見出し画像

神在を口にして想ふ

出雲を訪れた。
季節を問わずこの地には神を感じられる場所が多くあり、それは食にも表れている。

私がこの山陰地方で過去に過ごした月日の中でとても感動したカルチャーショックを一つ紹介したい。

それは、食事の前に私たちが使う「いただきます」を、こちらの人々は、「呼ばれます」と使うのだ。

最初はどういう意味、意図で使っているのか分からなかった。しかしその呼ばれるという意味が、この地に縁の深い神と深く関わっていることを今ならより理解できる。

つまり、私たちが生きていくために口にする食べ物を神から頂くために呼ばれる、という意味で、神への畏敬、敬意を込めて言うのである。

更にこの地方には、冬だけでなく、通年ぜんざいを食べられる幸せな環境がある。

私は今回の滞在中、2回呼ばれた。(ここでこの語句を用いることにした)

そして、このぜんざいにもまた、神と深く繋がる所以が存在しているのである。

出雲を訪れた。
季節を問わずこの地には神を感じられる場所が多くあり、それは食にも表れている。

私がこの山陰地方で過去に過ごした月日の中でとても感動したカルチャーショックを一つ紹介したい。

それは、食事の前に私たちが使う「いただきます」を、こちらの人々は、「呼ばれます」と使うのだ。

最初はどういう意味、意図で使っているのか分からなかった。しかしその呼ばれるという意味が、この地に縁の深い神と深く関わっていることを今ならより理解できる。

つまり、私たちが生きていくために口にする食べ物を神から頂くために呼ばれる、という意味で、神への畏敬、敬意を込めて言うのである。

更にこの地方には、冬だけでなく、通年ぜんざいを食べられる幸せな環境がある。

私は今回の滞在中、2回呼ばれた。(ここでこの語句を用いることにした)

そして、このぜんざいにもまた、神と深く繋がる所以が存在しているのである。


ぜんざいの意味には、主に2つの説があります。ひとつ目は、出雲地方のお祭りで振る舞われる「神在(じんざい)餅」が、出雲弁により「ずんざい」→「ぜんざい」となり変化し、京都へ伝わったという説。

もうひとつは、仏教用語で褒める意味をもつ「善哉」(口語で善き哉(よきかな))が、当時高級品であったぜんざいを食べる際、「善き哉!(すごくおいしい)」という意味合いで使われおり、のちに名前へ変化したという説です。

というように、出雲弁そのものにも何か神の言葉に通じる物さえ感じてしまう。

私が呼ばれたぜんざいは、神在餅で、普通の餅ではなく、蕎麦がきから出来た

webより引用

というように、出雲弁そのものにも何か神の言葉に通じる物さえ感じてしまう。

私が呼ばれたぜんざいは、神在餅で、普通の餅ではなく、蕎麦がきから出来た優しい口当たりであった。

旅から戻った今も、口に神在。
言葉の治療家として、その意識を宿し続けたい。
ありがとう、神様。

いいなと思ったら応援しよう!