異世界が異世界じゃないのはなんでだという話
無意識の固定観念が、話をつまらなくするかもしれない、というようなことを前回チョロっと書きました。んじゃあ、固定観念を外して、現実とは全く違う話、例えば異世界物の場合はどうかっていうと、大抵の異世界ものは、現実世界の続きです。私が小学生の時に描いたものもそうですし、子供の時に描いたものもそうでした。今描いてもそうなると思います。誰が描いても、そうなっちゃう。
人間は人間の世界にあるものしか、想像できません。もしあったとしても、それを知覚することが、おそらくできません。どんなモンスターも、どんな擬人化も、現実世界からの組み合わせです。これは残念ながら、想像力の限界、というより、人間という太陽系三次元世界に生きているものの限界というべきこと、なのだ(SF脳的に)。
現実を離れすぎると、大半の人はその世界を理解することができませんので、それはエンターテイメントとしては、失敗になる可能性が大きいのです。
異世界がダメだってことじゃなくて、好きな人はめちゃくちゃ好きで、ダメな人は、すごーくダメ。マニア向け、ですよね。私は好きです。すごーく。
エンターテイメントというのは、人が読むものですし、人の世の話を書かなくては、読み物として面白くありません。例えば人のいない深海の話などのドキュメンタリーは、面白いものが沢山あります。でも、たとえ人は作品の中に登場しなくても、同じ人間のいる地球の1部なんすよね。人の世から離れているわけではないのです。
だったら異世界なんかやめて、全部現実と同じものにすればいいじゃないかというと、現実と全く同じでいいなら、フィクションを見る必要はありません。舞台は現実でも、そこにいる物語や人間は、現実にはいないのが、フィクションです。
空想科学や、あるいはファンタジーは、現実世界と空想世界の組み合わせからできています。だから、現実世界も部分も必ずあります。ストーリーというのは、組み合わせを考えるものです。ストーリー上の人間関係もそうです。これはジャンルを問いません。
人間関係の組み合わせというのは、基本的には交差した表になります。こんな風に表しながら普段考えているわけではないのですが。なぜ表になるかというと、人は孤立無援では、生きていけないからです。人と人とが接触すれば、何かしらの感情が生まれます。
人の数だけ組み合わせがありますですよ。
人間関係といってもフィクションで虚構じゃないかと思うかもしれません。そんなものはいらないという人もいます。でも、フィクションがなくなることはありません。なぜかっていうと、それはやっぱり必要とされているからですよね。
つづきます。