映画「ザリガニの鳴くところ」感想

 盆休みのヒマにあかせて、なにか高尚な文芸映画を見ようとネトフリをさまよううち、よりによって「ザリガニの鳴くところ」を再生してしまう。アダルトビデオやかつてのエロゲーは、しばしば「男性向けフィクション/ファンタジー」なるレッテルで揶揄されてきたものだが、それになぞらえて本作を端的に評するならば、いまはなきハーレクイン・ロマンスの正統なる忌み子であり、女性の欲望を極限にまで圧縮することでショッキング・ピンクの塊に結晶化させた、「薬屋のひとりごと」もマッツァオの、超絶的「女性向けフィクション/ファンタジー」だと表現できるだろう。本職の生物学者が書いたという原作の夢小説ともどもから放たれる、男性のみが嗅ぎわけられる犬笛のような悪臭(なんじゃそりゃ)を、偏差値の高い女性ほどなにも感じないという慄然たる事実を目のあたりにし、配偶者やパートナーから「気がきかない」と言われがちな朴念仁の男性諸氏においては、オンナゴコロの教科書として、本作をケンケンフクヨーすべきだと断言することに、もはやなんのためらいもない。やはり、以前にも指摘したように、思春期を基準点として「いつ色気づくのか?」は、高学歴女子の人生において、きわめて重要な命題であるとの想いをあらたにした次第である。視聴中に生じたオトコゴコロの変遷について、順を追って説明していこう。

 まず、物語のキモであると同時に作品テーマの中心と思われがちな、天涯孤独の「沼地の少女」については、かつてのジュブナイル作品で、恋愛の進展やセックスの阻害要因となる両親を海外出張させたり、遺産を残して他界させたりするのと同じレベルの、作者にとって好都合な「舞台設定」にすぎない。それを証拠に、母親、きょうだい、父親が順にいなくなる過程を描写する筆のぞんざいさを見れば、のちにイケメンたちと気がねなくファックするための、人ばらい以上の意味は与えられていないことがわかる。小学生の女子児童が沼地にひとり生活するのは、あまりにウソっぽいと作者も感じたのだろう、主人公を気にかける「良い大人」として雑貨店の夫妻を登場させるのだが、彼らが有色人種に設定されているのは、たいへんにしゃらくさい。寝起きをともにする相手でさえなければ、肌の色の濃さぐらいは充分に許容範囲だし、「昨今うるさい、ポリコレまでクリアできちまうんだ」程度の安易な着想によるものだろう。そして主人公は、初潮など身体の変化に向けたとまどいみたいなメンドくさい箇所はスッとばして、沼地にひとりで住んでいるわりには、登場のたび衣装が変わり、ムダ毛の処理もおこたらない、とても清潔感のある女性に成長するーーというか、役者が変わる。ほどなくして、腺病質だが沼地の植物を愛する学者肌の「理解あるカレ」と出会い、その庇護の下において、アルファベットの記述さえおぼつかなかったのに、みるみるとウソのように識字を習熟させ、1年で町の図書館の本をすべて読破(!)するまでになる。もっともこの描写は、少年漫画で言うところの「過酷な修行とパワーアップ」へ相当するもので、内容のリアリティについて深く考えてはいけない。

 一般論として、性愛を知りそめた若い女性にとって、ただ優しいだけの男性とのセックスは、次第にものたりなさを増してゆくものだ。しかしながら、そんな下品な潜在意識を口には出せないものだから、男性側が大学進学でいったん地元を離れなければいけないことにして、10ゼロで非難されない状況を作りあげるのは、じつに巧妙かつ狡猾である。少し話はそれるが、のちに植物学者となって町にもどってくるこの人物は、出版社のリストを主人公に渡しながら、「キミの植物スケッチを送れば、必ず本にしてくれる」とうけあい、じっさいそうなる。25年ものあいだ、だれからも請われないままインターネットにテキストを記述し続けている身からすれば、本作における最大のフィクションかつファンタジーは、この点だと言えるだろう。「ラノベの賞に十数年、応募し続けてモノにならなかったのが、自らの身体障害をネタにしたら、即座にブンガク賞を受賞した」みたいな話を仄聞するにつけ、「インドの被差別層の親が子の片脚を切り落として、観光客の行きかう街路に座らせる」のと、いったいなにがちがうのか、真剣に考えこんでしまう。結局、現実の肉の属性だけが価値判断の基準となる時代であり、有名大学を卒業した190センチ近い高身長で、年収も本邦の同年代の上位5%に位置し、生物としての繁殖を堂々と終えた中年美少女の嘆きなど、だれも読みたいと思わないのである(虚構日記です)。

 話をザリガニだかゲジゲジだかにもどしますと、次に主人公は、傲岸不遜でアタマの悪い「ええとこの氏」であるところの、七三マッチョとつきあい始めるようになります。人ぎらいとうそぶきながら、わざわざ若者の集まる砂浜の片隅で本を読む様子は、ウツボカズラを彷彿とさせる食虫植物のようでしたし、濃厚なキスとペッティングのあとで自発的に身を横たえてからマッチョを突きとばして、「軽い女だと思わないで!」と叫ぶのには脚本と撮影の乖離を強く感じましたし、ファック後にする「私の心の貝が少し開くのを感じた」というモノローグには、「それ、股間の秘貝やないかーい!」と思わず大声でツッコまされてしまいました。結局、この七三マッチョの女グセの悪さと粗暴さに嫌気がさして、植物学者となった腺病質の元カレと元サヤーー刀がINKEIで鞘がCHITSUだと考えると、この単語、エロくないですか?ーーに収まるため、沼地の性質を利用したSATSUGAI計画を実行に移します(ミステリ小説の犯人名にマーカーを引くレベルのネタバレだが、正直どうでもいい)。この殺人事件をめぐる裁判が、ストーリーの柱と言えば柱なのですが、クライム・サスペンスに目の肥えた観客からすれば、裁判官も検察官も弁護士も陪審員も証人も傍聴人も、全員が「ことごとくバカ」という、とんでもなく視聴者の知性をナメた仕上がりになっていて、めまいがしました。

 そろそろまとめに入りますと、本作は「肉欲の権化みたいな男とレイプまがいの荒々しいセックスを充分に楽しんだあとは、ベッドでの所作は少し不満ながら、私のことを深く理解して尊重する、趣味のあう優しいカレと結婚したい。そのさい、以前に肉体関係を持った男には、みんな死んでいてほしい」という身もフタもない特濃の欲望からできあがっていて、男性が見ればなにが楽しいのかサッパリわからない、「フィーメイル・ポルノグラフィ」としか形容できない作品となっているのです。不自然な濡れ場カットも多く、文芸映画としてなら30分は尺を縮められると思いますが、ポルノ映画と考えれば、大いに得心する感じはあります。本作の視聴へといたった最大の動機はタイトルであり、いにしえの「ひらがな4文字の生物が鳴くシーズン」から宇宙背景放射のような影響をこの精神が受けていたのではないかと遅れて気づいて、いまはひどく気分が落ちこんでいます。ザリガニの英名がクロウダッドであると知った以外、この映画は私の人生から2時間をうばっただけで、なにひとつ加えなかったことをお伝えして、長々とした犬のような感想を終えることにしましょう。

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