16時10分、優しさは三角形だ【頑張る毎日のショートショート】

暫く前から、こうして真っ黒な窓の外を見つめている。今日は冬至だ。1年で最も早い日没と共に、私のライフプランも沈んでいった。

3ヶ月後に卒業を控える麻耶は、就職内定の取り消しを1本の電話で知った。あまりにも突然だった。その上、まだ暫くは内定の取り消しは、内密にしておくようにと言われている。誰にも話せない絶望が、私の手のひらと背中、そして瞳もジワジワと湿らせた。電話の前にやり残していた卒業研究は、とてもじゃないが今日は無理そうだ。17時5分。まだ帰るには少し早い。意味もなく、電話の直前に会社から届いたメールを見返す。

「早急にお伝えしたいことがございます。本日中に電話できますか。」

今思えば、見るからに深刻そうなメールだ。いつでも構いません、などとすぐに返信したことを後悔した。第一志望の企業だった。内定を貰った時は、喜びの何倍も安心感が大きかった。当時、私が感じた安心感は、希望とよく似ていたと思う。やっと、大学受験で味わった挫折を挽回できる。やっと、両親に喜んでもらえる。今度こそ、私は胸を張って生きていける。根拠の無い安心感は、私の心を幸せにした。そして今、その幸せは白紙に戻った。視界がぼやけてしまう前に時計を見る。17時15分。やっぱり、もう帰ろう。

実験器具を片付けて、自分のデスクに戻った。そそくさと荷物をまとめて部屋を出る私を、先輩が呼び止める。
「麻耶ちゃん、卒業旅行何処行きたい?」
ついさっきまで真っ黒な空を見ていたからか、先輩の明るい笑顔が眩しかった。
「考えてみます」
できる限りの笑顔で答えて、会釈する。もう、帰りたい。
「あっ、待って」
今度こそ部屋を出ようとした私を、先輩がまた呼び止める。
「研究室のガスコンロで、牛すじ煮込み作ったからさ、食べて行かない?」
あぁ、そうだった。気にも止めていなかったが、今までずっといい香りがしていた。先輩方が、ずっと交代で、火の当番をしてくれていたことを思い出す。
「すみません。今日はちょっと用事があって」
息を吐くように嘘をついた。

帰り道をのんびり歩く。通りすがりの民家から、ほのかにカレーの香りがした。今日は何を食べようか。食べたいものが思い浮かばずに、ただ空を見上げてみる。月がぽつんと浮かんでいた。昔、といっても半年ほど前、大事な人に「月が綺麗ですね」と言ってみたことがある。その人は、「月は、ずっと前から綺麗でした」と答えてくれた。前触れ無く発動する私の気まぐれに、いつも上手に付き合ってくれる、そういうところがとてもとても好きだった。住んでいる場所が遠かったから、卒業後はできるだけ近くに、彼のそばに行きたいと思った。内定を貰って、彼の近くに行けることになって、本当に嬉しかった。繰り返しになるけれど、これに関しては素直に、ただ嬉しかった。それほど好きだったその人と、今はもう、別々の道を歩んでいる。手袋を外して、冷たくなった頬に手を当てた。人生は、予定通りにいかないものだ。つい半年前には夢見ていた、何もかもが崩れていった。今の私は、大学受験の挫折を挽回したどころか進路選択の振り出しに戻っていて、胸を張って生きているどころか、1人トボトボと、こうして猫背で帰宅している。今日は、どうにも寝られそうにないと思った。

予想通り、ベッドに入って数時間が経つというのに、脳は寧ろ日中よりもよく動く。これから、どうしようか。何から調べ始めようか。漠然と考え続けるなかで、たまに、いや何度も怒りが込み上げてくる。怒りは、会社に対してじゃなかった。あの、「牛すじ煮込み」が酷く頭にきた。

忘年会、おつかれさま会、大掃除。

先輩方は、時間と心に余裕のある方々だけが楽しめる年末行事を連日熟していたかと思えば、今日は丸一日かけて牛すじ煮込みを作っていた。最近の先輩方はみんな、幸せそうだった。いつも優しくしてくださる先輩方の笑顔がぼんやり浮かぶ。次は、卒業旅行、か。考えれば考えるほど、怒りが込み上げてきた。憎たらしかった。妬ましかった。頭に浮かぶ明るい笑顔が目障りだ。これほどごちゃごちゃした頭でも、この気持ちが八つ当たりだとは分かっている。それなのに、何度寝返りを打ったところで、ふつふつとした脳が落ち着いてはくれなかった。

殆ど眠らずに朝になった。昨日やり残した実験を片付けて、いつもよりずっと早い時間に帰る支度をする。まだ16時5分。さりげなく部屋を出ようとしたところで、また、先輩に呼び止められた。
「麻耶ちゃんの分の牛すじ煮込み、食べてから帰りなよ」
「えっ?」
想定外だった。牛すじ煮込みを私のために残しておいてくれたことは勿論、その量が。先輩は、ラーメンどんぶりに山盛りの牛すじ煮込みを電子レンジから取り出すと、私のデスクに運んでくれた。
「全部、私の分ですか?」
驚く私を気にも止めずに、先輩方が頷く。
「私たちは昨日十分食べたから」
これは、当分帰れそうに無いと覚悟して、一口食べてみる。とろとろのダイコンが、舌の上で崩れて、じゅわっと旨味が広がった。研究室の古びたガスコンロで作ったとは思えないくらい、それはもう、美味しい牛すじ煮込みだった。
「凄く美味しいです」
私は、精一杯笑って見せた。先輩方は、嬉しそうに小さく拍手して喜んでいた。
「エネルギーチャージできた?」
先輩の1人に聞かれて、胸がぎゅっと痛くなった。この人たちは、本当に優しい。今まで何度も、この優しさに支えられてきた。この研究室が大好きで、だけど大嫌いだと思った。私とは違って来年も安泰な先輩方と別れられて清々するし、凄く心細いと思った。予期せず差し出された優しさが、心に沁みた。一口ひとくち、自分の心のトゲが痛かった。飲み込むたびに、誰にも言えない言葉たちが、喉から胃袋に沈んでいく。お腹が重たくなってしまって、頑張ったけれど、全部は食べられなかった。

研究室を出る時、まだ胃袋がぽかぽかしていた。牛すじ煮込みと一緒に飲み込んだ言葉が体の中でガタガタと暴れている。今日はまだ、家に帰らないことにした。心が晴れたと「錯覚」するまで、何処までも、歩いてみようと思った。当たり前だが、今感じている絶望は「錯覚」だけで乗り切れる訳じゃない。今は、慰めの言葉も、声援も、自分で掛けてあげるしかない。学校を出て、手袋をつけようとした手のひらが、汗でぐっしょり濡れている。側に居てくれた大事な人はもう居ない。家族の前では、出来るだけ明るくいたい。だから、とにかく今は、心晴れたと「錯覚」しなければならない気がした。日が沈みかけた道を、一人で歩いていく。ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ。きっと今日の「錯覚」は、未来への命綱だ。

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