雑文「SHOWHEYとCHOMSKY、そしてDAISAKU(近況報告2023.3.16)」

 野球選手の顔面について言及するツイートが炎上した事件を、いまさらに知りました。頭に浮かんだことは2つあって、1つ目は親世代の道徳や倫理に対して冷笑ないし反発して、2ちゃんねるぐらいからの肉を離れた発信ーーパソコン通信のときは、まだ個人との地続き感があったーーに耽溺してきた者たちが、ほかならぬその肉の衰えによって肉の実在にからめとられてしまい、かつてあれだけ否定した昭和の価値観に同調(シンエヴァ問題!)してしまう滑稽さと哀しみです。ハンドルネーム、匿名掲示板、もしかするとポストペット、ついにはバ美肉へと至るネットの変遷とは、現世の肉を離れるための「化身」の変遷でもあったように思うのです。このいずれにも共通しているのは「自分ではありたくない」という切実な希求であり、小鳥猊下なる存在もその欲望に端を発していると言えるでしょう。

 2つ目はSNSに氾濫する言葉の群れのことで、以前「キュレーター不在の博物館の床に放置される真贋不明の美術品」とも表現しましたが、それらは自分の人生、もっと言えば己の肉とは直接に触れることのない「死者の小説」としてのみ、許容されうる性質のものだということです。一般人に発見され炎上した今回のツイートは、昭和の左巻きコメンテーターが生放送の討論番組で顔をさらして発言するときにだけ有効だった類の言説であり、そのラインを読み誤った理由が「化身」の内側にある肉の加齢に過ぎないという点は、ちょっと情けないくらいに凡庸な顛末だと言えます。

 個人的に最近おもしろかったのは、チャットAIの飛躍的な進化に生成文法がキャンセルされる危機感を覚えたノーム・チョムスキー(94)ーー「生きとったんかい、ワレェ!」ーーが公の場に現れて、人工知能を道徳の観点からクソミソにディスった件です。くしくもこれ、野球選手の顔面の話と同じで、旧世代をおびやかす新世代の台頭へ向けた批判は結局、いつの時代もどんな知能からも、道徳へと収斂するんだなあと考えさせられました。世代交代と聞くと「新旧の直接対決によって古い側がやぶれ、双方が納得した上で権威の禅譲が行われる」みたいなイメージを、特に少年漫画に過去を汚染された我々は抱きがちですが、身もフタもない言い方をすれば、古い価値観を持つ世代の引退か物理的な死によって何の意志も伴わず、突然そういう状態になるだけのことなのです。

 「早く辞めるか、死ぬかしねえかな」と思っていた人々がある日いなくなると、長らく場を拘束していた枠組み、イコール古い価値観はウソのように消滅するのですが、外殻を失った内容物はすぐに液状化して外へと流れ出していこうとします。上にもうだれもいなくなった人々は、その事実を前にホッとする間もなく、「これはヤバい!」と自らを枠組み化して流出をせき止めることで、なんとか組織の形を維持する。そして、いったん枠組みとなった個人は個人として扱われなくなり、おそらく物理的な終焉を迎えるまで、ただただ下からの批判と非難を一身に受け続ける装置と化すのです。今回のチョムスキー御大の発言を見て、長らく言語世界の枠組みだった生成文法は、ついに新たな枠組みの内側にたたえられる内容物へと移行したのだとの感慨を、強く持ちました。

 あとは、FGOヘブバン原神ブルアカの倫理観と宗教観をダイサク・イケダ(95)ーー「生きとるんかい、ワレェ!」ーーが公の場でクソミソにディスれば、昭和オタクの世代交代は完了しますね! 唐突に終わります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?