海が好き 〜南の島の雪〜
Prologue 南の島の雪
夏の陽射しは容赦なく照りつける。だから地元の人間は昼間はほとんど外出しない。しかし、夏休みを使って遊びに来る本土の観光客達は、その強烈な日差しの中でもネットや雑誌で紹介されたスポットをひとつでも多く回ろうとする。昼寝から目覚めた海藤雪は、そんな慌しい観光客の姿を眺めるかのように海沿いに建つ大浦玄吉の家の窓から外を見ていた。
「玄吉おじさん、本土から来る人達ってなんで昼間も海に入ったりいろんなところへ行こうとするのかなぁ」
「ん、そりゃぁ、限られた時間しかないから少しでも多く楽しみたいんだろ」
「だけど、この日差しの中で泳いでたら、日焼けがすごくて後が大変だよ」
「あはは、そうだな。だけどな、雪、それでも今、この時を楽しみたいのさ、きっと。まあ、俺には理解できないけどな、あいつらの心情は」
「ふーん、そこまでして泳ぎたいのかなぁ、私にはわからないな」
「そりゃ、雪、おまえは生まれてからずうっと、毎日この海を見て、この海で育ってきたから、この海の素晴らしさが当たり前過ぎてわからないのさ。だけど、彼らにしてみればこんな素敵な場所はない。だから、少しでも多くの時間を使って楽しみたいのさ」
「ふーん、そうなんだ。なんだか変なの」
沖縄本島の北部に位置する東村はいまだに未開拓の地が多く残り、小学校四年生の雪が遊ぶ場所はあまりない。海沿いに住んでいることもあり、普段は専ら海で遊ぶことが多くなる。その結果、雪にとって海は身近な存在となり、当たり前の存在になっていた。そして海は最初から綺麗であり、改めてその素晴らしさを考えるようなことはなかった。
「あ、平貝だ。おじさん、また取ってきたの?」
「ああ、今朝、珊瑚の様子を見るついでに取ってきたよ。だけど、雪、今日はちゃんと家で夕飯食べろよな」
「え~、いいじゃん。せっかく新鮮な平貝があるんだから一緒に食べようよ。玄吉おじさんの作る貝料理はお母さんが作るのより何倍も美味しいんだから」
「あのな、毎日のようにうちで食べているってお前のお母さんに怒られるのは俺だぞ」
「あはは、玄吉おじさんもうちのお母さんには頭があがらないもんね。他の人の言うことなんて全然聞かないくせに」
「こら、そんなこと言うと、もう、うちで食べさせないぞ」
「あ、うそうそ、そんなこと言わないで一緒に食べようよぉ。そうだ、食べる前にひと泳ぎしてくるね」
「あ、雪」
呼び止める間もなく海に走り出す雪の後ろ姿を見ながら玄吉は呟いた。
「しかし、いくら北国に憧れているからって何だって【雪】なんて名前にしたのかねぇ。赤ん坊の頃から海が大好きで、年がら年中真っ黒じゃねえか。それに、なんだって俺なんかになつくのかねぇ」
雪は小さい頃から活発で明るい心根の優しい少女だった。そして、他人に対して分け隔てすることなく接した。そのせいかどうかはわからないが、少し偏屈なおじも雪にだけは気を許していた。
第一章 夢と挫折
雪は沖縄出身の女子プロゴルファー、宮沢藍が大好きだった。小学校二年生の時、地元の子供達が集うイベントに宮沢藍がゲストに招かれ、子供達と一緒にゲームをやって遊んでくれた。雪がゲームで失敗をして泣きそうになった時、柔かな笑顔を見せつつ雪を応援してくれたのが宮沢藍だった。その時の笑顔が心に沁みた雪は、その後、宮沢藍が出場するゴルフ番組を見るようになった。そして、ゲームの時に見せた表情とはまるっきり違う、その真剣な眼差しに惹かれ、自分もプロゴルファーになりたいと思うようになった。たまたま家の近くに練習場があったこともあり、雪は毎日のように通うようになった。
「雪、今日も来たのか、関心だなぁ」
「だって、藍ちゃんみたいなプロゴルファーになるためには毎日練習しないとなれないって玄吉おじさんが言うんだもん」
「そっかそっか、それじゃ今日もちょっとだけお手伝いしてくれるかな」
「うん、いつものようにボールを洗っとけばいいんだね」
練習場を経営する与那嶺は、生まれた頃から雪を良く知っていた。だから雪が初めて練習場に来た時、とても嬉しく感じたが、どうせ一二回もやれば飽きるだろうと、それほど気にも留めなかった。一緒に来た母親に、客が忘れていった女性用のクラブ一本とボール購入用のコインを二枚渡して、仕事の合間に様子を伺っていた。ところが、雪は小学校から帰ってくると、すぐに練習場に顔を出した。翌日も、その翌日もやってきて、与那嶺が渡すコイン二枚分のボールを打って帰って行った。そして、一週間ほど経った頃、母親が与那嶺のところにやってきた。
「優さん、いつもすまんねぇ。毎日、雪が来て邪魔をしていないかい」
「いやぁ、雪があんなに熱心にゴルフをするとは思わんかったよ。だけど、必死になってクラブを振っている様子を見ていると、本当にプロになれるかと思えてくるよ」
「あはは、それはないでしょ。そのうち飽きるさ。それよりも、いつもただで打たせてもらってばかりじゃ申し訳ないから、今日はいくらか払っていくよ」
「いいよ、そんなもの」
「だけど、雪にはボールを打つことにお金が掛かることを知ってもらいたいと思って」
「うーん、確かにそれはあるな。それじゃこうしたらどうだ。練習場に来たら、何か簡単なお手伝いをしてもらう。それが終わったらコインを二枚渡す。まあ、まだ小さいから本当に簡単なことしかやらせないけど」
「そんなんでいいの?他のお客さんに迷惑になったりしない?」
「いいって。それで雪がプロゴルファーになったら自慢話にもなるし」
「だから、それはないって」
母親の予想に反し、雪は練習を続けた。土日は他のお客さんが大勢来場するので、母親から平日だけにするように言われていたが、その分、庭での素振りはいつもの倍になっていた。三ヶ月後、雪に思わぬプレゼントが届いた。憧れの宮沢藍が、ジュニア用のクラブを贈ってくれたのだった。毎日、熱心に練習をする雪を見ることが嬉しくなった与那嶺が、感謝の想いを伝えるべく宮沢藍にお礼状を書いたところ、それを読んだ宮沢藍がプレゼントとして、クラブと藍の名前が刻印されたボールを贈ってくれたのである。
「うわぁ、藍ちゃんからだぁ!」
喜びも束の間、まだ幼い雪の心のうちに【やらなければいけない】という、ある種の義務感が生じた。当人はそのことに気付くこともなく、練習にのめり込んでいった。クラブが届いてから三ヶ月、宮沢藍が出場するトーナメントのテレビ放送を食い入るように見つめ、見よう見まねでクラブを振り続けた。最初はクラブにきちんと当たらないことが圧倒的に多かったが、毎日クラブを振り、ボールを打つことで徐々にクラブの芯に当たるようになっていった。
「大分いい球が打てるようになってきたな」
「うん。だけど、なかなか藍ちゃんみたいな球が打てないよ」
「あはは、そうそう簡単に藍ちゃんみたいには打てないよ。彼女は日本はおろか、世界でも戦える選手だからな」
「でも、雪は藍ちゃんみたいになりたいんだもん。こんな、右にギューンって曲がる球はやだよ」
「そうだな、確かにみんなスライス球だな」
「スライス?右に曲がる球のこと?」
「ああ、ボールに横回転が掛かって右に曲がっていっちゃうのさ」
「どうやったら横回転が掛からなくなるの?」
「それは、一言じゃ言えないよ。そんなに直したいなら、今度レッスン受けてみるか?」
「ううん、いい。自分で考えて頑張ってみる」
雪はクラブをもらった時に心に決めたことがあった。
【藍ちゃんみたいになる。だけど、そのために他人を頼ることはしない。自分の力だけでやっていこう。】
幼い少女が何故そんな風に考えたのかは本人にもわからないことだった。ただ、生来、負けず嫌いの気性を持っていたことが少なからず影響しているのは確かだった。
その後も雪はスライス球を打ち続けた。初めてゴルフクラブを握ってから二年が経ってもボールは右に曲がっていった。
「玄吉おじさん、なんで雪が打つボールは右に曲がっちゃうのかなぁ」
「ん、そんなこと知らん」
「あー、冷たいなぁ、その言い方。かわいい姪っ子が悩んでるのに」
「あはは、何がかわいい姪っ子だ。頑固で人の言うことなんて聞かないくせに」
「あー、ひどーい。でもまあ、確かに与那嶺のおじさんに勧められたレッスンも受けてないからなぁ」
「そんなこと気にしなくていいじゃないか。自分が決めたことだろ」
「でも、このままじゃ、藍ちゃんみたいなプロゴルファーになれないよ」
「雪、どんな世界でも努力をしない奴はその道で成功することはないけど、努力だけでは突破できない壁があるのも事実だぞ。って、まだ早すぎるかな、雪には」
「それって才能が必要だってこと?」
「才能もそうだけど、運とか、環境とか、巡り会う人だとか、要は、ひとりではどうしようもないことが沢山あるってことさ」
「ふーん、何だかよくわからないよ」
「雪はゴルフボールを狙ったところに打てるのか?」
「うーん、まあそこそこには打てるよ。たまに曲がり過ぎちゃうこともあるけど」
「小学生でそれだけ打てるのなら大人になって上級者になるのはそれほど難しくないよ。だけど、プロになろうとするなら、これから先、色んなことを模索して、試して、技術を習得しないといけないだろうな。他にも精神も鍛えないといけない。そういったことはひとりではできないってことさ」
「えー、じゃあどうすればいいの?」
「いっぱい考えてみろ。慌てなくていいから、ひとつずつ、しっかりと考えて自分の答えを見つけていけ。わからなかったら周りの人に聞けばいい。でも、答えは自分で決める」
「そんなことできるかなぁ」
「できるさ。現にこれまでお前は大事なことを自分で決めて来たじゃないか」
「そうなのかなぁ。自分じゃよくわからないよ」
「そんな大層なことじゃないさ。これまでは意識していなかっただけで、これからはそのことを少しだけ意識していけばいいさ」
雪は玄吉に言われた通り、一生懸命に考えた。プロゴルファーになるために何をしなければいけないのか、どんなことを身につければいいのか。そして、わからないことは与那嶺に聞き、練習場でレッスンを担当するコーチに聞いた。そして、また考えた。
意識して考えるようになってから一年が過ぎても球は右に曲がっていった。いつも以上に球が右に曲がった翌日、雪は早朝の海に入り、思いっきり泳いだ。そして、泳ぎ終わると玄吉の家に寄り、玄吉が素潜りで取ってきた貝のチャンプルーを食べた。
「何だ、また練習が上手くいかなかったのか」
「そんなことないよ。玄吉おじさんがひとりじゃつまらないだろうから、話し相手になってあげようと思っただけだよ」
「ふーん、俺は別につまらないなんてことはないけどな」
「また、そんなひねくれたことを言うとお母さんにブツブツ言われちゃうよ」
「あはは、確かにそうだな」
「でしょ」
雪の母親と玄吉は少し離れているものの親戚関係にあり、側から見ていると姉弟のようだった。ただ、今は近くに住んでいる割に付き合いはそれほどでもなかった。そんなこともあり、雪は玄吉の歳を正確には知らなかったし、何故独りで暮らしているのかも知らなかった。雪の父親は少し離れたリゾートホテルの従業員として毎日働きに出掛けたが、玄吉はほぼ毎日、家にいるようだった。それでも雪は、何かと言うと玄吉の家を訪れた。たまに玄吉が留守にしている時も勝手に上がりこんで昼寝をしたり、あちこちに散らばっている、海や貝の写真が沢山掲載されている外国の雑誌を眺めたりしていた。そんな雪に対して玄吉は叱るでもなく雪の好きにさせていた。
「おじさん、また海の話聞かせて」
「え、またかよ。もう沢山話してやったからいいだろ」
最初は渋る玄吉だったが、いつものように雪が何度かせがむと仕方ないなといった振りをして、ボソボソと話し始めるのが常だった。玄吉の話は雪が知っている誰の話より何倍も輝いて聴こえた。玄吉は世界中の海のことをよく知っていた。それぞれの海がどのようにできてきたのか、そこでの生態系がどうなっているのか、そこに生きる人々がどんな暮らしをしているのか、雪にもわかるように丁寧に話してくれた。中でも、その海に生息する貝のことについては、子供の雪でも想像ができるほど、とても詳しかった。
「おじさんは何でそんなに貝のこと知ってるの」
「そりゃ、好きだからな」
「貝のことが?だから毎日潜って取ってくるの?」
「あはは、あれは食費節約だよ。俺一人が食べる分くらいなら海も多めに見てくれるだろうしな」
「雪、おじさんの取ってくる貝、大好きだよ。お刺身も美味しいし、出汁の効いたスープにくぐらせて食べるのも大好き」
「まあ、取り立てで新鮮だからな」
「何だかお腹空いてきた」
「しょうがねえなぁ、それじゃ少しだけ食べていくか?」
「やったぁ!かーい、かーい」
「あーあ、これでまたお前の母さんに怒られるな」
小学校生活が残り少なくなった頃、いつも通りに練習をしていた雪に異変が起きた。最初は練習が終わった後に右腕が少し痺れる程度だったが、その後も練習を続けていたら、ある日ボールを打った瞬間に右肘に激痛が走った。
「痛い!」
「どうした、雪」
「右腕が、痛い」
「どれ」
「うっ」
只事ではないと判断した与那嶺は名護市にある総合病院まで車を飛ばした。車の中であまりの痛さに意識を失いかけながら雪は思った。【もしかしたら二度とクラブを持てなくなるのかな。】すると、腕の痛みとは異なる、大きな不安が雪の心を覆い始めた。痛みと不安を少しでも和らげようと窓の外に目を向けるが、そこに何があるのかが分からないほどに雪は混乱していた。気がつくと雪の目の前に白衣を着た中年の男がいた。男は雪と与那嶺に向けて何かを話していた。
「競技ゴルフを目指すのは難しいかも知れません」
診断の結果は右肘の腱の断裂だった。
大好きなゴルフができなくなった雪は、これといって何をするでもなく、日々を過ごした。小学校の卒業が近くなり、クラスメートと卒業記念の切り絵作りをやっている時も、何となく手を動かすだけで、楽しいといった感情は浮かんでこなかった。両親を始め、周りの者が気を遣って話し掛けたり、食事や遊びに誘うと柔らかな笑顔で受け答えをするものの、その笑顔も一瞬だけだった。すぐに感情を内に閉じ込め、とても寂しそうな表情に変わった。母親はその表情に不憫を感じ、与那嶺は悔いの念と責任を強く感じた。
「本当に済まなかった。俺がもう少し雪の練習量に気を掛けてやっていればこんなことにはならなかったのに」
「優さん、そんなことないよ。あの子は自分で決めたことは最後までやりきる子だから、仮に優さんが練習量を抑えても、その分を他でやって結果は同じだったよ」
「それでも、体調をもう少し気遣っていれば、ここまで酷いことにはならなかったと思うと、もう、何とも雪に申し訳なくて、、、」
「優さん、それは私の方だよ。母親として、何で、あの子の異変にもっと早く気付けなかったのか、これじゃ母親失格だよ」
雪の怪我は本人の心を閉じ込めた。そして母と与那嶺の心に大きな傷を作った。
雪は海に行くこともなくなり、自然と玄吉の家に寄ることもなくなっていた。家で手持ち無沙汰に時を流す雪を見て、母親は心の内にまた一つ大きな澱が溜まるのを感じたが、何をすることもできなかった。今は、雪が心を開き、前を見る日が来るのを辛抱強く待つしかないと考えていた。
そんな折、雪は近所の人が立ち話しているのを小耳に挟んだ。
「大浦さん、このところちょっと変だよね」
「そうそう、この間、何かブツブツ言いながら、ずぶ濡れで、靴も履かずに歩いていたわよ。そう言えば、両手に貝を持っていたわ」
「彼の家の前を通った時に、何か大きな声で喚きながら、本とか貝殻とかを窓から放り投げたのを見たという人もいるらしいわよ」
「前から変わったとこがあったけど、最近は拍車が掛かってきたわね。大丈夫なのかしら」
「挨拶してもお辞儀くらいしかしないし。そう言えば、私、あの人と話したことあったかしら」
「あらやだ、以前、村の集まりに呼んでみんなで飲んだ時に話したじゃない」
「ああ、そんなことあったわね。でも、あの時、彼が一言喋って、私がその十倍くらい喋っていたから声も忘れちゃったわよ」
「ひどーい。でも、確かに口数は少なかったわよね。ほら、よく言うじゃない、研究者肌?そういうものじゃない?」
「えー、でも、テレビに出てペラペラ喋っている大学教授とかいっぱいいるじゃない」
「それじゃ、やっぱり変わり者ってことかしら」
「そうなんじゃない」
雪は二人に玄吉のことを話したくなったが黙っていた。それよりも、玄吉が本や貝を投げ捨てていたというのがすごく気になった。玄吉は部屋の中を整理することはあまりしないが、本や貝をとても大事にしていることは、何となくではあるが、雪にも伝わっていた。その大事なものを捨てるとはよっぽどのことがあったに違いない。雪は一目散に玄吉の家に向かって走り出した。久し振りに走ったせいか、玄吉の家に着く頃には息が上がって、家に入る前に息を整えなければならなかった。
家の左手に広がる海に面した庭に、散乱した本や貝殻を目にした雪は、直感的に玄吉がいなくなったことを確信した。
「おじさん、どうして、、、」
気を取り直して部屋の中に入ってみると、そこは悪意を持った侵入者が何かを探したように荒れていた。書類が散乱し、本があちらこちらに落ちていた。中には引きちぎられた本もあり、本の中の何かを探していたかのような有様だった。テーブルの上には、この家の中で数少ない金目のもの、といっても五年程前のタイプの古いパソコンがブーンという唸りをあげて動いていた。スクリーンセーバーがいくつもの貝殻の写真を数秒おきに写していた。その貝殻の大半はいつだったか玄吉が話してくれた世界の各地に棲息する貝だった。雪はパソコンの使い方はわからなかったが、キーボードに触れたらスクリーンセーバーが解け、英語で書かれた文章が映った。英語の読めない雪には何が書かれているのかは全然わからなかったが、【shell】という単語が【貝】を意味していることだけは知っていた。ある時、雪が玄吉に教えてくれとせがんで覚えたいくつかの単語のひとつだった。その画面を見つめながら雪は思った。この文章はきっと玄吉が書き記したものに違いないと。そして、慌てて足元に散らばっている書類に目を走らせた。すると、パソコンの画面に映っているものと同じような書類が何枚もあった。それらを拾い集め、端が折れているものは綺麗に直して、重ねた。部屋を出る前、振り返ってみると、窓から吹き込む海風が床に置かれた本のページをめくるようにはためかせていた。そこには玄吉の影も意識もない、寂しい空間がポッカリと浮かんでいた。
家に帰るやいなや、母親におじの消息を訪ねたが、面に困惑の色を浮かべた母は、ただ単に首を振るばかりで何も答えてはくれなかった。
その後もしばらくの間は村のあちこちで玄吉の噂が聞かれたが、元々付き合いの薄い玄吉に興味を持つ者は少なく、ひと月もすると噂話しはすっかり影を潜めていた。
雪は幼い頃から玄吉が好きだった。いつも玄吉に懐いて、纏わり付いていた。そんな雪を邪険にすることもなく、玄吉もなんだかんだと相手をしてくれた。といっても言い方はぶっきらぼうで、知らない人が見ると雪が怒られているように見えることもあったらしい。そんなところも玄吉の心証を悪くしていたと知ったのは随分経ってからのことだった。
玄吉が失踪した直後の両親や村人達の会話では、いなくなる直前に取っていた奇怪な言動に関係しているのではないかということだった。ただ、どこにどのようにしていなくなったのかについては誰も見かけておらず、何もわからなかった。雪はショックを受けた。仲の良い大事なおじがいなくなったことにショックを受けた。仲の良い大事なおじがいなくなったのに、村の人達があまり悲しんでいない様子にショックを受けた。雪は何故か海で遊ばなくなった。
第二章 海へ
玄吉が家を出てから三年、雪は高校受験の季節を迎えていた。村から通える範囲にある高校に行くか、それとも那覇にある寮のある高校を受験するか迷っていた。そんな折、唐突に玄吉から手紙が届いた。差出人が【海豚】となっていたので母親が気味悪がったが、雪は友達の渾名だと嘘をついた。雪は知っていた。玄吉が貝と同じくらい【イルカ】が大好きだったことを。手紙には玄吉が海洋船に乗って元気にやっていることが書かれていた。
【俺が独力でやっていた貝の研究をオーストラリアの大学教授がやっていることは知っていた。ただ、俺が結論付ける前に先を越されてしまった。しかも、知人から聞いた話では大学関係者が自分の持っていた貴重なデータをその教授に売り渡していたことがわかった。信頼していた関係者に裏切られて、目標も失って、何もかもが嫌になってしまって家を出たんだ。ただ、家を出てふらふらしてみたものの、何をやっても面白くない。そうこうしているうちに、気がつくと、いつの間にか大好きな海に戻ってしまった、ってとこかな。これから先どうするかわからないが、当面は船に乗って過ごすつもりだ。雪にだけはそのことを告げておきたいと思い、船が奄美大島に立ち寄った際にこの手紙を投函することにしたよ。雪、やっぱり海はいいな。】
くしゃくしゃになった手紙にはおじの元気な姿が映っているようだった。
雪は玄吉の手紙を読んで、悩んでいた進路を決めた。那覇にある水産学校を受験することにした。
小学校の頃にはプロゴルファーになりたい気持ちが強かった。ただ、怪我をしてプロゴルファーを諦めざるを得なかった。それでも、夢中になってクラブを振っていたあの感覚をもう一度味わってみたい気持ちが心の底に残っていた。一方、幼い頃から、海を感じている時の心の落ち着きや、玄吉から聞く世界中の海の話しにワクワクした気持ちは、今でもハッキリと心の中に棲みついている。その海への想いは玄吉と離れてからより強くなっていき、いつしか、将来海に関係する職業に就くものだと考える様になっていた。
小さな頃から慣れ親しんだ海。おじがいなくなってからは避けるようにしていたが本当は海で遊びたかった。しかし一方では、玄吉がいなくなったことがいつまでも頭の中から消えず、進路の選択肢に海に関係するところを入れることには躊躇していた。玄吉から届いた手紙は、そんな雪の気持ちに踏ん切りをつけるには十分すぎるものだった。玄吉が元気にしていること、しかも大好きな海に出ていることがわかったいま、躊躇することは何もなくなった。水産学校のことを話す雪のことを、母は呆れ顔で見返した。
「うーん、玄吉がいなくなったから普通科に行くもんだとばかり思っていたのだけど、やっぱりそっちを選んだのね。血は争えないのかしら・・・」
父親に反対されるかもしれないと思ったが、雪の知らない所で母が後押しをしてくれた。寮生活をするにあたりいくつか約束をさせられたものの、頑張って来い、の一言が嬉しかった。水産学校の試験を間近に控えたある日、雪は久し振りに玄吉の住んでいた家に行ってみた。荒れ果て、ぼろぼろになってはいたが、そこから見える海は昔のままだった。車の通りが少ないこともあって波の音が良く聞こえた。
【何で自分は海が好きなんだろう。おじさんはなんで海が好きなんだろう。】
【おじさんの研究ってどんなのだったんだろう。貝の研究って書いてあったけど沖縄の海に棲む貝なのかな。】
【そういえばおじさんが食べさせてくれた貝はいつも美味しかったな。お母さんが作ってくれるのも美味しいんだけど、おじさんのは美味しいだけでなく心が弾むような味だったな。今頃どの辺りにいるのかな。】
家の脇にあった石の上に座り、雪は久し振りに海を満喫していた。まるで、この数年間の空白を埋めるかの様に、ゆっくりと、穏やかに、時が流れていくのを楽しんでいた。
受験を難なくクリアした雪は、四月から那覇にある高校の寮での生活を始めた。初めてのひとり暮らしだったが、寮にいる同級生ともすぐに仲良くなり、寮母も優しい感じの人だったため寂しさを感じることはほとんどなかった。そもそも、勉強の量が中学に比べて半端じゃないほど多く、寂しさを感じている暇がないということもあった。
入学して二ヶ月、早くも暑い季節を迎えた頃、寮でちょっとした事件が起きた。同級生の朱里がコンビニで万引きをして店員に見つかったのである。担任教師が呼ばれて店に出向くと、しょげ返った朱里が店長の前で俯いたまま椅子に座っていた。盗んだものは缶ビール一本と泡盛の小瓶。店長や教師が問い詰めても何故盗んだのかは言わず、涙声で【ごめんなさい、もうしません】と謝るだけだった。十分に反省している様を見た店側の好意で警察には通報されなくて済んだ。教師に連れられて寮に帰る朱里は、帰り道、一言も口を開かなかった。
三日間の謹慎が解けた翌日、雪は学校帰りに寮とは違う方向に向かう朱里を見かけた。ついて行くつもりはなかったが、反射的に足が後を追っていた。朱里はファミレスで髪の毛を金色に染めた上級生に会っていた。その上級生は、訳知り顔で話す同級生によると、この三月に卒業するはずだったが素行不良で留年して今年も三年生であり、ほとんど学校にも来ていないとのことだった。
【そんな不良生徒と朱里がなぜ?】
朱里は背も高く顔の作りも整っていてぱっと見は派手そうに見える。ただ、性格はまじめでおとなしい女の子だ。しかも超がつくほどの初心だった。いつだったか、朱里が憧れている先輩の話をした時、すぐに頬を上気させてモジモジしていた姿が雪の脳裏に浮かんできた。そんな朱里が不良の先輩と仲良くなるとはちょっと考えにくかった。
【きっと何かある】
雪は意を決して店の中に入っていった。
「朱里」
「ゆ、雪ちゃん、どうしたの?」
「ん、朱里がこのお店に入るのを見かけたから一緒にお茶でもしようかなと思って入ってきちゃった」
「朱里、誰だこいつ」
「う、うん、同級生の雪ちゃん」
二人のやりとりを見た雪は、朱里が嫌々ながらこの場にきたであろうことを確信した。
「朱里、そう言えば寮母さんが頼みたいことがあるから早目に帰ってきてくれって言ってたよ。用事も済んだ様だし、帰ろう」
「おい、こっちの要件はまだだぞ」
「ふーん、それじゃ、朱里、用事が済むまで私もここにいるね」
「お前には関係ない。とっとと消えろ」
「あら、私がいたら何か都合の悪いことでもあるんですか」
暫くの間、睨み合う二人の横で朱里は生きた心地がしなかった。
「ちっ、ったく、面倒くせえ奴だな。おい、朱里、今日は許してやるが、明日までにきちんと持ってこいよ」
「先輩、朱里をいじめないで下さい」
「え、雪ちゃん、、、」
「何のことだ」
「朱里に無理な要求をしないであげて下さい」
「朱里、お前、こいつに何か喋ったのか」
「え、私は別に何も、、、」
「朱里は何も言ってません。だけど、真面目で大人しい朱里が万引きをしたり、さっきも明日までに持ってこいとか、先輩が朱里に何か言ってるんですよね。そういうのやめてもらえませんか」
「何だと、このやろう」
再び睨み合う二人。朱里はその場の雰囲気に耐え切れず、目を瞑って下を向いた。ところが、その数秒後、朱里の予想とは異なる笑い声が聞こえてきた。
「ふふ、変な奴だな、お前」
「えっ」
「もういいや、面倒くせえ」
「えっ」
「朱里、お前、変なダチ連れてるな」
「えっ」
「貴重だぞ、こういう天然記念物みたいな奴」
そう言い残すと先輩は店を出て行った。
「ふー、怖かったぁ」
ゴクゴクと喉を鳴らしてコップの水を一気に飲む雪のことを、呆然とした朱里が見つめていた。朱里はすぐに事態を理解できなかったが、問題が解決したであろうことが徐々にわかってくると、安堵のあまり、涙が溢れ、嗚咽を漏らし始めた。
「雪ちゃん、、、うっ、うっ、うっ、、、」
「朱里、大丈夫?」
「う、うん、大丈夫。あ、あと、ありがとう」
「ううん、それより勝手にあんなこと言っちゃったけど、大丈夫なの」
「うん、多分これで終わると思う。茜先輩、あんな風を装っているけど、幼馴染だし、わかってくれると思う」
「ああ、でも本当に怖かったぁ、ほら震えがまだ止まらないよぉー」
寮への帰り道、ぽつりぽつりと朱里が事情を説明した。
「茜先輩とは小学校の頃、とても仲が良かったの。三歳離れているから中学校の頃はほとんど会わなかったけど、この高校に入って再会したら、いつの間にかあんな感じになっていて」
「それで脅されたの?」
「うん、最初はお金を少し貸してくれって言われて、私も懐かしさもあったし貸したのだけど、それがどんどんエスカレートしていって、、、」
「それで万引き?」
「うん、どうしても断れなくて、、、」
「早く言ってくれれば良かったのに」
「うん、ごめんね。でも、雪ちゃんに言うと茜先輩が雪ちゃんにまで迷惑掛けるかも知れないと思ったら言えなかった」
「そうだね。私も今日は勢いであんなこと言えたけど、不意打ちのラッキーパンチみたいなもんだからたまたま上手く行っただけだしね」
「え、そんなことないよ。堂々としていたよ」
「え、それって私も怖いってこと?」
「あはは、そうかも」
「酷ーい。朱里なんて嫌いだぁ」
「あはは、うそうそ、冗談だって」
水産学校では船に乗って海上で行う授業がある。事故が起きないように万全の体制で行われるが、凪いで安全な日にはわざと海に落とされることもあると、先輩に散々脅かされていた。期待と不安の入り混じる中で行われた最初の授業では、予想以上に荒れる海で船酔いする生徒が続出した。雪も大きく揺れる甲板の上を右に左にフラフラしながら立っているのがやっとだった。そんな中、けろりとした顔で舳先を睨む生徒がいた。宮里崇宏、祖父が漁師をやっていて子供の頃から船に乗せてもらっていたことを知ったのは船を降りてからだった。普段は無口でどちらかというと地味な印象の男子生徒で、雪もそれまではほとんど会話らしきものを交わした記憶がなかった。
「おい、海藤、きちんと掴まってないと海に放り出されるぞ」
「大丈夫だよ、私、バランス取るの得意だし、泳ぎも小さい頃から海で泳いで得意だから」
「馬鹿、これだけ荒れた海に放り込まれたら、いくら泳ぎが得意でも海中に沈んであっという間にお陀仏だぞ」
「馬鹿って、、、」
「それに、お前が倒れて怪我をしたり、海に放り込まれたりしたら、この船に乗っているみんなが迷惑する。この学校の生徒ならそれくらいわかるだろう」
「それはそうだけど、、、」
崇宏の言葉に返す言葉を失った雪は、吹き殴る海風に掴みかからんばかりのその表情を食い入るように見つめた。ぶっきらぼうで愛想のないその表情は、南の国の漁師というよりも北国のそれに近いなと雪は思った。
夏休み、東村の実家に帰っていた雪に朱里から連絡が入った。友達の父親がクルーザーを持っていてクルージングに誘われたが、一人じゃ行きにくいから一緒に行って欲しいとのことだった。時間を持て余していたし、クルーザーにも興味があったので行ってみることにした。待ち合わせの場所に行って見ると朱里のほかに同じ学年の子が二人、それと場違いな感じで佇む崇宏がいた。聞いてみると朱里と崇宏の父親同士が知り合いで、父親から頼まれたと朱里が何故か弁解口調で説明した。
早朝に出航したクルーザーは小一時間ほどで慶良間についた。午前中はスキンダイビングを楽しみ、暑くなってきた昼間は島にある別荘で一休みして、夕方、陽が暮れる前に那覇に戻る予定だった。この日は曇りがちだったため、夏の厳しい暑さも若干弱まっていた。その分、遊び回った雪達は帰路につく頃にはくたくたになっていた。デッキで風を浴びていた雪も昼間の疲れが出たのか、頭が少しボーっとして油断した。船が波に跳ねた瞬間、自分でも体が浮くのがわかった。しまった!と思ったが伸ばした手は何も掴めず空を切った、とその時横から何かが抱きつくようにして体を引っ張った。勢い余ってデッキの床に転がるように倒れこんだとき、横に誰かがいるのがわかった、崇宏だった。
「馬鹿野郎!海を甘く見ていると酷い目に遭うぞ!」
きつい一言にむっとした雪は、怒ってそのまま船室に入ってしまった。ただ、少しして気持ちが落ち着いてくると、いけないのは自分であり崇宏には感謝しなければと思い始めた。それでも何となくきっかけを掴めないうちに船は港に着いてしまった。船を降りて途中まで一緒に帰るとき、何も会話をしない雪と崇宏の様子を変に思った朱里は声を潜めて雪に聞いた。
「崇宏と何かあったの?」
「え、ううん、何もないよ。何で?」
「何だかさっきから二人ともギクシャクしているみたいに思えたの」
「あはは、気のせいだよ。朱里の考え過ぎ」
「ふーん、ならいいけど」
交差点に差し掛かり、ようやっと崇宏が声を発した。
「それじゃ、俺、こっちだから」
雪は、スタスタと歩き始めた崇宏を追い掛けた。
「宮里くん、さっきはごめん、それと、ありがとう」
「お、おう。じゃあな」
怒ったような照れたような顔で返事を返すと、崇宏は再び歩き出した。その後ろ姿を見送る雪の横で、朱里がぽかんとした顔で雪と崇宏を交互に見ていた。崇宏が去った後、朱里の家に泊めてもらった雪は朱里からの質問攻めに少しだけ、事実だけを話した。自分でもよくわからない、モヤモヤとした気持ちが心の中にあったが、何となく照れ臭く朱里に伝えることはできなかった。
朱里のベッドの横に用意してもらった布団に入り、電気を消して他愛もない話をしていた。その時、何気なく発した朱里の言葉に雪は聞こえない振りで答えなかったが、暗闇の中でも自分の頬が熱く、赤くなるのがわかった。
「崇宏は雪ちゃんのことが好きなのかも知れないね」
夏休みが終わり二学期になると、授業は更にペースを上げた。船乗りの経験がある崇宏は、端で見ていてもどんどんと吸収して行くのがわかった。一方、小さい頃から玄吉に沢山の海の話を聞いてきた雪は、崇宏に負けるものかと頑張った。そして、そんな二人に置いていかれたくない朱里も必死になってついていった。しばらくすると、崇宏だけでなく、三人は海上での授業を苦もなくこなすようになった。そうこうするうち、いつしか三人がひとつのチームのようになってクラスを引っ張るようになっていた。
高校二年の秋、沖縄近海の貝に関する授業があった。きちんとした知識ではなかったが、玄吉が話してくれたいくつもの貝のことを覚えていた雪は、その授業がとても楽しく感じた。一方で、玄吉が今いるであろう、異国の海に想いを馳せた。中学三年の時にもらった手紙以降、玄吉からの連絡は一度もなかった。
ふと気になった雪は奄美大島に停泊する海洋船舶のことを調べてみた。すると、インド洋までまぐろを取りに行く船が一ヵ月後に寄港することがわかった。他にも寄港する船はあったが雪はこの船が気になってしょうがなかった。何の根拠もなかったが、玄吉がこの船に乗っていることが確信できるように感じた。奄美大島なら土日の二日間で行って帰ってくることができる。
飛行機代が高くつくのは痛いが、貯めておいたお年玉を使えばどうにかなると思った。寮母には家に帰ってくると嘘をついて奄美大島に向かった。島に着く早々、港に行ってみると、お目当てのマグロ船はすぐに見つかった。予想に反して船はかなり小さかった。この船でインド洋まで、荒海の中を航海できるとはちょっとした驚きだった。岸壁から船を見上げたが、船員はほとんど出払っているのか、人影は見当たらなかった。どうしていいかわからず船の側でしばらくうろうろしていたら街のほうから歩いてくる男の姿が見えた。見覚えのある歩き方、遠めでもわかるその歩き方は玄吉だった。
「おじさん!」
驚くでもなく微笑む玄吉がゆっくりと雪の方に歩みを向けた。単なる感だけで来てしまったことを後悔し始めていた雪は、久し振りに間近に近づいてくる玄吉を見て、目を白黒させた。片手を軽く振りながら近づいてくる玄吉。
「おう、どうした、雪。こんなところで何やってるんだ」
「おじさんこそ、こんなところで何やってるのよ」
二人は笑いながら互いの近況について話し始めた。話しながら雪は、奇跡に近い再会が夢の出来事なのではないかと思った。五年の船乗り生活は玄吉の外見を大きく変えていた。陽に焼けた顔、ふた回りは太くなったと思われる腕、胸板も厚くなり雪の知っている玄吉とは随分と印象が変わっていた。食事をしながら、この五年間の間にあったことを語り続けた。
「でも、よくあんな小さい船でインド洋まで行けるよね。うちの練習船と大して変わらないんじゃないかなぁ」
「俺も最初はビックリしたよ。船を見る前に契約しちゃったから、やめるとも言えなかったし」
「あはは、おじさんらしい」
「笑い事じゃないよ。雪も船に乗るようになったからわかるだろうけど、あの船で嵐に遭遇した時の揺れは半端じゃないぞ」
「そうだろうね。私も最初の頃は甲板でフラフラしていてばかりで、同級生に怒鳴られたこともあったよ」
「今はどうだ。雪のことだからその同級生を見返してやろうとか思っているのか」
「あれ、何でわかるの」
「そりゃ、お前には散々苦労させられたからな。お前の考えそうなことは大体わかるようになったよ」
「え、ひどーい。私、そんなにおじさんに迷惑かけたかなぁ」
「迷惑ではなかったけど、いろいろと大変ではあったな」
「あ、でも、確かに言われてみるとそういうところもあったかも」
「何だよ、肯定しちゃうのかよ」
「へへへ」
帰り際、玄吉が船を降りてもう一度貝の勉強をすることを雪に告げた。雪は食事をしながら話していたときからそんな気がしていた。玄吉はこれまで独学で研究をしてきたが、きちんと大学で学び直してから貝の勉強ができる仕事を探すと言った。
「おじさん、私も、その仕事、手伝いたい」
雪の顔を覗き込むように見つめる玄吉は、一旦、口を開きかけたが、しばし思案した後に雪から視線を外した。雪が泊まる民宿までの道すがら、雪は何度も玄吉に想いを伝えた。ただ、玄吉は曖昧に肯定も否定もしなかった。翌日、玄吉は再び洋上の人となった。
翌春、心配していた受験を無事に乗り越えて、玄吉は海洋大学に入学した。クラスでは異色の存在だったが授業には一番熱心で、海豚の研究をしている藤原教授の研究室にも入り浸っていた。藤原の専門は海豚だったが、他の海洋生物、殊更、沖縄の貝に精通していた。研究室に入るのは通常三年生からだったが、玄吉は藤原に直接掛けあい、自分の経歴や以前書いた論文などを見せて特別に出入りを許してもらった。そんな玄吉の行動は、いつしか周りの学生に伝播し、彼らもまた授業にのめり込んでいった。高校三年生になっていた雪は、時々顔を出しては、こっそりと大学の授業を聞いた。時間がある時には、研究室に潜り込んで玄吉の研究を横で眺めたり、そこらにある貝の資料を読んだりもした。その姿は、子供の頃に玄吉の家に出入りしていたのと同じだなと、玄吉は懐かしく感じた。
「玄吉、雪がお前と同じ海洋大学に行きたいって言っているけど、どうなんだい」
「どうって何が?」
「あの子、本当にやりたいことがあるのかねぇ。あたしにはよくわからないけど、あの大学に行ったはいいけど、途中で挫折したらどうなるの?別の道を選ぶことができるのかい」
「うーん、確かにあの大学を出てできることと言ったらある程度限られるわな」
「そんな軽い調子で言うものじゃないよ。あの子はお前のやっていることを追っかけているんだろう」
「ああ、それを言われるとちょっと責任感じるかな」
「あの子は子供の頃からお前に懐いていたからね。何だってこんな偏屈な輩に興味を持つのやら」
「姉ちゃん、その言い方はないだろう。それに、俺だって不思議だよ。何だって俺なんかに懐くのかは」
「あはは、自覚はあるんだ。で、どうなのよ。あの子、お前と同じ大学に行って大丈夫なのかい」
「あいつの性格からしてそれは大丈夫だと思うよ。ただ」
「ただ、何だい」
「あいつが他の選択肢をきちんと考えたのかどうかがわからないんだよね。ほら、あいつ、一度決めると他のことを見向きもせずに進んでいくじゃない、猪みたいに」
「あはは、確かにそうね。その辺はあんたと一緒だよね」
「えー、俺はあいつほどじゃないだろ」
「いーや、あたしから見れば二人とも同じようなものさ。ま、それは良いとして、一度、雪に話してみておくれよ。本当に海洋大学で良いのかどうか」
「そうだな、きっかけ作ったのは俺だしな。わかった、今度、それとなく聞いてみるよ」
進学や将来について聞かれた雪は玄吉に言った。
「おじさんが海洋大学に行って貝の勉強ができる仕事をするって聞いた時は、何となく良いなと思った程度だったよ」
「だけど、その後、大学の授業や藤原研に出入りするようになって、もっともっと海の生き物達を知りたくなったんだ」
「大学を出て、おじさんと同じ仕事をするかどうかはわからないけど、海に関わる仕事をしてみたい気持ちは今の方が強いかも知れない」
玄吉は面映い気持ちで雪の想いを受け止めた。
翌年、海洋大学に進学した雪は、一年前に玄吉が行ったように、授業に集中した。そして、時間が空くと、藤原研究室の扉を開いた。入学して一ヶ月も経つと、教授達の間で名前を知られるようになっていた。
「海藤、お前、大浦の姪っ子なのか」
「あれ、先生、よく知ってますね」
「お前達は、私達の中では有名人だよ。まあ、細かいことは藤原先生から聞いたけどな」
「ああ、そうなんですか。でも、たまたま校内に親戚がいるだけで、そんな珍しくもないんじゃないですか」
「いやいや、海藤の授業への取り組みは、昨年の大浦とソックリで、最初はそこから話題になり始めたよ。二年連続で何だか凄いのが入ってきた、ってな。で、聞いていくと藤原先生のとこにちょくちょく出入りしていたというのがわかったって次第さ」
「あ、先生、勝手に出入りしていたのは内緒にしておいて下さい。藤原先生にご迷惑になっても困りますから」
「そんなことはわかっているさ。それより私達は、君達みたいに熱心に学んでくれることが嬉しいのさ。これからも頑張ってくれよ」
「はい、わかりました。頑張って勉強して、早く、玄吉おじさんに追いつきます」
「おお、すごい鼻息だな。こりゃ大浦もウカウカしてられないな。よし、わかった。それじゃ、宿題を出してあげよう。好きな貝の生態について来週までにレポートを書いてきなさい」
「ええ、来週までですか。参ったなぁ」
雪は三年生になると、迷わず藤原研究室を希望した。入学前から研究室に出入りしていたこともあり、藤原教授や周りの学生とは顔馴染みだった。
「お前、何もここに入らなくてもいいだろう」
「あ、おじさん、そんなこと言うと藤原先生や他の先生方に言っちゃうわよ。おじさんが私のことを邪険にするって!」
「おいおい、そんなこと言ってないだろう。俺は、ただ・・・」
「ただ、何?」
「ん、まあ、いいか」
「えー、何それ、とっても気になるんですけど」
