漫画「鬼滅の刃」感想

 いまさら、オウガ・デストロイング・ブレイドを読む。端的に言って、とてもおもしろかった。ひさしぶりに現実を忘れてフィクションに浸ることができたし、何よりいまを生きる子どもたちがこの作品を支持しているという事実に、胸を熱くさせられた。好ましいのは、人気の出た作品が長く連載を継続するために、設定や感情の隘路へと入り込んでいくのに対して、本作は乾いた筆致のまま、わずか二十巻ばかりの地点ーー昔人の感覚だと、これでもまだ長いがーーで物語をたたみにかかっているところだ。ジュブナイル作品は、子どもがその属性を失う前に語り終えられることで、その時代にしか心に刻むことのできない何かを永遠に彼らへ残すことができる。ネコ型ロボットや海賊ゴム人間やポケット内の怪物は、かつて子どもだった誰かが、己にとって重要だった感傷を後から来た小さな存在へ押し売りする装置と化してしまっており、言い過ぎを許してもらえるならば、ときに子どもへと害を及ぼしてさえいるように思う。

 さて、現代日本において最も重要な作品の一つであるFGOのテーマが「善と超克」であるのに対して、本作のそれは「利他と継承」だと指摘できるだろう(「快活なユーモア精神」も両者に共通している点だ)。善については、何度か話をしてきたと思う。この世界の半分は善で成り立っており、そうでないもの(悪とは言わない)と、常にほんのわずかの差異で過半の境界を拮抗している。そして、善は基本的に観測できない。新旧問わぬあらゆるメディアという間接的な秤では、微小な善の放出を測定することができない。十年、二十年と生活や空間を共にしてきた誰かが、ふとした瞬間に漏らす吐息のような形でしか、善を見ることはできないのだ。その、2つの主観が科学のような客観に転じるほんのわずかな一瞬にだけ、私たちは善なるが確かに実在することを信じられる。FGOで描かれる善は、この意味での善だ。宇宙の多くを占めながら極めて観測の困難な、存在を予想されたあの昏い物質のように、善は見えねど善はある。ファンガスを読むと、繰り返しの日常の中に消えていくその感覚が鮮やかによみがえる。そして利他もまた、善と同じ性質を持っている。特に、ネット上に蔓延する利他のような何かは、すべて偽りと考えていい。なぜなら、自己愛は言葉にできるが、利他は行為そのものでしか表せないからだ。そうそう、自己愛と言えば、「弱くて可哀そうな自分をいたわれ」と叫ぶ鬼の、見開きによる回想はすごかったね! 我が身をふりかえって身につまされたし、何より凡百の長期連載作家なら、あれだけで十週くらいは引き伸ばしそうだーーおっと、話がそれた。

 オウガ・デストロイング・ブレイドがこれほどの人気を博しているのは、キャラ立ちやアクションの魅力だけでなく、意識的にか無意識的にかは知らない、全編にわたって通底する「利他と継承」というテーマに子どもたちが共鳴しているからだと思う。老人は言わずもがな、「大人」を喪失したこの世界で、行動の規範を求める子どもたちが虚構のキャラのふるまいから、それを学べるのだとしたらーーもしかすると未来は思ったより悪くない方向へ進むことができるのかもしれない。

 ともあれ、クロコダイルか、その名前、確かに覚えたぜ! へへッ、ファンガスといい、とんでもないヤツらと同じ時代に生まれちまったもんだ……(十年前の黄ばんだ同人誌ーー善と継承がテーマーーを握りしめながら)

  現代日本における基礎教養とやらであるところの「ゴム人間」について無料公開を聞きつけて、幾度目の挑戦だろう、第一話からのマラソンを開始した。そして、これまた幾度目の中絶だろう、またも嘘P団解散後のバトルあたりで読むのをやめてしまった。あと、現代日本における常識とやらであるところの「王国」読破チャレンジにしても、コココの人が死ぬぐらいでいつも挫折してしまう。両者に共通するのは何かと問われれば、キャラの魅力とまでは言わない、主人公の強さに説得力を欠いている点である。すなわち、被ダメ/与ダメに関してシステム(=作者)の補正が強すぎて、フェアなバトルになっていないのだ。その点、話題のオウガ・デストロイング・ブレイドは、ゲーム的な想像力でバトルを組み立てていることもあってか、非常にフェアな攻防だと感じることができる。なぜ突然、こんなことを話しているかと問われたら、FF7Rの裏で某ミニの天外魔境2を少しずつ進めており、改めてシナリオの進行とほとんど一体化したゲームバランスの妙に、ひどく感心させられているからである。でも「人肉」や「オカマ」はOKで、「キンタマ」がNGなのは意味がわからないなあ、と思った。

