私のもので、私の感情も私のものだ。
だから、もっとこのnoteの1記事がうまく書けたらと思ってしまう私も愛おしい。