「いや、お前が自分の考えでこの研究室を選んだのかどうか、少し気になったのさ」
「そんなの当たり前じゃない。なんでそんなこと考えたの?」
「ん、ほら、入学前、お前に将来のことを聞いたことがあっただろ。あの時、お前、何て言ったか覚えているか?」
「覚えてるよ。おじさんの仕事を手伝う!!」
「そのことじゃない。俺のことはさておき、海に関わる仕事をしたいと言っただろ」
「へぇ、忘れていなかったんだ。勿論、その気持ちは今も変わっていないよ。だけど、おじさんの仕事を手伝う気持ちも変わっていないんだから」
「へえ、俺は単なる気まぐれだと思っていたよ。それで、今はどうだ?」
「何を今更、そんなこと言ってるのよ。気持ちが変わっていないから藤原先生の元を選んだんじゃない。おじさん、大丈夫?」
「そっか、気持ちは変わっていないのか・・・。そっか、そっか・・・」
玄吉は嬉しいような恥ずかしいような、微妙な表情を浮かべてそのまま研究室の外に行ってしまった。
「何あれ、大丈夫かなぁ、おじさん。勉強のし過ぎでどこかのネジが緩んじゃったのかな・・・」
玄吉は四年間を優秀な成績で修了した。独学とは言え、入学前に既に豊富な知識を身に付けていたので、当然の結果ではあった。四年生になる時、藤原に研究室に残ることを勧められて玄吉は迷った。藤原の海豚だけでなく海洋生物に関する知識の豊富さや、大学に残ることで得られる人脈は、この先の研究に大いに役立つことは明白だった。ただ、玄吉は大学生活の中で自分が本当にやりたいことが、微かに見えてきたような気がしていた。
第三章 美ら海水族館
玄吉と雪は、休みになると度々、美ら海水族館を訪れた。二人共、海が大好きなので、何度行っても、何時間いても飽きることはなかった。玄吉はそこで来園者の笑顔を見るのがとても好きだった。特に子供達が無邪気に喜ぶ様は、自身の内にほっこりとした何かをもたらしてくれるようで、とても嬉しくなった。その日も二人は美ら海水族館に赴き、海豚が泳ぐプールの横でのんびりと過ごしていた。平日の昼下がり、それほど混んでいない園内にはあちらこちらに子供達のキラキラした笑顔が溢れていた。
【雪の小さい頃もこんなだったな。海の話をすると目を輝かせて、とても嬉しそうに聞いていたっけ。】
「ん、何?顔に何かついてる?」
「いや、お前も大きくなったなって。ついこの間まで、俺の部屋に勝手に上がりこんで好き勝手やっていたのに、と思ってさ」
「え、何それ。いつの話してるのよ」
「なあ、雪。俺、ここに就職しようかな」
「え、藤原研に残るんじゃないの?」
「うん、やっぱり俺にはこっちの方が性に合うような気がする」
「えー、夢がいっぱいの美ら海水族館と玄吉おじさん、究極の組み合わせなんじゃない」
「おい、何が究極だよ。俺の知識があの子供達に沢山の笑顔を作らせるだろ」
「へー、そんなこと考えてたんだ」
玄吉の視線の先では、海豚のジャンプに歓声をあげる子供達の姿があった。
「いいんじゃない。私も好きだよ、ああいうの。よーし、私ももっと頑張ってここに就職しようっと」
「おいおい、お前の就職はまだ先だろうが」
「いいの」
雪は奄美大島で再会した時に告げた言葉を思い出していたが、そのことは敢えて言わなかった。
「きーめた」
【これで良いのか?この一年、雪と一緒に研究してきたが、こいつは俺なんかより研究者としての素質がある。藤原先生の元で研究者として生きていく方が雪のためになるのではないか。俺に倣って民間の水族館に入ってしまったら、研究者としての芽を摘んでしまわないか。俺が藤原研に残れば雪も残るはず。その方が雪の為になるのか・・・。】
雪の想いがわかっている玄吉は、ニコニコする雪の横顔を心配そうに見つめていた。
翌日、玄吉は藤原に相談した。勿論、雪には悟られないように、雪が帰宅した後に藤原に声を掛けた。
「藤原先生、あいつは俺なんかより研究者としての素質があると思うのです」
「どうした、唐突に」
「昨日、あいつに美ら海水族館で働くことを伝えました。そうしたら、あいつ、私も水族館で働くと言って・・・。」
「へえ、大学の次は水族館かい、相変わらず仲が良いなぁ」
「先生、あいつは俺みたいに水族館で働くのではなく、この藤原研で研究を続ける方が良いと思うのです。その方が研究者として結果を出せると」
「おやおや、普段辛口の君からそんな風に言われるとは、この研究室もまだまだ大丈夫かな」
「先生、、、」
「あぁ、ごめんごめん、茶化すつもりはなかったけど、君があまりに真剣な表情をしているから、つい、口が滑ってしまったよ」
「大浦君、僕が普段、君達をどう見ているかわかるかい」
「いえ、改めて考えるとよくわからないです」
「私から見ると二人とも研究者として優れていると思っているよ。ただ、二人はタイプが異なる、と言うか、真逆かな」
「真逆ですか」
「その辺は君の方が感じているんじゃないのかな。君はロジカルに物事を捉え、着実に進めていくのが得意だよね」
「そうかも知れません。昔から、ひとつひとつ、理由やら背景やらが腹落ちしないと納得できないことが多々ありました」
「そうそう、その上、頑固ときているから大変だ。あはは・・・」
「先生、頑固はちょっと・・・」
「まあ、それはさておき、海藤君も君と同様、きちんと背景等を見極める力は持っているよね。ただ、たまに面白い発想をすることがある。論理的にはAに向かうべき時に面白い発想が浮かぶと、Aとはかけ離れているBに向かう。どうだい、これまでにもそういうことがなかったかい」
「確かにそういう面がありますね。研究だけでなく、普段の生活でも明らかに違うと思われることをやったりして」
「ただ、そういう性格は研究者として諸刃の剣なんじゃないかと思っているよ」
「諸刃の剣ですか。それって、閃きによって研究の成果を出せないということですか」
「そうだね、上手く閃けば素晴らしい成果を残せるかも知れない。実際、過去に素晴らしい研究成果を生み出した人達の中には、独自の理論を見つけ出している人が数多くいるからね。一方、基礎研究のように一歩一歩、着実にデータを集め、反復し、理論を固めていくようなテーマの場合、そういった発想・閃きが仇になることが十分に考えられる」
「確かにそうですね」
「海藤君がこの先、どんな研究をやりたいのか聞いてみたことはあるかい」
「いえ、これまではそういった先の話はしてこなかったですね」
「まあ、まだ時間はあることだし、ゆっくりと話し合ってみたらどうだい」
「そうですね、とりあえず話してみます。ありがとうございました」
「これは私の単なる感だけど、海藤君自身、気付いていないかも知れないな」
「どういうことですか」
「彼女は大学に入る前からこの研究室や君が受ける授業に紛れ込んでいたよね」
「はあ、すみません」
「いや、それは構わないのだけどね。彼女がなぜそんなことをしていたのか、聞いてみたことがある。君は聞いてないのかい」
「そう言えば、私は聞いたことがないですね」
「彼女、子供の頃に君が話してくれた海にまつわる話が大好きだったそうだよ。だから、君がこの大学に入って、その知識を更に広げていくことにとても興味を持ったと言っていたよ。だから、同じ授業を聞いて、君の研究を間近で見聞きすれば、もっと楽しくなるはずだとも言っていたよ」
「雪がそんなことを」
「彼女は、君についていくことで楽しくなれる、と無意識のまま感じているのではないかな」
雪が子供の頃、時間ができると玄吉の部屋に来て、海の話をしてくれとせがんでいたことを思い出した。時には忙しさにかまけて邪険にしたこともあったが、話を聞いている時の雪の表情はとても柔らかく、素直な視線が眩しかった。そんな表情を見ると、次は何を話してやろうかと考える自分がいたことも思い出された。
【あいつは本当に海が好きなんだなぁ。】
二週間後、玄吉は雪を誘って美ら海水族館にいた。
「おじさん、本当にここが好きだよねぇ。就職できそうなの?」
「ああ、藤原先生に紹介してもらって、とりあえずこれまでに書いた論文をいくつか読んでもらえることになったよ。どう評価されるかは来週、面接をして決めてくれるそうだ」
「受かると良いね。ってか、おじさんなら絶対に大丈夫だよ」
「おっ、珍しく褒めてくれているな」
「えー、何言ってんの。私はいつでもおじさんの味方だよ。って、おじさんの話は子供の頃から面白かったし、遠洋漁業の経験もあるし、藤原先生に一目置かれているし、これで採用されなかったら美ら海水族館がおかしいよ」
「おぉ、すごいなぁ」
「あ、そういえば、お前の卒業後の進路だけど、本当に美ら海水族館に入るのか」
「ん、そうだよ、それが何か?」
「お前、水産高校と海洋大学、それに藤原研究室で学んだことを研究者として活かしていかないのか」
「え、水族館で活かしていくよ」
「水族館はあくまでも主体は客だぞ。客に海の生態系を知ってもらう場所だから、一研究者としてできることは限定されるぞ。お前は、水族館で何をやりたいんだ?」
「え、おじさんと一緒だよ。子供の笑顔を見る!!それに限る」
「本当にそれでいいのか。藤原研に残れば、未知の領域について研究したり、基礎的なことを追求したりもできるぞ」
「うーん、そりゃ藤原先生は良い人だし、あそこにいれば色んなことが学べるとは思うよ。だけどね、この間、おじさんのやりたいことを聞いた後、子供の頃のことを思い出したんだ。おじさんのところに遊びに行って、海で泳いで、おじさんに海の色んな話を聞いて、頭の中が海のことでいっぱいになって、とっても心地よい気分になったの。ああいった気持ちになれた私はとても幸運だったんだよね、きっと。そう思ったら、多くの子供達に私と同じような気持ちになって欲しいなぁって」
「なんだ、子供の頃と変わっていないのか」
「何その言い方、なんか気に入らないなぁ」
「まあまあ、これからも同じところで働くのなら、仲良くしようじゃないか」
「うーん、なんかしっくりこないけど、、、ま、いっか。それじゃ、ブルーシールで許してあげる」
「え、俺が買うの?」
「当たり前でしょ。人を呼び出したのはおじさんなんだし、ブルーシールだけなんて安いもんじゃない」
「はいはい、わかりました」
二人のいるところから五メートルほど先に、熱帯魚が泳ぐ水槽に顔をくっつけるようにして見ている幼稚園児くらいの男の子がいた。目を輝かせ、横にいる母親らしき女性に身振り手振りを交えて何かを話している。その姿が、十数年前に見た雪の笑顔と重なって見えた。
【こいつはこいつなりに考えていると言うことか。どこまで深く考えているのか少し心配だけど、まあ、近くにいるから何かあったら突っ込んでやれば大丈夫か。】
藤原の紹介もあったが、玄吉が過去に書いた論文は美ら海水族館の箭内館長に十二分にアピールした。箭内は、玄吉を評価し、採用してくれた。就職するや否や、玄吉は沖縄に生息する貝の生態について研究を始めた。自分がこれまで独自に行ってきた研究や、藤原研で得たノウハウを駆使して、研究にのめり込んでいった。そのかたわら、玄吉は周りのメンバーともコミュニケーションを図り、子供達に喜んでもらえるようにするために何をすればいいかについて議論を重ねた。以前の玄吉は、研究にのめり込むと自然と周りと距離を置くような面があったが、水族館での働きぶりは随分と変わっていた。玄吉は研究を続けながら、子供達がどんなことに興味を示し、どんなことで喜ぶのかを常に考えていた。そして、明らかになった貝の生態を子供達に紹介する時のアイデアを、周りのメンバーに伝え、意見を交わした。
「カモジガイって言うのですか、この貝」
「沖縄にずうっと住んでいるけど、見たことないですよ。本当に沖縄の海に生息しているのですか?」
「昼間は岩の陰にいることが多くて、しかも、半分以上、砂に潜り込んでいることが多いから、なかなか姿を見ることがないのさ」
「へー、そうなのですか。これなら子供どころか大人も十分に興味を持つと思いますよ」
「子供達はどうだろう、喜んでくれるかな」
「うーん、確かに珍しさとかはあまりわからないかも知れないですね。でも、大浦さんが考えたクイズを載せたパネルを展示すれば、理解度も上がるし、興味を示してくれそうですね」
「夜行性だし、動きがあるわけでもないから、地味じゃないですかね」
「うん、そこは貝類全般に言えることだから、何か工夫をしないといけないけど、いい案ないかな」
「アニメーションとかどうですか」
「アニメーション?宮崎駿のトトロとかみたいなもの?」
「え、大浦さんがトトロを観る?意外だなぁ」
「そ、そんなことどうでもいいじゃないか。それより、どんなアニメーションをどうやって見せる?」
「例えば、カモジガイの一日、みたいなタイトルをつけて、岩陰にいる時の姿や夜間の行動を、ゆるキャラみたいな形で見せてあげるとか」
「実物の写真を入れておくのはどうですか。で、アニメを観た後に、本物を見ることができるようにしておけば、より分かりやすくなりませんかね」
「いいね、それ。で、アニメは誰が書くの?」
「え、そりゃあ大浦さんに決まっているじゃないですか」
「えぇ、俺にゆるキャラ書けっていうの?そんなの無理だよ。俺、子供の頃から絵を描くのが下手だから、勘弁してよぉー」
「あはは、貝のことに関しては滅茶苦茶詳しい大浦さんにも弱点があったのですね」
カモジガイやタイワンキサゴと言った沖縄県民もあまり知らない貝を集めて展示したコーナーは、子供達だけでなく、大人も含めた多くの来館者に大好評だった。玄吉は忙しい研究の合間を縫って、頻繁に現場を見て回った。そして、熱心に見学している子供を見つけては声を掛けた。ぶっきらぼうな物言いに最初は警戒の色を見せるが、気になっていることを丁寧に説明することで子供達はすぐに打ち解けた。そして、一旦、打ち解けた後は次から次へと質問が発せられ、それにつられて隣の子供が話に加わり、いつしか、玄吉の周りに人だかりができることもしばしばだった。
「おじさん、私にも教えて」
「ん、なんだ雪じゃないか」
「あら、なんだはないんじゃない」
「悪い、そんなつもりはないよ。で、また勉強サボって遊びに来たのか?」
「ひどーい、箭内館長から忙しそうにしてるって聞いたから差し入れ持ってねぎらいに来たのに」
「そりゃ悪かった」
「おじちゃん、この貝、何で海の中で苦しくならないの。僕、プールで沈むとすぐに苦しくなっちゃうよ」
何とも微笑ましい質問に真剣に答える玄吉の横顔は、雪が幼い頃に見ていたそれと同じだった。雪はこっそりとその場を離れ、箭内が待つ部屋へと向かった。
「海藤さん、先日のお話だけど、やはり今の美ら海水族館では、研究員の増員は難しいです」
「そうですか」
「水族館は来館される方に喜んでもらい、海について色々と知ってもらうところです。その為に、常に一歩先を行かなければいけないところもありますが、その前に、飼育している生き物達を、日々、元気に過ごさせることが一番重要だと私は思っています。その為には優秀な飼育員を数多く育てていかなければいけないとも考えています」
「ですが、優秀な飼育員になるには、常に新しい知識の習得も大事なのではないですか」
「仰る通りです。ですから、大浦くんのように飼育員達にどんどんと自分のノウハウを展開してくれる研究員はとても貴重です」
「それならそういった研究員を増員することで更に飼育員の育成を後押しすることもできるのではないですか」
「そうですね。藤原先生のお話だと貴女もとても優秀だと聞いています。ですから研究員としてお迎えすれば、美ら海水族館に大きく貢献してくれるでしょう」
「それなら」
正面から一点の曇りもない視線を向けてくる雪を見て、箭内はしばし考えた。そして、徐に言葉を繋いだ。
「正直に言いますね。少し厳しいことですが、貴女ならわかっていただけると思います。この美ら海水族館で研究員として働くには、貴女はまだ若すぎます。藤原先生のところで学んだとは言え、研究者として必要な知識はまだまだたくさんあります。それと、大浦さんと比べる訳ではありませんが、研究者としての経験もまだこれからです」
「それは確かにそうです。ただ、私は叔父のように、周りに喜んでもらえるような研究者になりたいんです。足りない知識や経験は、プライベートな時間を使ってでも増やしていきます。なんとかならないでしょうか」
「まあまあ、私の話を最後まで聞いてください」
「あ、はい」
「どうです、研究だけの生活ではなく、生き物達に対峙しながら勉強してみませんか」
「えっ」
「飼育員として美ら海水族館に入って頑張ってみませんか。そして、生き物達に接しながら、水族館にとって必要な研究が何なのかを学んでみませんか」
「それは、どう言うことでしょうか」
「私は研究者と言うのはその対象が大好きじゃないといけないと思うのです。まあ、大抵の研究者は結果的にそうなっていますしね。ところで、貴女はこの美ら海水族館にいる生き物達の中でどれが一番好きですか?」
「うーん、一番ですか、難しいです。貝のことは小さい頃から叔父に話を聞いて育ったのでとても愛着がありますし、美ら海の象徴の一つの甚平鮫も愛くるしくて大好きですし、他にもいっぱいあり過ぎて」
「あはは、そんな風に言ってくれるととても嬉しいですよ。そんな貴女にはもっともっと美ら海の生き物達のことを知って欲しいですね。研究はそれからでもいいのではないですか」
「最初は飼育員として色々な生き物について学ぶと言うことですか」
「そうです。そうやって研究対象を絞り込んでからでも全然遅くないと思いますよ。いや、そうやって視野を広くすることが貴女にとっていいことだと私は思いますね」
「それは、いえ、飼育員としての仕事はどれくらいの期間になるんですか」
「それは貴女次第ですよ」
箭内が見せた笑みはとても優しいものだった。雪は箭内が自分のことをしっかりと受け止めてくれていることを感じた。
「はい。箭内館長の仰ること、よくわかりました。私、美ら海水族館の飼育員を目指してみます」
「そうですか、ありがとう。海藤さんが来られるのをお待ちしていますよ」
「はい。入社試験でふるい落とされないよう、頑張ります」
美ら海水族館は沖縄では人気の就職先だった。雪のように海洋大学から来る者もいれば、美ら海に魅了されて本土から希望して来る者もいた。雪はこれまでに学んできたことを改めて振り返った。そして、美ら海水族館にいる生き物達についてどれくらい知っているのか調べていった。すると、当然ではあるが、知らないことの方が圧倒的に多いことに気付き、愕然とした。
「おじさん、私、美ら海水族館の飼育員になる」
「ん、なんだ、唐突に」
「藤原先生に紹介してもらって、美ら海の箭内館長に会ってきたの。そして、研究員として雇ってくれってお願いしたの」
「あはは、雪らしいな。で、雇ってくれそうか?」
「ううん、研究員枠はないから飼育員として頑張れって。研究員は、そこで経験を積んでからでも遅くないって」
「ふーん、あの人らしいな」
「おじさんはどう思う?やっぱり経験があった方がいいのかな」
「他の水族館のことはわからないけど、美ら海水族館には稀少価値のある生物もいるし、何より、飼育員達の意識が高いから気付かされることが沢山あるよ」
「へぇ、おじさんでもそうなんだ」
「そもそも雪は美ら海水族館で何をするか決めたのか」
「え、それはおじさんの研究を手伝って、、、」
「それはこの道に向かうきっかけだろ。そうじゃなくて、今、そしてこの先、美ら海水族館のどんなことに貢献していきたいのか、だよ」
「そ、それは、、、」
「箭内館長はお前のそんなところに気付いていたのかも知れないな」
「そうだね。飼育員のこと、箭内館長に言われて納得はしたんだけど、どうにもしっくりこない面もあったんだよね。だから、自分がどれくらい美ら海水族館の生き物達のことを知ってるか調べてみたの」
「うん、で、知らないことが山のように、だろ」
「え、何でわかるの?」
「そんなの、改めて考えなくてもわかるさ。美ら海水族館に何種類の生き物がいると思っているんだよ。来館者に見せているものだけでおおよそ五百種類、研究対象や、保護しているものを含めると七百種類を超えるんだぞ」
「え、そんなに」
「独学とは言え、長年研究してきた俺だって知らない生き物が数多くいる。お前が知らない生き物は、少なくても二桁、下手したら三桁までいくかも知れないな」
「はは、流石我が叔父上。正にその通りなのよねぇ。こんなんで研究員にしてくれなんて、よく言ったよなぁ。穴があったら入りたい気分よ」
「あはは、すっかりしょげかえっちゃって雪らしくないな」
「もう、茶化さないでよ。こっちは真剣に落ち込んでるんだから」
「でも、箭内館長は飼育員で頑張れって言ってくれたのだろ?それって雪のことを認めたからだぞ。落ち込んでいる暇があったら、知らない生き物のひとつでも覚えるのが先じゃないのか」
「わかってるわよ、そんなこと。ただ、ちょっとだけ確認しておこうと思っただけよ」
照れ隠しに怒ったふりをして帰っていく雪の後ろ姿をみながら、玄吉は、雪が研究員として独り立ちする姿を思い浮かべていた。
雪はそれまで以上に海洋生物のことを調べるようになった。藤原研での研究テーマは貝の生態だったが、時間を見つけては他の生物の資料や文献を読み漁った。そして、わからないことや気になることがあると、関連する論文を探し、藤原や玄吉に聞きまくった。四年生になった雪は一日の大半を藤原研の部屋で過ごすことが多くなった。
「海藤、お前、毎日何時間もここにいるけど、デートしたりみんなと遊びに行ったりしているか」
「先生、何言ってんですか。そんな暇、あるわけないじゃないですか。卒研はあるし、他にも調べなければいけないことが沢山あるし、バイトもやってるんですよ」
「そうだったな。そう言えば、漁協のアルバイト、どうだ?」
「とっても楽しいです。仕事は重労働ですけど、漁師のみなさんが、珍しい魚が獲れると見せてくれるんです。沖縄の海にこんなのがいるんだ、というのがちょくちょく上がってくるものですから、最初は驚いてばかりでした」
「ほお、そりゃ面白そうだな」
「以前は結構捨てていたみたいなんです。売れないし、食べられないとなると漁師さん達にとっては荷物になるだけですからね」
「まあ、確かにそうだよな。ダイオウイカみたいにマスコミが取り上げるなら話題になって世間にアピールできるけど、名もない、地味な魚が獲れても何らメリットないからな」
「でも、最初の日にたまたまインガンダルマが獲れて、私がギャーギャー騒いでいたのが漁師さん達に受けたみたいなんです。それからは、大学から来た女の子の反応が面白いからって持ってきてくれるようになったんです。失礼ですよね、面白いなんて」
「いや、何となくわかるな、漁師さん達の気持ち」
「え、先生までそんなこと言うんですか、ひどいなぁ」
「でもいいじゃないか。そうやって稀少な生き物を間近に観察できるのだから」
「そうなんです。その点は本当に漁師さん達に感謝です。やっぱり文献で見るのと実物とじゃ比べものにならないですからね。とてもいい経験をさせてもらっています」
「そうか、それなら美ら海水族館も一発で採用だな」
「うーん、そればかりは何とも言えないです。今年は例年になく採用枠が少ないようですし。それに、応募してくる学生はみんな美ら海が大好きで、ほとんどの子が具体的にやりたいことが決まっているみたいなんです」
「やりたいこと?」
「ええ、海豚の調教をしたいとか、甚平鮫の飼育をしたいとか」
「お前だって多くの生き物の世話をしていずれは研究員になると決めているじゃないか」
「ええ、それはそうなんですが。。。特定の生き物に特別な思い入れがあるわけではないので、もしかして、ちょっと弱いかな、なんて思ったりもするんですよ」
「ふーん、海藤らしくない弱気だな」
「あれ、先生、それどういう意味ですか。何だか私がいつも強気な女みたいに聞こえるんですけど」
「あはは、悪気はないよ。いつも物事を前向きに捉えるお前が珍しく弱気だなと思っただけだよ。まあ、いつも強気と言うのも、当たらずも遠からず、、、かな」
「先生!」
「ああ、すまん、すまん。でもな、海藤、他の学生のことなんて考えなくていいじゃないか。彼らと直接戦うわけでもないし」
「それはそうなんですが、でも、採用枠がある以上、比較はされますよね」
「それだって、勝負する土俵が違うのだから、あくまでも個々人のポテンシャルがどれだけ相手に伝わったかという結果に過ぎないじゃないか」
「ポテンシャルですか」
雪が自分のポテンシャルについて考え始めると、藤原がさらに話を続けた。
「お前は美ら海で何をしたいのか、お前なら何ができるのか。そういったことをきちんと相手が納得するように伝えることが重要なんじゃないか」
「私が何をしたいか、何ができるか、ですか。叔父にも同じようなことを言われました」
「何だ、それなら俺が知ったか振りで話すこともなかったか」
「いえ、何だかモヤモヤが取れたような気がします。ありがとうございます。うーん、たまには遊びに行こうかなぁ」
「おい、リラックスは構わんけど、気は抜くよな。大浦は他にも何か言ってなかったか?」
「あっ」
「どうした?」
「いえ、お前はまだまだ美ら海水族館にいる生き物のことを知らな過ぎる。ひとつでも多くの知識を身につけろ、と」
「流石大浦だな。姪っ子が道を踏み外さぬよう、きちんとアドバイスをして。で、その姪っ子はどうするって?」
「んもう、先生まで叔父と一緒になって責めないで下さいよ。ちゃんと勉強しますよ」
玄吉や藤原の後押しもあり雪は最後まで頑張った。そして四月、晴れて美ら海水族館の一員として、飼育員としてのスタートを切った。
飼育員の生活はとても忙しかった。一ヶ月の研修期間が終わると先輩飼育員について補佐的な仕事をするのだが、朝早くから夜遅くまで、二十四時間体制で他のメンバーと交代しながら対応する必要があった。相手が生き物なので当然といえば当然だし、頭ではわかっているつもりでいたが、実際にやってみると予想以上にきつかった。唯一助かったのは、実家から通えたことだった。疲労困憊で家に辿り着き、食事もそこそこに寝入ることで翌日も働ける状況は、とてもありがたかった。飼育員の中には寮やアパートで一人暮らしをしている者もいたが、自分にはとてもできそうにないと感じる雪だった。
そんな忙しい日々ではあったが、仕事はとても面白かった。水族館に入るまでに一生懸命になって覚えた知識のお陰で、目の前の生き物達が、より身近に感じられた。そして、生きている彼らは、人間と同じように体調のいい時もあればそうでない時もある。そういう時に、先輩飼育員に教わりながら、時には自分で調べて、どのように対応していくのかを考え、実践することにとてもやり甲斐を感じた。
半年ほどの慌ただしい時が過ぎ、現場での仕事にも慣れてきた頃、雪は、たまに時間が取れると玄吉のところに顔を出すようになった。
「何だ、また来たのか。仕事サボるなよ」
「あ、失礼ね。今日は早番だからもう仕事は終わったわよ」
「ふーん、そうか。あ、おい、そこの棚にある薬、そっちのキルンにやってくれ」
「え、何、その言いよう。私はおじさんの助手じゃないわよ」
「そんなことどうでもいいよ。早くやってくれ」
「んもう、しょうがないなぁ。そんなんだからお嫁さんのひとりも来てくれないのよ」
ブツブツ言いながらも楽しそうに仕事を手伝う雪を見て、玄吉が唐突に言った。
「俺、今度結婚することになった」
「え、何、今、なんて言った?結婚?え、おじさんが?えー、誰と、いつ?」
「おいおい、そんなに騒ぐな。落ち着け」
「落ち着けって、大体、彼女がいるなんて聞いてないわよ。相手は誰なの?もしかしてお見合い?与那嶺のおばさん、お見合い勧めるの好きだからなぁ」
「勝手に話を作るなよ。そうじゃないよ。相手はお前も知っている人だよ」
「え、ということは美ら海の人?川島さん?あ、もしかして美和さん?うーん、二人とも彼氏いるようなこと言ってたような、、、。で、誰なの?」
「お前、何かすごく興奮していないか。ま、いっか、川村さんだよ、経理の」
「えー、川村さん?えー、勿体無い」
「何だよ、その勿体無いって」
「え、だって川村さん、若いし、可愛いし、何でおじさんなんかと」
「なんかで悪かったな。そんなこと言うならもう帰れ」
「あはは、ごめん。悪気はないんだけど、あまりにびっくりしたもんだから」
勝手にコーヒーを入れて一息ついた雪は改めて玄吉に聞いた。
「で、いつ結婚するの?」
「ん、来月」
「え、えぇ、来月?」
「お前、声でかい」
「ああ、ごめん。ってか、来月って式場とか決まってるの?」
「いや、特にそういう形式的なことやらないから」
「えー、結婚式しないの?川村さん、それでいいって言ってるの?」
「ああ。ほら、俺もこんな歳だし、今更だからそういうことしなくていいかな、って言ったら、いいよって」
「え、それ無理してるんじゃない?川村さん、確かに三十過ぎてるけど初婚でしょう?だったら結婚式したいはずだよ。おじさんが変な言い方するからあわせてくれてるんじゃないの?」
「え、そうなのか?俺、どうしたらいい?」
「どうしたらって、、、あはは、おじさんらしい、と言うか、らしくないのかな、、あはは、、、」
「おい、雪、笑ってないで何とかしろよ」
「何言ってるの、そんなの自分で考えなさいよ。兎に角、女の子が結婚式しなくていいなんてことは、余程のことがない限りあり得ないんだから。これだけは覚えておいてね、お・じ・さ・ん」
三人の休みが重なった三日後、雪と玄吉と川村はファミレスで昼食を取ることにした。
「あはは、玄吉さんも雪ちゃんには頭が上がらないのね」
「恵美子さん、本当に結婚式挙げなくていいの?おじさんの我儘なんて言うこと聞かなくていいわよ」
「おい、雪」
「おじさんは黙ってて。自分じゃ言えないからって私を呼んだくせに」
「雪ちゃん、面白過ぎ。でも、勘弁してあげて。雪ちゃんも知っている様に、こんな人だから、玄吉さん」
「でも、結婚式って一生に一度だよ」
「そうだね。でもね、自分でも不思議だけど、何が何でも式を挙げたいという気持ちにならないのよ。それよりも、玄吉さんや私の親しい人達が喜んでくれればそれでいいかな、って」
「ふーん、そうなんだ。恵美子さんがそう言うのなら私はもう言うことがないけど」
「ありがとね、雪ちゃん。これからもよろしくね」
「恵美子さん、こちらこそよろしくお願いします。おじさんが変なこと言ったり、変な行動を取ったらすぐに言ってくださいね。おじさんのことは、多分、親戚の中でも一番詳しいですから」
「おい、雪、何で俺が変なこと言ったりやったりするのさ」
「あら、恵美子さんの気持ちも考えずに結婚式を挙げないと言ったのは誰だったかしら」
「…」
「あはは、面白い。玄吉さんと雪ちゃんって、本当に兄妹みたい」
一ヶ月後、玄吉と恵美子は一つの家庭を築いた。玄吉、五十二歳、恵美子、三十一歳、二十一の歳の差は、周りから様々な反応があった。多くは肯定的なものであり、特に玄吉の周りの男性陣からは羨望ややっかみの声が数多く挙がった。一方、あまり大っぴらには言われなかったものの、恵美子の親族からは年齢差を危惧する声がちらほらと囁かれていた。しかし、恵美子はそんな声を軽く聞き流し、歳の差を感じさせない日々を過ごしていた。
結婚式や形式的な披露宴は行わない二人だったが、親族と近しい人達を招いて、レストランで簡単なパーティを行うことにした。そのことを藤原に伝えるべく、玄吉は海洋大学を訪れた。
「大浦くん、いよいよ来週だな。準備は大丈夫かい」
「ええ、準備と言っても当日はレストランのスタッフと雪がほぼやってくれますし、新居に引っ越すわけでもないですから、思ったほどやることはないですよ」
「それでも歳の離れた娘さんを迎えるから、周りから色々と言われて大変なんじゃないのかい」
「確かにそれはありますね。口の悪い奴なんか、恵美子に向かって【恵美子さん、引き返すなら今のうちだよ。こいつは老い先短いから】とか平気で言うし」
「あはは、みんな羨ましいのさ。君と同世代の男から見れば、まずあり得ない縁だからね」
「そうですかねぇ、たまたま少し歳が離れているだけなのに、何をそんなに騒ぐのか、俺にはその感覚がよくわかりませんよ」
「はは、君らしいねぇ。そんなこと言うと、余計に色々と言われるぞ」
「先生にもそんな気持ちがあるのですか」
「うちは同い歳だからねぇ、私が君の歳の頃に二回りも下の奥さんをもらうことなんて想像もつかないなぁ。だけど、色々と楽しみではあるかな」
「先生、そんなこと言っていいのですか?」
「あはは、あくまでこの場限りの戯言だよ」
入籍を三日後に控えた恵美子は、夕食を取った後、母親とお茶を飲みながらのんびりとテレビを見ていた。
「恵美子、子供はどうするんだい」
「母さん、どうするってどういうこと?」
「いや、ほら、玄吉さんの歳、今年、五十二歳だろ。仮に来年、子供ができたとして、成人する頃には七十歳をすぎちゃうし、心配じゃないのかい」
「もしかして、あの人が早くに亡くなるとかを気にしているの?」
「ん、それも含めて色々とね」
「まあ、確かにその可能性は否めないよね。でも、そんなこと誰にでもあり得ることだし、いちいち気にしていたら誰も子供なんて育てられないじゃない」
「まあ、そうなんだけどね。もしもの時に困るのは恵美子だからね。親戚の中には露骨に言う人も居るし・・・」
「あ、和田のおばさんでしょ。あの人ならそういうこと言いそう」
「誰が言ったかなんてどうでもいいよ。それより、あたし達は恵美子と生まれてくる子供のことが気になるってこと」
「ありがとう、母さん。私も不安がないと言ったら嘘になるよ。だけどね、母さん、あの人が水族館にやってくる子供達の相手をしている時の表情を見るとね、大丈夫っていう気になるの。子供と話しているところなんて、とても五十二歳とは思えないから」
「確かにそう言うところあるね。いつだったか、玄吉さんがうちに来た時、たまたま千春が遊びに来ていて、しばらく相手をしてもらったことがあったよね。あの時の雰囲気は大人と子供じゃなくて、子供同士が遊んでいる感じだったものね」
「そうそう、水族館でもそんな感じなの」
「それはそれで大丈夫なのって、違う心配もあるけどね」
「あはは、確かにそうだね。でも、水族館の一番大事なお客様は子供達だから、適任だと思うよ」
翌日、居住まいを正し、厳粛な顔つきで恵美子に対峙する玄吉。最初の一言を発するまで、どう話そうか悩んでいたが、話し始めたら流れるように言葉が続いた。
「恵美子、本当に俺でいいのか」
「何、急にどうしたの」
「いや、このところあちこちで俺達の歳の差について色々と言われるだろ。何度も言われると流石に気になると言うか・・・」
「やだ、もう、そんなこと本気で受け止めていたの」
「まあ、俺の周りにいる連中の言うことはあまり気にしてはいなかったけど、将来のこととか言われると気になってきてね」
「昨日、お母さんに言われたわよ。子供が成長する頃、玄吉さんは七十歳を過ぎるけど大丈夫なのかって」
「え、それで何て答えたんだい」
「そんな心配しなくて大丈夫よ。先のことなんて誰にもわからないし、何かあるかも知れないのは玄吉さんだけじゃなく、全ての人に言えることだから、気にしたって詮無いことでしょ、って返したわよ」
「そうだよな」
「それに・・・」
「それに?」
「ううん、何でもない」
「何だよ、気になるなぁ」
「子供とか言われても、まだ生まれてきてもいないのに、お母さんも気が早いなって思っただけ」
「そうだよな」
【あなたが子供と対峙している時、あなたも子供みたい、なんて言ったらどんな顔するのかなぁ、、、いつか言ってみようかな・・・】
「玄吉さん」
「はい」
「もしかして、私と一緒に暮らしていく自信がないとか思っているの?」
「いやいや、そんなことはないよ。俺は頑張って恵美子を・・・」
「私を?」
「いや、一緒に暮らしていくよ」
「ん、何だか怪しいね。ま、いっか」
【幸せにするなんて照れ臭くてなかなか言えないよなぁ・・・】
第四章 潮目
相変わらず慌ただしい日々を送る雪。気付くと美ら海水族館に入って三年の月日が流れていた。
「雪、久し振り、元気だった?」
「うん、毎日バタバタしてるけど、何とか頑張ってるよ。朱里はどう、東京の生活」
「うん、楽しくやっているよ。今度、友達の案内で沖縄に帰るから会おうよ」
「え、本当、会おう、会おう」
朱里と友達が泊まる恩納村のリゾートホテルに出向いた雪は久し振りの再会を喜んだ。
「え、明日休みなの?」
「うん、本当は昨日だったんだけど、子供の具合が悪くなった人がいて急遽交代したの。朱里が来るのがわかってたから、張り切って私の働いている姿を見て欲しかったんだけど」
「そっか、残念。でもさ、と言うことは今日は夜更かししても大丈夫ってことでしょ」
「うん、急に変わったから明日は予定もないし」
「それじゃ、いっそ、このホテルに泊まっちゃえば。そうすれば夜中まで話できるし」
「うん、それいいかも。部屋空いてるかなぁ」
「大丈夫だよ。仮に一杯だったら私の部屋に止まっちゃえばいいよ」
「そうだね、何だか修学旅行みたい」
ツインルームのベッドの中で二人は離れていた七年近くの歳月について、あれこれと、とめどもなく話した。そして、お互い色々なことがあったことに驚き、微笑み、悩んだ。
「仕事はとても楽しいしやり甲斐があるよ。おじさんみたいにはまだまだなれないけど、少しずつ近づいていければいいかな」
「おじさんって玄吉さんだよね。懐かしいなぁ、あの仏頂面。本当は優しいのに絶対損しているよね、あの表情」
「あはは、流石、朱里、よくわかってるね」
「そりゃ、初めて雪に紹介された時のインパクトが凄かったからね。ろくすっぽ会話しないし、態度も横柄なのに、お茶やらお菓子やら、まめに応対してくれて、私、途中からおかしくて仕方なかったわよ」
「そうそう、で、朱里が帰った後、おじさんが私に言ったのよ。【雪、あの子はいい子だ。いつまでも仲良くしろよ】って。あんな仏頂面向けといてよく言うよって思ったわ、その時」
「あはは、お腹痛い。ところで、玄吉さん元気?」
「元気も何も、ふた回りも下の可愛いお嫁さん貰って宙を舞ってるわ」
「え、あの玄吉さんが結婚?信じられない」
「でしょ?しかもとってもいい人なんだよ。館内でも狙ってた人、結構いたんじゃないかな。私、そういうの疎いからよくはわからないんだけど」
「相変わらずねぇ。で、雪はどうなの?彼氏いるでしょ?」
「ううん、いない。と言うか、仮にいても時間が取れないかな、今は」
「仕事漬けってこと?」
「うん、美ら海に行く日は、ほぼ仕事で一日が終わっちゃうかな。定時に上がれる日も、担当外の生き物達の様子を見に行ったりしているからね。それに、休みの日とか時間のある時は、調べ物したりしているうちにあっという間に時間が過ぎちゃって、デートする心の余裕がないかな」
「えー、何それ。そんなことしていると、あっという間におばちゃんになっちゃうよ」
「えー、それだけはやだなぁ。そう言う朱里はどうなの?SEだっけ?忙しんでしょ、仕事」
「うん、山谷はあるけど、仕事は忙しいかな。まあ、水産高校からIT企業に行くなんて思ってもいなかったから、最初の頃は覚えることが沢山あって大変だったけどね」
「そうそう、就職先が決まった時、え、何で?って思ったもの。よく踏み切ったよね」
「うん、今にして思うと大胆と言うか、無茶と言うか、ま、若かったってとこかな」
「あはは、やだ、朱里、今だってまだまだ若いじゃん」
「えへへ、、、。でも、最近は仕事にも慣れたし、雪みたいに休みの日まで勉強とかはしないから、デートしようという心の余裕はあるよ」
「へぇ、じゃあいい人いるんだ。いいなぁ、どんな人?」
「う、うん、年上の人。十歳上」
「えー、朱里もなの。恵美子さんと言い、朱里と言い、私の周りは年上好きばかりなのかなぁ」
「…」
「朱里、どうかした?」
「う、うん、、、」
朱里はしばらく言葉を発しなかった。何かを感じ取った雪も言葉を殺して朱里の反応を待った。すると、暫くして朱里の啜り泣く声が聞こえてきた。とても寂しげな、とても不安な声だった。
「朱里、大丈夫?」
「う、うん、ごめんね、、、」
「ううん、泣きたい時は思いっきり泣いた方がいいよ」
朱里の啜り泣きはいつまでも続いた。闇が朱里の涙を消し去ってしまうのか、朱里がいくら泣いても涙は止まらなかった。雪は闇が占める宙空を凝視しながら朱里と過ごした高校生の頃を思い出していた。ほんわかとした朱里は、何事にも直線で向かう雪の心をいつもいつも癒してくれていた。そんな朱里に、一番似合わない悲しい涙をこんなにも流させる、その事実が雪にはとても悔しいものだった。
ようやっと啜り泣きが治った朱里は、自分が付き合っている男には妻子がいるとだけ雪に告げた。そして今度は声を噛み殺して、一生懸命に気配を消そうとした。雪は朱里のその姿が闇の中でもはっきりと見えたように感じた。向こうを向き、涙がこぼれ落ちないように目をきつく閉じ、嗚咽が漏れないように口を閉じる姿に、何をすることも、声を掛けることもできなかった。
翌日、朱里は友達とは別行動にしてもらい、雪と一日、ノンビリと過ごした。昼には雪の実家に行って食事をし、最近ゴルフを始めたと聞いた雪が、幼い頃に通った与那嶺の経営するゴルフ練習場に連れて行ってスイングを見ることになった。
「雪がこんなにゴルフ上手いなんて知らなかった。いつやっていたの?」
「うん、私ね、子供の頃、プロゴルファーになりたかったの。藍ちゃんの格好良い姿に憧れちゃったの」
「え、でも高校の頃はやってなかったよね?」
「うん、子供の頃に頑張り過ぎて怪我しちゃって、その後、なんだかんだで断念したの」
「そっか、大変だったね。ま、生きてればいろいろあるよね。私も、、、」
「朱里?」
「えーい、何でちゃんと球に当たらないの!エイッ!」
「あ、当たったぁ!」
「あはは、朱里、意外とパワーあるね」
「そうよ、SEは体力勝負だからね」
「へぇ、でも飼育員も体力あるよ。色も真っ黒だし」
「あはは、雪、色は関係ないじゃん」
「あ、そっか。あはは」
何かを吹っ切るかのようにスイングする朱里。昨夜、垣間見せた弱さは微塵も面に出さず、空港で別れるまで、ずっと笑顔を作り続けた。そんな朱里を見て、雪は心に浮かんだ言葉を飲み込み、笑顔を浮かべて見送った。【不倫】と言う言葉の意味は知っていたが、朱里がこの先、どの路を選べば良いのか雪にはわからなかった。
