第2回小鳥書房文学賞 受賞作品が決定いたしました
今年2月末にかけて半年のあいだ募集しておりました、第2回小鳥書房文学賞。テーマは「日記」。
全628点もの作品をご応募いただき、審査員の金川晋吾さん、千葉雅也さん、応援団長の岸波龍さんとともに丁寧に拝読しておりました。お時間を頂戴しておりましたが、受賞作品を以下の10作品に決定いたしましたことをお知らせいたします。
思いのこもった日記をご応募いただいた皆様に感謝いたします。今回の結果に関係なく、今後も日記や文章を書き続けていただければ、私どもにとってもこれほど嬉しいことはありません。
そしてまたいつの日か、皆様の書かれた作品に出会える日を心待ちにしております。
受賞作品(応募いただいた日記の日付順)
白石果林(11月10日からの3日間の日記)
高杉晋太郎(11月12日からの3日間の日記)
戸原郁(11月25日からの3日間の日記)
河村 泉(12月3日からの3日間の日記)
玉置桃子(12月12日からの3日間の日記)
冬木みちる(12月25日からの3日間の日記)
かずさ(12月28日からの3日間の日記)
韓河羅(1月6日からの3日間の日記)
小軽米美典(2月2日からの3日間の日記)
向井陸(2月15日からの3日間の日記)
■講評 金川晋吾さん
今回の審査でいろんな人の日記を読むことで、人の日記を読むことのおもしろさを改めて感じることができました。と同時に、そのなかからいいと思った日記を選ぶということのむずかしさも感じました。それは日記というものが書き手自身、その人の生全体と密接につながっているものだからだと思います。それぞれの日記に固有のおもしろさがありました。ただ、そのなかでも自分が何か反応するもの、好きだと思う日記というものがあって、そういうものを選びました。ただ、好きだと思うものはたくさんあり、今回選ばれていないもののなかに本当に好きな作品があったりもします。あとは、好きというかなり主観的な基準で選んでいるので、読むときの自分のコンディション次第で評価も変わってしまいます。「作品」として優れているかという基準で審査することは自分にはできませんでした。
私が日記のどういうところに惹かれているかというと、かつてあった出来事やそこにいた人のこと、そのとき思ったことや感じたこと等々、存在していた何かを感じられるところ。またあるいは、それを書いた人、記録しておきたい、書いておきたいと思った人の存在が感じられるというところです。語られるべき物語や意味のために何かが存在しているのではなく、何かが存在しているということそのこと自体を感じさせてくれるものとして私は日記に惹かれているのだと思います。
日記とはどういうものなのか、日記の条件とは何なのかを考えてみると、①一日という枠組みがある、②記録である(ここに書かれていることは「あったこと」であるという前提がある)、というこの2点なのかなと私は思っています。日付というものも重要であり、これまでは「日付があればそれはすべて日記だ」と思っていたのですが、日付がなくても日記たりうるということはあるという気がしています。ただ、書いたものを日記として実際に機能させるためには、日付を入れるということが手っ取り早いし、具体的な一日と結びついているということが日記の魅力の核であることはまちがいないと思います。
「自分のために書くのが日記であり、人に見せるために書いたものを果たして日記と呼んでいいものか」という意見を時折耳にすることがあります。実際、今回応募作品を書くにあたって、「人に見せるために書く日記って何だ」と戸惑った人もいるかもしれません。ただ、私としてはそのような戸惑いも含めて、日記を他人に見せる、そのために書くということにおもしろさを感じています。何かを書くことには必ずそれを読む他者の存在が含まれていると私は思っています。
一日という枠組みがあること。このことが日記にとって決定的なんだと思います。一日という枠組みがあるがゆえに、その都度のことを日記を書いておけば、それだけで時間が積み重なっていきます。変化を書こうとしなくても、日記としてその都度のことを記述しておけば、結果的にそこに変化があらわれてきます。「変化を表現をしないといけない」「因果関係を説明しないといけない」という抑圧が緩められ、そのときの自分が見たり思ったりしたこと、書きたいと思ったことの記述、描写に集中することを日記という場所は許してくれると私は感じています。全然関係のない2つのことを書きたいと思ったとしても、それを無理に接続する必要はありません。その2つのことをただそのままに並べてしまえばいいのです。実際、毎日の生活のなかで起こることというのはそういう断片的で脈略のないことだったりすると思います。
私は今では文章を書くということが、自分の表現活動にとって欠くことができないものになっていますが、かつては自分は文章がうまく書けない、苦手だと思っていました(今でも得意かというとそういうわけでもなく、ひとつの文章を完成させるにはそれなりの時間がかかります)。私は2016年に自分の父親を撮影した写真集『father』を出版していて、この本には私が父と関わった日のことを書いた日記も収録されているのですが、この日記がきっかけとなって自分と言葉との関係が変化していきました。この日記を書くことで、自分が勝手に抱いていた「文章というのはこういうものでないといけない」という抑圧から少し解放されたと思います。そして、何かを言葉で記述、描写していくことのおもしろさ、そこにある自由を知ることができました。
私は日記を書くことのなかに、その人なりの書き方を獲得していく可能性を見ています。今回の小鳥書房文学賞が受賞者や応募者の方にとって何かそのような契機になったのであれば、とてもうれしいです。
■講評 千葉雅也さん
<書こうという気持ちが、異なる境遇の間で共鳴する>
この文学賞は、日記を募集し、その良いものを選ぶという賞である。しかし、日記が文学なのだろうか。日記を、こうして評価させていただいたりしてよいものだろうか。といった迷いを持ちながら応募作を読んでいた。
日記とは、実に複雑な様相を持つテキストの形態だ。
一方でそれは、ごく個人的な事柄を書くわけだが、言葉にして外化する以上、誰かに読まれる可能性をどこかに想定している。いつか誰にも見せず破棄することを固く決心して書かれる日記もあるかもしれない。だがそうだとしても、私性と公性の曖昧な揺らぎが、このジャンルならざるジャンルの中心的特徴であると言えるだろう。
ごく個人的なものに、どのような外的ないし客観的視線を向けるか?
