(1) はじめに
日本画家、石崎光瑤(1884 - 1947)にとって、生涯忘れられぬ山旅はいくつかある。
大正6年(1917)春に行ったカシミールの山旅は、その後の画業に大きな影響を与えた。
帰国後に『印度窟院精華・印度行記』という報告書が限定200部発行されたのは大正8年。その81年後の2000年、富山県立山博物館によって復刻されて、すばらしい彩色写真とともに、旅の全体像は明らかにされてきた。
これにあわせて同館は開館10周年記念の特別企画展「石崎光瑤の山」を開催し、ひと通り整理した成果を明らかにした。
たしかにそれは数年がかりの、とてつもない時間をかけた校訂作業だったろう。印度行記の冒頭2ページにわたる「凡例」を読むだけでも苦労は偲ばれる。
しかし正直に言って、企画展の図録や復刻された書を開くたび、わたしはもどかしい思いにかられた。
まともな地図が載っていないのだ。ヒマラヤの登山の先駆けというがいったいどのルートから登ったのか。A4判1ページにインド全図が出ているけれども、カシミールは約1センチ四方に「スリーナガル」「ウラル湖」「マハデュム」の文字があるだけだ。日本地図に「松本」「大正池」「槍ヶ岳」を記して、槍ヶ岳に行ってきましたというようなものだ。肝心の山旅のルートがさっぱり分からない。
図録の参考文献を見ていると当時の資料探索の水準が分かる。あくまでも想像だが、ルートを描くだけの情報を十分に集めきれず、後進のために謎を謎のまま残して下さったように思える。
復刻からやがて四半世紀がたつ。インターネット時代は進化を続けている。
地図の検索が簡単になり、紛争地帯であってもカシミール地方の写真や動画を簡単にみられるようになった。あらたな情報ツールを有効に使えば、石崎光瑤のカシミールの山旅はより詳細にそのルートを推定できるにちがいない。
◇
最初に、読者に問い掛けてみよう。
光瑤が目指した2つの山は「マハデュム」と「シシャナーグ」。前者が小手調べ、後者が本命だったようである。結果は、前者が登頂成功、後者は断念。あなたはこの2つの山が正確にどこに位置するか、インターネットのグーグルマップGoogle Mapで探し当てられますか?[1]
10分以内にたどり着けたら、あなたは地図に相当詳しい人だ。
◇
本稿では、かつて復刻に挑んだ人たちの貴重な仕事に敬意を表しながら、その時たどり着けなかったろう光瑤の山旅ルートをできるかぎり追跡してみたい。(つづく)
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[1]石崎光瑤『印度窟院精華・印度行記』復刻版(2000年)によれば、Mahadev / Mahadiv (3966m)、Shesh Nag(4276m)と比定されている。
また、同書の参考文献では以下の地図が掲げられているので参照されたい。いずれも国会図の送信サービス登録が必要です。
世界山岳地図集成 ヒマラヤ編 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)288コマ、289コマ 1977年
世界山岳地図集成 ヒマラヤ編 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)319コマ 1977年
コンサイス外国山名辞典 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)269コマ 1984年
コンサイス外国山名辞典 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)118コマ 1984年