雪は毎日、できるだけ多くの生き物を見て回ることを自分に課していた。人気者の海豚や亀や甚平鮫だけでなく、ひっそりと、一日中ほとんど動かないオニヒトデのような地味な生き物も見て回った。そして声を掛けた。最初は勉強のつもりで回っていたが、いつの間にかそれがごく普通のことになり、周りのスタッフもそんな雪の姿を微笑ましく眺めるようになった。時には忙しくて何日も見に行けない生き物がいたが、そんな時はその生き物のことが気になって仕方がなかった。
「お前もよく回るよな」
「え、何のこと?」
「ほら、毎日、あちこちに顔を出しているじゃないか」
「ああ、散歩のことか。おじさん、よく知ってるね」
「そんなの館内中の全員が知っているよ。特に現場の連中は、自分の担当でもないのにしょっちゅうお前が顔を出せば気になるだろうが」
「ふーん、そんなもんかね。でもね、館内の生き物のことをひとつでも多く勉強しろって言ったの、おじさんだよ」
「うっ、いや、そうだけど、、、」
「まあ、それは冗談だけど、見て回るの楽しいんだよね。時間がないからゆっくり見られないのが残念なんだけど」
「確かに、海洋生物が好きな奴にとっては天国みたいなところだよな、美ら海水族館は」
「そうそう、それにね、しょっちゅう見ていると彼らの体調みたいなものがわかる時があったりするんだよね」
「そんな、ちらっと見るだけでわかるのか?」
「うん、たまにね、何となくなんだけど違和感を覚えることがあるの。昨日も、海豚のゴンの目が何となく寂しそうだったから咲ちゃんに聞いてみたら食欲が落ちてるって言ってた」
「へえ、お前も少しはプロの眼が身についてきたのかな」
「えへへ、そうか、私もついにプロの飼育員になったか」
「調子に乗るな。それくらい、普通は一年もやれば身につくものだろ」
「えー、私、もう四年目だよ。それじゃ全然ダメじゃん」
「あはは、もっと見て回って学べ」
「まったく、頭くるなぁ、そんなこと言って。実はおじさんもあちこちうろちょろしてるんじゃないの?」
「ばーか、俺がみて回るのは仕事だよ」
「ふーん、いいなぁ。でも、それって職権乱用なんじゃないの、研究員様」
「そんなアホらしいこと言ってないで仕事に戻れよ。もう、休憩終わりじゃないか」
「あ、いけない、ピッコロのご飯用意しなくちゃ。じゃあね、おじさん」
雪にはまだまだと言ったが、玄吉は少し驚いていた。担当している生き物であれば毎日、何時間も見ているためちょっとした変化にも気付きやすい。ただ、雪は数日おきに、しかもほんの数分しか見ない生き物の変化に気付くようになっていた。もしかすると研究者としての大きな素養を持っているのかも知れないと感じた。玄吉は幼い頃の雪を思い出していた。自分の話に目を輝かせて聞き入っていた雪は、いつも、わからないことがあると、納得がいくまで何度も何度も質問を浴びせてきた。その真剣な眼差しに応えようと、雪に理解できるよう必死になって何度も説明をした。そして、納得がいった時、雪は満面の笑みを浮かべて嬉しそうな顔を見せた。その笑顔は、今、美ら海水族館の中で、すべての生き物に向けられている。
朱里に再会してから一年後、東京で国際海洋学シンポジウムが開催された。玄吉は水族館における研究内容を論文として投稿し、難関を潜り抜けて採用された。アジアでは三年振りに開催されたシンポジウムだったが、各国の著名な研究者が集まる場で、これまでに美ら海水族館のスタッフの論文が採用されたことはなかった。改めて玄吉の力量が評価されたことに、箭内を始め、スタッフ全員が喜んだ。
「おじさん、よかったね、論文採用されて。不採用になったらみんなにどう思われたのか、、、あぁ、怖い」
「雪、お前、何にもわかっていないな。シンポジウムの論文なんて査読者のさじ加減ひとつだから、採用されること自体にはそれほどの価値なんてないよ」
「へぇ、そうなんだ。でも、これまでも美ら海から投稿して、すべて不採用だったんでしょう。だったら、やっぱり凄いことなんじゃないの」
「雪ちゃん、この人、照れているのよ。本当は心底嬉しいのよ。ね、玄さん」
「あ、おじさん、紅くなってる!!」
「う、うるさい、紅くなんかなってない」
「ふふ、雪ちゃん、実はね、昨日箭内館長が来られたの。そしてね、玄さんの論文が採用されたことをすごく褒めてくれたの」
「へえ、すごいじゃない。やっぱりおじさんはすごいね。私なんてまだまだだな」
「雪ちゃん、そうでもないわよ」
「えっ」
「昨夜は箭内館長と玄さん、よほど嬉しかったのか、お酒も結構進んだのね。だから、どこまで本心なのかはわからないけど、玄さんの次の研究者は雪ちゃんしかいないって盛り上がっていたわよ」
「え、本当?おじさん」
「うーん、どうだったかなぁ、かなり飲んだからなぁ、、、」
「えぇ、覚えてないの?ひどい、可愛い姪っ子の人生を決めるようなことなのに」
「大袈裟だよ、お前は」
「あら、そんな大事なことを覚えていない玄さんが悪いのよ」
「え、恵美ちゃん、そんなこと言われても、、、」
「あはは、恵美子さん、格好良い!」
雪はこれまでシンポジウムに参加したことがなかったが、玄吉の論文が採用されたことに刺激を受け、どうしても参加したくなっていた。仕事として行かせてもらえるとは思っていなかったので、三日間の休暇を取って自腹で参加しようと考えた。ただ、シンポジウムの最終日が土曜日であり、水族館が混雑することが想定され、休みを取ることに躊躇いを覚えた。それでも、アジアでは三年に一回しか開催されないため、今回を逃すと暫くは参加する機会を得られないと思い、先輩の飼育員に相談をした。先輩は気楽に行ってくることを勧めてくれたが、なかなか踏ん切りをつけることができなかった。シンポジウムが二週間後に迫ったある日、雪は箭内から呼び出しを受けた。
「雪、また何かやったのか?いよいよ始末書か?」
「えー、先輩、私何もしてないですよ。いつも一生懸命頑張ってるじゃないですかぁ」
「お前の場合、時々、頑張りが変な方向に働くことがあるからな。本人も知らないとこで何かしちまったんじゃないのか」
「先輩、変なこと言わないでくださいよ」
身に覚えがないとはいえ、これまでにも何度かやり過ぎてしまったことは確かにあった。その度に箭内や先輩達に注意を受けたが、最近はそういったこともなくなってきていた。雪は微かな不安を感じながら館長室のドアをノックした。
「やあ、海藤君、忙しいところ、呼び出してすまなかった。ちょっと聞きたいことがあったものだから」
「はい、何でしょう。私何かまずいことしちゃいましたか?」
「ん、何のことだい?」
「あ、いえ、何でもないです。で、何でしょう聞きたいことって」
「ああ、来週、休みを取ると聞いたのだけど、もしかして東京に行くのかい?」
「ええ、国際海洋学シンポジウムに参加しようと思っているのですが、最終日が土曜日で忙しいからどうしようか迷っているんです」
「いや、ああいう場所にいくのは君達飼育員にとってはとても為になるから積極的に行ってくれて構わないよ。本来なら水族館の仕事として送り出してあげたいとこだが、今回は大浦君も行くし、君を仕事でシンポジウムに行かせることはできなくて申し訳ない」
「いいえ、状況はわかっているつもりです。それに、仮に誰かが行くとしても私なんかより適任の方が沢山いますから、お休みいただけるだけでも助かります」
「うん、シンポジウムに参加する目的での出張は難しいのだが、他の水族館を見て勉強してきて欲しいとは常々思っていたよ。特に東京には、葛西臨海水族館や品川水族館などの有名な水族館があるし、他にも個性的な水族館が次々にオープンしている。そういったところを誰かに見てきてもらいたいと考えているのだけど、海藤君、行ってみないか?」
「え、私がですか?でも、他にも知識の豊富な先輩が沢山いますよ」
「海藤君、君は毎日、館内中を歩き回っているそうだね」
「え、ええ、仕事の前とか終わった後に、ほんの少しですが。。。少しでも多くの生き物のことを知りたいものですから」
「と言うことは他の飼育員に比べて多くの生き物のことを知っているんじゃないのかな」
「知識の深さではまだまだですが、種類という意味ではそれなりに増えてきたかとは思います」
「今回の出張では、そのノウハウを活用できるはずだよ。それに、水族館を見た後にシンポジウムに参加すれば、より効果的になるのじゃないかな」
「箭内館長、ありがとうございます。是非、行かせてください。東京中の水族館を見てきます」
「おいおい、東京に水族館がいくつあると思っているんだ。全部見て回ったら、長期出張になってしまうぞ」
結局、四日間の出張と二日間の休暇をあわせて、シンポジウムへの参加と水族館の訪問を存分に堪能することができた。訪れた水族館で行われている様々な工夫や事例はとても参考になった。担当者の話を熱心に聞き取り、様子を写真に収めた。シンポジウムでは世界のあちこちで行われている取り組みに目を見張り、新しい理論に驚かされた。玄吉の発表も大好評で、発表後に世界中の研究者から質問を受けている姿は、雪にとってもとても誇り高いものに思えた。出張六日目、シンポジウム最終日は、午後から朱里にお願いして東京見物にも出掛けた。
「あっという間の六日間だったなぁ。何年も東京にいたような気分だよ」
「あはは、相変わらずだね、雪は」
「ん、どういうこと?」
「ひとつのことに取り組むと、すぐにのめり込んで、他のことが眼中に入らなくなる。だから、集中して、あっという間に時が経っていく。高校生の頃なんて、私まで引きずり込まれて、柄にもなく頑張っちゃったわよ」
「え、そうなの?自分じゃそんなつもりないんだけどなぁ」
「そうなのよ、自分は意識しないで進むものだから、こっちが必死でついて行くのも全然気付かないで、ペースも落とさない。ついて行く方はたまったものじゃないわよ」
「えー、もしかして高校生の頃、迷惑かけてた?」
「ううん、ついて行くのに大変ではあったけど、楽しかったし、充実していたわ。そういう意味では感謝している」
「なーんだ、心配して損しちゃった」
「でもね、雪、相手のことを見ることも、時には必要だからね」
「あ、うん」
不倫の話はどちらからも切り出さずに二人は短い時間を楽しんだ。そして、羽田発最終便に乗る雪を見送りに来た朱里が別れ際に話したのは、先日朱里のほうから別れを切り出したことだった。淡々と話す朱里の目元からは一滴だけ涙が流れ落ちた。雪は朱里をそっと抱きしめて耳元で囁いた。
「ナンクルナイサ」
東京から帰った雪は水族館にいる生き物のことを今まで以上に勉強するようになった。東京の水族館で見聞きしてきたことやシンポジウムで聞いたことを先輩の飼育員に伝えて、自分が担当でなくても一緒に工夫を試みたりもした。すると、今まで知らなかったことや気付かなかったことにも目が向くようになり、それが嬉しくて更に勉強にのめり込んでいった。
ある時、飼育員全員が集まる会議で、ペンギンが一羽、サラが調子を崩していることが報告された。ペンギンの病気としては比較的多いアスペルギルス症ではなく、また、足の裏に瘤のようなものができて歩き難くなる趾瘤症が若干見られるものの、ここまで体調を崩す原因とは考え難い、というのが担当者の見解だった。報告を聞いた雪は、シンポジウムでオーストラリアの研究者が発表した論文を思い出していた。
「今のペンギンの件ですが、先日の国際海洋学シンポジウムで気になる発表がありました」
「ほう、どんな論文かな」
「はい、一昨年、オーストラリアの水族館で発症した事例で、先ほど報告のあった件と内容がかなり似ています。その事例も、最初は原因が全然わからず、結局、そのペンギンは死亡してしまったそうです。解剖してはみたものの原因は特定できず、そうこうしているうちに、同じような症状を呈すペンギンが出てきたそうです」
「もしかして伝染病か?」
「はい、その後の調査でウイルスに感染していることがわかったそうです。当時、このウイルスの感染事例はなく、試行錯誤で抗生物質の投与を行ったのですが、結局、五羽の皇帝ペンギンがなくなってしまったそうです」
「と言うことは、ウイルスを抑える薬は見つかったのだな」
「明確に見つかったとは言い切れないです。と言うのも、研究者の報告によると効果のあるケースとそうでないケースが半々くらいとのことでした」
「五十パーセントか、、、」
「上手くいくかどうかわかりませんが、その研究者と連携しながら抗生物質の投与を行ってみてはどうでしょうか」
「効果が五十パーセントとのことだが、効果が出なかった時のペンギンへの影響はどうだ?」
「その点は発表では言及していませんでした。ただ、研究者の所属はわかりますから、連絡をすれば教えてもらえるのではないかと思います」
「しかし、十分な裏付けのない対処法を適用して大丈夫なのか」
「そ、それは、、、」
「箭内館長、この件、海藤をリーダーにしてプロジェクトを組んでみてはどうでしょう」
「萩原君、君は海藤君の見解が正しいと思うのですか」
「正直なところ、よくわかりません。ただ、わざわざオーストラリアから遠路遥々やってきた研究者がどんなことを試して、どういう結果を得たのかはとても興味深いです」
「そうだね、私もそれは感じます。よし、海藤君、明日からしばらく今の件を担当してください。萩原君、彼女の今の担当をどうするか、プロジェクトメンバーの人選とあわせて調整をして下さい」
美ら海水族館で最古参の飼育員である萩原が後押ししてくれたことが、雪にはとても心強かった。玄吉に似て言葉数が少ない萩原は、豊富な知識を持っているにも関わらず、スタッフとの間に壁を作っている感があった。雪も、萩原に注意をされることはあっても、褒められたことは記憶になかった。ただ、注意される内容は的確で、いつも【ぐうの音も出ない】ものばかりだった。突付き難い面はあるものの、力強い味方を得たことがとても嬉しかった。
プロジェクトとして動き出した最初の一週間、英語の苦手な雪は、オーストラリアの研究者とのやり取りを玄吉に託し、そこで得た情報に沿ってペンギンの世話をした。ところが、症状は軽くなるどころか、逆に徐々に元気を失っていった。その様子を見たスタッフ達、特にペンギンの担当チームの面々は、懐疑の声を雪のいないところで交わすようになった。漏れ聞こえてくる声がプレッシャーとなる雪を叱咤する萩原と、その思いに応えようと歯を食いしばって頑張る雪は、寝る間を惜しんでペンギンの世話をした。玄吉も雪の頑張りを後押しするかのように、ペンギンの状態を小まめにオーストラリアの研究者に伝えた。ある日、研究者からメールが届いた。
「おじさん、オーストラリアからのメール、なんて書いてあるの」
「おう、雪、今、萩原さんに話そうとしていたとこだ。お前も一緒に聞いてくれ」
「うん」
「こっちから送ったデータを見る限り、抗生物質は確実に効果を発揮していると書いてある」
「それでは今の治療を継続すれば治癒する可能性はあるわけですね」
「ええ、向こうの担当者はそう書いてきました」
「でも、サラは元気がないままだよ」
「それも先方には伝えてあるけど、向こうの事例ではそういうケースは生じていないそうだ」
「そうすると、違うウイルスってこと?」
「そこは、まだ何とも言えないな。オーストラリアとここでは環境も違うし、そもそもウイルス自体、まだまだわからないことがあるからな」
「大浦さん、ウイルスではなく、他の要因と言うことは考えられませんか」
「そうですね。ただ、症状から考えるとペンギンがよく罹る病気とは考えにくいですよね。それ以外の要因となると、何があるのだろう」
「もっとサラのことを見てみるよ。そうすれば何かわかるかも知れない」
「そうだな、少なくとも抗生物質は効果を出していることがわかったわけだし、何か見落としていないか、一から観察し直してみよう」
雪はデータを丁寧に見直してみた。ペンギンの体調が悪くなり始めたころからのデータ全てに目を通した。そして、毎朝収集しているデータにちょっとした違和感を覚えた。それは、ほんの僅かな違いであり、通常は許容範囲と見なせる差異だった。萩原に相談しても、そこから先を推論することはできなかった。それでも納得のいかない雪は、もっとペンギンのそばにいることを心掛けるようにした。早朝から夜遅くまで、ペンギンを刺激しないように少し距離を置いたところで雪は観察を続けた。そして、ある晩、疲れがピークに達していたこともあり、観察をしている最中に少しうたた寝をしてしまった。そして、生暖かい風を感じて目を覚ました。一瞬、何が起きているのかわからなかったが、自分の頬には確かに生暖かい風が当たっていた。そして、その風は送風口の一番近くにいる弱ったサラに降り掛かっていた。雪は慌てて空調の操作パネルのある場所に走った。そしてパネルを見ると、そこには正しい数値が表示されていた。雪はどうしていいのかわからなかった。時刻は既に夜の十二時に近かったが、雪は萩原に連絡をした。
「何故か空調の風が生暖かいんです。ところが、パネルの表示はいつも通りなんです。ペンギンには暖かい風が当たってしまうし、温度は下げられないし、どうしたらいいのか、、、」
「落ち着け、海藤。これからすぐに行く。その間、空調のメインスイッチを入れ直してみてくれ」
雪は萩原に言われた通り、空調のメインスイッチを入れ直した。そしてしばらくすると、いつも通りの冷たい風が送風口から流れてきた。緊張が緩んだ雪はペンギンの横に座り込んで、ぼーっと送風口とペンギンを交互に見ていた。
「海藤、大丈夫か」
「あ、萩原さん。とりあえずメインスイッチを入れ直したら、いつも通りの冷風が出るようになりました」
「そうか、取り敢えず良かったな。しかし、何で温風になったのだろう?」
「全然わからないですよ。さっき、観察しているうちにちょっと眠っちゃったんですけど、温風に気付いて目が覚めたんです。空調のパネルは設定通りだし、館内には宿直の人と守衛さん以外誰もいませんし、もう、何がなんだかわからないですよ」
「多分、空調の不具合だろうな。ただ、もしもこれが以前からあったとしたら、ペンギンの不調の原因に繋がるかもしれないな」
「ええ、そうなんです。送風口から流れてくる風が当たる位置にいますしね。暖かい風が吹いてきたら別の場所に移動すればいいのに、卵を守ろうとしてじっと動かずにいたんでしょうね」
二人は、今は気持ちよさそうに目を瞑っているサラをじっと眺めた。
翌日、空調の検査を行った業者は、すぐには不調の原因を突き止めることができなかった。温度センサーの不具合なのか、制御するプログラムの不具合なのか、調べるのに多少時間が掛かることを告げて担当者は帰っていった。その日の全体会議でこれまでの状況を伝えた雪は、業者が原因を判明させて対策を講じるまで自分が宿直を担当する旨を告げた。すると、ペンギン担当の飼育員から声が上がった。
「海藤、宿直はうちのチームで対応するよ。お前はこのプロジェクトのリーダーとして、原因の究明から対策まで、全体を統括してくれないか」
「でも、みなさん、他にも作業をいっぱい抱えてますし、その上、宿直までやるとなると負荷が大きいんじゃないですか」
「海藤さん、大丈夫よ。うちのチームはみんな元気だし、体力もあるし、それより、私達が見つけられなかったウイルスや今回の空調の件を指摘してくれたあなたに、これ以上甘えるわけにはいかないわ。あなたの頑張りを見習って、ペンギン達を守っていくわ」
「有難うございます」
一週間後、業者から制御プログラムに不具合があったと連絡が入った。その二日後には修正した制御プログラムが空調システムにインストールされ、空調の問題は解決した。そして、一ヶ月後、すっかり元気になったサラはプールの中を元気よく泳いで餌を啄ばむようになっていた。
「海藤、やったな」
「ハイ、これも萩原さんのお陰です」
「そうじゃないさ、お前が頑張って、担当チームの面々が頑張って、そして、サラ自身がそういった頑張りに応えてくれたんだよ」
「そうですね、ここ数日、サラがとても嬉しそうな顔してますしね」
「え、お前、サラの表情わかるのか?」
「え、萩原さん、わからないんですか?えー、私の勝手な思い込みなんですかねぇ、、、」
「あはは、お前には敵わないな。大浦さんがお前のことを褒めていたのはこういうことだったのか、、、」
「え、おじさんが褒めてくれたんですか?」
「ああ、ああいう人だからストレートには言わないけど、言外に仄めかすことがあったよ。【あいつは俺なんかよりすごくいい感性を持っている】って、半分羨ましげに、半分自慢げに話していたよ」
雪は素直に嬉しかった。玄吉の性格をよく知っている雪は、例え身内でも客観的に評価をする玄吉に褒められることがどれだけ凄いことかを実感していた。
一ヵ月後、玄吉は業界内で行われる情報交換の場に参加した。そして、何の気なしにサラのことを紹介した。ウイルスについては既にオーストラリアの事例が紹介されていたし、空調の件については単なるシステムの故障であり、取り立てて目新しいことだとも思わずに話をした。ところが、その話が人づてに伝わり、近隣の水族館から問い合わせの連絡が入るようになった。最初は週に一件くらいのペースで、どの様にしてウイルスによる不調であることを突き止めたのか、また、空調の故障による不調との切り分けをどう見極めたのか、といった内容が多かった。玄吉は最初、物好きがいるものだなと思い、問い合わせに対応していた。ところが問い合わせは日を追うごとに増えていった。
「おい、雪」
「あら、おじさんがここに来るなんて珍しいわね。何かあったの?」
「何かじゃないよ、例のペンギンの件、問い合わせが次から次へとやってくるぞ」
「あら、そうなんだ。流石、おじさんが話すと効果絶大なのね」
「茶化すなよ。こっちは問い合わせに対応するのに手間を取られて困っている。どうにかしろよ」
「どうにかって言われても、、、」
「次から問い合わせがあったらお前に回すからな。頼んだぞ」
「え、ちょっと、おじさん、、、」
言うだけ言うと、玄吉は踵を返して足早に研究棟に向かった。その後ろ姿を呆然と見送る雪の横では萩原が苦笑していた。
雪は萩原や箭内と相談をして、今回の件についてレポートを作成して業界紙に掲載することにした。たまたま、業界紙の編集員に箭内の知人がいたことから、二ヶ月後には掲載することができた。その間、雪は日々の作業とは別に各水族館から入る問い合わせに対応しなければならなかった。レポートが掲載され、これで直接的な問い合わせは減るだろうと見込んでいた。ところが、このレポートが引き金になって、事は更に大きくなっていった。
このレポートを読んだ品川水族館の館長は、その直後に別件で訪れた大垣に何気なく話しをした。すると、大垣はその話にすごく興味を抱いた。首都テレビで報道番組を手掛けている彼の感性が反応したのである。大垣はそのレポートが掲載されている業界誌を貰い、館長の目の前で美ら海水族館に電話を掛けた。
「大垣さん、随分と興味を持ったみたいだね」
「館長、この話、大化けするような気がするのです」
「ふーん、そんなもんかねぇ。まあ、ウイルスに気付いたことは好事例だけど、世界各地の情報網にアンテナを張っていれば、普通に得られる情報だしね。私にはあなたが取り上げるような題材じゃないような気もするけどねぇ」
「館長が言われるように、個々の事象はそれほどでもないかも知れません。ただ、偶然にも空調の故障が重なり、偶然にも直前にウイルスの情報を仕入れていた。そして、このプロジェクトを任されたのが、まだまだ若手の飼育員だった。これだけ材料が揃えば、良い番組を作れる可能性は高いですよ」
「ふーん、そんなもんかねぇ」
館長の気乗りしない様子などお構いなしに、大垣は単身、沖縄に飛んだ。乗った飛行機は、翌朝、一番機だった。
那覇空港に着くやいなや、大垣は美ら海水族館に電話を掛けた。広報担当者に取材の申し入れをすると、電話口でしばらく待たされた後に、夕方の五時であれば大丈夫との回答があった。電話を切って近くのベンチに腰掛けた大垣は、苦笑いをしつつ独りごちた。
「拙速すぎたかなぁ、、、」
空港から美ら海水族館まで、レンタカーを使えば一時間半もあれば着いてしまう。ポケットから取り出したスマホの画面には【9:30】と表示されていた。
【沖縄の海に沈んでいく夕日はとても綺麗だな】
一日中、美ら海水族館を見て回った大垣は、日焼けした腕をさすりながら海を見ていた。深くゆっくりと呼吸をし、時間を確認してからスタッフのいる居室に向かった。通された応接室で待っていると、すぐに恰幅の良い男性と、真っ黒に日焼けした、元気そうな女性が部屋に入ってきた。箭内と雪だった。
「お忙しい中、ご丁寧に説明いただきありがとうございました。予想通り、とても興味深い事例だと思います」
「そう言っていただけると嬉しい気持ちもあります。ただ、今にして思えば、私達にとっては、ごく普通の対応だったんじゃないかと思っています」
「確かに、個々の事象は普通のことなのかも知れません。でも、それらが同時に起きた点や、若手の海藤さんがリーダーとして対応された点など、私にとってはとても興味深いものです。是非とも番組で取り上げさせてもらえませんか」
「え、番組って」
「はい、毎週金曜日の二十二時から放映している、【未来へ繋ぐ】と言うドキュメンタリーです。海藤さんを中心に、先ほどお聞きした内容を全国にお届けしましょう」
「え、ちょっと待ってください。そんな番組なんて私にはできません」
「海藤さん、そんな難しいことじゃないですよ。ドラマみたいに演技することもないですし、普段通りに仕事している姿を映させてもらって、あとは、インタビューに応えてもらうくらいですから。箭内館長、如何ですか」
「そうですね、水族館の飼育員がどんな風に生き物の世話をしているのか見てもらえるのは、美ら海だけでなく、他の水族館にとっても良いことですね。どうですか、海藤君、お引き受けしてみては」
「え、箭内館長までそんなこと、、、」
雪は思いもよらない展開にドギマギしていた。箭内からはマスコミの取材の申し入れがあったから同席してくれとしか言われていなかったし、まさか自分がテレビの番組に出演するなど、想像すらできなかった。取り敢えず少し考える時間をもらうことにして取材は終わったが、持ち場に戻っても何も手がつかなかった。
その晩、雪は玄吉の家に向かった。
「恵美子さん、箭内館長のやり方、ひどいと思いません。心の準備も何もなしでいきなりテレビとか言われても」
「箭内館長はお前の性格を考慮してそうしたんじゃないのか」
「おじさんは黙ってて。私は恵美子さんに相談してるんだから」
「あらあら、雪ちゃん、今夜は荒れているわねぇ。でも、確かにテレビに出るとか言われると構えちゃうよね」
「そうそう、いくら普段通りとか言われても、カメラがあったら緊張しちゃうし、こんなに日焼けして真っ黒だし、、、」
「真っ黒なのはちゃんと仕事している証だからいいじゃないか」
「玄さん、そんなこと言っては駄目です。玄さんはナチュラルなところが魅力ですけど、女の子の気持ちはとっても繊細なのです。そういったところを汲み取ってあげないと、いつか、この子にそっぽ向かれちゃいますよ」
「え、ちょっ、ちょっと待って、そ、それは困るよ、、、恵美ちゃん、どうにかしてよぉ」
「あはは、おじさんも恵美子さんと由佳には頭が上がらないんだね」
恵美子の横には生まれて半年の、玄吉と恵美子の可愛い娘が眠るベビーベットがあった。雪は由佳の自然な寝顔をみつめ、その小さい手に自分の指を近づけた。寝ているはずの由佳がその指を握りしめた時、雪は自分の戸惑いがとても小さいものに感じられた。自分は何のためにペンギンを助けようとしたのか。昼夜を問わず、自分の生活も忘れるくらい一生懸命に考え、行動したのは何のためだったのか。自分はこの美ら海水族館にいる全ての生き物が大好きだった。だから、少しでも元気がなかったりしたらとても寂しかった。彼らが元気になるためなら、できることを全てやりたかった。そして、その想いが他の水族館に広まるのであれば、それは自分の望むところだと思った。そのために、自分が伝道師として伝えられることがあるのなら、何でもやるべきなのかも知れない。雪は、ドキュメンタリー番組の作成に協力することを決めた。
「雪ちゃん、えらいね」
雪の心を見透かしたように恵美子が微笑んだ。
ドキュメンタリー番組は特性上、どうしても地味な内容になりがちである。そのため、一般的には高視聴率を得難いとされている。しかし、舞台が人気のある美ら海水族館ということもあり、大垣は事前にS N Sを使って積極的に告知を行った。その甲斐もあり、番組はそこそこの視聴率を得ることができた。内容についても概ね良い評価を得ることができ、多少強引に企画を進めた大垣は胸を撫で下ろした。視聴者から届いた声の多くはペンギンの快復を喜ぶものや、水族館の対応を評価するものだった。そんな声に混じり、雪が発言した言葉に共感すると言ったものがいくつも届いた。番組の中で雪がインタビューに応えた時の発言であり、雪を番組の中心に企画した大垣にとってはとても喜ぶべきことだった。
「他の水族館で見聞きしてとても刺激を受けました。それとともに、自分にはまだまだ知らないことが多過ぎると痛感しました」
「今回の件は、たまたま国際海洋学シンポジウムでウイルスのことを知っていただけで、決して私の知識や経験によるものではないです。シンポジウムに行かせてくれた箭内館長を始め、水族館のみなさんのお陰です。それに、日々、オロオロする私を叱咤激励してくださった萩原さんや飼育員のみなさんの協力がなければどうなっていたことやら、、、」
「今回の件を通して、大好きな生き物のために少しでも役に立つのならもっともっといろいろなことを知りたいという気持ちがとても強くなりました。私はやっぱりこの美ら海の生き物達のことが大好きなんだと思います。そして、この美ら海水族館の人達のことが大好きなんです」
番組の効果なのか、この年の求人には例年にない数の応募者が集まった。応募の動機を、【雪のようになりたい】とした応募者が数多くいたことに、箭内は誇らしげなものを感じていた。一方、そのことを知らない雪は、それまで以上に館内を忙しく、そして楽しく走り回っていた。そして、周りのスタッフ達も雪に引っ張られるように生き物達の世話をした。気がつくと、美ら海水族館はそれまで以上に活気に満ちた素晴らしい水族館になっていた。
第五章 オーストラリア派遣
美ら海水族館ではオーストラリアの水族館と提携して互いのスタッフを派遣しあっていた。派遣の期間は二年間で、派遣開始の一年前に交代する派遣要員の選考が行われていた。派遣要員はこれまではベテランのスタッフが選ばれることが多かった。今回も飼育員歴の長いスタッフを中心に人選が進められていたが、人選を検討するメンバーの一人、萩原から雪を推薦する声が挙がった。
雪の知識はどんどんと広がっており、他の候補者と比較しても遜色がないレベルに達していた。その知識を実際の現場で活かすには絶好の機会だと萩原は主張した。更にノウハウをより深めるためにもいい機会と思われた。ただ、ひとつだけ難点があった。雪は英語が苦手だった。コミュニケーションが上手く図れなければ、効果が半減してしまうのではないかという懸念が選考の最後まで引っ掛かっていた。最終決断は箭内の一言で決まった。
「コミュニケーションに語学力は必要ですが、同じ海の生物を相手にするのだから身振り手振りでもある程度通じるでしょう。行ってしまえば言葉も徐々に覚えるだろうし、どうにかなります。増してや、あの海藤くんですから」
いつも温厚な箭内の大胆な発言に萩原は戸惑いを覚えたが、すぐに顔が綻んでいくのを感じた。
【どちらかと言うと慎重居士の箭内館長にこんな発言をさせるなんて、あいつ、とんでもない奴なのかも知れないな】
萩原から話を聞いた雪は、嬉しさと驚きと困惑の想いが頭の中を交錯するのを感じた。取り敢えず考えさせて欲しい旨を萩原に伝え、雪は玄吉の家に向かった。
「もう驚いちゃったわよ。派遣メンバーはいつもベテラン飼育員から選ばれるって先輩達から聞かされていたし、まさか私が選ばれるなんて思ってもいなかった」
「それで、雪ちゃんはどうしたいの?」
「うーん、そりゃ行ってみたい気はありますよ。ペンギンのウイルスもオーストラリアで見つかったものだし、何より、生き物の種類が半端なく多いし」
「そう、なら行ってくればいいんじゃない」
「恵美子さん、そんな簡単に言わないでよぉ。私が英語苦手なの知ってるでしょ」
「あはは、いつも怖いものなしの雪ちゃんでも苦手なものがあったのね」
「もう、茶化さないでください」
「行ってこい!」
「え、おじさん、今何て言った?」
「ゴチャゴチャ言ってないで行ってこい。言葉なんてどうにかなる。以上!!」
「え、それだけ、、、」
「あはは、玄さんも雪ちゃんも面白い」
「もう、二人ともぉ」
苦笑する雪の横で玄吉は萩原から聞かされた箭内の言葉を思い返していた。そして、箭内にそんな言葉を言わしめる姪っ子の生き様がとても輝いていることを誇りに感じた。
通常は派遣まで一年間の準備期間があるが、今回は先方の都合もあり、三ヶ月しかなかった。オーストラリアに旅立つまでの三ヶ月間、雪は必死になって英語を勉強した。しかし、どう足掻いても片言の域から抜け出すことはできなかった。不安を抱えたまま機上の女になった雪は、ボディランゲージでも筆談でも構わないからコミュニケーションできることを願った。
オーストラリアの西岸、パースに位置する西オーストラリア水族館までは十四時間近いフライトだったが、不安と期待がない交ぜになった気持ちを抱えた雪には長いと感じる余裕さえなかった。西オーストラリア水族館、通称【アクア】と呼ばれる水族館では、飼育員が二人でチームを組むことになっていた。そのルールは海外からの派遣要員にも適用され、雪のパートナーには屈強な肉体を持つジョンがアサインされた。紹介された時、ジョンは日本での留学経験があり片言ではあるが日本語の会話もできると聞いて、雪は少しホッと息を吐いた。ところが、本人に会って自己紹介を交わすと、彼の日本語はかなり怪しいものであることがわかった。イントネーションだけならまだしも、関西弁が交じって副詞がぐちゃぐちゃだった。雪はなるべく面に表れないようにしながら心の中で大きなため息を吐いた。一方、ジョンは、雪のたどたどしい英会話に不安を覚えた。アクアには日本語を話せるスタッフはほとんどいない。いくつかの単語なら多くのスタッフが知っていたが、それでは十分なコミュニケーションは図れない。雪が困った時にどうやって手を差し伸べればいいのか、チームを組むパートナーとしての重責を感じていた。
それでも雪は頑張った。最初の二ヶ月は、一週間毎に担当を変わり、アクア内の色々な生き物の飼育方法を体験していった。海に住む生き物に日本とオーストラリアの違いはない。種が異なっていても、彼らは海と共に生きている。そのことを実感することで雪は日々のストレスとバランスを取ろうと頑張った。しかし、仕事場だけでなく、一日中、コミュニケーションを上手く取れないことが雪の心を徐々に蝕んでいった。
同じ生き物でも、飼育の仕方は美ら海水族館とアクアでは微妙に異なることが多々あった。その度にジョンに教えを請うのだが、英語で説明されてもよくわからないことが多く、何度も聞き返さなければならなかった。すると、ジョンが気を遣って日本語で説明してくれるのだが、例のぐちゃぐちゃな副詞と変なイントネーションが雪のイライラした気持ちを更に寂れたものにしていった。
この頃から雪の表情が目に見えて暗くなっていった。ジョンや周りのスタッフが気を遣って励まそうとするが、寂しい笑顔を返すのが精一杯だった。一人になると美ら海水族館のことばかり考えている自分に気付き、更に自分を責めてしまう雪だった。
そんな時、アクアで飼っている人気者のシャチ【シンディ】が急に元気をなくしてしまった。食べる餌の量が減り、ショーの練習で飼育員の指示に従わないことも出始めていた。検査の結果、うつ病であることがわかった。シャチの担当は雪が派遣された時点でグレッグに変わっていたが、元々はジョンが担っていた。シンディもジョンに一番懐いていたこともあり、急遽、ジョンを担当に戻すことになった。ジョンは一日の大半をシンディのそばで過ごすことになった。その間、雪の面倒はグレッグや他のスタッフが交代で見ることになったが、片言でも交わせた日本語の会話がなくなると、コミュニケーションは一層難しくなり、雪の心は限界に近いところまで追い込まれていった。仕事も休みがちになり、アパートに引きこもるようになってしまった。そんな雪の様子を他のスタッフから聞いたジョンは、シンディの世話の合間に雪のアパートを訪ねた。
「雪、何をしている」
「………」
「何をしにわざわざオーストラリアまで来た!目の前で体調を崩したシンディがいるのに何にも感じないのか!」
雪を元気づけようと放った言葉は、その虚な表情に吸い込まれていった。ジョンは優しい笑顔を見せ、雪に伝えた。
「心配するな、雪。ゆっくりと休め」
首を振り、肩を落としたジョンが帰っていく姿を見ていたら、更に自分が情けなくなった。
【私はここにいていいんだろうか】
【役に立たない私がいるより、誰かに代わって貰った方が良いんじゃないかな】
【もう、何もしたくないな】
眠れない日が続いた。
ある日、窓際でボーッと外を眺めていたらメールの着信音が鳴った。玄吉からのメールだった。
【元気でやっているか?連絡がないから恵美ちゃんが心配しているぞ。たまには連絡してこい。】
【オーストラリアの海はどうだ?船に乗っていた時、オーストラリアの近くは通ったけど上陸はしなかったから一度行ってみたいよ。沖縄の海とそっちの海、まあ、どちらも同じ海だからそんなに変わらないか】
短い文面だったが、玄吉や恵美子の顔が浮かんできた。二人に会いたいという想いが強くなると共に、生まれ育った沖縄の海が見たくなった。自分を包み込んでくれるような、優しい海の中に身を置きたくなった。
「雪ちゃん、大丈夫かな。」
「うん、ジョンのメールだとかなり厳しそうだよな。もう少し近ければ様子を見にいくのだけど。」
「距離の問題じゃないよ。もうしばらく様子を見て、回復しないようなら行ってきてくださいよ。」
「そうだな」
数日後、雪はフィットフォーズ・ノーズ公園で海を眺めていた。景色も風の香りも、生まれ育った沖縄の海とは異なっていたが、自分をやさしく包んでくれるような安心感は同じものだった。一日中、海を見ていたら沢山の優しい顔が思い出された。偉そうに踏ん反り返ってうんちくを垂れる玄吉の顔。その玄吉に短く、的確な指摘をする恵美子の穏やかな顔。眼の中に沖縄の海を思い起こさせる、ゆったりとした箭内の顔。小兎のような愛くるしい朱里の顔。変な日本語を使って語りかけてくる、厳ついけれど愛嬌があるジョンの顔。次々と浮かぶ顔を想い起こしているうち、いつしか雪の顔から強張りが取れ、柔らかい微笑が浮かんできた。最後に浮かんできた顔は、人のそれではなく、シンディの寂しそうな顔だった。
【シンディ、あなたも心に傷を負っているの?】
雪はジョンがアパートを訪れてくれた時のことを思い出した。ジョンの言葉はきつく、英語でまくし立てられた言葉の意味もはっきりとはわからなかった。ただ、ジョンが心底心配してくれていることと、体調を崩したシンディのことを放っておいていいのかと問いかけられているらしいことは何となく伝わってきていた。シンディの傷を治してあげたいという強い想いが心のうちから湧き上がってきた。
雪はペンギンのサラと過ごした日々を思い出した。美ら海水族館で、毎日多くの生き物達に声を掛けて回った日々を思い出した。そして、ここ、アクアにも声を掛ける相手が数多く待っていることに想いを馳せた。雪はジョンに電話を掛けた。
「ジョン、明日から私にもシンディの面倒を見させて!」
「take care of Cindy」
「tomorrow」
思いつく英単語を並べる雪の目にはオーストラリアに着いた頃の光が浮かんでいた。
雪は翌日からジョンと一緒にシンディの面倒を見始めた。通常なら既に完治していてもおかしくない時期だったが、シンディの体調は思ったより芳しくなかった。原因について意見を出し合う獣医とジョンの会話は、その大半を理解することができなかったが、それでも雪は二人の言葉を一生懸命に聞いた。そして、シャチの様子に少しでも変化がないか、常に目をやった。心細そうに見えるシャチの目を見ながら雪はシンディに声を掛け続けた。
「シンディ、お前が人間の言葉を話せたらいいのにね。そうすればもっと効果的なケアをしてあげられるのに」
プールサイドに腰掛け、優しく話しかける雪のそばで、シンディは何かを訴えかけているのか、小さく口を開いた。
「シンディは、なんて言ってるの?ごめんね、理解できなくて」
シンディはゆっくりと泳ぎだすとプールを半周ほど回って戻って来た。そして雪の足を口先で軽くつついてからしばらくそこでじっとしていた。海の彼方に沈みゆく夕陽が雪とシンディを照らしていた。
一週間後、相変わらず体調がすぐれないシンディを見ていた雪は美ら海で体調を崩したペンギン、サラのことを思い出していた。あの時サラはウイルスに感染して体調を崩した。そして、空調の故障が彼女の居住環境に変化を与え、そのことで更に体調を崩した。もしかしてシンディもうつ病だけでなく、他の、それも何か、ストレスを与える何かが彼女に生じているのではないか。そのことに思い至った雪は、シンディを見る時に彼女が何かを嫌がっていないか、注意深く見るようにした。
「おじさん、サラのレポート、大至急、英語に訳して送って!」
「おいおい、何だよ藪から棒に、挨拶くらいしろよ」
「そんな悠長なこと言ってられないの。こっちはシンディのことで手一杯なんだから。お願いね、おじさん」
言うだけ言って切れた受話器を見ながら玄吉は首を捻った。
「玄さん、どうしたの?雪ちゃんからだよね?」
「ん、ああ、そうだけど、サラのレポートを英訳しろ、それだけ言って電話切りやがった、あいつ」
「あはは、何それ。何かのサプライズ?」
「さあ?でも、かなり元気な声だったよ。メール、余計だったかな。」
「でも、ジョンからのメールには元気がないって書いてあったよね?」
