ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(コスモキャニオン到着)

 ゴールドソーサー到着

 ファイナルファンタジー7リバース、コスモキャニオンに到達。プレイタイムは60時間を越えたが、すべてが新しいのになつかしいという、不思議な感覚は続いている。いっさいの情報を遮断しているので、この先なにが起こり、ストーリーがどこまで進み、エアリスがどうなるかも、まったく知らない状態を維持していることを付記しておく。初代プレステで発売されたオリジナルをとても嫌っているーースーファミへの裏切りをふくめてーー話は前にもしたと思うが、それは裏をかえせば、いまよりも大きな感情を使ってゲームをプレイできていた時代だったということでもある(近年は、ほんの数年前のクソゲーでさえ、どこかに書きとめておかなければ、どんな負の感情を抱いたのかすら忘れてしまう)。あのころ、それぞれのキャラクターに感じていた苦手意識や、どうしても受け入れられないという複雑な気持ちが、本作のストーリーを進めるにつれ、当時の感情の重さはそのままに、好意的なものへと反転していくのは、じつに興味深い体験だと言える。そして、このリメイク2はファイナルファンタジー・シリーズというより、ひとりのクリエイターにとっての集大成になっているような印象を、どこか抱いてしまう。本作は、ヤマトとガンダムから旧エヴァが受け継いだ大ヒットSFアニメの流れをうらぎり、その最終作において「カネのかかった自費出版の私小説」を上梓してすべて台無しにしたやり方と方向性こそ似ているものの、作り手の短くはない人生の道行きを登場人物たちへとたしかにあずけながら、決してフィクションの枠組みは崩さない節度をたもっているのだ(大人の余裕をもって、かつての未熟な真剣さを茶化しにかかるユーモラスさも気に入っている)。

 おそらく、もうだれもおぼえていない「ファブラ・ノヴァ・クリスタリス」のローンチが、長い長いカウントダウンの末に、ロケット台の上でまさかの大爆発を起こし、しっぽの根本から経営陣のハサミでチョン切られた尻切れトンボ(ヴェルサス?)となってしまい、その一連のできごとへの深い内省と社内で食わされている冷や飯の感触が、じつに玄妙な味わいとなってシナリオのあちこちへと、よくできたオフクロの煮物のごとくジュワッと染みだしているのである。「起きてからずっと、なぜこうなったかを考える自己批判の毎日」「2番か3番の位置にいて、どうやれば形になるのかを考えるのが、性にあってる」「なぜ、自分だけがひとり取り残されてしまったのか」「みんなすごいヤツだとわかっているのに、いつも自分を大きく見せようとする」ーーこういった驚くような率直さを前にすると、ストーリーの途中でザッピング的に挿入されるザックスとビッグスの話がアラカンとなったノムさんの体験する現在で、昏睡するクラウドとエアリスの側がありえたかもしれない可能性未来のメタファーではないかとさえ邪推してしまうほどに、生々しくひびく。ビッグスのするこれらの述懐は、長くひとつの組織にいる人間にとって痛いほど身につまされる内容ばかりであり、リーダーの器ではないのに時間の経過で決断する立ち場に置かれていたり、時流の機微で組織を離れてしまった自分より優秀なだれかのことをときどき思いだしたり、人事考課を行う側にいながら部下と周囲からの評価が気になったり、かつて尊大なプライドや臆病な羞恥心や抑えきれぬ性欲を内側におしこめていたクラウドの無表情の裏に、いまやそういったマネジメントを行う側の苦悩がたたえられているのかと思うと、知らず大きな感慨のため息が漏れてしまうのである。

 もしかすると、映画版ファイナルファンタジーで会社を追われたヒゲの御大が残っていてくれればという夢想や、「20年、いや、10年はやく組織を離れて独立していれば、どうなっていただろう」という起こらなかった未来への妄想も、ことあるごとに心中へカマ首をもたげるのかもしれない。しかしながら、ファイナルファンタジー7が最新の技術で手厚くリメイクされる一方で、456がピクセルリマスターみたいにお茶をにごされたまま、いつまでも放置されているのは、ハッキリ言ってしまえば、作った当人が会社に残っているかどうかだけの違いであり、一発屋と言われようがなにしようが、どんなにブザマだろうと組織にしがみつくことで結果として得るものは、どの業界でもあるのだと思う。リメイク3となるリユニオンで今度こそ、すべての後悔ごと作品をさらなる高い場所へと打ち上げてくれることを、心から願ってやまない。それはまさに、16を作ったアホが苦しまぎれにほざいた「最終幻想」とはかけ離れた、真の意味での「ファイナルファンタジー」となることだろう。

 初回クリア



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