養育里親の歩み(その2)
2)明治~昭和戦前
明治政府は前の時代の施策を引き継いでおり、江戸の町にあっては庶民の福利は御用商人が委員となっていた町会所(明治5年に営繕会議所に改編)に委ねられていた。窮民対策として治安の維持の面から救護所(養育院の前身)を設けており、そこでは親と一緒に保護されることもあれば、捨て子として保護される場面もあった。
東京府養育院にあっては、明治10年「幼童縁組並びに雇預」制度によって乳幼児については授乳の可能な夫婦に預け養子縁組を目指し、7歳以上の子どもは文字と算盤を教え職親へ送り出していた。大人の収容場所に子どもが混じっていることの弊害が指摘されて、明治11年児童室が設けられ子どもだけを別けるようになった。児童福祉のスタートである。
明治初期の動乱期が過ぎる頃から、民間人による児童施設の設立運動が各地で起こり、寺院の一角を解放することもあれば、私費を投じて子どもの居場所を確保することもあった。奈良県生駒地方では大正の頃から大阪地方の子どもを預かったことが縁で、口コミで里親が広まり、里親村と称されるまでに拡大している。一時は300名を超える里親集団となっていった。
捨て子や浮浪児は原則として養親を募り養育を委ねる方針を採っていたが、養い親を捜すのに苦労したようで、養育院にあっては年を追うごとに募集地域が広くなっていった。この時の養い親は養子を希望する者が主であったが、例外的に養育中に給金を付けて短期の居場所を提供することもあった。給金付き養い親が今で言う養育里親に近い存在と考えられる。
福田会(現児童養護施設広尾フレンズ)の記録から見ると、子どもを里親に再委託して3歳または6歳で施設に戻している。乳幼児の里子を手放すときには涙のお別れ場面が繰広げられていたとの記録があり、どうしても別れ難い場合には「里流れ」と称して縁組みをすることもあった。全国各地でも似たような興味深い実践が報告されている。里親は口コミで広がったようで、預かる里親集団が自然に形成され「里子の村」と呼ばれて各地の点在するようにもなった。
参考 東京都養育院100年史(同 編集委員会)
横山医院と福田会里親委託制度(福田会育児院研究会編)
青葉紘宇
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