「うん。だけど今の電話、いつもの雪だったよ。」
「ふーん、何か立ち直るきっかけを掴んだのかしら」
「まあ、元気なら何でもいいか。」
「これで玄さんも元気が出るしね。」
「え、どう言うこと?」
「あら、気づいていなかったのですか?このところ玄さんったら、オーストラリアの資料ばかり見て心ここにあらずって感じでしたよ」
「え、そ、そんなことないよ」
「ちょっと焼けちゃいましたよ」
「え、、、」
「うふふ、でもね、私もそうだから。雪ちゃんのことが気になってしょうがなかったの。さ、玄さん、雪ちゃんのために、大急ぎで英訳しましょう。専門的なところでなければ私も協力するわ」
翌日に届いたメールを見せながら、雪はジョンと獣医に自分の考えを伝えた。
「サラはウイルスだけではなく、他の条件、彼女の場合は空調の不具合だったんですけど、そのせいで不調が長引いたんです。もしかするとシンディもうつ病以外に何か原因があるんじゃないでしょうか」
片言の英語では足りない部分がたくさんあったが、身振り手振りを交え、絵を描いたり、単語を書いたりして一生懸命に伝えた。すると二人は顔を見合わせて何かを話し始めた。多少興奮しているのか、二人とも早口で、雪は単語を拾うのが精一杯だったが、二人とも雪の考えを理解してくれているようだった。三人はシンディの居住環境を改めてチェックし直した。そして一週間後、雪はシンディの泳ぐ姿を見ていてあることに気付いた。シンディは頻繁ではないが一日に何回かプールをゆっくりと泳ぐ。ところが、手前側は壁に沿って泳ぐが、半分くらい行くとそこから中央に方向を変えて反対側の壁に向かった。そして壁に着くと壁沿いに手前に戻って来た。その後も泳ぐ姿を見ると、プールの中央から先には行かなかった。
「ジョン、シンディは以前からプールの向こう側は泳がなかったの?」
「プールの向こう側?彼女はプールのあちこち、全体を泳ぐだろ。それとも、違うことを言いたいのか?」
ジョンは雪が上手く英語を操れないと思ったのか、変なことを聞くなと思ったのか、曖昧な表情を見せた。
しばらくしてシンディが泳ぎだした。
「ほら、シンディが泳ぎだしたわ。見てて」
泳ぎだしたシンディがプールの中程にかかると、急に左に方向を変え、プールの中央を横切った。そして反対側の壁まで行くと、またそこで左に方向を変えてこちらに戻って来た。
ジョンはその日、何度もシンディがプールの中央から戻って来るのを見た。途中からは獣医も一緒になってその様を眺めていた。
「ジョン、彼女がプールの向こう側を泳がないわけがわかるか?」
「先生、そんなこと俺にもわからないですよ。雪が来る前、俺が面倒見ていた時はプール全体を気持ち良さそうに泳いでいましたよ。一体何があった?」
「もしかするとプールの隣に何か、そう、シンディが嫌がる何かがあるんじゃないかしら」
「雪、日本語じゃよくわからないよ」
雪は常時携行するようになったホワイトボードに単語や絵を描きつつ、身振り手振りを交えて拙い英語で説明した。
「シンディが嫌がる何かって何だよ」
「それはわからないわ。だけど、ほら、先日話したサラの場合は空調の不調が彼女に悪影響を与えていたのよ。それに似たようなことがシンディの身に起きているんじゃないかしら」
「ジョン、プールの状態は調べたよな?」
「ええ、雪にサラの話を聞いてからすぐに調べましたよ。でも、水質も問題なかったし、壁が壊れているところもなかったし、これと言って気になるところはありませんでしたよ」
「それじゃ、何故彼女はプールの向こう側を泳がない?」
「だから、わかりませんよ」
「きっと、プールの隣にシンディにとってストレスとなる何かがあるのよ。そのせいで、今まで泳いでいたプールの向こう側を泳がないと考えるのはとても自然だし。だけど、それが何なのか、、、」
三人は顔を見合わせ、思いつくことを片っ端から並べていったが、これぞ、と思われるものは出てこなかった。
雪はサラのことを思い出していた。彼女は幾晩も空調の故障に晒されていた。それでも自分の眠る位置を変えることはなかった。あの時、彼女の足元には産まれて間もない卵があり、彼女はその卵を守るべく、自分の身に不調を齎す場所から移動しなかったのである。シンディが妊娠しているとは聞いていないが、もしかしたらシンディもお腹の子供を守ろうとしているのではないのか。
「ジョン、シンディは妊娠していないのよね?」
「ああ、そろそろ妊娠してもいい頃だけど、まだ確認はできていないな。妊娠が今回の件と何か関係するのか?」
「いえ、可能性として考えられないかなと思っただけ」
「ジョン、念のため、検査してみるか」
「先生、まだ兆候もないですよ」
「ま、念のためだよ。可能性は低くても、ひとつずつクリアしていこうじゃないか」
検査の結果は意外なものだった。シンディは既に妊娠中期に差し掛かっていた。妊娠初期に見せる動きをあまりしなかったことや、体の変化も見られなかったことで、ジョンを始めスタッフの誰も気付かなかったのだろうと言ったのは、獣医のケインだった。
「妊娠したことで泳ぐコースが変わるなんて聞いたことないぞ」
「私もそんな単純なことではないと思うわ。これは単なる想像だけど、プールの向こう側に行くことがお腹の子供にとって脅威になるんじゃないかしら」
「脅威?危険だということか?」
「ええ。子供はまだシンディのお腹の中だから直接子供に危害を与えることはできないけど、例えば、シンディに危害が生じることで子供に影響するような何かがあれば、彼女はそれを回避しようとするんじゃないかしら」
「子どもへの脅威か、それは一体何だ!」
雪はプールの向こう側に行ってみた。プールの中だけでなく、プールの周りも何度も見て回った。プールの右横にはイルカの練習用のプールがあり、左横には亀の展示水槽に繋がるバックヤードがあった。そして、プールの奥には傷ついたり病気で弱ったりした生き物を一時的に隔離するためのプールがあった。そして、そこにはオオメジロザメが弱った身体をゆっくりと動かしていた。
「ジョン、ちょっと来て!」
「どうした、雪、そんなに大きな声を出して、何か見つかったのか?」
「ジョン、これを見て」
「何だよ、オオメジロザメじゃないか。それがどうかしたのか?」
「ジョン、シャチの天敵って何だったかしら」
「シャチの天敵?そんなのいないに決まっているじゃないか。まさか、こいつが天敵とか言わないよな」
「大人のシャチにとってはそうね。だけど、子供のシャチだったらどうかしら」
「あっ!そうか、こいつら、群れになってシャチの子供を襲うことがあるな。それじゃぁ、シンディは、、、」
「あくまでも推測だけど、子供を宿したシンディは、子供の脅威になるオオメジロザメの存在に気付いて、まだ生まれてもいない子供が危ないと察知したんじゃないかしら」
「だけど、シンディからオオメジロザメは見えないぞ。どうやって気付くのさ」
「それはわからないわ。だけど、例えばオオメジロザメの声を聞いたとか、匂いを感じ取ったとか、人間には無理でもシャチだからわかるということもあるんじゃないかしら」
「そんなことがあり得るのか」
「先生、あんたは雪の推測をどう思う?」
「可能性は十分にあると思うよ」
「そして、子供がなるべくオオメジロザメに近付かないようにしようとして、自分自身がプールの真ん中で折り返していた。ただ、いつまで経ってもオオメジロザメの気配を感じるものだから、常にストレスを感じて、うつ病の回復に悪影響を与えていた」
「うん、その推測も可能性が高そうだな。ジョン、オオメジロザメを他の場所に移動できないか?」
「確か南のプールが空いていたはずです。確認してきます」
言うや否や走り出したジョンの後ろ姿を見ながらケインは雪に言った。
「雪、飼育員をやめて獣医を目指したらどうだい。君には素養がありそうだ」
「えっ」
軽くウィンクをしてケインはその場を離れた。
一人残った雪はオオメジロザメに話し掛けた。
「ごめんね、お前も傷ついてるのに移動させることになって。でも、シンディが入れるプールはここしかないから仕方ないの。ごめんね」
鮫を南のプールに移動させて三日後、シンディがゆっくりとプールの向こう側に泳いで行くようになった。それから更に一週間、シンディの体調は明らかに良くなっていった。食欲が戻り、泳ぐ速さも元気な頃のそれに戻っていった。
「しかし、よく気付いてくれたよ。雪が気付かなかったら、シンディの調子はもっと悪くなっていたかも知れない」
「たまたま美ら海水族館でサラに出会えたからだわ。あの経験がなかったら私も気付けたかどうか、、、。サラにとっては大迷惑だっただろうけど、お陰でシンディが元気になったからサラも許してくれると思うわ」
「雪、本当にありがとう」
「ジョン、派遣とは言え、今は私もアクアのスタッフよ。スタッフとして当たり前のことをしただけだわ」
「お、ついこの間までとはえらい変わりようだな。そういうのを日本語ではこう言うよな。
「今に泣いとらるカラスがもう笑いはった」
「ジョン、お礼はいいからその変な日本語をどうにかして!!」
シンディのことを必死になって面倒を見ていた雪は、自分でも呆れてしまうほど元気になっていた。そして、シンディが元気になった後は、ジョンだけでなく園内のいろいろな持ち場のメンバーに積極的に接触していった。相変わらず言葉は拙かったが、身振り手振りを交え、時にはホワイトボードに絵を描いて、スタッフ全員に笑顔で接していった。それでも上手くコミュニケーションが図れない時、雪はノートに伝えたいことを書き、それをメールで玄吉に送って英訳してもらい、その返事を相手に見せた。他にもスタッフから聞いたことや気付いたことをそのノートに書くようにした。また、会話の途中で気になることがあると、今度は納得いくまで、何度も何度も質問を繰り返した。雪が首から下げたノート、いつしか【Yuki’s Aqua】と呼ばれるようになったそのノートを開こうとすると、スタッフはみな、苦笑いを浮かべた。
「雪、今日はちょっとバタバタしていて時間がないよ、次にしてくれないか」
「あら、ジョン、どうしたの?私はただノートのメモを見ようとしただけよ」
「そうか、紛らわしいことするなよ。最近のお前は、積極的なのはいいけど、捉まると中々解放してくれないから、みんな戦々恐々なんだぞ」
「あら、わからないことがあったら何でも聞け、って言ったのはジョン、あなたよ」
「いや、そ、それはそうだけど、、、」
「あはは、ジョンも雪には叶わないようだな。雪が来た頃とはえらい違いだ」
「先生、そんなに笑わないで下さいよ。本当に最近の雪は凄いですから」
「あ、そう言えば、先生、例の亀の病気なんですけど、ちょっと気になることがあるんですけど」
「あ、雪、すまん。イルカの様子を見に行かなきゃいけなかった。亀の話はまた後で頼むよ、それじゃ」
あたふたとイルカのプールとは逆の方向に歩を向けたケインの後ろ姿を見ながら、ジョンと雪は苦笑いを浮かべた。
二年の派遣期間はあっという間に過ぎていった。そして、残り一ヶ月を目前にした頃、アクアの館長から雪にひとつの提案がなされた。
「雪、アクアで働くのもあと一ヶ月ですね」
「ええ、あっという間に時が経ってしまって、とても驚いています」
「雪はこのところずっと働き詰めだったから、ろくに休みをとっていないのではないですか」
「そうですね。最初の頃は定期的にお休みをいただいていましたが、最近は生き物達のことが気になって、休みの日もアクアに来ることが多かったです。でも、それはそれで楽しいんですけどね」
「本当に雪はアクアが好きなのだね。いや違うか、雪が好きなのはアクアにいる生き物達だったね」
「はい。彼らを具に見てると、毎日のように新しい気付きがあって楽しいんです。いくら見てても飽きることなんてないですよ」
「あはは、雪らしいね。でもね、雪、オーストラリア人としては、日本から遥々やってきてくれた素敵な女性には、是非ともオーストラリアの良いところを見ていって欲しいな。どうだい、来週あたり休みを取って観光に行ってみないか」
「館長、ありがとうございます。そう言えば、オーストラリアには、とても良いところが沢山ありましたね。アクアの生活が楽し過ぎて、すっかり忘れてました」
館長に言われて振り返ってみると、生活の日々をアパートと水族館の往復に明け暮れていたことに気付いた。雪は一週間の休みをもらい、オーストラリアを観て回ることにした。館長の心配りで、スタッフの一人、雪と年齢の近いステーシーが案内役を買ってくれることになった。
アクアに来る前、雪は英語の特訓で手一杯で、観光のことについて調べる余裕などなかった。アクアで忙しく働くようになってからは、生き物達の相手をすることに時間を取られ、観光することすら忘れていた。そんな雪だったが、オーストラリアの観光についてひとつだけ知っていることがあった。それはエアーズロックだった。【地球の臍】とも称されるこの岩山は季節によって表情を変えるだけでなく、一日のうちにもその豊かな表情を変えてくれることをテレビで観て感動した記憶があった。その時は、オーストラリアに行く機会があったら是非ともこの目で見てみたいと感じたことを思い出していた。
水族館からエアーズロックまでは想像以上の距離があった。車で行けるだろうと思ってステーシーにレンタカーの相談をしたら想定外の答えが返ってきた。
「雪、ここからエアーズロックまで何キロあると思っているの?」
「え、調べていないけど車で数時間とか?」
「もう、雪は生き物以外のことはからっきしダメなのね。ここからざっと二千キロ、車で行ったらノンストップでも丸一日はかかるわよ」
「えぇ、そんなに遠いんだ。オーストラリアって広いのね」
「あはは、雪ったら。それじゃ、飛行機のチケットと宿の手配は私の方でやっておくわ。それでいい?」
「ありがとう、ステーシー」
初めて乗る小型飛行機に若干の不安を感じたが、思ったほどの揺れもなくエアーズロック空港に滑るように着陸した。その日はホテルでのんびり過ごし、翌日、エアーズロックの周りを散策するベースウォークを楽しんだ。
「雪、どうかしら、これがオーストラリアの象徴、エアーズロックよ」
「すごい。想像していたよりとてつもなく大きいわ」
「世界で二番目に大きい一枚岩なの。今見えているのはほんの一部で、地中数キロメートルまであるそうよ」
「そんなに大きいんだ」
「先住民であるアナグル族は、この岩のことをウルルと呼んでいるわ。彼らの神話に出てくることもあって、聖地としてずっと長い間、崇めてきたの」
「そうなんだ。とても大事なところなのね。私はただ景色が素晴らしいとだけ思っていたけど、そういう背景もあったんだね。正に神々の岩、と言った感じなのね」
「そうなの。だけど、彼らにしてみれば後から来た私たちが勝手に観光地化して、ズカズカと山に入ることが気に入らなかったのね。だから、ずっと以前から登山はしないで欲しいと言っていたの。そして、他にも環境破壊が懸念されて、今では登山はできなくなったの。それでも私たちオーストラリア人にとっては誇りに思える場所なのよ」
「そっか、色々と大変なんだね」
辺りに何もない砂漠のど真ん中に突然出現したかのように聳え立つウルルは、神々しさを感じさせた。その迫力に比べたら自分達人間の何と小さいことか。ここに辿り着くまでの人生、いろいろなことがあった。時には目の前が真っ暗になって先に進めなくなるのではないかと思ったこともあった。これからも挫折したりすることもあるだろう。だけど、目の前のウルルを見ていると、どんなことが起きても乗り越えられる、そんな気にさせられる光景だった。
派遣期間が終了して沖縄に帰る前の日、ジョンを始めスタッフが総出でパーティを開いてくれた。
最後に挨拶をしたジョンは涙をぼろぼろと流し、変な日本語と英語がちゃんぽんになって聞いているほうも話しているほうもよくわからない言葉になっていた。
「ジョン、二年間ありがとうございました。アクアで覚えたことを活かして、美ら海水族館でもっと頑張るわ」
「ユキー」
「あ、それとね、ジョン、まともな日本語を覚えてね」
美ら海水族館に戻った雪は、以前より積極的に館内を歩き回った。そして、雪に引っ張られるように周りのスタッフも、自分の担当以外の生き物により多くの興味を持つようになった。
「雪ちゃんが帰ってきたら、急に忙しくなったわね。何故かしら」
「え、テル先輩、気付いていないのですか。私達、定時後に館内中を見て回っているじゃないですか。その分、館内にいる時間が長くなっていますよ」
「ああ、そうか。そう言えばそうだね、うふふ」
「どうしたのですか、思い出し笑いなんかして」
「ん、我ながらよくやるなと思ってね。私、ここ数年、それほど仕事熱心じゃなかったじゃない。それなのに、雪ちゃんに感化されて、仕事でもないのに定時後に館内中を歩き回っているなんて、何か変だよね」
「そんなことないですよ。それに、雪ちゃんに影響を受けた人、他にもいっぱいいますから」
「そうだね、お陰で今じゃ、定時後の館内の人の多いこと」
「でも、他の生き物を見るの、結構楽しいですよね」
「そうそう、普段あまり意識してなかったことに気付いたりするしね。ほんっと、不思議な子だよね、あの子」
雪の影響はひょんなところでも話題になっていた。
「箭内館長、今月の収支です」
「はい、ご苦労様です。ん、このメモは何ですか?」
「はい、実は二ヶ月ほど前から光熱費の額が増えているのですが、少し気になったので調べてみました」
「光熱費ですか。それで原因はわかったのですか」
「はい、定時後に消費される分が増えていました」
「定時後ですか、そんなに残業が増えているのですか?」
「いえ、残業は以前と同じペースです。ただ、ちょっと妙なことになっていました」
「妙なこと、ですか」
「はい、多くのスタッフが、定時後も館内に残って、自分の担当外の生き物を見て回っているのです」
「担当外の生き物ですか。海藤君みたいですね。彼女も館内中の生き物のことを知ると言って走り回っていますからね」
「ええ、実は、その海藤に影響を受けたスタッフが定時後の館内を歩き回っているのです」
「あはは、それは良いですね。以前から彼女の姿勢には感心するものがあったのですが。そうですか、彼女に影響を受けて。うん、素晴らしい」
「どうしましょう。何か指示を出しましょうか」
「いえ、しばらく様子を見ましょう。多少、光熱費が増えても営業に支障を来すことはないでしょうし、それよりも、こう言ったことが美ら海水族館の風土・文化になってくれたらどれほど喜ばしいことか。私も館内を歩き回ることにします」
「箭内館長が、ですか?」
「ええ、私だって若い頃は真っ黒になって生き物達と対峙していたのですよ。当時と今では色々と変わっていることもあるでしょうから、スタッフ達と意見交換して回りますよ」
「箭内館長が歩き回ったら、みんな、びっくりしますよ」
「それに、海藤君を始め、スタッフ全員に労いの声を掛けてあげたいです」
真っ黒になって働く雪は、仕事の特性もあり、同年代の女性の大半が知らない世界にいた。そして、一日中動いて、様々な海洋生物と対峙する日々は、いつしか彼女に多くの知識を与えていた。そうやって、雪の二十代は過ぎ去っていこうとしていた。
第六章 課題
ある日、珍しく早目に帰宅した雪は、夕食をとりながらテレビを眺めていた。番組は、沖縄近海の珊瑚礁が危機に瀕していることを報じたドキュメントで、首都テレビ系列で放映されていた。最初、雪は、自分が出演したドキュメントやプロデューサーの大垣のことを懐かしく思いながら見ていた。ところが、番組が進むにつれて番組に引き込まれ、いつしか箸を持つ手が止まるようになっていた。取材陣は沖縄海洋大学と連携して珊瑚礁の現状をつぶさに取材していた。雪も珊瑚が減っていることはうろ覚えで知っていたがここまで危機に瀕していることは知らなかった。また、珊瑚と珊瑚礁の違いについてもよくわかっていなかった。珊瑚礁についてはまだまだわからない点も多く、大学関係者や水産関係者、そしてNPOなどが珊瑚礁を増やす活動を行ってもなかなか目立った成果を挙げることができずにいる、と番組は告げていた。また、観光開発や住宅地整備による海洋への影響を訴えても、日々の生活を営む人々には中々受け入れられない現実があることも紹介された。
休みの日、雪は海洋大学の藤原教授の所に顔を出してみた。
「先生、沖縄の珊瑚礁、そんなに酷いんですか?」
「おいおい、開口一番、そのことかい」
「あ、すみません。でも、先日首都テレビで放映された番組を見てから気になってしょうがなかったものですから」
「あはは、相変わらずだなぁ。学生の頃は大浦の姪だから、とみんなで言っていたが、今じゃ、いっぱしの有識者だな、海藤は」
「そんなことないです。私はただ珊瑚礁のことが気になって、、、」
「うん、そうだな。海藤、沖縄の珊瑚礁は、かなり深刻な状況だよ。今のままだと絶滅するのも時間の問題だよ」
「そんなに酷いんですか」
「まあ、これは沖縄だけでなく、世界中、至る所で起きていることだけどな」
「どうすれば絶滅しないようにできるんですか」
「今わかっていることは、珊瑚礁ができるまでには時間が掛かること。そして、珊瑚礁を形成する珊瑚には清らかで栄養豊富な海が必要なこと。それと、水温の上昇が珊瑚に悪影響を齎しているということ。大雑把に言うとそれくらいかな」
「そうすると、、、」
「そう、まずは綺麗で肥沃な海に戻すことが大事だよ。ほんの十年前までは、何もしなくても目の前の海は肥沃だった。しかし、今は、我々が手伝わないと維持できない海になってしまった」
「具体的にはどんなことをしているんですか」
「直接的なこととしては、余分な土砂の流入を極力少なくすること。これは、土砂が海底に積もって珊瑚を死滅させることを防ぐ効果がある」
「土砂ですか。どんなところから流れ込むんですか?」
「例えば土地の整備や護岸工事とかがある。川や海辺の護岸をコンクリートで固めると、元々そこにあった土砂は水の勢いで流されていく。そして、流れの弱い海底に堆積していく。これは沖縄に限らず、世界中のあちこちで起きていることだけど、マスコミは中々このことを報道しない」
「確かに私も先日のテレビを見るまで知りませんでした」
「これらのことは川の生態系にも影響を与えていて、川が弱っているとも言われている。そして、川が弱ることで海も弱っていく」
「海の肥沃さは海だけで成り立っているのではないんですね」
「そうだよ。他にも川の上流にある山の肥沃さも影響していることがわかってきている」
「山ですか」
「ああ、山の土が肥沃になり、そこを雨水が通り、川に流れ込む。その肥沃な養分を含んだ水が海に流れ込む。こうして近海の海は肥沃さを保ってきたと言われている」
「そう言えば、東日本大震災で牡蠣が全滅した後、森を豊かにすることが大事だというニュースが流れていました。その時はさらっと聞き流してしまったのですが、それも先生が言われたことと同じなんですね」
「そうだね。海を肥沃にするために森を肥沃にする活動は本土の方が進んでいるよ。既に効果を出し始めている地域もあるしね」
「へぇ、すごいですね。ただ、先生のお話は頭では理解できますが、実感が伴わないです。その成功事例、もっと詳しく知りたいです」
「あはは、君がそこまで興味を持ってくれると嬉しくなるね。確か、学生がまとめた資料があったから、それを後で送るよ」
「ありがとうございます」
「ただ、君みたいに素直に賛同してくれる人はまだまだ少ないのが実情だ。十年先のことを今から地道にやろうと言っても、道が遠すぎるからね。珊瑚礁を守るためにはこういった活動をもっと大きな流れにしなければいけないのだけど」
教授の一言が頭から離れなくなった。
次の休み、雪はNPO【美ら海スマイル】のオフィスを訪れた。代表の貝塚はやはり海洋大学を卒業した先輩だった。五歳上なのでキャンパスで一緒になることはなかったと思ったが、実際は遊びすぎて二年留年していた。一年間一緒の時を過ごしていたことは後で知ったことだった。
挨拶もそこそこに雪は核心に触れた。
「先輩、珊瑚礁を救える可能性ってどれくらいなんですか?」
「おいおい、いきなりかよ。確か、海藤さんって、大浦さんの姪っ子だったよな。大学の頃から一目置かれていたけど、今も変わらないみたいだな」
「すみません、回りくどいのって苦手なものですから」
「あはは、それはいいや。で、質問の答えだけど、かなり難しいと思うよ」
「え、でも、先輩を始め、多くの人が助けようと努力してるんですよね」
「そりゃ、色々とやってはいるよ。だけど、今、この沖縄の海で起きていることはいろんな面でとても大きくて、とてもじゃないけど個人の集まりくらいじゃ太刀打ちいかないと思うよ」
「それは、行政とか自治体とか公的な動きがいるということですか」
「察しがいいね。流石、大浦さんの姪っ子だけのことはあるな。今の状況を大きく変えるためには、法律、若しくはそれに準ずる規制が必要だよ」
「規制して強制的に変えていくということですか」
「言葉が少しきついかも知れないがそうだと思う。俺がこの活動を始めた三年前は、沖縄に住むひとりひとりが自分のできることをやればどうにかなると思っていたよ。だけど、個人のできることは、当たり前だけど、とても小さい。それでも百年、二百年といった時間を掛ければどうにかなるだろう。一方、今の珊瑚礁の状況は数年と言う短い期間で変えていかないといけない。そのためには、一気に変えるパワーが必要だよ」
「県や国はどう言ってるんですか?」
「ほとんど何も言わないし、やらないよ。逆に公共工事で更に悪化させているところもあるしね」
「そんな、沖縄に住む人が自分達で沖縄の海を破壊しているということですか?」
「残念だけどそういうことだよ」
「そういった人達が珊瑚礁の置かれている今の実態を知らないということはないんですか?」
「中にはそういう人もいるかも知れない。だけど、珊瑚礁が減っているという話はもう何年も前から言われているから、程度の差こそあれ、知らない人の方が少ないと思うよ。まあ、深刻さをきちんと把握している人はほぼいないだろうけどね」
雪は数少ない休みを美ら海スマイルの活動に充てるようになった。ビーチクリーンの企画を役所や学校に持ちかけたり、珊瑚の子供を括り付けたブロックを海に沈めたり、珊瑚礁の実情を伝えるための広報誌を作成したり、活動は多岐に渡った。休みの日だけでは時間が足りず、家でできる作業は美ら海の仕事が終わった後、夜遅くまでの時間を費やすようになった。それでも活動はなかなか前に進まなかった。美ら海スマイルの活動を始めてから半年ほどが過ぎたある日、雪は玄吉の家を訪ねた。
「お前、最近NPOに嵌っているそうだな?」
「え、何で知ってるの」
「相変わらずだなぁ。そんなこと、美ら海水族館のみんなが知っているよ。それで、どうだ?」
「え、何が?」
「何がじゃないよ。NPOの活動が上手くいかないから来たのだろ?」
「えっ、何でわかるの」
「雪ちゃん、玄さんはこのところ、美ら海水族館のことを放ったらかしにして珊瑚のことばかり調べているのよ」
「恵美ちゃん、放ったらかしになんてしてないよ。ほ、ほら、珊瑚だって美ら海水族館の大事な海洋生物のひとつだし」
「そうね、どうやればもっと多くの人が活動に参画してもらえるかを考えるのも、美ら海水族館の発展のためよね」
「う、恵美ちゃん、いじめないでくれよぉ」
雪は玄吉と恵美子のやさしさが心に染み込んでいくのを感じた。こうやって見守ってくれる人がいるのだから、弱音を吐くのはまだまだ早過ぎると思い直した。
「おじさん、それで妙案は出たの?」
雪は、活動を続けるにつれ、珊瑚礁を守っていくことの難しさが身に染みてわかってきた。だけど沖縄に生まれ育った者として、海洋生物をこよなく愛する者として、珊瑚礁を死滅させるわけにはいかない、とも思っていた。雪は悩んだ。今の自分は美ら海水族館の飼育員として働く傍らでNPO活動をしているが、そのことがとても中途半端なものに思えた。そんな曖昧なことで本当に珊瑚礁を救うことができるのか。一方、美ら海水族館の仕事はとても楽しく、やり甲斐もあり、まだまだやりたいことが沢山あった。悩みに悩んだ雪は玄吉に相談することにした。
「お前が決めることだよ」
素っ気ない一言だったが、玄吉らしいなと感じた。
翌日、雪は休みだったが美ら海水族館に出向き箭内の部屋を訪れた。
「箭内館長、今日はお願いがあってやって来ました」
「そうですか、やはり決断しましたか」
「えっ。ご存知だったのですか?」
「あなたがNPOの活動に取り組んでいることは美ら海水族館の全員が知っていますよ。それに、あなたの性格からして、中途半端なことはできないこともみんなが知っていることです」
「本当に申し訳ありません。箭内館長には大変お世話になって、色々な経験もさせていただき、これから美ら海水族館に貢献しなければいけないということは十分理解しているのですが、、、」
「あはは、そんな些末なことは気にしなくていいですよ。海藤君、私は美ら海水族館を通して、一人でも多くの人に海の生き物達に興味を持ってもらいたいと思っています。そのためにはスタッフのみなさんが海洋生物に興味を持ち、大事にする心が必要です。その心をあなたは人一倍持っている。そして、あなたの想いは周りのスタッフに伝わり、今では美ら海水族館のスタッフ全員が、とても大事なものを手に入れました」
「箭内館長、私はそんなこと考えたこともありません。ただ、美ら海水族館にいる生き物がとても愛おしくて、声を掛けてあげればちゃんと反応してくれる彼らが可愛くて、だから美ら海水族館を離れるのは、、、とても、とても、寂しくて、、、」
「海藤君、美ら海水族館を離れるなんて言わないで下さい。あなたはいつまでもこの美ら海水族館のスタッフです。私が館長でいるうちは勿論、私がいなくなってもあなたはこの美ら海水族館のスタッフです。いつでも好きな時に来て下さい」
「箭内館長、、、」
「海藤君、あなたに涙は似合わないですよ。いつもの笑顔でいきましょう!」
「は、はい」
「それと、これからは美ら海水族館にはいない理不尽な人達とも対峙しなければいけなくなります。それでも、美ら海水族館のみんなはいつもあなたの味方です。美ら海のように澄んだ心を忘れないで下さい。そうすればどんなに困難な時でもきっと切り抜けることができるはずです」
「箭内館長、ありがとうございます。それと、本当にお世話になりました」
雪は、箭内に向かって深々とお辞儀をしてから館長室を後にした。家に向かう途中、美ら海水族館が見える小高い丘に車を止めてしばらく眺めていた。開け放った窓から吹き込む風に乗って、沢山の人の顔が浮かんで来た。悲しいとは感じなかったが、気づくと、一筋、頬に流れるものがあった。雪が美ら海水族館で働くようになってから八年の歳月が流れていた。
「箭内館長、本当によろしいのですか。箭内館長は以前から彼女のようなスタッフがこの美ら海水族館の館長になるべきだと仰ってましたよね」
「そうですね。私は彼女の生き様が好きなのです。表現が適切じゃないかも知れませんが、子供のような無邪気さと、何ものに対しても常にストレートに向かっていくあの姿勢がこの水族館をもっともっとよくしてくれるものと思っています」
「それならもう少し違ったやり方を模索してもよろしいのではないですか」
「彼女に中途半端は似合いませんよ。それに、多分できないでしょう。あの子は常にひとつのことに集中して全力投球する。それでこそ海藤雪なのです」
「箭内館長は本当に彼女を買っているのですね」
「彼女はきっと帰ってきます。それまではもう少し私が頑張りますよ。私だって気持ちだけは彼女に負けないものを持っていますからね」
美ら海水族館のスタッフに惜しまれながらも雪は水族館を辞めた。そして、美ら海スマイルの一員として珊瑚礁を守る活動に没頭することになった。雪は水族館にいる頃から、珊瑚についてある程度の知識は持っていた。しかし、珊瑚礁を守るためには珊瑚のことだけでなく、珊瑚を取り巻く、多くのことについて知らなければいけなかった。雪はこれまでに築いてきたあらゆるチャネルを使って、多方面との連携を図ることにした。沖縄の珊瑚礁の状況を一番把握している海洋大学とは、藤原教授に頼み込んで美ら海スマイルと大学が定期的に会合を開いて情報交換を行う場を設けることになった。また、自治体に動いてもらうために、美ら海水族館の箭内館長を通して沖縄県議会の議員、佐々木エマを紹介してもらった。佐々木は三十代半ばで議員になったばかりの女性だと聞いた時、雪はちょっと心配になった。若手議員がこういった複雑な事案で協力することができるのか気に掛かった。
「初めまして、海藤です。この度はお忙しい中、お時間を取っていただきありがとうございます」
「こんにちは、佐々木です。そんな硬い挨拶はやめませんか。海藤さんのことは箭内館長から聞いていますよ。とても元気でまっすぐな方だと」
「箭内館長、そんな風に言ってたのですか。まあ、元気だけが取り柄みたいなところはあるんですけど、、、」
「うふふ、海藤さんが予想通りの人みたいでよかったわ」
「どういうことですか?」
「いえ、話の内容がナーバスなものだから、腹を割って話せるような人でないと難しいかなと思っていたの」
「それは私も感じています。この問題は、立場によってメリットとデメリットが混在しますし、そう簡単にはいかないんですよね」
「私は県議の中ではまだまだ若手ですし、実績もまだ少ないです。ただ、その分、中立のまま進んで行ける可能性はあると思っています。どんどんと使ってくれて構いませんよ」
「ありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいです」
エマは雪の相談に親身になって協力してくれた。最初は何から手をつければいいのか雪にもわからず、何度もエマに連絡を取った。その度、エマは嫌な顔もせずに、自らの意見も交えながら取るべき策について必死になって考えてくれた。
「珊瑚礁を守ることと人間が生きていくことは矛盾を孕んでいると思うんです。珊瑚礁にとってはこれまで通りの肥沃な海が必要だけど、人間が進歩していく過程では、どうしても自然の一部を破壊することになってしまいます。人間は次から次へと新しい技術や仕組みを考え出す生き物だし、それらが私達にもたらしてくれるものはとても大きいことです。だけど、その反面、自然を破壊することにも繋がっています」
「確かに相反することだけど、人間は愚かではないでしょう。珊瑚礁を残しつつ、自分達の生活をより良くする方法は必ずあるわ」
「そうですね。だけど、珊瑚礁は既に沖縄本島では絶滅寸前だし、沖縄の離島でも石垣島のように観光地化が進んでいる島ではものすごいスピードで減っています。このままではいずれ沖縄の珊瑚礁は絶滅します。その前に何とか手を打たなくては」
雪とエマは珊瑚礁を取り巻くあらゆることについて意見を交わした。特に沖縄の海が破壊される理由については、いろいろな立場の人の視点で物事を考えた。護岸工事による浅瀬の環境破壊は珊瑚にとっては脅威である。一方、工事関係者にとっては大きな収益になる。また、護岸工事がなされることで利便性が良くなったり、事故が減ったりといったメリットもある。リゾート開発も似た状況を生み出す。そして、リゾートの人気が高まることで観光客が増えれば、その分、地元が活気付き、潤うことになる。珊瑚礁が貴重なもので大事なものであることはわかっていても、多くの人は己の生活レベルを上げることを望む。海が壊れる理由のひとつとして、川の環境変化も見過ごすことができなかった。肥沃な山が川を元気にし、更に海を元気にする。しかし、山を開拓することは多くの人に恩恵をもたらすことができる。珊瑚礁を守るためにその恩恵を取り上げようとしても納得する人は僅かだろう。
沖縄の海が破壊される理由は様々で、どれを取っても、単純な解決方法はなかった。それでも二人は考えた。
「リゾート開発や山の開拓にしても、単純に止めるのではなく、海を守れるやり方にすればいいと思うんです」
「いいわね、それ。だけどどうやるの?」
「うーん、それがわからないんです。多分、いろんな方面から専門家を連れてきて、分野毎の基準みたいなものを定めることが必要なんだと思います。そして、その基準に照らして、バランスの取れた条例を定めることができればいいかも知れません」
「そうなると、やはり大きな流れにしないといけないわね」
「大きな流れ、ですか。それって自治体や行政に動いてもらうということですか?」
「ええ、条例を定めるのであれば沖縄県に了承してもらう必要があるし、各界から識者を集めるのも、NPO主導では限界があるでしょう?」
「そうですね。そのためにはどうすればいいですか?」
「まずは片っ端から当たって反応を見てみましょうか」
雪とエマは沖縄の珊瑚礁の現状を纏めたレポートを携え、地元選出の議員の元を訪れた。雪が必死になって現状の酷さを説明すると、議員はにこやかな笑顔で雪達の行動を褒め称えた。しかし、最後まで【協力する】という言葉は、その作られた笑顔から発せられることはなかった。二人目の議員も反応はほぼ同じだった。三人、四人、いくら回っても雪達が望む答えは返ってこなかった。それどころか、彼らはエマのいないところで平然と他の議員に否定的な見解を伝えていた。
「あんなところに首を突っ込んだら、たちまち経済界が混乱するに決まっている。青臭い旗を掲げて、若造がスタンドプレーでポイント稼ぎしようとしていることが見え見えだよ」
エマに伝わることを見越した発言は、思惑通りエマに近しい議員から届けられた。
「まあ、否定派だとは思っていたけど、こう明け透けに言われると反撃しちゃおうかしら」
「エマさん、意外と熱いんですね。まあ、そんな人達の相手をするより他の策を考える方が先ですよ」
「あはは、そうだね。これじゃ立場が逆だわ。雪さんが突っ走って、私が止める、そういう役割だと思っていたのに」
「え、それ、何か間違っていませんか?」
「まあまあ、ほら、次の策を考えましょう」
「・・・」
次の策を考えている時、首都テレビの大垣のことを思い出した。珊瑚礁の現状について首都テレビが放映した番組が大垣の企画かどうかはわからなかったが、困り果てた雪は大垣に相談することにした。アポも取らずに羽田行きの最終便に乗り、翌日、朝一番に首都テレビのオフィスを訪れた。
「いやぁ、いきなり尋ねてくるとは海藤さんもせっかちですね。僕があなたにテレビ出演をお願いしに行った時と同じですよ」
「唐突にすみません。昨日お電話したら外出されていて、今日は朝からオフィスに出社されるとのことでしたので、取る物も取り敢えず来てしまいました」
「大垣さん、今回はご無理を言って申し訳ありません。今、お話ししたように、地元の議員は中々動いてくれません。そこで、首都テレビでもう一度、番組で珊瑚礁を取り上げて貰えないでしょうか」
「海藤さん、お話は良くわかりました。あなたには以前番組に出ていただいたこともありますし、今回は何とか協力したいとは思います。ただ、珊瑚礁の現状については既に報道済みですから、今の状況をそのまま伝えるだけだとインパクトが足りないように感じます。上層部を説得するためにも他に何かないと難しいかと思います」
「そうですか。他に何かというのは視聴者に訴えることですよね。うーん、何かないかしら、、、」
「すみません、お役に立てなくて。海藤さんの心情はお察ししますが、メディアというのはそういうものだということをご理解頂ければと思います」
当てが外れた雪は朱里に連絡をした。突然の上京に驚いた朱里だったが、仕事を調整して夕食を共に取ることになった。
「何の準備もなく飛行機に乗るって何なの。私の都合が悪かったらどうするつもりだったの。もう少し冷静に考えなよ」
「ごめん、昨日はもうテンパっちゃって、とにかく大垣さんに話せばどうにかなるって思っちゃったんだ」
「もう、相変わらずねぇ。で、大垣さんは何か良い案を出してくれたの?」
「それが、何かプラスアルファがないと番組は難しいって。朱里、何かないかな?」
「何かって何よ。そんなの私にわかるわけ・・・。まあ、この話はちょっと置いといて、先にご飯食べようよ。私、もう、お腹すいちゃったよ」
食事の後、朱里の行きつけのお店で軽く飲むことにした。
「珊瑚礁がそんな状態になっているなんて、私も知らなかったよ。沖縄出身とは言え、こっちにいると沖縄の情報はなかなか入ってこないしね」
「そうなんだ。まあ、私もテレビで知ったくらいだからね。沖縄に住んでる人も、一体、どれくらいの人がこの状況に気づいていることやら」
「だけど、知ったからにはどうにかしたいね」
「でしょ!だから何か妙案を考え出して!!」
「そりゃ、できればそうしたいけど、珊瑚のことなんて何にも知らないしなぁ。水産学校でもあまり習わなかったよね?」
「そうだね。思い起こすと、水産高校はさておき、学校で海の生き物のことってあまり習わなかったね」
翌朝、出勤する朱里と別れた雪は、再び機上の人となった。窓から見える雲を見ながら珊瑚礁に想いを巡らせる。
珊瑚礁は一年や二年でできるものではない。成長するのに長い時間を必要とする。雪は自分達の視線が近視眼的になっているのではないかと考えた。確かに現状を改善するためには数年といったレンジで結果を出していかないといけないだろう。しかし、それはあくまでも珊瑚が育っていくために最低限必要なことに過ぎない。そして、そこから何年、何十年もの歳月を掛けて数多くの珊瑚が生きる海にしていくことができなければいけない。それは、一人の人間が生きていく過程だけではなく、次の世代、その次の世代へと引き継いでいけるものでなければならない。繰り返し繰り返し行われなければ、繰り返し・・・。
その時、前夜、朱里と話していたことが頭を過った。
【水産学校でもあまり習わなかったよね?】
【学校で海の生き物のことってあまり習わなかったね】
人は生まれて成長する。その過程で誰もが通るのは幼稚園、小学校、中学校、そして現代では高校への進学率も高い。
【そうだ学校だ!】
美ら海スマイルの事務所に戻った雪は、急いでエマに連絡を取った。
「エマさん、子供です。子供達に守ってもらいましょう!!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。子供って何?どういうこと?」
