短編小説「力(ちから)」
部活の帰りに川っぺりをプラプラと歩いていた。
同じ学校の奴らや勤め帰りのサラリーマンが急ぎ足で俺を追い越して行く。俺は、急いで帰る理由もないので帰りくらいは、ゆっくり歩く事にしている。
川を見ながら歩いていると、土手を下りて川のすぐ側まで行きたくなる。だが、この時間に土手の下にいる奴はいない。ぼんやりするには、人目に付き過ぎる場所なのだ。
川は、薄紫から次第に暖かみを帯び、沈みかけた太陽の輝きを力いっぱい反射している。
歩みを進めていると、いつもと違うものに気付いた。
ガードレールと土手の斜面の間、1メートル程の平らな場所に若い男があぐらをかき、必死な様子で絵を書いている。水彩の見事な絵だ。俺が絵に見入っていると、その男は大きな溜め息をついた。気を取り直して筆を動かすが、筆の動きが速くなるのと同時に溜め息も増えていく。
「悪い。見られてると描き辛いよな」
立ち去ろうとすると、その男は俺の声に驚いて振り向いた。
なあんだ。俺に気付いてなかったのか。
「何で溜め息ついてたの?」つい、訊いてしまった。「色が決まらなくて」再び急いで筆を動かしながら男は言った。
「あんた、画家じゃないの?よくいるじゃん、変わる景色に合わせて、どんどん描いていっちゃう人。あれ出来ないの?」
「出来ないから苦労してるんだよ。この絵で僕が希望のゼミに入れるか決まるのに。人生が変わってきちゃうんだよ!」
「水彩だから色を重ねる程色が濁っていくし、明日提出なのに、どぉしたらいいんだよぉ」
こいつ、殆ど独り言になるくらい追いつめられてんな。
あ、俺様ってば、いいことを思いついてしまった。
「な、今から描き直したら?」
「無理だよ、間に合わないよぉぉっ。」
「大丈夫だって」俺はそいつの肩に手を置いた。「今オレが時間止めっから」
そいつは目をまん丸く開けた。
俺も、初めてなので得意気に周りを見た。
道を歩いていた人は、片方の足が地面に着く前に動きを止め、鉄橋を走っていた電車も、飛んでいた鳩も、そのままの形で止まっている。
俺は、時間を止めた。
「どうよ~?これなら描き直せるっしょ?」
俺は嬉しくて、ニタニタしてしまった。
男はまだ喋れないでいる。
「んじゃ、あんたが絵を描いてる間、オレやりたい事あるから。また来るわ。」
俺の家の人間は、一生に一度だけ時を止める事が出来るという、何ともロマンチックな力を持っている。
じいちゃんは、ばあちゃんへのプロポーズの時に。父さんは、掛け麻雀で負けそうになった時に力を使ったそうだ。「どうせならサマージャンボでも当てればよかったのに」と母に言われた時には、遅かった。
俺は家に帰ると、台所で包丁を持ったまま停止している母親の目の前で手を振って見た。包丁をそっと拝借して、サンドイッチを作る。それから魔法瓶にホットコーヒーを入れた。
自転車の前カゴにサンドイッチとコーヒーを積んで、走り出す。
車が止まったままの県道を抜け、高速道路の入口を登る。なかなかキツい坂だ。自転車を立ちこぎして、やっと登りきった。
風も止まったままの8月の夕暮れ。風が俺に吹くのではなく、俺が動いて空気を切り風を作る。
「おもしれーぇ!」
「気もちいーっ!」
大声で叫びながら、もっともっと風を感じようと「とあーっ」と自転車をこぐ。
超ー息切れ
空気うめー(高速道路なのに大丈夫か!?)
まあいいか。
腹減った。
「うっきー」
今度は高速道路の出口を下りていく。こがなくても平気。楽チン、すいーっ。
今なら入り口からも下りられるのに出口から下りるあたり俺律儀。
橋まで来た。
手すりに凭れて暫く川を見た。
「きれいだな。」
恋とか憧れとか切なさの混じる幸せな気持ち。
夕暮れの川、空の色、夏の終わりの焦り。
俺がこの世で最も愛しているものは、そんな夕暮れの中を歩く事かも知れない。
もしもそうならば、これからの人生は、淋しくキラキラした、これしか仕様のないという、俺だけのものになるような気がした。
土手に戻ってみると、あいつが川を眺めていた。
俺たちは、サンドイッチをたらふく食べた。ホットコーヒーもうまかった。
暫く無言で川を眺めた。
「絵は出来たの?」
「おかげさまで」
「このとおり。」
「おーっ。」
傑作だ。
素晴らしい絵だ。
俺は絵には全く詳しくないけれど、今まで見た中で一番好きな絵だった。
「他人のフィルターを通したものが、こんなに好きとは。驚きだ。」
「時を止める方が驚き。」
「あー、でも一生で一度しか止められないから。」
「いいの?今使っちゃって。」
「いいのいいの。時間止めるだけじゃ世界平和は守れないから。何せ止めるだけなんだからさ。」
「ふーん。」
それからまた、暫く川を眺めた。
「そろそろ、戻しますか。」
「うん、そうだね。ありがとう。助かりました。」
「(笑)オレだけ急に自転車引いてっから、道に戻ってから動かすな。」
「だね。」
本当は、何も言わなくても思うだけで時間を動かせる筈なんだけど、一応、儀式的に
「時間よー、動けっ。」
言うが早いか俺はあいつに手を振って、色がクールダウンしていく風の中へ自転車をこぎだした。