猫に小判
広く知られているように、徳川吉宗は生類憐れみの令を公布した。これは日本国内の全ての生命体に、死ぬこと及び自他の生命体を殺すことを禁ずる法であった。本能寺の変で織田信長を封印した吉宗であったが、その際に小林一茶や千利休や菅原道真など、多くの偉人を巻き添えに死なせてしまったことを深く悔いていた。生命への深い慈愛と畏敬と悔恨の念から、吉宗は生類憐れみの令を発したのである。
まずはじめに吉宗の想いの深さに感服した江戸市民たちがみな殺生をやめ、互いに争わず傷つけず、また家畜家禽を殺すことがなくなった。吉宗のこのうえない威厳によって、江戸市民たちは病や老いで死ぬこともなくなった。
次いで、野の獣や犬や鳥たちも生類憐れみの令の意味を知り、お互いに争わず傷つけず、また他の獣を殺すことがなくなった。吉宗のこのうえない威厳によって、獣たちは病や老いで死ぬこともなくなった。次いで、海や川の魚たちや蟹たちやオオサンショウウオたちも生類憐れみの令の意味を知り、お互いに争わず傷つけず、また他の水生生物を殺すことがなくなった。吉宗のこのうえない威厳によって、魚たちやオオサンショウウオたちは病や老いで死ぬこともなくなった。次いで、土や草や木に棲む虫たちも生類憐れみの令の意味を知り、お互いに争わず傷つけず、また他の虫を殺すことがなくなった。吉宗のこのうえない威厳によって、虫たちは病や老いで死ぬこともなくなった。
このように日本では生命体がみなお互いに争わず、殺さず、死ぬこともなくなった。ところが猫だけは生類憐れみの令に従わず、その意味を悟らず、ネズミやセミを捕まえて戯れに殺し、ときどき猫同士で争い、また病や老いにより勝手に死んだ。吉宗はこれを深く憂慮し、猫に対して再三再四、生類憐れみの令の遵守を命じたが、猫は一向に聞く気配がなかった。
そこで吉宗はついに江戸城に日本中の猫を集め、その意見を聞くこととした。実際には全猫を集結させることは数のうえから不可能であることが判明したため(猫専用戸籍はまだ作成されていなかった)、江戸24区の猫は全猫が江戸城に集まり、その他の地域からは各藩で選出した代表猫を登城させることとした。
こうした江戸城に多くの猫が集まった。吉宗は生類憐れみの令の意味と、自身の過去の戦いと、自他の生命を大切にすべきことを猫に説いた。だがそれでも猫は全く聞き入れなかった。吉宗は最後の手段として、江戸城に保管していた小判を猫一匹ずつに与え、これにより懐柔することを試みた。だがそれでも猫は生類憐れみの令に従うことを約しなかった。
「いったいなぜおまえたちは、江戸将軍である吉宗の令に従わないのか」と吉宗は聞いた。猫は答えた。「猫にとって、自由に生き、自由に争い、自由に睦み合い、自由に死ぬことは、小判にも他の何ものにも勝る」と。猫の返答を聞いて吉宗は深く考え、それを是としておのれの方針を改めることとした。猫に配布する予定だった小判は江戸市民に配布し、また生類憐れみの令を取り下げた。これにより人間も動物も再び死ぬようになり、また殺し合うようになったが、猫の自由には代えられないと吉宗は考えた。
以上の故事から、堅い信念を持つ相手を買収しようとしても無駄であることを「猫に小判」と言う。巷間には「ものの価値のわからない相手に何かをプレゼントすることは無駄である」という間違った解釈がしばしば見られるが、初学者はこうした妄説に惑わされず、故事をよくよく学び、その意図するところを深く心に刻まねばならない。
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