「沖縄条例を作って珊瑚礁を守ろうとしていますよね。その条例で子供達に必須の課外活動・授業をしてもらって珊瑚礁がある海の大事さを身をもって経験してもらうんです。そうすれば彼らが大人になってからも珊瑚礁を大事にしようという心が育まれると思うんです」
「いいわね、それ。子供の頃に覚えたことってなかなか忘れないし、効果的なんじゃない。その後、社会に出てからも活動を続けられる仕組みを作るのはどうかしら」
「あ、それいいですね。定期検診みたいに場を提供してあげれば、参加する人も増えるかも知れないですね」
「あと、自然を壊すことに対してペナルティを課すことも検討しない?ペナルティと言うと反感を買うかも知れないけど、自然に手を加える時の指針を作って条例にするという手もあるし」
「そうですね。確か、京都では昔ながらの景観を守るために建築物の高さ制限をしてますよね。それに倣って沖縄ならではのルールを作れば自然破壊に歯止めを掛けられそうです」
「自然破壊を食い止める指針には、海だけでなく、山や川なども含めるのよね?」
「そうですね、肥沃な山や川があってこそ海が豊かになりますから」
雪は、話をしつつも、この活動が軌道に乗るまでに十年掛かるのか二十年掛かるのか想像もつかなかった。ただ、今の子供達から始めれば、いつしか、沖縄の海が豊富な珊瑚礁で溢れるであろうことだけは確信できた。
珊瑚礁を守るには海の中だけではなく陸上の自然も重要になることは知られているが、海洋大学だけでは陸上の自然のことまで十分に調べることはできない。雪は沖縄の自然に詳しい人を探した。玄吉も研究者のネットワークを駆使して探してくれた。そして、いろいろとあたってみると琉球大学で地質学を研究している宮里という助手の名前に出会った。このとき何かを感じた雪はすぐに大学に会いに行った。すると出てきた相手は懐かしい仏頂面の崇宏だった。
「崇宏、こんな所で何やってるの」
「おいおい、開口一番それかよ。相変わらずだなぁ」
「あ、ごめん。でも、何でここにいるの?船に乗るんじゃなかったっけ?」
「ああ、そのつもりだったよ。実際、高校を卒業してから二年間は漁船に乗っていたよ」
「え、漁師になったんだ。でも何でここにいるの?」
「船に乗っていた頃に周りの漁師から、沖縄近海で獲れる魚の量が減ってきていることを聞いてさ、じいちゃんからも聞いていたから多少は知っていたのだけど、少し気になって調べ始めたのさ。最初は休みの日とかに調べていたのだけど、段々とハマりこんじゃってさ、気付いたら琉球大学に入って山の環境を学び始めていたよ」
「あはは、崇宏らしい。でも、周りから反対されなかったの?」
「いや、もう大変だよ。俺、卒業から一年で結婚したから嫁さんには泣かれるし、親父からは怒鳴られるし、もう散々だったよ」
「いやぁ、すごいねぇ。そこまでして勉強したかったんだ」
「いや、勉強と言うか、沖縄の魚が減っていくことが嫌だったよ。しかも、それが海のせいだけでなく、陸上にも原因があるとわかってからは、自分達が海を壊していると思うようになってさ。そうしたら、もう、どうにも気持ちを止められなくてさ。今思うと変な感じだけどな」
「へぇ、ここまでの道は違ったけど気持ちは同じだね」
「そう言えば雪は珊瑚礁のことでここに来たのだろ。美ら海水族館で珊瑚の飼育でもしているのか?」
「ううん、美ら海水族館は辞めたわ。今はNPOの専任スタッフとして珊瑚礁の再生活動を広めようとしてるの」
「そうか。それで、何で俺のとこへ?」
「うん、崇宏も知ってると思うけど、沖縄の珊瑚礁が素晴らしいのは沖縄の海が栄養豊富だったからだよね。だけど、今の海はどんどんと痩せ細って来ている。そして、その影響で珊瑚礁もどんどん減っている。場所によっては絶滅したところもあるくらいなの」
「え、そこまで酷いのか」
「そうなの。だけど沖縄のみんな、私もだけど、そのことに全然気づいていない。だから、そのことを多くの人に知ってもらいたい、と言うのが最初のきっかけよ。ほら、沖縄の海のことを大切に思って山の環境を学んでる崇宏でさえ、珊瑚礁の実態については気付いていなかったでしょ」
「珊瑚礁が減っていることは知っていたけど、そこまで酷いとは知らなかったよ」
「崇宏は沖縄の大地がどういう状態にあるのかわかる?」
「どういうこと?」
「珊瑚礁が減る原因のひとつに海の肥沃さが減っていることが指摘されているの。それは、海中のプランクトンに始まって、海藻や小魚、甲殻類や中型以上の魚、これらが繁殖することで取り戻せると言われてきた。だけど、近海の海辺では、海に流れ込む川の水の影響がとても大きい」
「そうだな、海に流れ込む川の水質は、川の上流にある森林などから流れ込む水の肥沃さに影響を受けることがわかっている」
「本土ではそのことにいち早く気付いて、漁業関係者が農林業関係者と一緒になって改善していると聞いたわ」
「それは俺も知っているよ。去年、岩手県まで視察にも行ってきた」
「どうだった?」
「うん、聞いていた以上にきちんとやっていたよ。職業の垣根どころか、関係するあらゆる人達が街ぐるみで活動していて驚いたよ」
「へぇ、ということは、この沖縄でもやれるわね」
「ああ、あそこまで辿り着くのは簡単ではなかったみたいだけど、できないことではないと思うよ」
「それで、沖縄の現状はどうなの?沖縄は小さい島だわ。少しでも気を許すと、あっという間に環境が悪くなってしまわないかしら」
「その通り。沖縄は人口こそ増えないものの、観光地の開発は後を絶たずに行われている。その結果、山が崩されたり、森や林が消失したりすることがあちこちで起きている。本島北部の森林地帯も、国道辺りから見る分にはそれほど感じないけど、川の水質調査を行うと明らかに養分が減ってきている箇所が出始めているよ」
「人の少ない北部でもそんなことが起きているんだ。それで、崇宏は何か手を打ってるの?」
「今は島のあちこちに観測点を設けて定期的に水質検査をしている。本島だけで三十箇所の観測点を設けた。半年に一回は検査するようにしている。とは言え、まだ二年目だけどね。あと、離島まではなかなか手が回らないけど、各島を一年に一回は検査しようと準備をしているところさ」
「それって素人でもできるの?」
「水質検査はちょっと難しいかな」
「だけど、各地点の水を採集してくることはできるわよね?」
「そうだな、少し注意はいるけど、大丈夫だと思うよ。何だ、雪がやってくれるのか?」
「私一人じゃ大したことはできないわよ。だけど、各地域の住民が手伝ってくれれば崇宏が検査に追われるほどに集まるんじゃないかしら」
「おぉ、そうなったらすごいな。だけど、そんなことできるのか?」
「そんなのやってみないとわからないわよ。だけど、沖縄の海が嫌いなウチナーンチュなんていないでしょ?ちゃんと説明すればきっと協力してくれるわよ」
「うん、確かにそうだな。その案が上手くいけば、次のステップに取りかかれるし、いいじゃないか。早くやろうぜ!」
「もう、相変わらずせっかちねぇ」
雪とエマと崇宏は、沖縄の海を守るための計画書を作成した。【美ら海を元気にするプロジェクト】と名付けられた計画書には、珊瑚礁を守ることだけでなく、いつまでも綺麗で元気な美ら海を次の世代に伝えていくことが大命題として掲げられた。そして、活動の中心は、いつの時代になっても子供達であることが記述された。
「元気な海って変じゃないかな」
「そんなことないよ。海の見た目が綺麗になってもそこに棲む生き物が元気じゃないと駄目でしょ?それって、海が元気と言ってもいいんじゃない?」
「うん、確かにそうだな」
三人は関係しそうなところを片っ端から訪れて賛同者を募った。議員からはあまりいい感触を得られていなかったことから、条例制定の提言をする前にある程度の流れを作っておきたかった。そのきっかけ作りのために、雪達は関係各所への働き掛けに奔走した。最初はエマが持つコネクションを頼りに出向いて行った。しかし、まだ議員としての経験が少ないエマが持つコネクションはあっという間に尽きた。教育委員会、観光協会、漁業組合、大学・高校・中学・小学校、各種地元メディアなど、コネクションを持たない雪達は、ほぼ飛び込みの状態でアポを取って出向いていった。対応してくれる担当者は概ね良好な反応を示してくれた。中には個人としてなら手伝いたいと言い、美ら海スマイルの活動に協力してくれる人も現れ始めた。ただ、そこから大きな流れに繋ぐまでにはなかなか至らなかった。
ある日、美ら海スマイルの事務所にエマがやってきた。議員活動が多忙になった彼女が事務所に来ることは珍しかった。
「珍しいですね、エマさんがここに来るなんて。何かあったんですか?」
「え、ううん、近くまで来たからたまには顔を出してみようかなと思って」
「何だか元気ないですね。議員のお仕事、大変なんですか」
「仕事自体はやり甲斐もあるし、楽しいわよ。だけどね、一人でできるものではないから、いろいろね、、、」
「やはり何かあったんですね。以前、中傷めいた話をしていた議員がまた何か言ってきたんですか?」
「まあ、それに近いかな。いえ、もっと厳しいかな」
「まさか、この活動を止めろ、とかですか」
「あはは、相変わらず勘がいいわね、雪さんは。私が参画している派閥は地元のゼネコン企業との繋がりが強いのね。例えば、勉強会と称して毎月会合を開いては情報交換や献金の相談をして、かなり密接に繋がっているの。その会合で、この活動のことが話題になってしまって、、、」
「そこで、企業の意向に沿うことを決めた、と言うことですか」
「ええ、普段は会合に出ない古参の議員がたまたま出席していて、鶴の一声で決まってしまったの。派閥に所属する議員はこの活動を一切支援しない、とね」
「それじゃぁ、エマさんはもう活動できないの?」
「公的には無理ね。まあ、派閥を離脱すればできるけど、ペエペエの私がそういった理由で離脱したら、多分、もう議員としての芽はなくなると思う」
「そんな、、、議員はあくまでも個人の思想とか意思を以って活動するんじゃないんですか」
「基本的にはそうよ。だけど、議会が多数決で物事を進めていく限り、より大きな徒党を組むことが政策実現の近道なの。個人的にはこれからも応援していきたいけど、議員の公私って曖昧なのよね。下手に私が動くと、そのことをきっかけにして活動自体を潰しにかかる輩が出ないとも限らないし」
「えぇ、そんなことするんですか。私達の活動ってそんなに邪魔なんですか」
「一部の、目先のことしか考えない人達にとっては面白くないでしょうね。まあ、人数はそれほど多くないだろうから、下手に刺激しなければいいと思うけどね」
「でも困りましたね。エマさんには条例制定を提言してもらう際の主要メンバーになってもらうはずだったのに、、、」
「ごめんね」
「いえ、エマさんのせいではないですから。それに、以前、議員さん達に会った時の反応からある程度予想されたことでもありますから」
徐々に賛同者が増えるものの大きな動きにはなかなかならない。そんな時に生じたエマの事実上の離脱は雪に大きな衝撃を与えた。一緒に活動している崇宏は雪が挫折してしまうのではないかと危惧した。しかし、雪は己を鼓舞して、あきらめずに活動を続けた。そんな時、久し振りに朱里が沖縄に帰って来た。
「もうやめちゃおうかな」
「あら、珍しいね、雪が愚痴をこぼすなんて」
「今回は流石に参ったわ。一番頼りにしていたエマさんが抜けたら、誰に条例制定を主導してもらえばいいのやら、、、」
あまりにも大きな壁に戸惑う雪の様子をみて朱里が何の衒いもなく言った。
「いっそ、雪が議員になって条例制定を提言してみたら?」
「えっ、私が?」
「だって、雪の話だと、県議会で賛同してくれる議員さんがいないんでしょ?だったら自分でやるしかないじゃん。昔から雪はそういう風に考えるタイプだったよね」
「え、まあ、確かに、誰もやらないとか、自分でやったほうが近道だと思った時は率先してやってきたけど、でも、こればかりは無理でしょう」
「ん、今までと何か違うの?」
「え、それは、、、」
朱里と別れて家に帰った雪は、床についてもなかなか寝付けなかった。朱里に言われた一言が幾度も幾度も頭の中をかけ巡っていた。
翌日、雪は玄吉の家に向かった。
「いらっしゃい、雪ちゃん。久し振りね」
「恵美子さん、ご無沙汰です。おじさんいます?」
「あら、また何か悩みごと?」
「えっ」
「玄さん、ちょっと買い物に出ているけど、すぐに帰ってくると思うよ。上がって待っていて」
恵美子に見透かされたら、何だか心が少し軽くなった。そのせいか、ここに来るまでは何と話したらいいのか悩んでいたが、ありのままに話そうという気になった。暫くして帰ってきた玄吉に事情を説明した。
「そんなの無理だよね?」
「いいじゃないか、面白そうだし、やってみろよ?」
「え、味方もいない、ズブの素人が議員になるだけでも大変なのに、その上、条例制定を提言するんだよ。本当にできると思ってるの?」
「できるかどうかはやってみなけりゃわからないだろ。それよりも、今の活動を進めるためには必要じゃないのか、その条例とやらが」
「そ、それはそうだけど、、、」
「お前、何のために美ら海水族館をやめてNPOの活動を始めた?単なる趣味か?」
「違うよ。私は沖縄の海をウチナーンチュみんなで守りたいだけだよ。趣味なんかじゃないよ」
「そうだよな、それなら誰かがやらなきゃならない。それをたまたまお前が先頭に立つだけのことじゃないか。誰もひとりでやれなんて言わないさ」
「ひとりじゃない?」
「いくら高名な議員だってひとりじゃ大したことはできないよ。ましてやお前が議員になったところで、ひとりじゃ何もできないさ。だけど、お前の周りには助けてくれる人が沢山いるだろ?」
「助けてくれる人、、、」
「まあ、一回目で当選するとも思えんけどな」
「え、えー、そんなぁ。それじゃぁ、どうすればいいの?」
「知らん、そんなの自分で考えろ」
「こら、玄さん。雪ちゃんに冷たくすると晩酌のお酒減らしちゃうぞ」
「え、恵美ちゃん、そんな殺生な、、、。わかったよ、ちゃんと考えるから、、、」
「あはは、恵美子さん、益々強くなってきたね」
雪は近しい人に集まってもらって美ら海スマイルから議員を輩出することについて話をした。自分が立候補するのは役不足だが、仲間の中から輩出していくのはひとつの方法なのではないか、雪は美ら海スマイルのメンバーや応援してくれている知人達に問い掛けた。
「私達の美ら海スマイルを母体にして選挙に臨むんです。今の状況はまだまだ草の根の域を脱していませんが、支援者は確実に増えています。そういった人達をもっと増やして、沖縄県議会に働き掛けるんです」
「うん、大きな流れにしていくためにもいいじゃないか。それで、誰が立候補する?」
「やはり、そこは代表の貝塚さんが適任じゃないかと思います」
「俺は向かないよ。とりあえず代表を名乗ってはいるけど、大局を見るとか、人を惹きつけて引っ張るとかってタイプじゃないし」
「海藤君が出たらどうだい。君なら馬力もあるし、人を惹きつけて引っ張り込むのも得意そうだし」
「藤原先生、私、そんなタイプですか?自分じゃそんな風に思ったことないですよ」
「あはは、海藤君らしいな。君はそう思うかも知れないが、事実、こうやって君の周りには人が集まって来ているじゃないか」
「そうですね、雪さんなら子供みたいに純な気持ちを持っているから、地元のおじいやおばあにも受けが良さそうだし。その世代からの票が集まるかも知れないわ」
「エマさん、それどういう意味ですか?私が子供っぽいってことですか?」
「うーん、確かにそういう面もあるかも」
「えー、何だか微妙だなぁ」
「まあ、お菓子を買ってもらえるまで粘るようなとこもあるしな」
「え、崇宏までそんなこと言うの。もう、いい加減にしてよ」
「あはは、悪い悪い。でも、マジな話、海藤が出馬することには賛成だよ。俺は漁業関係や大学関係で協力してくれる人を集めてくるよ」
「大学関係なら私も協力しますよ」
「藤原先生、ありがとうございます」
「それじゃ、選挙に向けて戦略を練らないといけないわね。沖縄は保守的な地盤だから、新しいことをやろうとすると大抵、強い抵抗にあうのよね」
「美ら海水族館が全面的に支援できれば良いのですが、施設の性格上、あまり偏ったことはできないのです」
「箭内館長、お気持ちだけで十分です。美ら海水族館のみなさんにはいつも沢山の元気と勇気をもらっていますから」
「直接の支援は難しいですが、地元の子供達が訪れる際には、今まで以上に美ら海を大事にしていくことを伝えていきますよ」
「箭内館長、ありがとうございます。条例の制定も大事ですが、それよりも沖縄の子供達に美ら海を大事にしていく心をもってもらうことのほうが、何倍も何十倍も大事だと思います。そのことを美ら海水族館を通して伝えてもらえるというのはとても嬉しいことです」
エマを除けば素人の集まりだったが、雪達はいろいろと考え、地道に普及・啓蒙を続けた。これまでは海の大事さだけを説いて回っていたが、選挙に向け、条例を制定していくことも伝えるようにした。そして、次の選挙戦に雪がプロジェクトの代表として立候補した。しかし、結果は惨敗だった。有権者が日々の暮らしを優先した結果であり、落選自体はある程度想定されたことではあった。ただ、ここまでの大差で敗れるとは陣営の誰もが想像だにしないことだった。反省会を兼ねて次への対策を検討する場は自ずと盛り上がりに欠けるものになった。
「やはり美ら海のことばかりでは説得力に欠けるんですね」
「そうだね、有権者にとっては基地の問題や雇用の問題など、目の前の課題の方が気になるからね」
「でも、今の私じゃ、そういった問題にどう立ち向かうべきとか言えないです」
「うーん、困ったな」
そこにエマが顔を出した。エマは派閥の方針で美ら海スマイルの活動から離れていたが、方針が決まる前に関わっていたことを面白く感じていない議員がエマに何かと無理難題を押し付け、ついには派閥から離脱させてしまっていた。その結果、エマもまた、今回の選挙で当選を果たすことができなかった。
「エマさん、派閥離脱になってしまって本当に申し訳ありませんでした」
「雪さん、もうそのことはいいってば。それに、派閥を離れた後、少しの期間だったけど、改めて議会のことがよく見えたしね。今思うと、派閥に属したまま、思いっきり抵抗しても良かったのかなって考えるようにもなったし」
「でも、その結果、議員を辞めることになってしまったし」
「今回の選挙で落選したのはあくまでも私の力が及ばなかっただけ。派閥を離れたこととは関係ないわ。それよりも、今日は朗報を持ってきたの」
「朗報?何があったんです?」
「県議会の議員の中に私達の活動に興味を持つ人が現れ始めたのよ」
「え、以前回った時はつれない返事ばかりだったのに、どうして今頃」
「あの時はベテラン議員を中心に回ったでしょ。だけど、今回興味を持ってくれたのは若手から中堅の人なの。とりあえず三人から今の状況を聞かれたわ」
「それで、協力してもらえるの?」
「確約を得たわけではないけど、前向きに関わってくれると言っているわ」
「よし、キタァ!」
「崇宏、ビックリさせないでよ」
「あはは、悪い悪い。つい嬉しくて」
「確かに嬉しいですね。今回の選挙も落選したとはいえ、漁業関係者を中心に好感触を得た人達が一定数いましたからね。確実に前進していますよ」
「藤原先生、そうですよね。ウチナーンチュの人達ならきっとわかってくれますよね。うーん、何だかちょっと元気が出て来たぞぉ」
選挙に敗れた雪達は、条例制定を公に提言する場を得ることはできなかった。しかし、活動を後押ししてくれる仲間が確実に増えているという実感を持つことができた。そして、そのことは活動を推進していく上で大きな力となり始めていた。
雪はそれまで以上に関係者の説得に奔走した。なかでも、恩納村には足繁く通うようになった。恩納村は沖縄本島の中でも海の観光に力を入れている地域だった。村民の大半が何らかの形で観光に関わっており、彼らの意識を知ることも重要と考えていた。海沿いに建つリゾートホテルやペンションなど、県外からの観光客を相手にしている人達が海の保全についてどう考えているのかを知りたいと思い、彼らの意見を聞いて回った。ある日、長年、ペンションを経営している池田に話を聞く機会があった。
「そうだねぇ、俺は二十年前に大阪からこっちに移住してきたから、美ら海と言われても、昔のことはわからないよ」
「移住してきてから今に至るまでの海はどうですか?」
「そうだなぁ、変わったと言われれば変わったような、変わっていないと言われれば変わっていないような、、、。ごめんね、毎日こうやって海を見ているのにね、意外とわからないものだね」
「そうですか。ただ、詳細に見ていくと、この恩納村でも確実に海が変化しているんです。今からでもその変化を止めないと、この先、美ら海と呼べなくなってしまう日が来ないとも限らないんです」
「うーん、それは困るね。ただ、言葉ではわかるけど、今ひとつピンと来ないと言うのが本音かな」
「そうですか」
「あ、そうだ。この先にある第一小学校の校長に会ってみたら?確か、あの人は恩納村で生まれ育ったはずだから、俺なんかより美ら海のことがわかると思うよ」
「ありがとうございます!」
すぐに連絡を取り、後日、改めて、恩納村第一小学校の島袋校長に会う機会を得た。
「この活動は一過性のものではなく、何年、何十年、いえ、未来永劫に亘って続けていかなければなりません。その為には、伝承していくことが当たり前という文化にしないといけないと考えています」
「随分と壮大な話ですな」
「島袋先生、そんな大掛かりなことをしようというわけではないんです。海を大事にする。その為に守らなければいけないことが何なのか。このことを子供達に知ってもらい、大人になったら彼らの子供達にそれを伝える。それだけです」
「どうやって子供達に学んでもらうのかな」
「ゆくゆくは県の条例に定めて、沖縄の小中学校で授業に取り込んでもらうことを考えています。そのための試行を先生の学校でやっていただけないでしょうか」
「具体的に何をするのかな」
「ここにいくつかのプランをお持ちしました」
雪が広げた模造紙には美ら海の大切さ、その美ら海を守る為にすべきことが描かれていた。子供達に説明し、学び、体験するためのプランがビッシリと描かれていた。
「あはは、海藤さん、あなた、面白いこと考えますね。私はこういうの、大好きですよ。面白そうじゃないですか」
熱く語る雪の横で、エマは自分の進む方向が見えたように感じた。先の選挙で敗れたエマは、つい今しがたまで、モヤモヤしながらも次の選挙で再度立候補をして議員になるつもりでいた。しかし、今は、隣に座る熱い心の持ち主を県議会に送り込み、条例制定の先鞭をつけることに全精力を傾ける決心のようなものが心を占めていた。
「島袋先生、是非ともやりましょう!!ウチナーンチュの子供達に美ら海の大切さ、美ら海の素晴らしさをもっともっと知ってもらいましょう!!」
エマの勢いに一瞬驚いた雪だったが、すぐに気を取り直して、今度は二人で島袋校長に熱い言葉を語り続けた。
「いやぁ、参ったなぁ。おふたりにここまで熱く語られたら、子供達の多感な時を一緒に過ごす私が率先しないわけにはいかないですなぁ」
「島袋先生、それでは」
「先日連絡をいただいた後、池田さんと少し話をしました。そして、改めて美ら海のことを考えてみました。私が子供の頃に遊んでいた海と、今の子供達が遊んでいる海と、何がどう違っているのかなってね。だけどね、私はもう何年も海で遊んでいないことに気がついたのです。そんな私には、今の海が昔とどう違うのかわからないのですよ。海藤さん、佐々木さん、私に今の美ら海がどうなっているのか教えてください。そこから始めさせてください」
「島袋先生、ありがとうございます。よろしくお願い致します」
恩納村第一小学校で始まった取り組みは、子供達に美ら海の大切さを説明することから始められた。幼い子供にもわかるよう、お手製の紙芝居を用意して、子供の目線になって行う説明は子供達の心に響いていった。
「お姉ちゃん、海はとても綺麗だよ。僕、海の中で目を開けたら綺麗なお魚が沢山いたよ」
「そっか、和也君は海の中で目を開けられるんだ。すごいねぇ。ねえ、和也君。そこで見た綺麗なお魚が減ってしまったらどう思う?」
「えー、そんなの嫌だ。僕、もっと沢山の綺麗なお魚を見る」
「そうだよね、嫌だよね。だけどね、今、沖縄の海のお魚達はとても困っているの。そして、このまま放っておくと綺麗なお魚が減ってしまうの」
「えー、だめだよ、そんなの。お魚さん達が困っているんなら、僕が助けてあげるよ」
「えらいねー、和也君。それじゃぁ、みんなでお魚さん達を助けてあげようか」
「うん!」
「お魚さん達を助けてあげると、綺麗なお魚さんがもっともっと沢山見ることができるようになるよ」
「本当?それじゃ、僕、沢山頑張るよ」
雪が学校を回る一方、エマは若手から中堅の議員に改めて働きかけていった。すると、観光協会との間にパイプを持つ内山がエマの話に興味を持った。
「佐々木さん、その話、お手伝いできるかもしれません。僕の知り合いに恩納村観光協会の理事がいるので、彼にお願いすれば協力してもらえるかも知れないですよ」
「内山さん、本当ですか。それはとてもありがたいです。だけど、観光協会だと海を綺麗にしていくことも大事だけど、観光の為に開発しなければいけないこともあるし、全面協力と言うのは難しくないですか」
「確かにそういう面はあります。だけど、彼はできるだけ自然な形の沖縄をアピールしたいという想いが強いのです。だから、佐々木さん達の活動には全面的に協力してくれると思いますよ」
「それは心強いです。ただ、沖縄県には観光協会がたくさんありますよね。これまでに幾つかの協会と話してきましたが、結構、温度差があるように感じました。その辺はどうなりますか」
「知り合い、石嶺さんと言うのですが、彼は観光協会連絡協議会という会議の議長もやっています。彼から他の観光協会に話を通してもらうことは可能だと思いますよ」
「そうすると、是が非でも石嶺さんに賛同してもらわないといけないですね」
エマと雪は恩納村観光協会を訪れ、理事の石嶺に会った。挨拶もそこそこに、いつものように雪が単刀直入に切り出した。
「石嶺さん、観光協会全体でご協力いただくことは可能でしょうか」
「海藤さん、いきなりそう言われても答えられないですよ。まあ、内山さんに聞いた限りではとてもいいお話だとは思っていますがね」
「すみません、海藤はとてもせっかちな性格なものですから。ただ、想いはメンバーの中でも一番強いです。なので、ついつい先走りしてしまって、、、」
「あはは、こういった活動には必要なタイプの人ですね。そう言えば、島袋校長と一緒に活動されているそうですね」
「ええ、島袋先生には色々とご配慮いただいて、子供達向けの活動に取り組ませて貰っています」
「そうみたいですね。内山さんから話を聞いた後に、彼と飲む機会があって少し話をしました。海藤さんの話題で盛り上がりましたよ」
「え、私ですか。私、島袋先生に変なことでも言っちゃったのかな」
「いやいや、そう言うことではなく、熱いハートを持ったヤンチャなお嬢さんが来られたよ、ってね」
「え、それって・・・」
「あはは、彼、あなたのことを褒めていましたよ。いつもは俺が先頭に立って走るのに、今回はお嬢さんに引っ張られて、追い掛けるのに精一杯だよと笑っていました」
「そんなことを。お恥ずかしい次第です」
「いえいえ、ところで、この活動はウチナーンチュだけで進めていくのですか?」
「子供達を中心とした啓蒙や体験会などはそのつもりでいます」
「県外から観光に訪れる人達にもアピールして協力してもらうのはどうですか?」
「観光客のみなさんに、ですか?」
「ええ、そうです。沖縄を訪れる観光客は沖縄の自然が大好きという人が多いのです。だから、この自然をもっともっと良いものにしていくことには積極的に関与してくれると思いますよ」
「それ、いいですね。観光客のみなさんに参加してもらう活動を、ウチナーンチュの子供からお年寄りまで、みんなでお世話する。そうやって美ら海の大切さを覚えていく。是非やりましょう」
「海藤さんは本当に美ら海が好きなのですね。私も仕事柄、美ら海は大好きですが、あなたにはとても叶いそうにないですよ」
恩納村観光協会の協力は効果的だった。今まではイベントを開催するにしても個別に交渉して行うだけだったが、観光協会の協力により、ひとつのイベントを異なる場所で同時に企画・開催することができるようになった。石嶺は近隣の観光協会にも声を掛けてくれ、雪達が活動の趣旨を説明する場にも同席してくれた。その場で、石嶺が恩納村での活動について話すことで、話はスムースに進んだ。こうして広がりを見せ始めた活動は、小さいながらも沖縄本島の各地で行われるようになっていった。すると、それまで様子を見ていた古参議員が活動を肯定するケースが出始めた。特に、地元のテレビに取り上げられたことをきっかけに首都テレビから報道の打診があったことが伝わると、否定的なコメントを発していた議員までがなんだかんだと理由を付けつつも推進派に方針転換をした。エマからこの話を聞いた雪達は苦笑するしかなかった。
「大垣さん、今回は私達の活動を取り上げてくれてありがとうございました」
「いやいや、今回の報道に僕は絡んでいないから、お礼を言われるような立場じゃないよ」
「あら、先日打ち合わせに来られた担当の方が言ってましたよ。今回の件は、大垣さんが上手く根回ししてくれたって」
「わしゃ何も知らんよ」
茶目っ気たっぷりに話す大垣に雪は感謝の念を抑えることができなかった。
番組はドキュメンタリーでありながらも中高生に人気の歌手グループを出演させることで十代の視聴者に訴えかけることを狙っていた。大垣が雪の夢を聞いたうえでの発案だったことは、後日、担当者から聞かされた。
【大垣さんには一生頭が上がらないな。】
「番組を放映すると同時に、今やっている体験活動を一気に拡大してみたらどうだい。エコに力を入れている企業とタイアップすれば費用面でもどうにかなると思うよ。先日、たまたまエネエーシー社の役員に会った時にあなた達のことを伝えたら興味深そうに聞いていたよ」
「え、あの大手の会社が、ですか」
「そうだよ。珊瑚礁を守るための体験活動に多くの子供達に参加してもらっていると伝えたらいろいろと質問されて困っちゃったよ」
雪は大垣に紹介してもらったエネエーシー社と話をするべく東京に向かった。通された応接室に現れたのは、物腰の柔らかそうな男で、広報担当課長の広瀬と名乗った。雪は広瀬にこれまでの活動やこれからの取り組みについて、いつもと変わりなく、熱心に説明した。広瀬は雪の話をじっくりと最後まで聞いてから口を開いた。
「とても興味深い話ですね。是非とも検討させてください」
「それじゃ、協力していただけるのですか」
「最終的には役員の承認が必要ですが、社長からは前向きに検討しろと指示を受けていますから、多分大丈夫だと思いますよ」
「ありがとうございます」
「社長はこの会社が小さい頃から、環境には人一倍気をつけてきたのです。その影響もあって、社員はみんな、環境問題には敏感なのです」
「そうなんですか、私、勉強不足で知りませんでした」
「そうそう、私が入社した時なんて面接でいきなり、【君は地球で起きている環境問題で何が一番気になりますか?】と質問されて困ってしまいましたよ」
屈託なく笑う広瀬を見て、雪はこの会社が大きな推進力を生み出してくれることを確信した。
首都テレビの番組は雪を前面に押し出しており、意図せず、次の選挙への足掛かりになった。同時に雪達が進めている活動の先にある夢を伝えるものとなっていた。番組の反響は大きかった。放映後、マスコミ各社から美ら海スマイルに対し、取材申し入れの連絡が後を絶たなかった。
「いやぁ、参ったよ。事務所をちょっと無人にすると留守電に何本も取材申し込みのメッセージが入っているのだから」
「あら、でも先週からエマさんが事務所に来てくれて一緒に対応してくれてるんじゃないんですか」
「そうそう、エマさんが来てくれて本当に助かっているよ」
「先輩、実はエマさんが側にいてくれることを楽しんでたりして」
「ば、ばか、変なことを言うな。エマさんに失礼だろうが」
「あれ、エマさん、顔が紅いですよ。ふーん、さては、、、」
「ゆ、雪ちゃん、紅くなんてなっていないわよ。別に私達はそんなんじゃ、、、」
「ふーん、いいなぁ。エマさんも、恵美子さんも、、、私にもいい人現れないかなぁー」
「いい人って、、、そんなことより今は、雪ちゃんを先頭に、みんなでこの勢いに乗ることの方が大事なんじゃないかしら。とても大きなチャンスだと思うわよ」
「そうですね。先輩のにやけ顔をからかってる場合じゃないですね」
「なにぃー、にやけ顏なんてしてないぞ」
「あらやだ、貝塚さん本当ににやけていますよ。そんなことより、今はとにかく必死に前進する時ですよ。みんなで力を合わせて行きましょう!」
「うっ、エマさんまで、、、」
「アハハ、沖縄は女性が逞しいですね。さあ、この勢いで一気に活動の枠を広めましょう!」
番組の影響はマスコミだけではなかった。番組をみた有名タレントが、興味をもってあちこちで活動の紹介をしてくれた。それはテレビやラジオといったマスメディアの場であったり、SNSだったりした。その結果、雪達の活動は口コミでも広まり、いまや沖縄だけでなく全国的に知れ渡るようになっていた。
ある日、何度か話を聞いてもらったことのある県議、飯沢が美ら海スマイルの事務所を訪れた。以前説明をした時には活動に賛同してくれるのか、協力してくれるのか、態度を明確にすることはなかった。エマの話では、飯沢は少規模の派閥ながら那覇市議会に強いパイプを持っており、味方にすればとても大きな力を発揮してくれるとのことだった。一方、敵に回せば厄介なことにもなり兼ねない存在だった。そんな彼の突然の訪問が何をもたらすのか、雪は緊張しながら飯沢の前に腰を下ろした。
「今日お伺いしたのは、以前お聞きした条例制定のことを確認させていただくためです」
「えっ、条例ですか」
「ええ、先日、那覇市議会のメンバーと会食をした際に海藤さん達が取り組んでいる活動の話が出ましてね。それを聞いた市長がいたく感心されて、那覇市議会全体で協力していこうじゃないかということになりました」
「那覇市議会が全面的に協力してくれるのですか」
「ええ、那覇市議会は沖縄県議会と違って、ほぼ全派閥がこの活動に肯定的です。条例制定は県議会で行われますが、沖縄県議会の各派閥と那覇市議会は密接な繋がりがありますから、その関係を利用して支援できるのではないかと考えています」
「それはとても心強いです」
「並行して県議会内に推進派グループを作る予定です。ところで、条例制定の準備はどんな状況でしょうか」
「それが、活動を周知してもらうことで精一杯の状況でして、条例制定には手がついていないです。すみません」
「いえいえ、最近のみなさんの活躍ぶりがあちこちから伝わってきて、頑張っているなと思っていたところです。我々としてもできる限りのことはしていきたいと考えています。お忙しいとは思いますが、先日お聞きした珊瑚礁再生・保全の計画を早急にまとめていただくことはできませんか。そのプランがあれば、それを基に我々が条例の形にして、議会に諮っていくこともできますよ」
淡々と話す飯沢自身がどう思っているのかは最後までわからなかった。これまでに出会った議員達のことを思い出すと、飯沢を全面的に信じて良いのか判断することが難しかった。議員には表と裏の顔があり、そう簡単に裏の顔を見ることはできない。それが雪の心中に形成された議員像だった。それでも、条例制定に向けた第一歩を踏み出せることはとても大きな一歩であり、何よりも、その一歩を踏み出せることがとても嬉しかった。雪は飯沢を信頼することにした。
雪は翌日からこれまでの計画の見直しに取り掛かった。選挙に敗れてから地道に進めてきた活動では色々なことが見えてきていた。例えば、観光客のように県外の人が活動に参画する際の費用負担をどうするかとか、小学校と中学校・高校の連携をどうするかとか、複数の自治体が合同で活動する際の進め方とか、細かいことまで含めるとキリがなかった。雪はこれらのことを整理して、新しい計画を作り上げた。
雪達がまとめたプランを元にした条例を県議会に諮るべく、飯沢は水面下でネゴシエーションを開始した。すると多くの議員は好意的に受け止めてくれた。ところが、間接的に話を聞いた議員の所属する派閥が反対派に回った。その派閥は沖縄のゼネコン企業を後ろ盾にしている、エマの議員生命を奪った彼らだった。彼らにとって、自然の保護は生活を脅かす要因にもなりかねない。ただ、真っ向から異を唱えれば逆に自分達のイメージを損ない兼ねない。彼らは慎重に、イメージは損なわないように、けれど条例制定には賛同しない方針を打ち立てた。
方針が決まると反対派は早速行動を開始した。派閥の中でも教育委員会に強い影響力を持つ議員、高橋が、委員会の力を利用して各所にプレッシャーを掛けるよう、あちらこちらで示唆し始めた。そして、その影響は多くの議員に及んだ。少子高齢化の進んだ沖縄では、議員の主張はどうしても高齢者と子供に関するものが多くなる。中でも、少子化問題は沖縄の将来を左右するものであり、県民の関心も高く、必然的に議員の主張はそこにフォーカスされる。そこに教育委員会からの横槍が入るのは、議員としては避けたいと考えるのは仕方のないことだった。こうして、教育委員会のプレッシャーを受けた、賛否を明らかにしていない議員が消極的になっていった。その結果、議会での審議はなかなか捗らなかった。推進派の議員達も、微妙な問題を孕んでいることから、明らさまに押し切ることができなかった。
雪達の考えでは、子供達の心の中に文化を醸成していくために、関係する諸機関の賛同・協力は必須だった。ここで教育委員会と対立してしまったら、仮に条例が制定されても活動に支障を来すであろうことは火を見るよりも明らかだった。これまでの活動を振り返っても、子供達は条例の中心にいるべき存在だった。肝心の子供達を引きずり込めなければ、仮に条例が制定されても、その成功は望めないと雪は考えた。しかし、妙案が生まれるでもなく事態は膠着したままだった。悩んだ雪は久し振りに玄吉の家を訪れた。
世間話のように話す雪に玄吉は言った。
「そいつは沖縄生まれじゃないのか?沖縄の海が好きじゃないのか?」
雪は直接、高橋と話をするべきだと考えた。反対派として行動する思考が個人によるものなのか、派閥によるものなのか、その違いを知った上で対策を講じた方が良いと感じたのである。その違いを知ることが簡単ではないことはわかっていたが、この時は会わなければいけないという想いが強かった。アポも取らずに事務所に出向くと、こちらの素性を確認された途端、用件も聞かずに門前払いをされてしまった。それでも諦めずに何度か通うと、ようやっと会うことができた。
「あなたは沖縄の海が好きではないのですか?」
「沖縄生まれで沖縄の海が嫌いな奴がいるとしたら、そいつはどうしようもない阿呆か、優秀過ぎて誰とも会話することができないくずだ」
「それじゃあ、、、」
「早合点するな。理想と現実は別物だ。沖縄の人達の生活をどうするつもりだ。日本の中でも経済レベルの低い、給与水準の低い沖縄県民の生活をどうするつもりだ。沖縄は観光で成り立っていることは知っているだろ。しかも、その大半は海が舞台だ。その海を活用することができなくなったら島民の生活に大打撃を与えることくらいあんたにだってわかるだろう」
「それはそうですが、、、。でも、沖縄の海が壊れてしまったら、観光も成り立たなくなります」
「そんなことは言われなくてもわかっている。県民の暮らしも大事だし沖縄が誇る自然も大事だ。それを一方的な発想だけで物事を進めようとする奴らを私は許さない。中にはどうしようもない金の権化のような阿呆な議員がいるのも事実だ。だが県議の大半はこの沖縄を大事にしようと頑張っている。そのことをわかった上で動いて発言するのが議員のあるべき姿だと私は思っている」
雪は一瞬、言葉を失った。これまでも雪は県民の暮らしに十分注意を払って活動してきた。しかし、端から見ると自然保護を優先させているように見られていたのかも知れない。雪達が描いたプランにそういった面が垣間見られたのではないか。知らず知らずのうちに自分達が絶対的に正しい、そんな気持ちになっていなかったか。その思いが雪の張り詰めた糸を何本か断ち切った。しょげ返る雪をみて落ち着きを取り戻した高橋が言葉を繋いだ。
「少し言い過ぎたかも知れん」
「いいえ、確かに仰るとおりです。ただ、人間は自分達の意志で今の生活を作り上げてきましたし、これからも自分達の意志で生活を変えていくことができます。だけど珊瑚礁は、沖縄の自然は、自分達の意志で変えることはできません。人間がどう働きかけるかでこの先のことが決まっていくのです。それだけは忘れてはいけないのではないかと思います」
雪が言えたのはそれだけだった。
一週間、雪は何度も高橋の言葉を反芻した。そして、その度に心の底に澱が溜まっていくのを感じた。県民の暮らしが大事なことは改めて言わなくてもわかっている。しかし、県民の暮らしを優先しながら、かつ、珊瑚礁の生育環境を以前のものに戻していくことが本当にできるのだろうか。思考は何度も何度も空回りするばかりだった。そんな時、飯沢が美ら海スマイルの事務所に顔を出した。
「海藤さん、条例を正式に提案します」
「え、でも反対派の動きが収まっていないのではないですか」
「ええ、彼らは相変わらず反対の姿勢を崩してはいません。ですが、条例を作ることだけを問うのであれば彼らも反対はできないと思うのです」
「え、どういうことですか。条例に反対しているのに条例を作ることには反対しない、、、」
「今回提案するのは、沖縄の海を守るための条例という形、入れ物と言ったらわかりやすいですかね、それを作ることだけです。条例の詳細は今回の提案が通った後に条例策定委員会を設けてそこで議論することにします」
「彼らがその提案に反対しない理由は?」
