映画「ラストナイト・イン・ソーホー」感想

 ラストナイト・イン・ソーホーを見る。ここに至る経緯を説明しておくと、マッドマックス・怒りのデスロードの舞台裏を関係者インタビューのみで再現していく本ーーメチャクチャ面白いーーを読んでいて、前日譚のフュリオサをアニャ・テイラー・ジョイが演じることをいまさらに知ったからです。アダム・ドライバーと同じ中毒性に満ちたあの顔面を無性に見たくなって、やみくもに検索したら本作へたどりついたというわけです。彼女が出演している以外の情報をいっさい持たないまま視聴したのですが、見終わった直後の第一声は「アニャはん、出る作品と演じる役はちゃんと選ばなあきまへんで! ボンクラのエージェントは何をしとったんや!」でした。彼女の出演でこの映画の格が上がっていることは間違いないですが、彼女のキャリアにとって何らかのプラスがある感じはまったくしません。

 最近、新進気鋭の若手監督たちに特に顕著なように思いますが、ジャンル誤認を誘発させてカタルシスでございと提示する作品、多くないですか? ミステリーと思わせてホラーとか、ループものと思わせてバトルものとか、ホラーと思わせてエヴァンゲリオンとか。古い物語読みとして言わせてもらえば、例えばミステリーなら「起承転結の起の段階で犯人を含めたすべての人物が登場し、転の終わりまでにすべてのヒントと伏線が提示され、結の部分でフェアな種明かしがされる」というフォーマットが暗黙の了解としてあるわけです。本作も95%の時間を統合失調症患者の見ている世界をビジュアル化したホラーと思わせておいて、最後の5%で感応霊媒少女によるミステリーだったと判明するのは、視聴者に対して到底フェアな語り方だとは言えないでしょう。転に当たるアニャたん扮する商売女の結末を早い段階で見せておきながら、幻覚に発狂する主人公の同じような場面を延々と繰り返すことに、ジャンルを誤認させる以外で何の意図があったのかはよくわかりませんでした。

 あと、老人という存在はそこに至る長大な人生が外野には不可視であるからこそ、尊敬とまではいかずとも決して侮ってはいけないとの思いを新たにしました。最近、タイムラインに流れてきた「自分の持ち物を勝手に捨てる祖母を婚約者に断捨離してもらう」スカッとナントカみたいな漫画を読んでしまったのですが、なんで本邦のフィクションってこんなのばっかりなんでしょうねえ。「オマエが言うな」って総ツッコミくらってるのは百も承知ながら、原神や崩スタのつむぐ「家族の物語」をしみじみ読んでいると、本邦の創作界隈の方がおかしいんじゃないかと感じるようになってきました。「毒親からの脱出」ばかりがメインテーマとして多くからの共感を集める一種異様な状況は、最近ポコポコ訃報の流れてくる全共闘世代の行った家族、地域、学校、社会に対する「教育」全般が間違っていたせいなのではないかと強く疑っております。

 それと、この何も開示しない不誠実な映画の中でただひとつ序盤から確信できたのは、「黒人の同級生だけは決して最後まで裏切らないだろう」ということです。その理由が劇中ではなく盤外にあるのって、つくづくポリティカル・コレクトネスならぬ「クリティカル・アンコレクトネス」だなーと思いました。

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