私がこどもに感情をぶつけた最後の日
先日、エネルギー概論というセミナーを受けました。
その時に先生から出た言葉。
「人の悩みはみんな期待からだからね」
ごもっとも!
そこで思い出したのが
私が子どもたちに感情的になってしまった最後の日。
もう5年?6年前かな。
不登校次男と、フリースクール通いの長男は基本在宅。
昼食はその日によって色々で、
子どもたちに作らせたり、私が用意したり、
それがお弁当仕様だったり、残りおかずだっったり、
決まりなく、ルーティーンでもなく、
その日その日で多種多様なお昼の形態。
仕事を終えて帰宅。
いつもより帰宅時間が遅くなり、急いで夕食つくらなくちゃ!の私。
もう、今日は焼きそばでいいや!
キッチンに行くと、
おひるごはんのはずの何かが(これもう、記憶にない)大量に余っている。
「なんで食べてないの?」
「ちゃんと用意していったでしょ!」
子どもたちのために用意したのに!
なんで!こんなに残ってるの!
これがあるなら、今、急いで準備しようとしなくてもよかったのに!
お腹空いているだろうから、こんなにも急いで頑張ってるのに!
なんで!
そんな心の声が一気に溢れ、
イライラ空気が冬の日本海の荒波のように
ザップーーーン!!!!とこどもたちに
流れ込んで行ったんでしょうね(恥)
実際言葉はそんなに強くなく、
ひどい言葉でもなかったのですが、
言葉の強さや言葉尻より、
そのイラ!っとした私の感情の強さが子どもたちの心を締め付けたんでしょうね。
私の帰りを待ちわびていた次男は毛布にくるまってフリーズ。
私のイラつきに長男は鋭い目つきで反抗。
あー---やってしまった。
その子どもたちの反応で自分のイラ立つ心に気が付きました。
そして自分の心に聴きました。
なんで今、イラっとした?
なんでごはん残っていることにこんなに嫌な気持ちになった?
子どもに向けた なんで を自分に向けてみました。
そこで見えてきた心の声は
仕事で疲れていた。
遅くなったけど、子どものためって早くしようとしていた。
お昼ごはんも子どものために作ったのに。
あーこれは私の気持ちの問題。
子どものためって、すっごい押し付け。私のタダノエゴ。
▽食べてくれていなかったこども
という子どもの行動に不満を持った私の心が
▽お昼ごはんはどうしていたのか、普通に確認すればよかった。
と、自分の行動に視点が変わりました。
食べているはず~という期待。
その期待は不要のものだったのですね。
そこからは、
つくりかけの焼きそばを完成させ、
子どもたちに自分の心の声を頑張って言葉にしました。
ごめんね。イラっとしたお母さんが悪かったよね。
疲れてたんだ。ちゃんと聴けばよかったよね。
もう怒らないって何度も言ってきたのに、
君たちにも怒らないでお話ししようねっていっているのに、
お母さんが一番できてないよね。
猛烈反省でもなく、自分を責めるでもなく、
そんなダメな自分を素直に受け入れた感覚でした。
自分を赦す。
その感覚を持ちました。
その日を最後に、
私は子どもたちにイラっとすることがほぼなくなりました。
(ほぼというのは、超スローマイペース長男と一緒に行動するときに、
イラっとすることあるので(笑))
感情をぶつけなくなったことは
期待を手放したことかもしれませんね。