「彼らもゼネコン業者も、沖縄の海を守ることに異を唱えることはないはずです。そんなことをしたら県民からソッポを向かれてしまいますからね。多分、彼らは表面上は賛成しておいて、条例の詳細を詰めるところで骨抜きにしようと考えるでしょう」
「でも、骨抜きにされたら、それこそ意味を成さなくなってしまいますよ」
「そこは抜かりないです。委員に県民の代表やマスコミに通じている関係者を送り込むのです。そして、委員会のやり取りをオープンにして反対派がゴリ押しできない状況にします」
「そっか、事を荒立てたくない彼らにしてみればオープンな場では本音が言えないですね。うん、すごくいい案じゃないですか。流石、飯沢さん」
「いえいえ、この案を考えたのはエマさんなのですよ。彼女、反対派の議員やゼネコン業者のことを詳しく調べて、彼らの動向も踏まえてこの案を思いついたそうです。そうそう、首都テレビにもコンタクトしたと言っていましたよ。そこで海藤さんをよくご存知の方から助言が貰えたとも言っていました」
「それって大垣さんのことかしら。しかし、相変わらずの行動力だな、エマさんは」
「そうですね。彼女には早く政界に戻って活躍してもらいたいですね」
条例制定の議決を諮る当日、議会を傍聴しに来た雪とすれ違った高橋は厳しい表情で何も言わずに自席に向かった。
第七章 条例制定
議会が開かれ、議長が条例制定の是非を問うた。各県議が手元にあるスイッチで意思を伝える。すぐに結果が議長の手元にある掲示板に表示される。
「賛成、三十五票、反対、十三票、保留、一票、よって本案件は成立とします」
閉廷後、雪は高橋に会いに行った。相変わらず苦虫を噛み潰したような渋い表情の高橋は、開口一番、雪に言った。
「共存できる案を考えて来い」
雪の答えを待つこともせずに高橋は去っていった。
後日、飯沢から聞いたところ、どうやら高橋は保留に票を投じたらしいとのことだった。反対票を投じたのはおそらく反対派の幹部で、企業側へのアピールを考慮してのことだろうとのことだった。
雪は何故高橋があの一言のみを伝えてきたのか、その意味を考えた。そもそも、条例の内容についてはこれから立ち上げる委員会の中で論じていくことが決まっている。それにも関わらず、雪に案を考えろと言うのはどういうことなのか、真意を図りかねた。雪はしばらく考え続けた。しかし、答えが見つかることもなく、あっという間に時は流れていった。一週間後、県議会から条例策定のメンバーとして召集したい旨の通知が届いた。雪はそれを携えて高橋に会いに行くことにした。
「高橋さん、先日いただいた宿題の答えを持ってきました」
「そうか、聞かせてもらおうか」
「高橋さん、条例策定委員会に委員として参画してください」
「何を言っている、私は条例制定に賛成した覚えはないぞ」
「わかってます。ただ、先日この場で伺ったご指摘に沿った条例を策定するためには高橋さんの力が必要です。私は推進派としてバランスを考慮してきたつもりでした。しかし、どうしても推進することの方に重きがいってしまいます。高橋さんは反対派ではありますが、バランスが重要だと仰ってくれました。ですから、反対派の立場としてどうやってバランスを取っていくか、意見をいただければ、双方からの視線で議論ができると思うんです」
「・・・」
「高橋さんは県民の暮らしも沖縄の海もどちらも大切だと言われました。それは私も同じ思いです。ただ、私は走り出すとどうしても前ばかり見てしまって、ついつい周りが見えなくなってしまうことがあって…そこを高橋さんに止めていただければ上手くいくんじゃないかと…」
「・・・」
「高橋さん、やはり反対派としては難しいでしょうか」
しばらく続いた沈黙を破ったのは今まで見たことのない、高橋の笑顔だった。
「あんた、面白いな」
「えっ」
「反対派である私を委員にして反対派の勢いを止めようとは、なかなか考えるじゃないか。もしかしたら議員向きかもしれないぞ、あんたの性格」
「そ、そんなつもりは全然ないです。ただ、いい条例を作るためにどうすればいいか考えていただけです」
「あはは、多分、それが本音なのだろうな。確かに私が入ればゼネコン企業の意向を反映することもできる。一方、結果的に反対派の勢いを止めることにもなる。やっぱり、あんたは策士だよ。あはは、、、」
「それじゃぁ、高橋さん、委員になっていただけるのですね」
「早合点するな。反対派が委員会にどう関与していくかはまだ決まっていない。その答えが出てからだ、私が参画するかどうか決めるのは」
「わかりました。それでは、委員の一人として、高橋さんの召集を提言することにします」
雪は県議会から届いた通知を見せた。
「ほう、あんたが委員になるのか。まあ、想定通りではあるけどな。これからが大変だぞ。覚悟しておいた方がいい」
「ありがとうございます。私だけでは大したことができませんが、頼りになる人が沢山いますから大丈夫です。高橋さんもいますし」
「私は反対派だ。あんたの味方じゃない」
「はい、それは重々承知しています。ですが、先程も言ったようにバランスを重視していただけますし、私からしてみると味方です」
「やれやれ、あんたには敵わんな。飯沢や佐々木が引き込まれた理由がわかったような気がするよ」
「高橋さん、それって褒め言葉ですか」
「客観的な分析結果だ。勘違いするな」
「はーい」
条例策定の委員として参画した雪は、珊瑚礁にとって厳しい環境になっていることを詳しく説明して対策を講じる必要性を主張した。一方、沖縄はその綺麗な海を前面に出した観光県であり、海洋保護で観光に影響が出てしまうようなことがあると県民の生活に打撃を与えてしまい、本末転倒であることもきちんと説明した。そして、大変難しいことではあるが、最も重要なこととして、両者が共存できるプランを作ることを強く主張した。
「海洋保護と県民の生活レベル向上を両立するとのことだが、後者をどうやって実現していくのか、具体的な案をお聞かせ願いたい」
コメントを発したのは高橋だった。
反対派は条例制定に対して、表向きは中立の姿勢を見せ、実質は反対の立場を取ることを決めていた。ただ、派閥の中では推進派と反対派の議員が混在し、誰を委員会に送り込むかを決め兼ねていた。幹部達はゼネコン企業への配慮から反対の姿勢を見せていたが、若手、中堅の議員を中心に賛成に回る者が徐々に増え、派閥の中は大きく揺れていた。最終的には幹部が押し切って幹部の意向を汲む反対派の議員が代表として委員会に参画することになった。そして、若手、中堅議員の後押しもあって、先の採決で保留票を投じた高橋も委員会に参画することになったのである。
海洋保護を進めるにあたり、活動の中心に子供達を据えることに対しては何ら異論が出なかった。皆、立場は違えども沖縄に生まれ育ったことを誇りに思っていたし、何より、美ら海が大好きだった。だから大事な海を守る。それもこの先何十年、何百年に亘って守っていく、その重要性をひしひしと感じていた。
「子供達の心の中に【珊瑚礁を守る】、【沖縄の海を守る】ということが当たり前の価値観となるよう、醸成していきましょう」
一方、県民の生活を守っていくための指針作りについて何度も議論が交わされた。中でも委員達の関心を集めたのは、これまでは曖昧だった、企業活動や生活行動が海に与える影響だった。この影響の度合いがわからない限り、明確な指針を作ることはできないと断言する委員もいた。実際、推進派も反対派も自らの意見を主張し難い状況にあった。
「影響もわからない中で海洋保護を進めるのは如何なものか。まずはきちんとした影響調査を行い、その結果を見てから条例の検討を行ってもいいのではないでしょうか」
反対派の議員がここぞとばかりに勢いづいて発言をし始めた。
「因果関係を踏まえる必要があるものはそうかも知れません。ですから早急に影響調査を始めることが重要だと思います。しかし、海洋保護活動の中にはすぐにでも始められることが沢山あります。みなさんも沖縄の海を守っていくことの重要性を認識されていますし、できることからすぐにでも始めませんか」
「影響調査をする際、県民の生活レベル向上策も併せて検討してはどうだろうか。海洋保護も大事だが、生活に余裕がなければ活動が根付くとは私には思えない」
「高橋さん、そうですね。各市区町村で色々な施策を検討したり既に講じたりしているはずですから、それらの情報も集めて影響調査を行うのはどうでしょうか」
「あと、調査をすると言ってもそう簡単にはできないと思うが、その点はどう考えているのかお聞かせ願いたい」
「その点についてはまだ明確なプランができていません」
「あなた方、N P Oの活動をテレビで放映した際についた番組スポンサーに打診してみてはどうだろうか。彼らがスポンサーについた理由が企業イメージアップを狙ってのことであれば協力してくれる可能性があるのでは」
「それいいですね。すぐに連絡して交渉してみます」
そして、これらの影響調査については、テレビ番組を放映する際に協力してくれた企業が中心になって、詳細な調査活動からはじめることになった。海に流される各種排水、空気中に吐き出される煤煙、そして河から流れ込む水の中に含まれる各種養分、造成によって変わる海底の様子、などが調べられることになった。勿論、これまでに海洋大学などで集められたデータも合わせて分析されることになった。
影響調査は結論が出るまでに長い時間が必要となる項目が多くを占めている。そして、それらのデータは継続して収集、分析を行なっていく必要がある。条例制定までに詳細な分析を行うことは難しいことが予想された。そこで委員会では、条例制定までにどの項目に着目するかを決めることとし、制定後も幅広くデータを収集していくこととした。
一方、子供達への啓蒙活動はすぐにでも着手すべきとの意見が多く出た。その結果、まず手始めに翌年度から県内の公立校全校で行う特別カリキュラムを組むことが提言された。対象は小学校・中学校・高校の他、幼稚園も含めることとし、条例制定と並行して準備作業を進めることになった。そこではこれまでの実績を買われ、雪達、美ら海スマイルのメンバーを中心としたワーキンググループが構成されることになった。また、対象の大半が教育委員会と関係することから、教育委員会の委員数名と高橋もワーキンググループのメンバーに加わった。
「まんまと嵌められた感じだな。海洋保護のワーキンググループにまで入れられるとは」
「嵌めただなんて人聞きが悪いですよ。メンバーの人選は委員会の総意であって私が独断で決めたわけじゃないんですから」
「似たようなものだろ。教育委員会の委員を入れることを提言したのはあんただし、委員会が関与すればそこに近い私が引きずり込まれるのは火を見るより明らかだしな」
「あれ、わかっちゃいました?あんなに簡単にいくとは思ってなかったんですけどね。そうなったらいいなぁ、みたいな感じで提言しちゃいました」
「ほんっと、お前さんは食わせ物だよ」
このところ高橋は雪に向かって笑顔を見せることが多くなった。雪は自分が認められたような気がしてとても心地よい気分に包まれていた。一方、私情を挟まずに議論をする高橋の姿勢にはいつも感心していた。そして、尊敬の念を込め、集中して議論を重ねていった。反対派の一員であるからには派閥幹部の意向を強く意識するのが普通だと思うが、高橋はそんな気配は露ほども見せず、常にバランスを強く意識して発言していた。
子供達に向けた特別カリキュラムの検討が始まり、雪や高橋、そして教育委員会のメンバーを中心に急ピッチで作業が進められた。しかし、幼稚園から高校まで、一貫して行う活動を策定するのは容易なことではなかった。
「海藤さんがこれまでに行ってきた活動、例えばビーチクリーンや珊瑚を着けたコンクリートブロックを岩礁として海に沈める活動など、これらの活動を展開していくことはそれほど難しいことではないと思います。企業スポンサーもいますし、こうやって条例を制定しようという動きもあるから予算面での問題はクリアできるでしょうし、活動を手伝ってくれる人もすぐに集まるでしょう」
「そうですね。現に恩納村では定期的に活動ができるようになってますし、観光協会もバックアップしてくれてますからね」
「ただ、子供達の心に美ら海を守るという強い気持ちを育むことはそう簡単ではないと思います。当たり前のことですが、人の心は人それぞれです。特に感受性の強い子供達の心を同じ方向に向かわせるのは並大抵なことではないです」
「確かにその通りです。今回の条例制定に賛同してくれている方でさえ、美ら海への思いは様々ですからね」
「そんなことは当たり前だろう。我々がすべきことは、子供達に自分自身で考える場や感じる場を提供して見守ることじゃないのか」
「高橋さん、場の提供はとても大事です。ただ、子供達自身に考えさせるだけでは足りなくないですか」
「ん、こちらから押し付けるのか?」
「押し付けるという表現は適切じゃないと思いますが、導いてあげることは必要なんじゃないかと」
「その道を子供達が納得しなかったらどうする?」
「え、それは…」
「正解は子供達ひとりひとりが見つけるものなのじゃないか。私は教育の場を数多く見てきたが、子供達自身に考えさせて、子供達自身が辿り着く答えが正解だとする教室が一番輝いていたように思う」
「子供達自身が辿り着いた答えが正解。そんなことができるんですか?」
「そんな大層なことじゃない。それに我々だってそうやって生きてきているじゃないか。あんたは就職するとき、進学するとき、どうやって決めた?いろいろな情報を自分の中で整理して決めなかったか」
「ええ、そうです。メディアの情報や同級生とか周りの人のアドバイスや意見を参考にして決めました」
「ほら、自分で答えを出しているじゃないか。子供だって同じだよ。ただ、教育の場ではどうしても教師が是々非々を判断してしまいがちだ。その結果、子供に深く考えさせずに答えを決めつけてしまうことが多い。そうやって押し付けられた答えを子供達が納得すると思うか?」
「多分、いえ、納得しないことの方が多いと思います」
「そうだ、納得しない。ただ、納得しない子供達はまだそれでもいい。その後、自分で考える可能性が高いからな。危ないのは、その押し付けられた答えを鵜呑みにしてしまう子供達だ。彼らはそうやって育つものだから、大人になっても自分で考えて答えを見つけることがなかなかできない。そんな大人が蔓延している、今の日本は。これは教育の場を変革していかないとどうしようもない」
「高橋さんは相変わらず手厳しいですね。でも、我々、教育委員会も手をこまねいているだけではないですよ。少なくともここ沖縄では、高橋さんが言われた子供達自身が出した答えが正解になるような授業を実験的に始めています」
「実験じゃ遅い。もっと広く普及させないと」
「まあまあ、教育の世界がそんなに単純にいかないことは高橋さんもよくご存知じゃないですか。それより、今回の計画、その授業を参考にしてはどうでしょう」
「今更ですけど、教育するって大変なんですね。子供の頃はまだしも、大人になってからもそんな風に教育を考えたことはなかったです」
「まあ、それが普通ですよ。多くの大人は自分の子供が学校に通うようになって初めて教育というものに直面するのです。そして、多くの方が学校や教師に頼る。だけど、教育の根底にあるマインドのようなものは、本来、家庭の中で培っていくものなのじゃないかって思います。まあ、教育委員会に身を置く者の意見ではなく、個人的な考えですけどね」
「それってますます難しくないですか。個々人の考え方は違いますし、その違いを一つの方向に向けていくなんてできるのかしら」
「だからこその学校教育じゃないか。根本的なこと、例えば人を傷つけてはいけない、みたいなことは家庭の中で教えることだ。一方、世界の各地では未だに戦争がなくならない。それをどう考えるのか。こういったことは家庭の中だけで考えられることではないことが多い。親が感情的に戦争の是々非々を唱えても、背景にある事実を知らなければ子供は偏った情報だけで考えることになってしまう。それで正しい答えが得られるはずもない」
「それじゃ、海洋保護に関してもまずは家庭内で考えてもらうということですか」
「そうできればより良い文化風土になっていくだろうな。ただ、今の世の中、当たり前のことをきちんと子供に伝えられない親が増えている。そこを変えていかないと難しいだろうな」
「えー、そんなことできるんですか」
「だからこそ、先ほどお話しした授業を広めていくのですよ。まずは今の子供達に、当たり前のことをきちんと次世代に伝えられる大人になってもらう。そして、彼らの子供達にも同じように育ってもらう。そうやって何年も何十年も掛けて一歩一歩進んでいくのです」
「はぁ、何だかとっても大変なことに思えてきました」
「何を今更そんなことを言っている。あんた最初、私に言っただろう。十年先、百年先を見越した活動をしていくって。あれは嘘だったのか」
「いえ、そんなことはないです。ただ、今のお話を伺っていて、当たり前のことができない大人がそんなに沢山いるとは思っていなかったので、驚いてしまっただけです」
「ふっ、あんたの周りには良い人が沢山いそうだな」
「そうですね、言われてみると確かにそうです。これまでにお会いした人達は大半がきちんとした方ばかりです。私、運が良かったんですね」
「あはは、自分で言うか。図々しい奴だな」
条例策定委員会の場で教育委員会が公立校で進めるカリキュラムの話を出すと、委員の多くは問題の大きさに改めて気付いたという表情を見せた。そして、条例を策定することの大きな意義に向けてきちんと腹を括らなければいけないと心の中で姿勢を正した。委員からは私学の教育機関や塾にも働きかけてはどうかと言う声が多くあがった。一人でも多くの今の子供達に、美ら海についてきちんと考え、自らの答えを出してもらうため、一人でも多くの子供達にその機会を与えるべきだとの意見だった。
雪はできるだけ多くのワーキンググループに参画した。自分の経験やノウハウだけではどうしようもないことも、各分野の専門家の知見を集めれば素晴らしい案が次々に生まれて来ることがとても楽しく、とても嬉しかったのである。ワーキンググループのメンバーは己の知力をありったけ吐き出し、少しでもいい案を作ろうとした。ともすると、バランスを崩してしまうことが懸念されることも度々だった。その都度、雪や高橋がバランスを取ろうとし、激しい議論になることもしばしばだった。
「しかし、沖縄県議会がこんなに熱くなったのは初めてじゃないか。そうして見ると、本当にお前さんは面白い奴だな」
「面白い奴ってどういうことですか。何だかバカにされてるみたい」
「そうじゃないよ。議員になるやつなんて、大概、海千山千だろ。そんな奴らを素に戻して本音を語らせるようにしたことが凄いってことだよ」
「え、それって褒め言葉ですか。やった、高橋さんから褒められちゃった」
「褒めちゃいないさ、感心しているだけだ」
「それでもいいです。高橋さんに認められれば怖いものなしです」
「何だ、お前でも怖いものあるのか。その方がよっぽど怖いな」
「え、ひどーい」
雪はどのワーキンググループでも中核メンバーとして活動した。そして、参画したメンバーの勢いに後押しされるようにしてどんどんと前進していた。ただ、白熱した議論の末に導かれる案は時にはとても厳しい内容になることがあった。例えば、河岸の護岸工事を行う際に使う材料の成分が細かく規定された。川に流れ出す土の養分を減らさないための方策だったが、この材料を使うことでコストは確実に上がることが試算された。上昇するコストをどうやって捻出するのか、誰が負担するのか、その点は個々の工事の中で検討することになった。こういった例がいくつも出て来る度に、雪は思った。こんなに厳しい内容で本当に条例として制定できるのだろうか、と。仮にできたとしても市民や関係者の反発はかなり強くなるのではないか、と心配することがしばしばあった。
それでも議論は順調に進んだ。そして半年後、全体計画としての三カ年計画が完成した。条例策定委員会が全体計画を議会に諮った結果は、予想に反して圧倒的多数で承認された。反対派閥の幹部達は反対票を投じるか、若しくは退場して票を投じなかった。しかし、反対派閥の多くの議員は賛成に票を投じたのであった。策定委員に任命された議員から、反対派閥の若手・中堅議員に熱い強い想いが伝わっていたのであった。
この結果を受け、翌年四月から各学校で、海洋保護ワーキンググループが中心になって定めたカリキュラムが開始されることになった。同時に私立学校・幼稚園および私塾の関係団体にも展開し、公立学校・幼稚園と協力して進めて行くことが決定した。
雪は寝る間も惜しんでこの計画を実践するために奔走した。翌年から使用するカリキュラムもドラフト版を作るやいなや、いろいろな世代・異なる立場の多くの人に意見を聞いてより良いものにブラッシュアップしていった。そして、カリキュラム作成の合間には企業活動ワーキンググループの手伝いにいき、自分自身も環境問題について勉強することを怠らなかった。
美ら海水族館では雪達を応援するために館内外でこの活動を紹介してくれた。そして、県内のみならず県外から来館する人達にも応援してくれることをアピールしてくれた。また、首都テレビも積極的に応援してくれた。イベントのスポンサーに名乗りを上げてくれたり、新たに始まる教育カリキュラムを番組で取り上げてくれたりした。他にも、タレントのブログやフェイスブックなど各種S N Sでも取り上げられて、口コミでの広がりもより勢いを増した。
こうして、いつしか雪達の活動は沖縄だけのものではなく、日本の将来として取り上げられるようになっていった。賛同する人々が沖縄を訪れボランティアとして雪達の手伝いをした。沖縄の地に足を伸ばすことができない人々は各地で行われる周知のためのイベントに参加して協力をしてくれた。そうこうするうち、いつしか雪の名前は全国に広まり、各種マスコミに取り上げられることも珍しくなくなっていた。
そんな時、美ら海スマイルの事務所に一通のメールが舞い込んだ。メールの内容は雪達の活動を誹謗中傷するものだった。この手のメールはそれまでもたまに届いたことがあったので最初は誰も気にすることなく放っておいた。しかし、メールはその後も続いた。ほぼ毎週のように届けられるメールには、本当にこのまま活動を進めていいのか、といったことが書かれていた。何通目かのメールを読んだとき、雪は珊瑚のことがほとんど書かれていないことに気付いた。改めて届いた全てのメールを読み返してみたが珊瑚のことはほとんど書かれていなかった。しかも最初の一通はかなり汚い表現で雪や活動そのものを罵倒していたが、二通目からは割りと普通の表現で、活動を進めるべきではない、といったことがつらつらと書かれていた。
「この人、何かあったのかしら」
「何かって?」
「うーん、よくわからないんだけど、私達の活動が何か、この人に影響したのかなって」
「そりゃ、これだけの活動だから、いろんなところで影響を受ける人がいても不思議ではないよね。だからといって匿名でクレームはないと思うけどね」
「そうね。だけど、最初のメールは別として、二通目以降は糾弾するような表現じゃなくて、なんて言うのかな、哀しげな感じを受けるのよね」
「哀しげな感じねぇ、雪ちゃん、いつから詩人になったの?」
「もう、エマさん、茶化さないでください」
雪はメールの差出人が気になり始めた。単なる反対論者ならもっとストレートに異論をぶつけるなりクレームの声をあげるだろう。しかしこのメールにはそういった感じがない。まるで、何かに困っているかのような雰囲気が伝わってくるような気もする。そもそも活動自体を否定していないような節も見られ、何故活動を進めるなと言っているのかその理由がはっきりとしなかった。もしかすると何か深い理由があるのかもしれない。雪は居ても立ってもいられなくなり送信者に連絡を取ってみることにした。他のメンバーに言うと大事になりそうな気がして自分ひとりで会うことにした。
メールの発信元はWebメールだったので、返信してもきちんと届くか不安はあった。それでも、会いたい旨を告げたメールを送ってから一週間後、日時と待ち合わせ場所が書かれたメールが届いた。指定された約束の日は一週間後だった。メールが届いた時は取り敢えず会って話ができることに安堵した。しかし、その日が近付くにつれ、訳の分からない恐怖心や不安感が頭をもたげ始めた。仕方なく玄吉に相談すると、苦虫を噛み潰したような顔をしたあと呆れたような口調で【一緒についていってやる】と言ってくれた。その一言で不安を吹き飛ばした雪は【一時間して連絡がなかったら来てくれ】と言ってメールの主に会いに出掛けた。
待ち合わせの場所にいたのは十代半ばの少女ひとりだけだった。最初は人違いだと思い他の人間が来るのを待とうとした。ところがその女性が近付いてきて自分がメールを出した者だと名乗った。取り敢えず近くのカフェに入って話をすることにした。席について改めて相手の様子を伺うと、服装も身だしなみも歳相応で好感を持てるものだった。挨拶を交わす際の話しぶりもしっかりしており、とてもクレーマーとは思えなかった。多少の戸惑いと驚きの中、雪は相手の話を聞くことにした。
「匿名であのようなメールを送ってしまい申し訳ありませんでした」
「それは構わないのだけど、一体、何があったのですか?」
「それは、、、」
少女はしばし沈黙した後、顔を上げ、雪の目を正面からきちんと捉えた。意思の強さを想わせる視線はそのままで、少女は語り始めた。少女が最初に話したのは環境を守る為に仕事が立ち行かなくなって会社が倒産したというものだった。
雪達の活動に賛同し、活動への取り組みをアピールしている大手企業は、条例とは別に自らの判断で定めた基準やルールを守るためにコスト増となっていた。その影響は、一次受けの大手ゼネコン企業から下請け業者に転嫁された。転嫁されたコストは更に増幅されて孫請けの業者に転嫁された。こうして転嫁されたコストは、自転車操業に近い中小・零細企業にとっては大きな痛手となった。更に、運悪く、他の案件が中断したこともあり、資金繰りがつかなくなって倒産した。
「企業によっては厳しい面があることはわかっていたけど、実際に倒産する企業が出ていたのは知りませんでした」
「これは聞いた話ですが、沖縄では中小企業が仕事を選ぶことはほぼ無理なのです。大手企業の意向を受けて、提示された条件を飲むしかないのです」
何と答えて良いのか思案していると更に少女が告げた。
「しかも、倒産することで更に酷い状況になっていくのです」
「えっ、更に酷い状況って、、、」
倒産した会社を経営していた社長は多額の借金を抱えて金策に走った。しかし、銀行など大手の金融機関は相手にしてくれず、仕方なく街金と呼ばれる中小規模の消費者金融を何社も回って資金を集めた。それでも足りなくなると、不法な金利を提示する悪徳金融にも手を出してしまった。その結果、転がるようにして自己破産となった。しかも、悪徳金融が執拗に付き纏い、家庭のみならず親戚関係にまで迷惑をかけてしまった。
「最後は自ら決着をつけるという最悪の結果になってしまったのです。更に、数ヶ月単位で給料が未払いとなった社員にも影響が広がって、みんな、とても厳しい状況に追いやられてしまいました」
中には親が逃げ出し子供だけが残され、最後は養護施設に行かざるを得ないケースもあった、と少女は話した。
「もしかしてあなたも・・・」
悲しそうな表情で見つめる少女を見て、雪は言葉に詰まった。
「珊瑚礁が大事なのはよくわかります。だけど人の生活を脅かしてまですることなのですか」
「あなた達の活動は共存共栄を前面に出していますが本当にそんなことができるのですか」
「養護施設に入る子供を出さないと言えるのですか」
「自殺する人を出さないと言い切れますか」
淡々と話す一言一言は、鋭利な短剣になって雪を切りつけてきた。そして、最後の一言は、雪の心に深く、深く突き刺さった。
少女に会った翌日から、雪は、過去に行われた環境保護活動を貪るようにして調べ始めた。その様子は周りの者を寄せ付けないほどの気を発していた。しかし新聞や報告書などに書かれているのはその成果ばかりで負の面について記載されているものはほとんどなかった。たまに見つかってもそれらの活動にはもともと利権が絡んでいて、活動を進める中で負の面が明らかになったようなものだった。
雪は考えた。
【自分達の活動が間違っているとは思わないけど、活動のせいで収入が減ったりするという影響を受ける人達のことをどう捉えたらいいんだろう】
【もしかすると仕事を失ったりする人達がいるかもしれない。その人達の生活を守るのは誰がすべきなんだろう】
いくら考えても答えは見つからなかった。雪は、企業活動ワーキンググループのメンバーにこの話をした。メンバーの反応は
【百パーセント守ることはできないですよ】
【できるだけ多くの人が妥協できる線を見つけるのが我々の仕事なのではないでしょうか】
と言ったものが多かった。十分に納得するには足りない曖昧な言葉だったが、それ以外の解を見つけることもできなかった。仕方なく自分に言い聞かせるようにして、この問題に蓋をした。しかし、ふとした拍子に、少女の重たい視線を感じる自分が頭をもたげ、寂しそうに話す少女の顔が浮かんだ。
少女の訴えに対する解答が見つからないまま時は過ぎた。そして、四月、小学校から高校におけるカリキュラムが実際に適用され始めた。最初は戸惑いを覚える声も上がったが、美ら海スマイルが中心となって、新たに作った事務局が都度対応することで徐々に活動が浸透していった。そして、マスコミや有名人の後押しもあり活動は順調に進んでいるように見えた。
半年遅れて企業や自治体向けの自然保護のためのルールが策定・発効された。その内容は水や土砂などの類を中心としたもので、海に影響を与える排出物を制限する内容だった。ルールの適用対象となる企業・自治体の対応は立場によってかなりのばらつきが生じることが想定された。事前に説明会等で情報を収集している企業・自治体は、定められた期間内に対応できることが見込まれた。一方、中小企業や個人経営など資本に余裕のない関係者のなかには、対応することが厳しいものがかなりいるとみられた。
雪は少女のことを思い出していた。今回策定したルールの影響で、第二第三の被害者が出てしまわないだろうか。数年間をかけてルールを遵守していくことを想定しているが、自分たちが考えている以上の影響が出たりしないだろうか。
雪の強い希望もあって、罰則規定は、すぐに経営に影響するものにはならなかった。ただ、最初のステップである六ヵ月後には、対応状況が芳しくない企業名を公表することになっていた。そうなれば企業活動に何らかの悪影響を及ぼすことは十分に予想できた。
そして、六ヵ月後、各企業・自治体から報告書が続々と届けられた。事前の予想では報告書の回収率が九割程度、遵守率が七割程度になると見込んでいたが、実際の集計では回収率が五割程度、遵守率が六割程度と低調だった。未回収の企業は遵守率がかなり低いことが想定されるため、全体での遵守率は三割程度と考えられた。集められた報告書を詳細に見ていくと、遵守するためには設備投資が必要だが資金に余裕がないというものが多く見られた。また、回収できなかった企業に再度連絡をしても、まともに取り合ってくれなかったり、ただ恐縮して謝るばかりで理由を説明してくれなかったりする企業が多かった。雪の懸念が奇しくもあたってしまったのであった。
予想以上の悪い結果に関係者は落胆した。このままでは計画の見直しを余儀なくされることは明白だった。メンバーからは罰則規定の強化を主張する声が多く出るようになった。それでも雪はその方向に進むことを迷っていた。今回クリアできなかった理由の大半は資金難であり、その度合いがシビアであればあるほど、少女が切々と訴えた不幸な事象がこれからいくつも生じてしまうことを危惧していた。
ある日、珍しく高橋が美ら海スマイルの事務所に顔を出した。
「近くまで来たから陣中見舞いに寄ってみたよ」
「高橋さん、丁度良いところに来てくれました。話を聞いてくれませんか」
「何だよ、挨拶もなしにいきなりそれか。相変わらずだな」
「あ、すみません、もう頭の中がグシャグシャで訳わからなくなっているものですから」
「ふー、困ったやつだな。企業側の協力に関してか?」
「流石、なんでもお見通しですね」
「まあ、最初から上手くいくとは思っていなかったが、あそこまで数字が低くなることは想定外だったからな」
「そうなんです。個別の企業には諸々の事情があるので、中には協力できないところがあるだろうなとは思っていたんですが・・・」
「予想より低かったのは確かに厳しいが、その原因はわかっているのか?」
「報告書を読む限り、大半は資金難を理由に挙げています。ただ、ご存知のように回収率が五割程度なので、未回答の企業については協力してもらえているのかどうかもわからない状況です」
「以前にも話したが、沖縄に生まれ育った者の多くは珊瑚礁や沖縄の海を大事にすることに異論を挟むはずがない。しかし、現実には日々の生活があり、守らなければいけないものが沢山あるのが普通の人間だ。そんなわかりきったことへの配慮が足りなかったということか?」
「いえ、それは違うと思いますよ。協力していただけるよう、幾つかの策を講じてきたじゃないですか。例えば、資金面で厳しい企業には自治体と金融機関が協力して融資制度を設けました。それも、当面の対策として三年間は利子をつけず、返済開始も二年後からとしています。更に条件をクリアできれば、一定額の返済を免除する制度も設けました。また、活動の進め方がわからない企業には、私達、美ら海スマイルが中心となって、計画策定からフォローするようにしています」
「それでもこういった状況になった理由が何か、わかっているのか?」
「そこがわからないからこうして悩んでいるんじゃないですか」
「おいおい、お前さんがキレてどうする」
「だって、、、」
「こう言った【人の善意】に委ねる活動はそう簡単にできるものじゃないよ。時には厳しい態度を取らなければいけないこともある。当然、あちこちから反発もあるだろう。それを先頭に立つ者が受け止めて、まとめていくことが大事なんじゃないのか」
射るような視線を向ける高橋の言い分に、雪はただただ下を向き、何も言い返すことができなかった。
【私には荷が重すぎるんじゃないかな。何ができるのかさっぱりわからない・・・。】
「支援の施策がどの程度適用されているか調べたか?」
「融資制度の申し込みが七十八件、美ら海スマイルへの支援依頼が三十五件です」
「沖縄県内の企業数は約一万七千社あるのは知っているよな。その中でこの活動に賛同してくれる企業数は?そして、その中で費用面が厳しい企業数は?計画策定等のノウハウが乏しい企業数は?」
「事前に行ったアンケート結果からある程度の数字は把握できます」
「だったら、そこから見えてくることがあるかも知れないぞ」
雪が顔を上げると、柔和な表情を見せる高橋の顔があった。
高橋が帰った後、雪は高橋が何を言わんとしてくれたのか、改めて考えてみた。
【罰則規定を強化して監視を厳しくすればきっと遵守率は高まる。だけどそんな気持ちで何十年・何百年とやっていけるかな】
【不幸になる人を犠牲にして進めていいのかな】
【そもそも、なんで協力してくれないのかな】
【今回策定した支援策はある程度、企業側の負荷を減らすはずだけど、不十分なのかな】
【もしかして、支援策が必要な企業が活用できていないのかな】
雪は、高橋の指摘を受けて、報告書を再度精査することにした。その結果、融資を申し込んだ企業と美ら海スマイルに支援を依頼した企業は、全てが活動に着手していることがわかった。勿論、企業間の差異はあったが、全社が活動に対して肯定的である旨の回答をしていた。また、事前アンケートで資金面やノウハウ面を懸念していた企業と融資や支援を申し込んだ企業数を比較したところ、どちらも一割程度と低調であることが分かった。
「これ、どういうことなんだろう」
事前アンケートで懸念を伝えてきた企業を中心に、報告書を提出していない企業をリストアップし、翌日から企業への訪問を開始した。
「沖縄の綺麗な海を孫子の代まで維持していくことはとても大事だよね。だけどね、少し言い難いのだけど、活動するにしても資金面が厳しくてね。うちみたいな零細企業は、日々の仕事をこなすので手一杯だからさ」
「そうですか、それは大変ですよね。ところで、この活動を前提とした融資制度があるのはご存知ですか」
「ああ、知っているよ。でも、所詮は融資だろ。正直、これ以上の借金はねぇ、、、来月にはまとまって返済しないといけないし」
「えぇ、確かに融資ですが、三年間は利子が生じませんし、返済も二年後からで大丈夫なんです。更に条件さえクリアできれば一定額の返済を免除することもできます。その間に活動のための資金を蓄えていくことは難しいでしょうか」
「えっ、そんな内容だったの。融資ということだったから詳細まで確認しなかったよ。二年後からの返済なら頑張ればどうにかなるかな。あと、返済免除の制度があることも知らなかったよ」
「本当ですか。改めて詳細の説明をさせてもらえませんか」
「ああ、是非お願いするよ」
別の企業担当者は計画策定で頓挫していることを雪に告げた。
「うちの社長はこの話を聞いて偉く感動したようで、すぐに私に指示して来ましたよ。具体的な指示は無くて、【お前に任せる!】の一言でしたけどね」
「報告書では活動未着手と書かれていましたが」
「すみません、活動しろと社長に言われたものの、何から始めたら良いのかさっぱりわからなくて。。。他にもやらなければいけないこともありまして」
「そうでしたか、それはこちらも申し訳ありませんでした。活動を行うにあたり、計画策定から私達、美ら海スマイルのメンバーがお手伝いする施策もあるのですが、ご利用されていない理由はどういったものですか」
「えっ、そんな施策があるのですか。詳細を教えていただけますか」
企業回りを始めて一週間が過ぎた。その間に訪れた企業担当者の大半は活動そのものには肯定的であった。ただ、活動を支援する施策については知らない、若しくは知っていても肝心なところを理解していなかったりした。また、活動の趣旨を理解していない企業担当者も散見された。情報が十分に伝わっていないことが浮き彫りになった。
【これでは活動を立ち上げることもできないわ】
事務所で休憩していたら美ら海スマイルメンバーの高梨が聞いてきた。
「海藤さん、活動に非協力的な企業を訪問しているって本当ですか」
「ええ、何が原因なのか、担当の方に聞けば何かわかるかなと思って」
「それで、どうでした」
「それがね、大半の企業が活動に肯定的なのよ」
「え、どういうことですか」
雪が状況を伝えると高梨は驚いて言った。
「えぇ、それって私達の広報が不十分と言うことじゃないですか」
「まだ十社くらいだからはっきりしたことは言えないけど、その可能性はあり得そうね」
「わかりました。私も企業訪問してみます」
「え、大丈夫なの?高梨さん、大学の授業もあるでしょう」
「大丈夫ですよ。三年間でほとんどの単位取っちゃいましたから。それに、就職はここに決めましたから」
「えぇ、そうなの。知らなかった!!」
雪の話を聞いた他のメンバーも加わり、企業を訪問する機会は一気に増えた。並行して、企業に対する広報を増やし、活動支援の施策を周知させていった。その結果、半年後に行われた調査では順守率が六割まで上昇した。まだまだ十分とは言えなかったが、当面は罰則規定の強化は行わないことになった。それよりも、活動を更に活性化させることに力を入れることになったのである。
雪は企業を訪問する際、下請け企業への影響についてもヒアリングを行った。
「弊社では請負企業に無理強いをさせるようなことはしていませんよ。どちらかと言うと、弊社内における作業改善等でコスト削減を図っている感じですね」
企業の担当者がどこまで本音を発しているのか、雪には見極めが付かなかった。
「そんなの当たり前だろ。正直に、【はい、弊社では下請け企業にコスト転嫁しています】と言う奴がいるとでも思っているのか」
「いえ、そんなことはないですけど」
「恐らく、請負う側の企業に聞いても同じような回答だろうな」
「そうなんです。どこの企業でも同じような回答ばかりで、、、」
「で、その後、気まずくなって、と言ったところか」
「高橋さん、なんでわかるんですか」
「そんなこと、企業の担当者の立場で考えれば火を見るより明らかだろうが」
「そうなんですね。私、そう言う立場で働いたことがないので、ピンと来ないんですよね」
「この手の問題は下手をすると企業イメージを大きく損なうからな。その結果、屋台骨に影響することだってあり得るテーマだし」
「うーん、だけど実態がわからないと対策の打ちようもないですよ」
「手がないわけでもないぞ。多少時間は掛かるが、この活動のレンジを考えれば十分活用できると思うぞ」
「え、本当ですか。どうすればいいんですか」
「団子だよ」
「団子?あの、みたらし、とか、あんこ、とかの?」
小憎たらしい笑顔を纏った高橋は、得意げな顔をした少年のように見えた。
高橋が考えたのは企業の経営状況を定期的にウオッチすることだった。企業の収益が悪化して経営が危うくなっていないかを、公開された財務諸表から判断しようと言うものだ。その際、活動の推進度で大企業を分類し、推進度毎に影響の有無、および度合いを確認していく。また、各大企業と関連の高い中小企業をリストアップする。そして、関連するグループ内の各企業がどういう状況にあるのかを見ることで、下請け企業に影響が出ていないか判断しようと言うものだった。勿論、企業の収支は種々の要因によって影響を受けるため、一概に活動の影響と言えないケースもあるが、ヒアリングなどを行うきっかけにすることはできるだろうというのが高橋の考えだった。
「高橋さん、すごいですね。どこでこんな方法を身につけたんですか」
「普通に生きていればこれくらいのことは思いつくさ」
「えー、私には全然、想像もつかなかったですよ。だけど、最初に言っていた団子ってなんなんですか?」
