養育里親の歩み(その2―2)

明治初期

明治の維新が成ったと言っても、江戸の町の荒廃は凄まじく、浮浪者が町に溢れるありさまでした。明治政府に引き継がれていた町会所のもとで、お救い米を与え、救い小屋、炊き出しの救済活動を行っています。救育所は三田(港区)と高橋(江東区)を設けられ、浮浪者は国元に帰すのが主な仕事でもありました。これまでの積立金が底をつくことになり、明治4年町会所は廃止となります。

それでも浮浪者は跡を絶たず、明治5年首都の体面を保つために、浮浪者を収容したりしています。収容先として前田侯の長屋を使用して保護しています。翌年には本郷へ移転していますが、これが養育院の始まりとなります。保護した人数245人の中に97人の子どもがいたと記録されています。浮浪者の中には親子一緒に保護される例が多く、子どもだけの保護の記録が少ないのが不思議です。

明治9年の養育院の記録によると、70歳以上の老人16人、15歳以下の幼少者47人、その他成人319人、合計382人の集団となっていました。東京府養育院にあっては、明治10年「幼童縁組並びに雇預かり」制度によって、乳幼児については授乳の可能な夫婦に預け養子縁組を目指します。この年に「幼童里預かり」として院外預かりの実践が行われていました。7歳以上の子どもは、明治11年に新設した「算盤所」で文字と算盤を教え職親へ送り出していました。制度の中の「雇預かり」は職親として継続されています。この頃から、児童室を設けて大人と子どもを分離する方式がとられるようにな明治11年のことでした。

一連の方針が制度化さKれるのは、明治29年「幼童縁組、並びに雇預かり、及び養育料保管手続き」市訓令まで待つことになります。参考までに、職親制度は児童福祉法では平成16年に廃止されています。


  *参考 東京都養育院100年史(同編集委員会)
     幸せに生かされて:村岡末広遺稿集(1,990年 同刊行会)


青葉紘宇
執筆者プロフィール


> 養育里親の歩み(その1-2)

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