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♯54 忘れられないのは、モノでも言葉でも経験でもなく「光景」だった
先日、私の両親が急に「カニをごちそうしてあげる」と言ってきた。なんで??突然なに?? と不思議に思ったが、実は私、カニが大好き。大喜びでいそいそと出かけた。
10年ぶりくらいに食べるカニは、そりゃ〜〜もうおいしかった! なかなかの勢いで食べる私を見て、両親はゆでガニを追加オーダーしてくれた。”心ゆくまで堪能”とはこのことか、とお腹をさすった私。
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ラストのコーヒーをいただきながら、なぜカニをごちそうしてくれたのかと母に尋ねた。母は言った。
「あの日の光景が忘れられなくてネ。今度はアンタ(私)と一緒にカニを食べたいと思ってん」
「あの日?」
「ほら、私たちが仕事を辞めたとき、温泉旅行をプレゼントしてくれたでしょ」
両親は自営業をしていたこともあり、休みは日曜日だけ。その日曜日も、次の週の準備や、祖父母の世話で終わっていたから、日帰り温泉さえ行かなかった。
それもあって、仕事をたたむと聞いた時、私は即座に旅行をプレゼントしようと決めた。働き詰めの毎日だったから、体が元気なうちにのんびり旅をしてほしい。そう思って、冬だったこともあり、カニ食べ放題つき温泉旅行を選んだ。
カニ料理が名物の温泉だったから、相当カニがおいしかったのかと思いきや、ちがった。もちろんカニはおいしかったらしいが、思い出の核は、私がまったく予想していないことだった。
「あのとき、特急が出発するホームにわざわざ来て、見送ってくれたでしょう。あんた(私)と小さな孫3人が、いつまでも私たちの電車を見送ってくれた。娘が旅行をプレゼントしてくれて、孫と一緒に見送ってくれるなんて、そうそう経験できることじゃないと思って」
母は目をうるませながら、あの光景が忘れられないんだよね、とつぶやいた。
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カニ料理店を出たら、すぐ近くにあるデパートで買い物をすることになっていた。こういうとき、決まって父は先に帰る。父なりに、母と娘がゆっくり過ごせるようにと思ってのことらしい。
店を出てすぐに「それじゃ、お父さんはここで」と、父は反対方向へと歩き出した。父は毎日10000歩歩いて、足腰を鍛えている。80歳オーバーとはいえ、足取りはしっかりしているほうだろう。なのに、この日はいつもよりも頼りなさげに歩くので、ひそかに心配になったのだが、それは母も同じだったようだ。
「やっぱり、私も帰るわ。またデパートは暖かくなってから!」
母は私にそう言って、早歩きで父を追った。
母が父を追うなんてはじめてで、かなりびっくりしつつも、父を追う母の後ろ姿が妙に心に残った。この日は天気が良く、太陽の光が両親をいい感じに照らした。それを見ながら、私はなんとも表現しがたい、あたたかい感情が湧き上がるのを感じた。
うれしいでもたのしいでもない、でも、とても幸福感を覚えて、ちょっと泣きそうになる、この気持ちの名前はなんだろう? よくある「幸せの光景」ではないのに、頭の中で再生されるたびに、じわじわと幸せな気分になる。
家に着いてから、ふと気づいた。
ああ、母が言っていた「忘れられない光景」って、こういうことなのかも。
母にとっての忘れられない光景を知った日、私は「忘れられない光景」を手にできた。