「なんだ、まだわかっていなかったのか。企業グループでデータを見る際には、大企業・中企業・小企業を串刺しで見るだろ。あと、活動推進度でデータを見る際には、同じ推進度の企業を串刺しで見るじゃないか。だから、団子だよ」
「あぁ、そういうことですか。団子って言うから味に関係するのかと思いましたよ」
「なんだ、それ。それってお前が食いしん坊ってことじゃないか」
「ひどーい。あ、でも、これ、積極的に活動している企業の収益が良くなっていったら、それはそれでアピールできるんじゃないですかね」
「お、少しは考えられるじゃないか」
「えへへ、これくらいなら私だってわかりますよ。ところでこれ、具体的にどうやったらいいんですか?」
「おいおい、全然わかっていないじゃないか。困ったやつだな。それじゃ次に会う時までに簡単なサンプルを作ってきてやるから、それを見て勉強しろ」
「ヤッタァ!なんだかんだ言って、高橋さんって優しいから好きです」
「おいおい、おだてたってこれ以上は何も出ないぞ」
高橋が作成した資料はかなり詳細なものだった。株主向けにデータ公開をしている企業は四半期毎の収支報告書、貸借対照表などからデータを収集してあった。それ以外の企業については会社四季報などから大まかなデータを拾い、基礎的な数値データとし、Web等からトピックスになりそうな情報を検索・収集してあった。それらを活動推進度毎にグルーピングし、時系列にデータを比較できるようにまとめられていた。また、後手になってしまう面はあるが、企業倒産に関する資料も紐づけられるようになっており、改めて高橋の仕事の丁寧さを知った雪であった。
「高梨さん、高橋さんがまとめてくれたこの資料、どう思います」
「すごいですよね。私みたいな素人が読んでもある程度わかりますし、このレベルで今後ウォッチしていけば、色々と活用できるのではないでしょうか」
「そうだよね。ほんっと、あの人、外面は悪いけど切れ者だよね」
「え、海藤さん、そんなこと言っていいのですか」
「大丈夫だって。あの人、根は親切で優しい人なんだから」
「俺がなんだって?」
「え、高橋さん、いつ来たんですか。と言うか、今日、来る予定ありましたっけ?」
「なんだ、用がないと来ちゃいけないのか?それじゃ、もうデータ分析もお前達に任せていいな」
「えー、そんないじわる言わないでくださいよぉ」
データ分析は当面の間、雪と高梨が勉強しながら進めていくことになった。活動の性格上、何年、何十年と続けていく作業であり、作業が軌道に乗るまでは高橋がサポートしてくれることになった。
ある日、データを整理していた雪は、倒産企業と活動の関連性を推測しつつ、少女のことを思い出していた。少女とは話を聞いて以来、一度も連絡を取っていなかったが、ことある毎に彼女の訴えかける眼差しが浮かんでいた。データの活用法にもある程度目処がついたことから、雪は少女に再び会ってみることにした。
久しぶりに雪の前に姿を見せた少女は、蕾が膨らみかけた、白いワンピースの似合う女性になっていた。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです、雰囲気が変わりましたね」
「そうですか、自分じゃよくわからないです」
はにかむように笑顔を見せる少女に向かって雪は活動の現状を伝えた。
「と言うわけで、活動に賛同してくれる企業が順調に増えています。また、子供達へのアプローチも順調に広がってきています」
「私が危惧していた中小・零細企業への影響はどうなのでしょうか」
「その点は私もずうっと気にしていたの。何とかして影響を事前に把握できないか、知識のある方にも混じっていただいて色々と考えたの」
「それで何か良い方法が見つかったのですか」
「これが一番かどうかはまだわからないけど、少なくとも影響が出ているかどうかを判断するきっかけになりそうな情報を抽出する方法は見つかって、今、それを実践中なの」
「そうですか、上手く行くと良いですね」
「きっと上手く行くと思う。私ひとりじゃできないけれど、協力してくれる仲間もいるし」
少女は雪から視線を外し、暫くの間、何か答えを出そうとしているようだった。雪は少女の思考を中断しないよう、自分も黙っていた。
「私、美ら海水族館の採用試験を受けることにします」
「えっ、あなたが飼育員になるの?」
「いえ、私には専門的な知識がありませんから一般職員枠です。私、来春で高校を卒業します。進学する余裕はありませんから就職するのですが、沖縄の海に関連する企業にしようかどうか悩んでいました」
「そうなんだ。実はね、私、以前、美ら海水族館で飼育員やってたの。今の活動に専念するために水族館は辞めちゃったけど、とても良いところだったわ」
「そうだったのですか」
「だけど、なんで私にそのことを教えてくれたの」
「私は今でも海藤さん達の活動が正しいかどうかわかりません。ただ、沖縄に生まれて沖縄で生きていくからには、美ら海は切っても切り離せない存在です。その美ら海を自分はどこまで知っているのだろうって考えるようになりました。だけど、自分が今の境遇に置かれているのは、その美ら海を守ろうとする活動のせいでもあるわけで、そんな仕事に就いて大丈夫だろうかという漠とした不安もありました」
居た堪れない気持ちになった雪は、黙って次の言葉を待った。
「今日、海藤さんに会ってお話を聞いているうちに、前に進んでみようと言う気になりました。美ら海は私にとってどんな存在なのか、私の周りの人達に取ってどんな存在なのか。そのことを知った上で海藤さん達の活動に向き合ってみようと」
「そうなんだ。何て言ったら良いのかな。言い方が合ってるかどうか自信がないけど、正面から受け止めてくれてありがとう。私達は美ら海を守りつつ、沖縄の人達が幸せになるような活動をしていきたいと思っているの。ただ、まだまだ改善しなければいけないことも沢山あるし、私達だけでは気付かない、気付けないこともあると思う。あなたも含めて多くの人に関心を持ってもらって、気付いたことを指摘してもらえると嬉しいわ」
「海藤さん、美ら海水族館ではどんな生き物を育ててきたのですか」
「え、色々だよ。イルカでしょ、亀でしょ、ペンギンでしょ。ほんっと、色々とお世話させてもらったわ。知ってると思うけど、美ら海水族館には何百種類もの生き物がいてね、それぞれがみんな可愛いんだよね。だから水族館にいた頃は、自分の担当外の生き物も気になって、毎日、仕事が終わってから園内のあちこちをうろちょろしていたなぁ。あ、そうしたらね、周りのみんなから変人扱いされたんだよ、ひどいよねぇ」
「あはは、変わり者なのですね、海藤さんって」
「そ、そんなことないですよ。私はただ、水族館にいる生き物のことを少しでも多く知りたくて、、、」
「その貪欲さが、水族館内じゃ収まりきれなくなって、この活動になっていったのですね」
「うーん、そうなのかなぁ、、、自分じゃそう言うことに気づかないんだよね。おじさんには、【走り出したら止まらない猪みたいなやつだな】とか言われるし」
「あはは、海藤さん、面白すぎます」
屈託のない笑顔を見せる少女を前にして、雪は自分達の活動がまた一歩前進できたように感じた。
「そうそう、美ら海水族館には私より変わり者の叔父と、超情熱家の館長がいるから、きっと楽しいと思うよ。就職、頑張ってね!!」
第八章 選挙
「おばさん、こんにちは」
「ん、おばさん?お姉さんでしょ、由佳!」
「あー、はいはい、お姉さん、こんにちは。これで良い?」
「んもう、しょうがないわね。ところで、おじさんは?」
「今日は何かトラブルがあったとかで水族館に行ったよ」
「よく働くわね。恵美子さん、おじさん、いつまで働くつもりなの?」
「うーん、どうなのかな。本人、あまりそのことについて話さないからね。まあ、由佳が成人するまでは頑張ると思うよ」
「えー、成人って、由佳が今、九歳だからあと十一年あるよ。その時、おじさんは、、、七十五歳じゃない!!大丈夫なの」
「あはは、何とかなるでしょ。箭内館長だって七十歳を過ぎたのに今でも顧問とか言いながら現場で頑張っているみたいだし」
「へえ、あの箭内館長がねぇ。でも、それって現場にとってはありがた迷惑なんじゃないの」
「うーん、そういう意見もあるかもね。で、今日は玄さんに相談事?」
「いえ、それほどのことでもないんだけど、ちょっとおじさんや恵美子さんの意見を聞こうかなって」
「条例のこと?」
「ええ、まあ」
「なんだか歯切れが悪いわね。また何かあったの?」
「ううん、活動は順調よ。順調ではあるけど、恵美子さんも知っているようにこの活動は数年から数十年のレンジで考えないといけないでしょ。そのために、更にレベルアップを目指そうという声が出てきたの」
「レベルアップ?具体的な計画があるの?」
「先日、美ら海スマイルの定例会で、選挙の話が出たの。沖縄県議会選挙が来年あるんだけど、そこに誰かを送り込んで、県議会での発言権を更に充実したものにしようって」
「で、雪ちゃんに白羽の矢が立ったわけだ」
「え、なんでわかるの」
「そんなのこれまでの活動を見ていれば誰でもわかるわよ」
「そんなもんかな」
「あはは、相変わらずねぇ、雪ちゃんは。で、何を聞きたいの?今更人に聞くことなんか無いような気もするけど」
「えぇ、そんな、先に言われちゃうと」
「ごめん、ごめん、それじゃ、玄さんが帰ってきてからその話をしようか。今日は晩御飯食べていくでしょ」
「うん、わかった」
夕方、玄吉が水族館の仕事を終えて帰宅した後、夕食を摂りながら選挙の話になった。
「活動自体は順調に進んでいるし、議会には高橋さんもいるし、今更私が議員になってもあまり変わらないのかなって思うんだよね」
「でも、高橋さんは元々反対派だよな」
「当初は派閥の意向があったからね。だけど、今は中立の立場で活動してくれているし、反対派との橋渡しもある程度はしてくれているし」
「県議会全体はどうなっている?主流派の議員達は活動に対してどういうスタンスを取っている?」
「積極派とまではいかないけど、概ね賛同してくれているみたい」
「ふーん、そうなると、今後、積極派の議員の力が必要になることがあるかどうかだな」
「どういうこと?」
「あまり考えたくないことだけど、力に迎合する輩というのはいつの時代にもいるよな。俺は議員が偉いとは思わないが、世間一般では議員は先生と呼ばれたりして偉い存在と捉えられることが多い。そういった立場、まあ、バッジと言ってもいいが、その威光を利用することで解決できる問題もあるってことさ」
「うーん、言ってることはなんとなくわかるけど、あまり考えたくないなというのが正直なとこかな。それに、仮にそういう場に巡り合わせた時、私がバッジの威光を利用できるか自信がないよ」
「まあ、今のお前ならダメだろうな。選挙自体は今のままでも知名度もあるし、イメージもいいからクリアできるかも知れないが、問題解決にバッジの威光を使えるとは思えないよな」
「それじゃ、やはり私以外の人が選挙に出た方が良くない?」
「いや、言い方悪いが、この活動のパンダになるのはお前しかいないと思うよ」
「パンダ?」
「玄さん、パンダはかわいそうよ。象徴とか言えないの」
「あはは、まあその辺はいいじゃないか。言い方はさておき、この活動で最初に浮かぶ顔は雪、お前だよ。どうしても狡い手段を使わなければいけない状況になった時、お前はそれを他のメンバーに委ねるのか?それでいいのか?」
「狡い手段というのがイメージできないけど、自分が嫌なことを他のメンバーには委ねられないと思う。ただ、自分で狡い手段を使う自信もないわ」
「議員になるメリットは他にもあるだろうから、その辺りを周りのメンバーと話してみたらどうだ」
「そうだね、そもそも私が議員の活動をどこまで理解しているのか怪しいしね。エマさんとか高橋さんとか、実際に経験のある人にも聞いてみるよ」
「おばさん、じゃなくて雪姉ちゃん、ゲームしよ!」
「お、今、なんか変な声が聞こえたような気もするけど、、、よし、やろう!!」
雪が翌日、朝食を摂ってから出かける姿を見送った後、恵美子が玄吉に言った。
「雪ちゃん、大丈夫かしら」
「うん、そういった場に立ったことはないだろうから戸惑うだろうな。だけど、あいつの周りには味方が沢山いるから大丈夫だよ」
「そうだね、それでも迷ったり悩んだりしたら助けてあげてね、玄吉おじさん!」
その後、出馬するかどうかについては更に検討を行うこととなり、議員活動をすることのメリット、デメリットなどを踏まえて議論が重ねられた。そんなある日、活動が停滞している企業にヒアリングしたメンバーが門前払いを食ったという報告がなされた。
「高梨さん、どうしたの?」
「これまで報告書を提出してくれていた興南海産さんから報告書が届かなかったので、確認するつもりで電話してみました。だけど、何だか曖昧な回答だったので話を聞きにオフィスまで行ってきました。そうしたら、社長さんが出てこられて、あんたじゃ話にならんから責任者を連れて来いと言われました」
「報告書が提出されなかった理由とかの説明も無かったの?」
「ええ、責任者を連れて来るのは構わないので簡単で結構ですから状況を教えてもらえませんか、と言っても、とにかく【責任者を連れて来い】の一点張りで」
「そう、それは大変だったね」
「興南海産はこれまでどんな状況だった?」
「高梨さん、わかりますか」
「ええ、積極的とまでは言えませんが、趣旨に賛同してくれて、地道に活動を行ってきています。報告書も当初から提出してくれています」
「電話した時に気づいたことはありますか?」
「それが、担当の方に繋いで頂こうとしたのですが、最初は出張で不在と言うことでした。出張から戻ると言われた翌日に再度連絡したのですが、今度は、担当が変わって引き継ぎがまだ上手くいっていないとのことでした。担当が変わると聞いたので、ご挨拶も兼ねて訪問させてもらう旨を告げて伺ったのですが、出てきたのは社長さんだけでした」
「困ったね。高橋さん、どう思います?」
「今の話だけでは何とも言えないな。責任者に会いたいと言うのだから、とりあえず、誰か肩書をもった人間をいかせてみたらどうだろう」
「肩書ですか」
「私が推進派の議員さんを連れて行ってきましょうか」
「エマさん、お願いできますか」
一週間後、社長との会談を終えたエマが状況を皆に伝えた。
「エマさん、どうでした?」
「昨日、比嘉社長にお会いしてきました。結果から述べると、今後も今まで通り活動してくださることになりました」
「そう、それは良かった。だけど、それまでの反応はどう言うことだったんですか」
「それがね、全然大したことじゃなかったの。比嘉社長はこの活動を進めることについて何ら問題視はしていなかったの。だけど、興南海産の担当者が、悪気とかではなく、私達の活動が良く見えないと社長に言ってしまったの。当たり前のことだけど、その担当者が私達とやり取りする際にはこちら側もスタッフの誰かが応対するでしょ。だけど、活動全体を大局的に見て舵取りをしているところがよくわからないといったことを軽い気持ちで比嘉社長に伝えたらしいの。それを聞いた比嘉社長が、今のままで大丈夫なのか、それなりの立場にある人間から確認しようとなったのよ」
「え、でもそれって、高梨さん達が説明できる内容なんじゃないの」
「そうよ、そのレベルの話だわ。だけど、比嘉社長とお話しした感じでは、ある程度の肩書を持った人から聞きたかったみたい」
「何ですか、それ。つまらない話じゃないですか」
「いや、そうとも言えないぞ」
「え、どう言うことですか、高橋さん」
「私は比嘉社長がどう言う人か知らないが、資料を見ると興南海産は地元に根付いた中小企業だよな。そう言う会社の経営者は、判断する際に相手の肩書きを重視することがある。今回、エマさんが説明に連れて行ったのは沖縄県議だ。地元の中小企業からすれば仕事に繋がる立場にいる人間であり、そういった類の人間が言うことであれば信用に足り得ると考えることは十分に想像できる」
「そうなんだ。何だか変な話ですね。それって相手の中身を見ていないってことですよね」
「まあ、百パーセントとは言わないけどな。ただ、県議の匙加減で仕事に影響することは日常茶飯事だし、お前も比嘉社長の立場に立ったら同じような思考になるかも知れないぞ」
「うーん、あまり考えたくないですね。でも、それが現実なんですね」
打合せの後、雪は玄吉に指摘されたことを思い出していた。
【私が議員になったら今回のようにバッジの威光を借りないといけないのかぁ、本当にそんなことできるかなぁ】
出馬に関する打合せの場で雪は皆に問い掛けた。
「仮に私が出馬して議員になったとします。そして、先日の興南海産みたいな事案があった時、私はバッジの威光を借りるような行動・言動を取れる自信がないです」
「それでも同じような状況は起こり得るぞ。その場合、お前はどうする?」
「バッジはつけていても、今と変わらぬスタンスで対峙することしかできないと思います。そんな私が出馬していいんでしょうか」
「雪ちゃん、私はそれで良いと思うよ」
「エマさん、でも相手が望むのはバッジの威光なんですよね」
「俺も良いと思うぞ。お前には妙な説得力があるしな。相手もその話しぶりをバッジの威光と混同するかも知れん」
「高橋さん、それって褒めてるんですか?貶してるんですか?」
「そんなことどうでも良いじゃないか。そもそも、お前がその性格を変えることなんてできないだろうし」
「え、そ、それは私も否定できないかも・・・」
「あはは、雪ちゃん、そんなにしょげないで。高橋さんもみんなもそんなあなたの性格だからついて来ているのだから、もっと自信を持って良いのよ」
選挙までは一年を切っていたので、早速準備に取り掛かることになった。しかし、議員経験のある高橋やエマは、現状、次の選挙で現職議員を上回る票を得るのは難しいと考えた。ここ数年の活動で雪の知名度はある程度のレベルにあったが、最近の沖縄県議員選挙は投票率が伸び悩んでいた。一般的に、投票率が下がると浮動票は少なくなる。新たに立候補する雪の知名度が高まったとは言え、その多くは若者であり、選挙に行かない無党派層であることが推測される。一方、固定票の多くは現職議員を支持しており、雪に投票させるためには有権者にとって何らかのメリットを享受させなければならず、容易なことではなかった。これらのことを勘案すると、現状、当選できる可能性は低いだろうというのが彼らの見解だった。
「活動自体は多くの県民が肯定してくれるとは思うの。だけど、選挙に行く人達の多くは、投票に対する見返りを期待するか、そのことを実感できる人達よ。自分や周辺の生活レベルが高まるとかね。一方、そう言ったことが期待できなくて諦めてしまっている人達は投票することを最初から放棄してしまっている。まず、後者の人達をこちらに取り込みにいってはどうかしら」
「エマさん、そんなことできるんですか?」
「簡単ではないけど、雪ちゃんの周りには情報を発信できる人が多くいるから、影響を与えることはできると思うよ」
「そうだな、沖縄は地理的に他県と隔てているせいか、県民性が県内のどこでも似ているようなところがある。情報を上手く活用して県民性に訴え掛ければ、大きな流れを作ることができるかも知れないな」
「勿論、今の活動を継続することが、未来の生活に好影響を与えることもきちんと伝えないといけないわ。多くは間接的な効果とか、文化・風土と言った精神的なことになるけど、とても大事なことだわ」
「私にそんなことできるかしら」
「相変わらずだな、お前は。どうでも良いところで弱気になるのは癖なのか?お前は今まで通りにやれば良いよ。お前は今の活動を続けることで、五十年、百年先の美ら海を守ると言っているじゃないか」
「それはそうですけど。議員に期待をしない人達を選挙に向かわせるとか、どうすれば良いのかさっぱりわからないですよ」
「あはは、雪ちゃん、そこはあなたが考えなくて良いわよ。そこは私や高橋さんや、スタッフのみんなと相談して、活動に肯定的なメディアや団体、例えば首都テレビとか美ら海水族館だとかに掛け合って行くから」
「お前は何でも自分でやろうとすることが習慣になっているからな。どうしても、何でもかんでも受け止めようとするよな。ただな、この活動は、どう考えても個人でできることではないし、まあ、そこはお前もわかっているだろうが、今後は加速度的にステークホルダが増えていく。そうするとお前が全ての細かいことまで把握することは到底できなくなる」
「そうなったらどうすれば良いんですか」
「信頼できるスタッフで構成された組織を構築して、責任を分散させるのさ。幸運にも今、この集まりは良い形で動けている。これをベースに拡大していければ良い活動になっていくさ」
「高橋さん、何だか他人事みたいです」
「お前、俺の立場、わかっているよな?」
「あ、そうでした、失礼しました」
「まったく・・・」
雪が出馬することはすぐに関係者に伝えられた。選挙までの半年間、出馬することを前提に雪の知名度アップを如何に図るか、そして、今まで投票を放棄していた県民を如何にして取り込むかが検討された。首都テレビは改めて活動を取り上げ、活動の先にある間接的な効果や、美ら海を守る文化・風土の大切さを伝えた。また、大垣の力を借り、地元のFM局、琉球RADIOで週に一度、活動を取り上げてもらえるようになった。時間は短いものの、毎回、雪が出演することになった。
「今日から始まった新コーナー【美ら海を元気にするプロジェクト】です。お話ししていただけるのは、N P O美ら海スマイルのメンバーとして活動されている海藤雪さんです。海藤さんは二年前に制定された沖縄県条例【美ら海を元気にする条例】の策定委員および推進委員としても活動されてきました。海藤さん、よろしくお願いします」
「あ、はい、こちらこそ、よ、よろしくお願い致します」
「海藤さん、少し緊張されているみたいですね。一回、深呼吸しましょうか」
「あ、は、はい、んー、ふー、、、」
「ははは、声は出さなくて良いですよ」
「あぁ、す、すみません、何だか舞いあがっちゃってるみたいです」
最初の回こそ緊張して上手く話せなかった雪だったが、逆にリスナーが好印象として捉えてくれた。既に活動を知っているリスナーからは質問や励ましのメッセージが届いた。二回目以降は多少落ち着いた雪に対して、パーソナリティの花田麻衣が上手く活動に関する情報を引き出してくれた。聞かれるままに応えて行くうちに落ち着きを取り戻した雪は、自分の想いを電波に乗せ続けるようになった。結果的にはこの番組への出演がターニングポイントとなった。リスナーの多くは地元、沖縄に生まれ育った二十代から四十代の女性達だった。彼女達は今の沖縄県政に疑問を持ち、支持する政党を持たず、選挙に出向かない無党派層だった。
選挙前まで続いた番組は、突出した数字は残さなかったものの、コンスタントな聴取率を示した。
「今回でこのコーナーは終了となりますが、多くのリスナーからたくさんのメッセージが届いています。パーソナリティとして色々な番組を担当させてもらいましたが、ここまで多くのメッセージが届いたのは初めてです。リスナーのみなさんも、美ら海に対する想いが強いということなのでしょうか。雪さん、どう思われますか」
「はい、メッセージはすべて読ませていただきました。圧倒的に多かったのが、いつまでも美ら海が綺麗であって欲しい、そのためにできることがあれば自分も行動したい、というものでした。とても嬉しいですし、ありがたいことだと思いました。みなさん、本当にありがとうございます」
「雪さんは今回が最後の出演となりますが、この後、どういった活動をして行かれるのでしょうか」
「はい、今まで通り、条例を推進していきます。ただ、この活動は先日もお伝えしたように、数年、数十年と言ったレンジで考え・行動して行かなければいけない側面があります。その場合、今まで以上に公共の役割が重要になってきます。私は、その場に入り込んで活動の枠を広げていきたいと考えています」
「それは公人になると言うことですか」
「はい、次回の沖縄県議員選挙に挑戦しようと考えています」
ラジオへの出演は終了となったが、最終回が終わった後も続々とメッセージが届いた。メッセージの多くは、議員として更なる飛躍を望むもので、次の選挙には行って雪に投票する、と言うものもかなり含まれていた。
「ラジオをきっかけに、無党派層の票がある程度見込めそうになってきたな」
「リスナーだけじゃ少ないので、YouTubeとかも駆使してみてはどうですか」
「そうだな、それをリスナーから口コミで広めてもらえればある程度拡散できるかも知れない」
「美ら海水族館や、観光協会とかにお願いするのはどうですか」
「情報発信のきっかけとしては良いかも知れない。ただ、票に繋げるのであれば、学校関係も良いかも知れない。子育て世代は無党派層の比率が高いからな」
無党派層へのアプローチはある程度目処が着き始めたが、一方、既存の議員を支持している層へのアプローチは難航していた。沖縄は観光面では他県に引けを取らないが、そこに住む人々の生活は、経済・医療・福祉・教育など、どの面においてもそれほど高いものではない。そして、生活圏が都会ほど広くないことや人の流動性なども踏まえると、支持層と既存議員の間にはある程度の繋がりが確立されていた。そこから票を獲得するのは簡単なことではなかった。妙案が見つからないまま、告示日が目前に迫っていた。
告示日を二週間後に控えたある日、当選五回のベテラン議員、高見沢が交通事故で死亡した。高見沢は条例策定委員会が発足した当初から積極的に活動してくれた委員だった。
「さっき、高見沢さんの後援会長から今度の選挙について聞かれたよ」
「どう言った内容ですか」
「海藤が出馬するそうだが、後援会はもう設立したかと言われたよ」
「後援会ですか」
「ああ、高見沢さんがああ言う形で急逝されて、後を継ぐ者もいないらしい。生前、高見沢さんは条例について強い想いを持っていたらしく、後援会としては、同じ意志を持つ海藤を応援しようという話が出ているそうだ。勿論、条例以外について海藤がどう考え、どう行動していくか、その点を見極めてからだけどな」
「仮に応援してもらえるとして、それって、ルール的に問題ないんですか」
「先日申請した後援会に合流してもらう分には何ら問題ないと思われます」
「それじゃぁ、先方には高梨君から連絡すると伝えておけば良いかな」
「はい、それで構いません。逆に色々と教えていただけるでしょうから助かります」
「わかった、連絡しておく。あと、海藤、早々に挨拶に行ってこいよ」
「は、はい。でも、なんて言えば・・・」
「全くお前は・・・。佐々木君、一緒に行ってやってくれないか。まだしばらくは一人で行動させない方が良さそうだ」
「あはは、わかりました。高橋さんの胃が痛まないよう、原稿でも作りましょうかね」
「エマさん、よろしくお願いします」
高見沢の急逝は雪にとって大きなターニングポイントとなった。高見沢が行ってきた地元有権者への接し方を、長年、高見沢の秘書としてサポートしてきた下地が色々と教えてくれた。長年、地元のために活動してきた高見沢の言動は、その多くが参考になった。自分が政治家としてどのように行動すれば良いのか、少しずつわかっていった。一方、長く続けることで馴れ合ってしまう面も散見され、雪が描く政治家像を作る上で色々と考えることができた。
「エマさん、今日の説明会どうでした。自分なりに丁寧に説明したつもりだけど、みなさん、ほとんど反応なかったみたいで心配なんですけど」
「大丈夫よ。興味がない人や受け入れる気がない人達は、説明の途中から話を聞かないことが多いけど、今日の参加者は最後まで雪ちゃんの話に耳を傾けていたから」
「そうですか。エマさんがそう言うなら大丈夫ですね。前向きに受け止めておきます」
「そうそう、雪ちゃんはそうでなきゃ!」
高見沢の後援会メンバーは概ね雪の人となりを受け入れてくれた。その結果、告示日を迎えた時点で半数以上のメンバーが雪の後援会に合流してくれた。また、新たに加わってくれたメンバーを通じて有権者にアピールすることで、懸念となっていた既存票の獲得にもある程度目処が付き始めた。
「この二週間、無我夢中でやってきたけどどうなんだろう」
「なんだ、お前らしくないな」
「だって、二回目の選挙と言っても事実上初めてみたいなものだし、エマさんや高橋さんに言われるがままに動いて話して握手して、こんなんで当選できるのかなって」
「あはは、雪おばさんが珍しく弱気になっている」
「由佳、おばさんじゃなくてお姉さんでしょ」
「あ、そこは反応するんだ」
投票日の前日、選挙演説がひと段落した合間に大浦家を訪ねた雪は、玄吉や由佳と他愛のない話をすることで、張り詰めた自分の気持ちを治めようとしていた。
「まあ、ここまで来たら、後は野となれ山となれ、なんじゃないか」
「そうだよね。もう、やることはやったし、ここから先は私がどうこうできることでもないしね」
「当選したら雪姉ちゃんも先生って呼ばれるの?」
「そうだぞ、由佳。そうしたらお前もお姉ちゃんのことを先生って呼びなさい」
「もう、おじさんたら、由佳に変なことを言わないでよ。由佳、仮に当選しても先生なんて呼ばないでよ」
翌日、夕方で締め切られた投票結果は、即日開票で次々と当選確実の報が流れていた。
「国頭郡選挙区では海藤候補の票が大きく伸びています。定員二の選挙区ですが、高見沢氏が選挙直前に急逝され五人が立候補しています。あっ、今、当選確実となったようです。海藤候補は二回目の出馬ですが、【美ら海を元気にする条例】の策定および推進に大いに関与してきました。また、今回の選挙では高見沢氏の地盤を引き継いだこともあり、大きく票を獲得した模様です」
全ての票が集計された結果、雪は圧倒的な得票で沖縄県議員となった。
初登庁から雪の生活は一変した。議員としての活動はそれまでのものとはまるっきり異なるものだった。議会や部会へ参加することは条例策定委員会で多少経験をしていたのでそれほどの違和感はなかったが、後援会をはじめ、有権者との付き合いはなかなか慣れなかった。表面上は、有権者の実情を聞き、可能であれば公共の力を用いて改善していくことだったが、多くの仕事はもっと泥臭かった。例えば、有権者の身内に不幸があれば、有権者の肩書きや地元での影響力に応じて弔電や香典を用意するのだが、中には会ったこともない有権者の対応になることもある。雪が用意する香典などは議員報酬与から支払ったが、それも元を辿れば徴収した税金であり、そういった慣習に慣れていない雪にしてみれば、違和感を持つのも当たり前であった。
「まあ、こんな田舎じゃ、頼りになるのは議員様くらいだからな」
「でも、私が働きかけたって、たかが知れてるわよ。今のところどこの派閥にも属していないし、経験もないからコネもないし、ナイナイ尽くしの新人議員なんて役に立たないでしょ」
「随分と卑下しているな。そんなことで大丈夫なのか」
「別に卑下してるわけじゃないけど、実際、そうだからね。それに、条例を進めていくことは今までと変わりなくやれてるから今のところ問題はないよ」
議員としての活動にある程度慣れてきた頃、条例制定から三度目の報告会が沖縄県議会で行われた。条例の認知度は確実に向上し、一部の海では珊瑚礁の保全活動が軌道に乗り、珊瑚の植え付けが広がりつつあった。ところが、その一ヶ月後に行われた美ら海スマイルの打合せで崇宏から気になることが報告された。
「先日、国頭村に設置した観測点から気になる物質が検知されました。通常、自然界に存在しない物質なので、近隣の工場などから排出されていると思われます」
「海への影響はどうなの?」
「詳しく調べないと何とも言えないけど、今回見つかった量であればすぐにどうこうというものでは無いよ」
「そう、それは良かった。でも、国頭村って私の地元じゃない。どこなの?」
「観測点は安田のフンガー湖近辺だよ」
「そうすると普久川経由で海に流れ込む可能性があるのかな」
「そうだろうな。ただ、さっきも言ったように見つかった量は少ないから早めに手を打てば大丈夫なんじゃないかな」
「崇宏、一緒に現地調査に行ってもらえる」
「勿論、行くよ。でもお前は議員活動でそれどころじゃないだろ。とりあえずこっちで当たりをつけて来るよ」
「うーん、私も現地に行きたいなぁ。。。実家も近くだし・・・」
「雪ちゃん、今回の件は宮里さんにお願いしましょう」
「えー、は、はい」
「大将はデンと構えていれば良い」
「えー、高橋さんまでそんなこと・・・」
崇宏が調べたところ、観測点から少し登ったところに石油精製企業の研究棟が三年前に建設されていたことがわかった。研究棟のため、検知された物質が大量に排出されていることはないと思われたが、事実確認のため、条例推進を担当している県の職員を伴ってヒアリングを行うことになった。崇宏が調べたデータを研究棟の担当者に見せたところ、実験で使用する洗浄剤に指摘された成分が含まれていることがわかった。ただ、担当者は、洗浄剤を含んだ排水は国の基準を守っており問題はないと主張した。
「現時点では海への影響は確認できていませんが、このまま排出し続ければ、いつかは海に流れ出した成分が影響をもたらすと考えて良いと思います。その旨を担当者に伝えましたが、その場では検討する旨の回答しか得られませんでした」
「先方は条例のことを認識しているの?」
「一応知っているとのことだったけど、念の為、県の職員から条例に関する資料を渡して説明してもらったよ。まあ、あまり真剣に聞いてはいなかったみたいだけどね」
「沖北石油と言えば大手だよね。条例に賛同していないのかな。高梨さん、知ってる?」
「ええ、宮里さんに聞いて調べましたが、条例制定当初から賛同してくれています。報告書もきちんと上がってきていますし、特に問題も生じていないですね」
「そっか、今回は研究棟における事象だからそこまで上手く伝わっていないのかな」
「報告書を上げてくれている担当者に聞いてみましょうか」
「そうね、お願い」
高梨が担当者に連絡して聞いたところ、事実認識がなかったとのことだった。担当者は、社内で検討する旨を告げて電話を切った。
一ヶ月後、高梨が那覇市内にある沖北石油の本社に出向いて担当者から状況を聞いた。すると担当者は、【研究棟からの排出量は基準をクリアしており問題ないと認識している】とだけ告げて席を立とうとした。高梨が将来的に海への影響を懸念していることを伝えたが、それには、【現時点では影響が出るかどうかわからないので対策を講じる予定はない】と回答して打合せを終えた。
「恐らく、対策を講じることのメリット・デメリットを天秤にかけたのだろう」
「企業イメージですか?」
「ああ、それもひとつあるよな。ただ、沖北石油は本業できちんと条例を遵守しているし、そのことを企業P Rにも使用している。今回の事象は彼らが主張するように、現時点では影響範囲も度合いも定かではないから、仮に世間に流れたとしても影響は軽微と考えたのだろう」
「対策を講じるのは難しいのかな」
「それは宮里君の方がよくわかっているのでは」
「研究棟の中で行われている実験がどういうものかによってくるけど、我々が推奨している基準以内に抑えようとすると、実験方法を変えるとか、排出水の濃度を下げる装置の導入とかが必要になると思うよ。仮に装置の導入となると、数千万程度のコストがかかるかな」
「決して安い金額じゃないのね。でも、このまま排出を続けたら影響が出るんでしょ?」
「そうだな。先方から提供してもらった排出量から試算したら、数年続ければ海に流出する可能性があると思うよ。まあ正確には、山から海にどの程度の量が流出するのか、観測していかないとわからないけどな」
「今回の事案は確かに問題ありだ。ただ、それ以上に問題なのは、こういった事象が他にも存在し得ると言うことだろうな」
「高橋さん、どう言うことですか」
「お前さんも薄々勘付いているのだろ。企業は何と言っても利益を上げないといけない組織だからな。いくら美ら海が大事と言っても、経営が成り立たないことにはどうしようもない。建前では条例を遵守していると報告しつつ、今回のように部分的に遵守できていない事象をどうやって炙り出していくか、また、それをどうやって改善していくか、根の深い問題だろうな」
担当者を説得するための材料が見つからないまま条例推進委員会の会合を迎えた。その場で雪が報告をし、現時点では対策が見つかっていない旨を伝えたところ、委員の一人から香川県の取り組みを参考にしてみてはどうかとの意見があった。その委員によると、香川県でも海洋問題が深刻になり、県を挙げて改善に取り組んでいるとのことだった。【かがわの里海づくり】と称して行われている活動を知ることで今回の問題だけでなく、今後の条例推進に役立つのではないかと委員は告げた。委員会として、委員の雪、オブザーバの崇宏、それと事務局スタッフの高梨を現地に派遣することが決まった。先方担当者とのスケジュール調整を行い、三週間後、三人は香川県庁の会議室で【かがわの里海づくり】の概要と現状を聞いた。
「まだまだ道半ばではありますが、県民・企業・行政が上手く連携できることに重きを置いて活動しています」
「丁寧にご説明いただき、ありがとうございます。海底堆積ごみ回収・処理システムをはじめ色々な仕組みの整備や、かがわ里海大学を通じた普及活動など、とても参考になります。ところで、先日、高梨から簡単にお伝えした、海水汚染に影響する懸念がある物質の流出のような事例についてはどう思われますか」
「ああ、その件については我々の方でも度々生じていますよ。いくら海が大事と言っても、企業にしてみれば利益を上げなければ存続できないですからね。ある面、仕方のない問題ですね」
「でも、そのまま放っておいたら海洋汚染の一因になりかねないですよね。そうなってからだと、こちらのビジョンにも書かれているように、長い年月をかけないと元には戻らないですよね」
「そうですよね、ほんっと、頭の痛い問題です。我々としては何とか歩み寄れないか、様々な角度から検討を行っては試行する。その繰り返しですね」
「例えばどんなことをされているのですか」
「我々が一番大事にしているのは情報ですね」
「情報ですか」
「ええ、今はネットが普及してあらゆるところから情報を入手できる時代になりましたが、それでも必要な情報がどこにあるかがわからないと活用することはできません。だからと言って、私がいる行政が全ての情報を集約することは不可能です。そこで考えたのは、【かがわの里海作り】に関係する全ての人が情報を共有できることを目指しています。勿論、全ての人が全ての情報を共有することは不可能ですし、あまり意味がないです。ただ、同じドメイン、分野とか縄張りと言えばわかりやすいですかね、そこに属する人達にとって必要な情報がどこにあるかがわかれば、何か問題に直面した時など、役に立つのではないかという考えです」
「それって、例えば今回私達が対面している問題なら、流出物質の海洋への影響度とか排出方法とか、そういったことですか」
「そうです。実は先ほどもお伝えしたように香川県内でも同じような事象が生じたことがあります。その時、改善のきっかけになったのは、他社が行った危険物質を削減する改善事例や排出方法改善における助成でした。この時の改善事例を持っていた企業は同じ業種ではなく異なる業種でしたが、【かがわの里海作り】を推進する過程で企業から提出された報告書に記載されていた情報でした。また、助成については、【かがわの里海作り】とはまるっきり異なるところで制定されたルールでしたが、ワーキンググループへの問いかけに対して県民から指摘されたものでした」
「それは素晴らしいですね。私達も県民・企業・行政の連携が大事だと思っていましたが、まだまだなんですね」
「そうとも限らないのではないでしょうか。今回は成功した事例をお伝えしているので煌びやかに見えると思いますが、現実では解決できない課題が数多く存在しています。ただ、大事なのは活動を推進する側が連携することや情報を共有することの重要さを認識して、そのことを繰り返し関係各所に伝えていくことじゃないでしょうか。言ってみれば海藤さんも私も伝道者なのですかね」
「伝道者ですか。そうですね、振り返るといつの間にか私の周りには伝道者が沢山います!」
「それは羨ましい。我々も一人でも多くの伝道者を育てていきますよ」
雪達三人は、三日間の滞在中、できるだけ多くの関係者に会って話を聞いた。積極的に活動している彼らは、みな、前向きな言葉を発していたが、雪が一番気になったのは活動を楽しもうとしていることだった。それは言葉の端々にも現れていたが、何よりもその表情が楽しもうとしていることを物語っていた。二日目の晩、夕食を摂りながらそのことを二人に伝えた。
「そうですね、私も同じことを感じていました。みなさん、本当に楽しんでいることがどんどん伝わってきて、何だかこちらまで楽しくなってしまいましたよ」
「そうだね。言い方変だけど、地味な活動をしている人は直接楽しいことはそうそうないはずなのに、それでも表情からは楽しんでいるのがわかったよね」
「翻って、私達はどうなのでしょう。あそこまで楽しめていますかね」
「考えたことがないから何とも言えないな。そもそも、この活動を楽しんで進めていくことが良いことなのかどうかも、今の俺にはわからないよ」
「そうだよね。ここに来るきっかけになった事案もそうだけど、改善してもらうことで企業側に負荷をかけてしまうし、そのことを楽しむというのも変だよね」
「まあ、捉え方なのかな。活動を推進していくことで痛みを伴うのは仕方がないけれど、その先にある明るい未来に辿り着くことを関係者全員の目標として共有できれば過程を楽しむこともできるのかも知れない」
「うーん、言うは易しだけど、なかなか大変なことだよね」
現地視察を終えた三人は、条例推進委員会の次回会合で報告を行った。
「このように、香川県の取組みは大変参考になるものでした。そして、改めて県民・企業・行政の連携がとても大事であることを実感しました。一方、一朝一夕にはいかないこと、また、推進するメンバーの意識改革がまだまだ不十分であることを認識させられました」
「それで、先日の事案への対策はまとまったのでしょうか」