 鬼滅、おっと、オウガ・デストロイング・ブレイドの最終回(と作者の性別?)が話題のようだが、この内容は読者やファンに向けられたものではなくて、作者自身がするキャラクターに対しての罪滅ぼしというか、過酷な結末を強いてしまったことへのねぎらいなのだと思う。一流の彫刻家や仏師が言う「素材の内側に元から存在しているものを削りだすだけ」「それが外へ出てくる手伝いをするだけ」といった感覚に似て、自分がどこか別の世界に存在するキャラの依り代となって、彼らの生き方を自動書記的に写し取るようにストーリーを紡ぐという語り手がいる(特に女性に多いように思うが、小説家なら中期までの栗本薫とか、漫画家なら高橋留美子とか)。この作者にはたぶん、虚構にすぎないはずのキャラクターたちが、現実の人間と同じ重さで実在しているように感じられているのだと思う(そして、その感覚が作品の魅力につながっている)。だからこそ、蛇足のそしりを受けてでも生命を賭して戦った彼らへ、最後に救いの安息を用意したかったのだ。別の書き手、例えばファンガスだったら死を死として、喪失は喪失のまま提示してーーそれでも、網膜を焼く生の輝きを残しながらーー終わっただろうが、これは優劣の話ではなく、資質の違いだとしか言いようがない。私は、この結末を肯定する。最後までおのれの子らを商品として差し出さず背後に守り切った、生むものの矜持に拍手を送りたい。

 正直なところ、これまでツッタイーではニュースをななめ読みするぐらいで、自分のツイートとそれに対する反応にしか興味は無かった。しかしながら、「いいね!」を解禁して他者のツイートをじっくり読んでみると、興味ぶかくないこともない。最近は、どいつもこいつもオウガ・デストロイング・ブレイドの人気にあやかって関心を得るため、興味もないのに言及しまくっているのがほほえましい。もちろんインタレスト・ルンペンである私もあやかりたいので、諸君のツッタイー仕草に従うこととしたい。

 以前、鬼滅の刃が子どもたちに人気を博しているのは、「利他と継承」というテーマへ向けた無意識の共振が理由だと指摘した。「大正浪漫」「不老不死」「吸血鬼」「太陽の克服」「剣術」「呼吸法」といった、少年漫画的に使い古された題材を用いながら、私が突出してユニークで魅力的なモチーフだと感じたのは、「善悪を超越した巨大な才能の存在」である(才能はある閾値を超えると善悪の分別を超越する)。じつを言えば、ツッタイーで月曜日に行われるネタバレでこのキャラを知ったことが、作品に触れてみようと思うきっかけであった。究極の生命体と多数の人間たちによる争いの構図が、一個の天才という集合へ要素として包括されており、彼は世界を鳥瞰する神の位置にいながら、自らの才をつまらぬものと断じ、おのれの人生を失敗だったと悔いている。才能とは、「なぜ他人にはこんな簡単なことができないのだろう」「こんな児戯に賞賛や報酬の生じることがむしろ申し訳ない」と思える何かのことで、作中の彼のふるまいは正にこれを裏書きしている。賛否両論の最終回も、「永遠の生命」と「究極の天才」だけが輪廻から外されていることを暗に示すためだと考えれば、諸君の解釈も変わってくるだろう。いまなぜか、かぐや姫の物語を見たときの感想に、「つがいを得て子を成したものが地上で輪廻の輪に乗り、そうでないものたちは月へと帰る」と書いたことを思い出した。

 ところで、ほんの二十年ばかりテキストサイトを続けるだけの簡単なことを、閉鎖したり商業デビューしたり生命を落としたり、なぜみんな実践できないのだろう。金銭が発生したことのない文筆はこの世に存在しないも同じで、結局、私はテキスト書きとしては失敗した。その深い悔恨を抱いて、生きている。

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