言葉にするということは、客観化、客体化であり、むろんそれは十全にはなされないとしても、ただ心のうちで、形をなさず流動するものとしてあるような何かをいったん固める、切り出すことになる。そのような限定、形態化……などなどの作業を行うことになる。私が哲学の仕事において使う用語で言えば、「有限化」することになる。
今回の選定においては、私の評価も反映されているが、ある程度、他の評価者の意見とも一致をみたようである。
だがそれにしても、上記のように、ごく個人的たることがまずその基本だとして、そのようなテキストを評価するなどというおこがましいことがどのように可能なのか。ひとつには、それがある客体として、一個のオブジェクトのように提示されたときの、つまり、一定の始まりと終わりを持つ長さに封入された何事かとして、どれほどの力を持っているか、ということが私の基準であった。だが、この力とは何なのか。
要するに、パワフルな作品を評価することとなった。結果的にそうなったと思う。
そして比較的、判断に迷わなかったと思う。
日記であるとしても、強いものは強い。内容の深刻さも確かに係数なのだが、それだけでなく、訴えかけてくる文の身体の力である。
急にテクニカルなことを言えば、その強さはどうも、文学的工夫をそれほどしていないことと関係があるように思う。ただ、「それほど」というのがポイントで、それをどう捉えるかが難しいところで、文学的工夫を限りなく廃するという極端を目指せばいいわけでもなさそうである。
ある生活実感が、それほどの工夫はなく、しかし独自のリズムによって提示されている。そのようなものが、私の意識を引きつけた。いや、無意識を引きつけた。具体的な内容ではなく、「何か書かねばならないものがある」ということが伝わってきて、それがひとごとではないと感じるのである。読者である私にも、まだ書かなければならないことがあるという思いを喚起する。
書こうという気持ちが、異なる境遇の間で共鳴する。
そのような、出会いでもあり、すれ違いでもあるようなアンビヴァレントな距離において、何かがほとばしる。それを私は力と呼びたいのだと思う。テキストと私の間に、ある緊張感が生じる。そこから雨が降り出し、あるいは雷が鳴り出すような黒雲を形成し始めている。
そんな空模様の怪しさを感じた作品を、私は良いと思った。
事実上、日記であるものをそのまま小説とすることは、原理的には可能であるし、実際そのような例はたくさんある。生活実感を書くことは、作文の仕事として労働量が少ないかのように思われがちで、想像力を絞って事件や冒険を描くのに比べるとラクをしているという勘違いがある。だが、日常的な人間のふるまいや、風景、内面の言葉などの要素を読んで面白いものに配列することは、まったく容易なことではない。
また、言うまでもなく、経験をそのまま言葉に移すことはできない。
何かが省略されるし、誇張が含まれ、ごまかしが意識せずに起きている。それに、日常の認識にどこまでフィクションが混入しているかを、はっきり判別することなどできない。認識というものは、何らかの形式的整理を経ており、そこにはつねにフィクション性が働いている。言葉による生活の把握、すなわち日記は、そうした「原フィクション性」とでも言うべきものを取り扱う代表的な手段であり、そこから、より強い意味でのフィクション——という言い方にはいささか違和感があるのだが——へと展開していく出発点ともなるものだ。
これは以前、『私小説』(金原ひとみ編、河出書房新社)というアンソロジーに所収の批評でも書いたことだが、どれほど現実性からかけ離れた冒険活劇であっても何らかの私小説性はあるし、いかにも私小説と見える作品にもフィクション性がある。両者はつねに結びついている。
結局のところ、自分が見聞きしたものについてしか書けない、と言われたりもする。それはちょっと極端だとしても、たとえば、ほとんど知らない職業について多少リサーチをして書くとしても、そこには、自分が深く体験したことのある労働状況のメタファーが表れてしまうはずで、そこで行われるのは一種の変換である。
完全に架空の話を書こうとするのは、AIになろうとするようなものだ。だが、AIにしても、無数の過去の身体性の寄せ集めである。諸々の経験を粉砕し、その微粒子を集めたフランケンシュタインの怪物みたいなものである。
私という一人の人間は、そうわかりやすくまとまっているものではない。というのは当たり前のことだが、何かを書こうとすると、自分が考えていることにせよ、見たもの、聞いたことにせよ、それを言葉にする難しさに直面する。言葉というのは実に粗い単位で、それを組み合わせることで「何とも言いがたいもの」を表せる……まあ少なくとも本人は表せているつもりで、また驚くべきことに、読者もそれを受け取っているかのようで、非常に摩訶不思議なことである。
というか、いかにそこにコントロールできない勝手な補完のようなものがあるか、である。それがあえて説明されることもない。相手が自分の話をどう補って聞いているかなど、ほとんど闇のなかである。自分がものごとをどう補完しているかをみずから意識しようと努めることも大変に難しいことである。
——などなどと、さらに議論を続けることもできるが、この機会にあらためて、日記から出発して文学へということについて、考える機会をいただいたことに感謝したい。
今回、僭越ながら選ばせていただいた方々が、これを契機として、様々な文筆の可能性にご関心を広げてくださることを切に願っています。
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このあと、受賞作品をまとめたアンソロジーの編集作業に入ります。受賞された皆様には実行委員会からご連絡いたしますので、今しばらくお待ちいただけましたら幸いです。
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