「具体的な策はさらに詰めていかないといけないのですが、少なくとも、山の活動を推進するリーダーシップを今以上に明確にしていく必要があると考えています」
「どういうことですか」
「今回の事案は、香川県でも似たような事例があったそうです。その時は、情報を共有することで改善策を講じることができたそうです。私達の活動でも情報共有は行なっていますが、主に同じ分野のそれになりがちです。香川県のように、異なる分野間でも情報共有を行うことで、課題解決のキッカケにしていくことは効果的だと思われます。その際、各分野のリーダーシップを強化することで、分野間の連携を強くしてはどうかと考えています」
「リーダーシップを担っていただく方の目処はあるのですか」
「これはまだ私の考えなのでみなさんのご意見を伺わなければいけないのですが、エネエーシー社の近藤社長にお願いできないかと考えています。近藤社長は条例に積極的に関与してくださっていますし、エネエーシー社が行う新エネルギーの開発や産廃処理における海洋への影響にも大いに興味を持たれています。そんな方の元に他分野の情報を集約し、山で活動する関係者に発信できれば多少なりとも改善が進むのではないかと考えています」
雪の意見が採択され、山の活動を担う企業・行政のワーキンググループが発足された。リーダーは、雪の依頼を受けて近藤社長が担うことになった。ワーキンググループでは沖北石油の事案が紹介され、今後について検討が行われた。そこでは沖北石油の主張、国の基準を遵守していて現時点での影響は未確認、が尊重された。一方、現状のままでは将来的に影響が出る可能性が否めないため、どういった対策が現実的なのかが検討された。
第九章 亜希
「とりあえずワーキンググループで検討されることになったから、このまま海洋に影響を及ぼすことはなさそうだな」
「そうね、近藤社長も自らワーキングループの会合に参加してまとめてくれていたし、何よりだわ。ただ、今後もこういうことが生じる度に振り回されるのかなぁ。その度、崇宏に助けを乞うと言うのもなぁ」
「何だよその言い方は。。。いっそのこと結婚するか」
「ん、えっ、今、なんて言った?」
「いや、いっそのこと結婚するか、って」
「何、それ、なんでいきなり結婚なの。それに、いっそのことって、何にも繋がってないじゃない」
「そんなに興奮するなよ」
「あ、そもそも崇宏、結婚してたよね」
「あれ、言ってなかったっけ?別れたよ、二十五歳の時」
「えぇ、そんなの聞いてないよぉ」
「まあ、いいじゃないか、そんなこと。それより、お前、誰かいるのか?」
「そんなことって、、、いや、結婚とか、忙しくてそんなこと考える暇もなかったよ」
「それじゃ問題ないじゃないか。それともあれか、俺じゃ嫌か?」
「え、そんな風に言われても、、、考えたことなかったし」
「それじゃ少し考えてみてくれよ。それじゃ、俺、こっちだから」
「あっ、う、うん」
歩いていく崇宏の後ろ姿を見るともなしに雪は思った。今まで考えたこともなかった崇宏との結婚だったが、高校生の頃、淡い想いを抱いていたことを思い出した。気づいてみれば、お互い三十八歳、若くはない年齢になっていた。
「それもありなの、かな」
三ヶ月後、親しい人を招き二人の結婚を祝う場を設けた。那覇市内のイタリアンレストランで行われたそれは、ウェディングドレスも雛壇もなかったが、集まった人々の気持ちに見守られ、とても温かみのあるパーティだった。
「雪姉ちゃん、おめでとう!!」
「由佳、ありがとう。由佳も今度中学生だね。楽しんでね」
「なんだ、ウエディングドレスじゃないのか」
「うん、何だかそういう感じじゃなかったのよねぇ」
「まあ、お前らしいよ。おめでとう!」
「ありがとう」
「雪ちゃん、おめでとう!とっても綺麗だよ」
「ありがとう、恵美子さん。何だか照れ臭いよ。それに、おじさんのことだから何か言われるかなと思ってたけど何も言われなかった」
「今はね、感無量で何も言えないだけよ。結婚が決まってからは毎日のようにバタバタして大変だったのよ。俺は何を着ていけばいいのかなとか、何を言えばいいのかなとか、もう笑っちゃうくらい動揺していたのよ」
「あはは、おじさん、意外と小心者だなぁ」
「でもね、私が知る限り、雪ちゃんの結婚を一番喜んだ人だよ。あの人にすれば、姪っ子というより娘みたいなものだからね」
「そっか、何だか嬉しいな」
みんなに祝福されて始まった新しい生活は、相変わらず忙しい日々の連続だった。雪は議員として地元を回る仕事に加え、条例推進の活動にこれまで以上の時間を掛けるようになっていた。美ら海スマイルを中心に【かがわの里海作り】で知り得たノウハウを詰め込むべく、多方面の関係者と協力しながら活動を広げていった。ある日、雪が実家に立ち寄った時、母親から問われた。
「相変わらず忙しそうだねぇ」
「うん、議員の仕事って思った以上にあるんだよね。美ら海スマイルの方は高梨さん達に頑張ってもらっているんだけど、どうしても手が足りないから手伝わないといけないし、香川県で見聞きしてきたことも伝えないといけないしね」
「身体は大事にしなさいよ。それと、子供はどうするんだい。お前ももうすぐ四十だろう」
「まだ三十八だよ。と言ってもあと一年半か」
「最近は高齢出産も珍しくなくなってきてはいるけど、リスクは高くなるって聞いたよ」
「そうみたいね。まあ、何とかなるっしょ」
「もう、この子は。玄吉のとこも遅かったけど、何だってあんた達は似たようなことばかりするのかねぇ」
一年後、母親の心配を他所に、雪は女の子を産んだ。三十九歳の出産には色々なリスクが伴うが、悪阻も軽く済み、合併症などを併発することもなく、予定日その日に亜希は元気な産声を挙げた。
「うわぁ、ちっちゃい!顔真っ赤だし、お猿さんみたい」
「こら、由佳、そんなこと言わないの。可愛いじゃない、亜希ちゃん」
「恵美子さん、ありがとう。由佳、本当に猿みたいだよね。でもね、私には亜希が天使のように見えるんだ。きっと、由佳もお嫁さんになって子供を産んだらこの気持ちがわかるはずだよ」
「ふーん、そう言うものなのか。お母さん、私が産まれた時もこんな風にお猿さんみたいだった?」
「もう、由佳ったら。そうね、冷静に見れば由佳もお猿さんみたいな可愛い赤ん坊だったよ」
「それじゃ大丈夫だよ。亜希も私みたいに可愛くなるよ」
「あはは、由佳のこの性格、やっぱりおじさんの血を継いでるね。あれ、ところで今日、おじさんは仕事?」
「ううん、途中までは一緒に来たのよ。だけど、照れ臭いみたいで途中で【仕事があった】とか何とか言って逃げちゃった。まったくしょうもない大叔父ちゃんですねぇ」
「何を照れてるんだろう」
「そりゃ、玄さんにしてみれば大事な雪ちゃんはいつまでも子供のままだからね。子供が子供を産むことになって脳が混乱しているのよ」
「やだ、何それ」
病室の外には、女性四人の笑い声が壁になって、中に入れない玄吉が途方に暮れて立ち尽くしていた。
【まったく、言いたい放題言いやがって・・・】
退院した雪は育休制度を利用して子育てを優先した。しかし、県議員という立場で制度を利用することに異を唱える声は多く、最長、十六週間と定められた期間のうち、ほぼ一ヶ月で断念した。雪に直接話してくる輩はいなかったが、S N S上では匿名を良いことに中傷されることがあった。一度、その手のメッセージが投稿されると、楽しんでいるのか、便乗して無責任な発言をする者が続いた。
「せめて二歳くらいまでは面倒見てあげたいよね。うちは由佳の出産を機に退職したから大丈夫だったけど」
「うん、そうだよね。だけど、今の状況じゃ議員を続けながら育休を取ったら何を言われるかわからないし、仕方ないよ」
「仕事の時はどうするの?連れて行くの?」
「当面はお母さんに来てもらうことにした。議員の仕事は定例会に絞って、家でできることに注力することにしたの。地元の対応とかは下地さん達が代わりにやってくれると言ってくれたから、本当に助かったわ」
「そうか、大変だろうけど頑張ってね。困ったら言ってね、私にできることがあれば手伝うから」
「恵美子さん、ありがとう。恵美子さんがおじさんを選んでくれてほんっと良かった!」
「もう、何言っているの」
子育てが始まった当初は、仕事とのバランスが上手く取れずに失敗することもあった。それでも、母や崇宏、恵美子達のサポートもあり、徐々に生活のリズムが身についてきた。今までより自宅にいる時間が長くなったこともあり、手の空いた時にはデータ分析をするなど、できるだけ、条例の状況を知るようにした。
「おいおい、亜希のことで疲れているし、条例のことはしばらく放っておいてもいいじゃないか」
「うん、そうなんだけどね。放っておくと逆に気になっちゃって、精神衛生上、良くないんだよねぇ」
「まったく、そういう所、子供の頃から変わってないよな。何に対しても全力で走らないと気が済まない性格だからな。なあ、亜希」
「崇宏に言われたくないな。のめり込んで漁師やめちゃったくせに」
「それ言われると二言もないけどな。で、条例の方は何か変わったことあったのか?」
「うん、崇宏も前回の美ら海スマイルの会合に出たからわかってると思うけど、基本的には順調に進んでいるよね。あと、先日届いたデータを見ていて気づいたんだけど、県内の企業倒産件数が減ってきたわ」
「倒産件数か、それっていい傾向なんじゃないの」
「単純には言えないけど、その可能性は高いよね。昨年のデータも若干の減少が見られたけど、今年も引き続いて減少傾向を見せているんだよね。それと、観光業界の数値が他の業界に比べて若干だけど良くなっているの。もしかすると活動の効果が出ているのかも知れない」
「早くみんなに教えてやれよ」
「そうだね。私だけじゃなくて、高橋さんにもデータを見て貰えば、もっと詳しくわかるかも知れないしね。
データを一通り精査した後、雪は美ら海スマイルの関係者に自分の考えを伝えた。それを受けて高橋が再度精査を行い、他の情報と合わせて条例推進委員会の会合で報告することになった。活動の性格上、なかなか結果を目の前にすることが少ない委員会に久し振りにもたらされた吉報は、会合の空気を熱気を孕んだものに変えた。そして、条例制定から五年の歳月が流れた委員会に残った数少ない抵抗勢力は、この報告に何らコメントすることもなく下を向くばかりであった。
ある日、朱里が自宅を訪ねてきた。
「どうしたの、突然。仕事で何かあった?」
「何もないわよ。亜希ちゃんの顔を見に来たに決まっているじゃない。お産の時、日本にいなくて会えなかったからね。亜希ちゃん、朱里お姉ちゃんですよぉ」
「え、おばちゃんじゃないの・・・」
「ん、何か言った?」
「いえ、何も」
「仕事の方はどうなの?」
「うん、順調だよ。去年、移った会社、私に役員をやってくれと言うのよ。まだ五十人くらいの小さな会社とはいえ、無茶苦茶よね」
「え、すごいじゃない。アラフォーで会社役員、すごいなぁ」
「何だか棘があるように聞こえるけど、ま、いっか」
「役員と言っても小さな会社だからね、営業の延長みたいなものなの。まあ、それはいいのだけど、入社してすぐに任されたプロジェクトが好評でさ、今度、全国展開することになったのよ。それもあってこうやって亜希ちゃんに会いに来られたのよ」
「へえ、すごいねぇ。あの泣き虫の朱里がねぇ」
「何それ、泣き虫なのは雪の方じゃない」
「そうかなぁ。それで、プロジェクトってどんなことしているの」
「うん、実はね、雪達がやっている活動と密接な関係があるの」
「え、どう言うこと」
朱里達が立ち上げたプロジェクトは、行政と一緒になって地方を活性化させるものだった。地方都市が活力を取り戻す方策として、地域の自然を豊かにすることをコンセプトにしていた。最初に行ったのは、種類も数も減ってしまった房総半島の里山に住む昆虫を増やし、地域を活性化させると言うものだった。最初、行政に提案を行い、予算を組んでもらった。その予算を元に、昆虫が好む環境を構築したり、幼虫を野に放したりする。基本的には行政が主体となって活動するが、朱里達は計画段階で必要な専門家を招聘したり、活動の情報をS N S等を通じて発信したり、活動を軌道に乗せることに重きを置いていた。また、活動が立ち上がると、ネット上にコミュニティを構築し、活動をフォローする人々を集め、行政と個人を繋いでいった。
「まだまだ改善することは沢山あるのだけど、房総半島の昆虫を増やして活性化させることに興味を持ってフォローしてくれる人が、五万人を超えたの。それもたった半年でだよ」
「え、半年で五万人ってすごいじゃない。どうやったらそんなことができるの」
「まあ、そこは追々話すけど、こう言う活動を沖縄でもやれないかなと思っているの」
「え、沖縄で?」
「そう、そうすれば雪達がやっている活動の手助けにもなるかな、なんて」
「朱里、ありがとう!で、どうやるの?」
「ちょっと待ってよ。まだ、沖縄で仕掛けることは会社の誰にも話していないし、具体的には何もプランがないの。これから下調べをして、社内の稟議にかけて、それが通ってから具体化していくわ。」
ネットが発展し、どこにいても情報を拾える時代になっても、地方の状況はなかなか伝わりにくい。しかし、地方が活性化しなければ日本はいずれ立ち行かなくなる。そこに新しいビジネスの種があるのではないか。朱里達はそこに注目し、検討を重ねた。そして、自分達の得意分野であるI Tを活用して、地方と人を繋ぐことにフォーカスしたのである。
亜希が産まれてから三ヶ月が経ち、子育てのリズムが整ってきた頃、雪は亜希を連れて美ら海水族館を訪れた。流石に園内のあちこちを訪ねることはしなかったが、雪が来館したことは瞬く間に館内中に知れ渡り、時間の空いたスタッフが次から次へと二人の元を訪れた。その中には、真っ黒に日焼けした箭内も混じっていた。
「箭内館長、ご無沙汰しています」
「海藤君、私はもう館長じゃないよ。今じゃ単なるサポートスタッフだよ。まあ、どこまで役に立っているかは分からんけどね」
「お元気そうで何よりです。亜希、ママが大変お世話になった箭内館長さんだよ」
「おぉ、亜希ちゃん。可愛いねぇ」
「箭内館長も亜希の前じゃ単なるおじいちゃんと言った感じですね」
「あはは、何とでも言ってくれ。私は孫の世代には大変受けが良いのだから、亜希ちゃんもきっと喜んでくれるさ」
その時、雪の後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「箭内館長、亜希ちゃんを脅かしちゃダメですよ。箭内館長の顔は子供達にはちょっと強面に映るのですから」
「萩原さん、ご無沙汰しています。お元気でしたか」
「おぉ、ご無沙汰。俺は相変わらずだよ。海藤は議員になったり、亜希ちゃんを産んだり、色々と大変そうだな」
「ええ、相変わらずバタバタした日々を過ごしています。ただ、毎日、楽しいです」
「うん、それは何よりだ」
「萩原さん、今、【館長】と呼びませんでした?」
「ああ、この呼び方が染み付いちゃっているから言いやすいのさ。今の藤澤館長がいない時はついつい呼んでしまうよ」
「まあ、箭内館長はいつまで経ってもこの美ら海水族館の館長ですしね」
「そうだな、この人ほどこの美ら海水族館が似合う館長は他にいないよな」
「雪さん、ご無沙汰しています」
「あ、深雪さん、お久しぶり。何だか随分と雰囲気が変わったわね」
箭内と同じように日焼けした笑顔を見せて少女がぺこりとお辞儀した。美ら海水族館に就職したと聞いてはいたが、あの儚げな雰囲気を纏った少女は、いつの間にか太陽を目指す向日葵のように変身していた。
「ええ、この美ら海水族館に入ることができて、毎日、生き物達のお世話をしていたら逞しくなっちゃいました」
「元気そうで何よりだわ。あれ、でも美ら海には一般職として入ると言ってなかったっけ?」
「ええ、最初は総務のスタッフとして採用していただいたのですが、飼育員のみなさんをサポートしているうちに助手みたいな形になって、今では総務と現場を掛け持ちすることになっちゃいました。」
「えぇ、それはすごい!それで、今は何を担当しているの?」
「一ヶ月ほど前から海豚のチームに加わりました。毎日、勉強の日々ですけど、とても楽しいです」
「そう、それは何よりね。亜希、お姉ちゃんにご挨拶できるかなぁ」
「わあ、可愛い!亜希ちゃん、雪さんに似て美人さんですね」
「おい、深雪、そんなお世辞は言わなくて良いぞ」
「え、萩原さん、ひどーい。亜希は私に似て美人さんなんです」
「お、海藤もそんな風に言うようになったのか。母は強し、だな」
「あ、そうだ。海藤君、今の館長、藤澤君が君に会いたいと言っていたよ。この後、私と一緒に館長室に行ってくれないか」
「はい、それは構いませんが、何の件なんですか。私、また知らないうちに何かやっちゃいました?」
「あはは、出た、雪さん伝説!」
「え、深雪さん、何それ」
「え、知らないのですか?美ら海水族館に伝わる数々の伝説を。雪さんがあちこちのセクションでやったことが今も語り継がれていますよ。その時のキーワードが、【何かやっちゃいました?】なんです」
「えー、何それ。それじゃ私がしょっちゅう何かやってたみたいじゃない。そんなことないですよね、萩原さん」
「ん、俺はよく覚えてないけど、たまに、そのキーワードは聞いた記憶があるかも・・・」
「ひどーい。もう、ここには来ませんよぉ」
「あはは、まあ、そのことはこの辺にして、そろそろ館長室に行こうか。詳しくは聞いていないが、例の条例にも関係することらしいよ」
後任の藤澤館長は雪と同年代の女性だった。出身は東京だったが、海の生物がことのほか大好きで、色々な生物の飼育に関わりたくて各地の水族館で経験を積んできたと告げた。美ら海水族館に勤めたのは雪が退社した二ヶ月後で、次期館長候補としてヘッドハンティングしてきたと箭内が教えてくれた。
「海藤さんのご活躍は色々なところでお聞きしています。ようやっとお会いすることができてとても嬉しいです」
「ありがとうございます。新しい館長が来られたことはお聞きしていたのですが、中々ご挨拶に伺えず、失礼致しました」
同年代ということもあったのか、藤澤が持つ落ち着いた雰囲気に雪は好感を持った。ショートカットで日焼けした外見は、ともするとボーイッシュなイメージになりがちだが、性格から来るものなのか、サラリとした色香を感じる女性だった。
「先日、金城さんが訪ねて来られました。海藤さんとは高校の同級生だそうですね」
「金城朱里のことですよね。彼女とは高校からの付き合いで、先日も東京から訪ねてくれました」
「金城さんからある提案をされました。そのことはご存知ですか?」
「地方活性化のことですね。先日、訪ねてくれた時に少し聞きました。ただ、その時はまだ具体的なプランになっていないと言ってました」
「そうですか。先日、金城さんからお話を聞いた後、海藤さんが深く関わっている条例との関係についていくつか確認したいと考えていました。そうしたら、今日、水族館に海藤さんが来られると聞いたものですから、お越し願った次第です」
朱里の提案は、沖縄本島の北部を活性化しようとするものだった。沖縄本島の北部は、地形の影響もあり元々人の往来が少ない地方である。沖縄自動車道が名護市まで通り、美ら海水族館や今帰仁村など有名な観光名所のある本部半島には観光客が多く訪れるようになった。一方、国頭村や東村はヤンバルクイナの生息地などを除くと観光名所も少なく、訪れる人が少なく、かつ、住民の数も年々減る一方である。そんな北部の村々で活動することで地域の活性化を図ろうとする内容だったと藤澤は説明した。
「説明の際、その活動は海藤さん達が推進している条例にも良い影響を与えるはずだと彼女は言っていました。具体的にどういう影響を与えるかは条例推進委員会と検討した上で進めていきたいとも言っていました」
「それで、藤澤さんは私に何を確認されたいのですか」
「金城さんのお話では、国頭村や東村で行う活動に美ら海水族館も協力して欲しいとのことでした。仮に協力する場合、水族館側にある程度の負担が生じます。同じように他の観光施設に協力を依頼すればその施設にも負担が生じます。これらの負担について条例を推進する側はどのように考えているのかお聞かせいただきたいです」
「先ほどもお話ししたように、朱里、金城さんから内容についてはまだ聞いていません。ですので、現時点で推進委員会としてお答えできることはないです。ただ、委員としては、その連携に私達も関与していくべきと思いますね。勿論、条例が定める活動に関係することという前提がありますが」
「そうなのですね、わかりました。あまり仮の話をしても仕方ないのですが、その前提は線引きが難しいかもしれないですね。ご存知のように、美ら海水族館はこれまでも条例推進に積極的に関与してきています。それは、この水族館が沖縄の海洋生物を守る最前線に立つべきという確固たる信念があってのことです。ただ、金城さんのご提案は、目的が若干異なっています。これら二つの活動は、その性格上、いくつかの点で関係してくると思われますが、きちんと整理することが大事なのではと思います」
「確かにそうですね。いずれにせよ、彼女の提案は北部の村、若しくは沖縄県がカウンターになるでしょうから、条例推進委員会が連携できるよう調整しておきます。貴重なご意見、ありがとうございました」
館長室を後にした雪は、箭内と一緒に出口に向かった。
「藤澤君は一見取っ付きにくい雰囲気を醸し出しているけど、実はああ見えてかなりの情熱家なのだよ」
「へえ、そうなんですか。私にはクールで素敵な女性に見えましたけど」
「最初、この美ら海水族館に赴任した頃は、各現場を知りたいと言ってねぇ。飼育員と一緒になって、一日中、園内を走り回っていたよ。そして、分からないことがあると積極的に聞きまくっていたなぁ。あれ、これって、海藤君と一緒ですね」
「え、私、そんな風でした?自分では目の前のことをこなすので精一杯だったような気がしますけど」
「あはは、それが周りから見ると藤澤君と同じ感じなのですよ」
「ところで、朱里の提案ですが、箭内館長はどう思われますか」
「まあ、詳細はこれからなので何とも言えない面もありますが、基本的には賛成ですよ。それに、先ほど藤澤君が指摘していた点も、前向きに思考して活動している間は問題ないかと思いますよ」
「前向き、ですか」
「ええ、前向きです」
「どういうことですか」
「人間、前向きに思考している時は周りに無理難題を押し付けたりすることはないですよね。でも、活動が停滞したりすると思考が一時停止したり、後向きになったりします。そうすると、あまり関係のないことでも八つ当たりするかのように責任回避をしたりする。まあ、人間なんて弱いからそれが普通なのだけど、周りにいる者にとってはたまったものじゃない。そうは思いませんか」
「そうですね、条例を推進する中でそういうことが起きる分にはまだしも、朱里が進める活動と絡むとちょっとややこしくなるかも知れないですね」
「まあ、金城さんは海藤さんのお友達だから大丈夫でしょう」
水族館の出口で箭内と別れの挨拶をしていたら深雪が走って来た。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「私、雪さんに伝えるのを忘れていました」
「何、何か楽しいこと?」
「うーん、そうですね、きっと楽しいことです。これは私だけじゃないのですが、来園してくださるお客様から声を掛けられることが増えています。その内容の多くが珊瑚のことなのです」
「え、どういうこと?」
「県外から来られたお客様から、【沖縄の珊瑚は大丈夫なのか】って心配してくださる声が多いのです。中には【自分にできることはないか】と言ってくれる方もいらっしゃいます。これってすごくないですか。雪さん達が始めた活動が沖縄県外にも伝わって、更に、賛同してくれる人が沢山いるのですよ」
「ほんと?すごいね、それ。何だかとっても嬉しいわ」
「美ら海のスタッフはみなさんプロですから、珊瑚礁が減ってしまうことにはとても責任を感じています。だけど、こうやって沖縄県外の人にまで応援されたらやらないわけにいかないですよ。私はまだまだですが、美ら海のスタッフとして、今日、雪さんが来ることを知ってから、このことは絶対に伝えなきゃと思っていました」
「そう、深雪さん、ありがとう。活動を推進していくためには色々な障害を乗り越えていかないといけないけど、今の一言で、百個くらいの障害を乗り越えられそうよ」
朱里の提案が気になった雪は、水族館の内情に詳しい恵美子の意見を聞こうと玄吉の家を訪ねた。
「あら、おじさん、いたんだ」
「いたんだ、はないだろう。ここは俺の家だぞ」
「今日は仕事じゃないの?聞いたわよ、後輩の育成を任されたらしいじゃない」
「よく知っているな。しかし、何だってこの俺にそんなことを頼むかねぇ。。。完全に人選を間違えているよな」
「あはは、そうだね。おじさん、海のことなら何でも知ってるけど、それ以外となると、恵美子さんがいなきゃからっきしダメだもんね」
「そこまで言うか。まあ、否定はしないけどな。恵美ちゃんに後押しされなきゃ引き受けなかったのだけど・・・」
「あら、私のせいなの?」
「いやいや、そんなことはないです、はい。で、今日は何をしに来た?」
「相変わらず恵美子さんには頭が上がらないんだね。まあ、そんなことはどうでも良いんだけど。丁度いいから二人の意見を聞かせてもらおうかな」
朱里の活動をざっくりと説明した後、今回の提案についてどう思うか聞いてみた。
「うーん、よくわからないなぁ。そもそも、何を狙いにするのかわからないよ。移住者を増やす?観光客を誘致する?あの辺りは雪ちゃんも知っている通り、住民数は少ないし、高齢化も進んでいるし、そう簡単にはいかないような気もするけど」
「沖縄全体、もっと言うと、日本全体が同じ問題を抱えているからな。やっぱり過疎化と高齢化、この問題に着目するつもりじゃないか」
「だけど、それって今だって色々と策を講じていて、それでもなかなか上手くいかないわけでしょ。そう簡単な問題じゃないよ」
「そうだな。でも、今までの策は当事者自らが考えて試行して来たから気づけなかったことがあるかも知れないよな。そういったところを、立場の異なる人間が異なる視点で考えたら、もしかしたら何か良案が出てくるかも知れないぞ。そうなったら面白いよな。それより、美ら海水族館とどうやって連携するつもりなのか、そこが少し気になるな、俺は」
「まあ、水族館との連携は確かに気になるね。だけど、何をするつもりなのかな」
「私もそこが気になるんだよね。藤澤館長から話を聞いた時に、全然イメージが湧かなかったもん」
「朱里ちゃんに直接聞いてみたらどうだ?」
「うん、いずれはそうするつもりだけど、まずは、提案を受けた村が検討を始めないことには話にならないから、その後かなって」
「ま、それもそうだな。でも、あの朱里ちゃんが会社役員とはねぇ、頑張ったな」
第十章 未来へ
朱里にどんな妙案があるのかわからず、かつ、村の反応も見えていない現状ではそれ以上考えても絵空事にしかならない。三人の話題は条例の推進状況に移っていった。
「そう言えば、沖縄の海に流れ込む水の質が徐々に良くなって来たわよ」
「へえ、そうすると海洋生物への影響も出てくるかも知れないな」
「そうだよね。まだ崇宏がデータを整理している途中なんだけど、海に流れ込む河川の多くが水質改善されているみたいなの」
「それって山の自然保護が影響しているってこと?」
「一概にそうとは言えないけど、その可能性は高いんじゃないかって言ってる。今、山のデータと合わせて分析しているみたい」
「そっか、良い分析結果になると良いね。あと、玄さんが言うように海洋生物に好影響を与えていることがわかれば更に良し、ってとこかな」
「そうなの。まだその辺の因果関係はわかってないけど、藤原先生から報告があって、一部の海洋生物がわずかだけど増え始めているらしいの」
「おぉ、それは良いな。どんな生物が増えているかわかるか?」
「ごめん、まだ内容までは聞いてない」
「うーん、藤原先生に連絡してみようかな」
「こらこら、玄さん、こんな時間に連絡するなんて失礼だからやめてくださいよ」
「そうだよな、迷惑だよな、、、でも、早く知りたい!!」
「あはは、こんなんで本当に後輩の育成なんてできるの?」
この時点で条例制定から六年の歳月が流れていた。色々な課題はあるものの、活動全般としては順調に推移していた。子供達に向けた啓蒙活動は小中学校を中心に沖縄県全体に広まり、一部のイベントはマスコミで取り上げられ、年間行事として定着しつつあった。それでも珊瑚礁を取り巻く環境はまだまだ道半ばであり、雪にしてみれば、何故、なかなか進展しないのか、歯痒い想いの日々が続いていた。
「珊瑚礁って本当に難しいよね。沖縄の人達が一生懸命、環境を良くしようと頑張っているのになかなか成果を見ることができない。まあ、一度、環境を壊してしまったのが私達だから仕方ないことなんだけど」
「なんだ、珍しく弱気だな」
「別に弱気なんかじゃないよ。ただ、珊瑚を育てることが難しいなって思ってるの」
「そりゃ、珊瑚は我々人間とは異なる生物だからな。彼らにとって最適な環境なんてそう簡単にはわからないさ」
「え、おじさんがそんなこと言うの?」
「そりゃ、これまでのデータや情報からわかっていることは沢山あるさ。だけどな、雪、あいつらは海の中で生きているんだぞ。俺達にはできない、海の中の生活にはまだまだわからないことがいくらだってあるだろ。そんな中での環境改善は生半可なことじゃできないさ」
「まあ、それはそうなんだけど」
「雪ちゃん、水族館で働いていた時はどう考えていた?」
「どうって?」
「自分が担当している生き物のこと」
「うーん、毎日、顔を見て、泳ぐ姿や動く姿を見て、話しかけて、食欲やフンの状態を見て、ってな感じかな」
「それでも体調を崩す子がいたでしょ。そう言う時はどうしていた?」
「症状を見て、診断を下して、薬やら食べ物を調整していたかな」
「まあ、人間の子育ても同じようなものだけど、試行錯誤の繰り返しだよね。水族館なんて世界中に何百年も前からあるのに未だにそう言う状況だよ。それを考えたら、珊瑚の環境改善なんてそう簡単にはいかないよね」
「確かに。最近、直接現場に行かなかったからなぁ。また、藤原研に席を置いてもらおうかな」
「おいおい、そんなことしたら藤原先生に迷惑かかるからやめておけよ。放っておくと本当に行きそうだからな、お前の場合」
「あら、そんなこと言って、藤原先生に連絡するとか言っていたのはどなたでしたっけ、玄さん」
一ヶ月後、朱里から連絡があった。
【東村、国頭村、大宜味村の担当者に提案を行い、前向きに検討を行なっていくことになった】
各村の過疎化対策を担う沖縄県の企画部にも提案を行う旨を伝えてあるとのことだった。雪はすぐに企画部の担当者に連絡して、提案内容を把握することにした。合わせて、沖縄の過疎について企画部の担当者に教えを請うた。沖縄では、以前から本島の北部および離島における過疎化は大きな課題であり、県を挙げて過疎化への対策を行なってきた。しかし、年間、数十億円の予算を投じてもなかなか改善できていないのが実情であり、今回の提案が効果を発揮してくれるととても助かるとのことだった。ただ、問題はそう簡単に改善できるものでも無く、あくまでも対応策のひとつとして今回の提案を見守っていくつもりだと担当者は雪に伝えた。
雪は亜季を連れて美ら海スマイルの会合に顔を出した。
「うわぁ、亜季ちゃん、かわいい!!ちょっと見ないうちに大きくなりましたねぇ」
「やっぱり大きいのわかっちゃう?食欲がね、すごいの。先日の定期検診でも看護師さんに良く育ってますね、って言われちゃった」
「元気で良いじゃないですか。ところで今日は何か新しい情報があるのですか。わざわざ会合の日に来られたと言うことは」
「あら、鋭いわね。実はね、先日、私の友人が役員をやっている企業から、本島北部の村にある提案があったの。そのことについてみんなに聞いてもらおうと思って」
「あ、それ、少し聞いていますよ。確か千葉県で地域活性化を行政と一緒になって推進した件の沖縄版でしたよね」
「あら、早耳ね。うん、そうなの。その提案を村側が前向きに受け止めたみたいなの。実際に活動するとなると、県の企画部が関与することになるだろうから、そっちからも少し状況を聞いてきたわ」
「企画部と言うと条例の事務を担う環境部と連携することが多い部署ですね」
「そう、だから、この提案が進んでいくようなら、早めに両方の部を連携させていく必要があると思うの」
「提案の資料は持ってきたのか?」
「あ、高橋さん、ちょうど良かったです。資料はとりあえず関連資料フォルダにアップしておきました。この後、みなさんに簡単に説明します」
「しかし、亜季ちゃんにとっては傍迷惑だな。母親との時間が減ってしまう」
「そ、そんなことないですよ。亜季のことが第一に決まっているじゃないですか。だからこそ、こうやってみなさんにお願いに来たんですから」
「まあ、お前が子育てばかりと言うのも勿体無いしな」
「うーん、貶されているんだか、褒められているんだか、よくわからないですよ。ま、それは良いとして、提案のことについて私が把握している内容をお伝えしますね」
提案の柱は「過疎化対策」とされていた。勿論、既に沖縄県や各市町村が活動を行なっており、それらの活動を遵守しつつ、更に効果を発揮するための案をアピールしたものだった。一方、大きな課題のひとつ「高齢化対策」については、今回の提案には含まれていなかった。朱里の案は、情報を如何に活用するかに重きを置いており、その結果として過疎化対策は成されるが、高齢化対策は別次元の課題であると捉えていたのである。
「ちょっとよくわからないですね。人が増えると言うことは、住民の平均年齢が下がって高齢化対策に繋がると思えるのですが」
「朱里達はそういう風には考えていないみたいなの。当面の目標は住民を増やすことに絞っているんだけど、結果として高齢者が増えることもあり得ると考えているみたいなの。まあ、具体的な施策はこれからだからその内容次第なんだけどね」
「高齢者が増える?そんなことあるのですか?」
「例えば、日本国内でも移住者が増えている地域の中には、定年後の移住で住民が増えているところがあるんだけど、そういった地域では平均年齢が上がるケースもあるのよね」
「そうか、寿命が伸びて、定年後の生活を楽しむために移住する人が増えていますよね」
「そうなの。だから、今回の提案は「過疎化対策」を目的としているけど、それは結果であって、彼女達の案の肝は、その過程で如何にして情報を活用するか、なの」
「それって、どこの自治体もわかっていることじゃないのか。ただ、それが簡単に行かないからなかなか結果を出せないでいる」
「そうなんです。情報の活用って言葉で言うと簡単そうですが、今の時代、情報の活用方法はあっという間に変わっていきます。その変化に如何にして追随、いえ、先行していくかがこの提案の重要な点だと彼女は言ってます」
「スマホが普及し始めてからまだ十年程度だと誰かが言っていたよ。その間、色々なコミュニケーションツールや情報発信・共有の仕組みができてきたよな。そのことを考えれば、その提案が目指していることも、朧ではあるが、わかるような気がするな」
「高橋さん、スマホ使いこなせてますか?」
「そんなわけないだろ。お前、俺の年齢知っていて聞いているだろ」
「えへへ、すみません。でも、冗談ではなくて、いくら最新のコミュニケーションツールができても、使いこなせなければ無用の長物ですよね。そこで、彼女達が考えたのは、対象によってコミュニケーションツールや情報発信・共有の仕組みを変えることなんです。例えば、ここにいるほぼ全員がL I N Eのトーク機能は使えますよね。でも、L I N EのV O O M機能を使ってる人は何人いますか?実は私も使っていないんですが、恐らくかなり少ないですよね。そう言った人が集まるグループにV O O M機能を活用してもなかなか活性化させることはできないけど、トーク機能はツールとして活用できますよね。そう言うことなんです」
「そうか、うちのお婆ちゃんはテレビ、それもほとんどN H Kしか見ないから、そう言う人に情報を伝えるとなるとテレビ、それもN H Kを経由するのが手っ取り早いと言うことですね。当たり前のことだけど、あまり考えたことなかったです」
「そうなの、その対象となる人々と手段をひとつのグループとして、細分化したグループを駆使して情報を活用しようと言うことなの」
「理屈はわかったが、本当にそんなことができるのか。しかも、この活動は一過性ではなく、継続性が大事だよな。そんなことができるのか?」
「正直、私もその点については若干疑問を感じています。ただ、房総半島での実績を見てみると、今も継続されているようなので、恐らく、その部分に彼女達のノウハウがあるんでしょうね」
高橋が条例推進委員会で報告し、企画部と連携していくことが決まった。まだ、計画策定の段階であるため、当面は互いの情報を共有する程度だが、具体的な活動が始まる際には協力していくことが求められた。
三ヶ月後、朱里の提案は肝心なところで頓挫していた。朱里達は情報を駆使するべく、美ら海水族館や琉球R A D I Oなどと連携を模索して確実に歩を進めていたが、各村における一番の売りを何にするかがなかなか決まらなかった。房総半島のケースでは、減少した昆虫等、自然を復活させ、人を集めることに主眼が置かれていたが、今回は取っ掛かりとなるテーマを決めきれないでいた。本当北部の村々には、ヤンバルクイナをはじめ、豊かな自然が残されている。世界自然遺産にも登録されており、既にそこそこの知名度がある。しかし、現地を訪れる観光客は伸び悩み、住民も減少の一途を辿っている。このような状況で自然をテーマにして効果を発揮できるのか、懐疑的な意見が多く出ていたのである。
「朱里ちゃんの提案、どうなの?」
「うーん、今一つ壁を越えられないみたい。ヤンバルの森は既に自然遺産に登録されてるけど、それでも過疎化の勢いを止められずにいるからね。その代わりになるようなテーマを決めることに難儀しているみたい」
「そうだよねぇ、本島と言っても所詮は小さな島だからね。過疎化を止めるためには島の外から人を連れてくるとか、島の中で爆発的に人口を増やさないといけないしね、そう簡単には行かないよね」
「美ら海水族館に訪れるお客さんの半分でも良いから移住させられないかなぁ」
「あはは、突拍子もないこと言い出すわねぇ。あ、そう言えば、亜希ちゃんはいつから保育園に預けるの?」
「うん、来月で二歳になるからとりあえず入園させて様子を見ようと思ってる。この二年間、結局、お母さんに面倒見てもらっちゃったし、そろそろ解放してあげないといけないしね」
「そっか、まあ、二歳なら大丈夫だよね。ただ、最初は環境が変わるから色々とあるだろうけど」
「ところで、おじさん、今年で七十歳だよね。お祝いとかするの?」
「うん、ああ言う性格だから本人は嫌がるかも知れないけど、簡単にやろうと思っている」
「還暦の時も不機嫌そうな顔してたもんね」
「そうそう、流石にチャンチャンコは可哀想かなと思って、ベストにしてあげたのに、仏頂面で着ていたよね」
古希のお祝いは、名護市内のレストランで簡単に行われた。恵美子は簡単にお祝いすると言っていたが、雪は長年に亘って積み上げてきた感謝の気持ちを込めて、玄吉一家を由布院の温泉宿、玉の湯に招待することにした。最初、玄吉は断ったが、恵美子や由佳の優しい笑みを見て、雪に【ありがとう】と告げた。
「そうそう、お部屋は【むらさき】と言うんだって。古希のお祝いにピッタリでしょ」
温泉から帰って三週間後、毎年行っている定期検診で玄吉に癌の兆候が見られた。精密検査を行った結果、膵臓癌がかなり進行していることがわかった。医者は、余命、半年と告げた。
「おじさん、大丈夫?」
「なんだ、雪、血相変えてどうした」
「どうしたもこうしたもないわよ。膵臓癌が見つかったって」
「ああ、そうらしい。本人は至って元気だけどな。余命、半年らしい」
「らしいって、何のんびりしたこと言ってるのよ。早く良いお医者さんを見つけて治療してもらわないと」
「ステージ四で手の施しようがないそうだ」
「そんな・・・」
「そういや、玉の湯、最高だったぞ。お前がああいう所を知っているとは意外だったよ」
「本当に手段はないの?」
「まあ、残りの時間をのんびり過ごすことにしたよ」
雪は足繁く玄吉のもとに通った。日に日に体調が悪くなっていく玄吉の姿を見るのは辛かったが、入院してからも毎日のように玄吉のもとに顔を出した。ある日、病室に出向くと学校帰りの由佳がいた。
「お父さん、私、水産高校に行くことにした。そして、お父さんや雪姉ちゃんのように美ら海水族館に入って、沖縄の海洋生物達の面倒を見る」
「由佳、お前、芸能界デビューするって言ってなかったか。そのために小学校の頃からダンスレッスンにも通っていただろ」
「うん、そのつもりだった。だけど、お父さんが病気になって、色々と考えてみたの。私もあと一年ちょっとで高校生になるし、本当にやりたいことが何か、その答えをお父さんに伝えておきたいなって」
「そっか、それで出た答えが美ら海水族館なのか。由佳、お父さん、嬉しいぞ。ありがとな」
玄吉は入院後、更に容体が悪くなり、雪が訪れても寝ていることが多くなった。
【おじさんには海のこと、本当に沢山教えてもらったなぁ】
【子供の頃はご飯もよく作ってくれたっけ】
やつれた顔を見ながら想いに耽っていると、玄吉が目を覚まして言った。
「また来ていたのか、現場を疎かにするなよ」
「うん、亜希が保育園に慣れてきたし、これからは今までみなさんに助けてもらった以上に頑張るつもり」
「そうか、それじゃまた忙しくなるな。先の長い活動だから入れ込みすぎるなよ」
「あはは、大丈夫。でも、朱里の提案も苦労しているみたいだし、難しい活動だよね」
「そんなことは最初からわかっていたことだろ。それに、お前が先頭に立って走ればみんなが後押ししてくれるさ。ナンクルナイサ!」
二週間後、玄吉は静かに息を引き取った。由佳の巣立つ姿を見ることは叶わなかったが、素敵な家族や仲間に囲まれ、充実した七十一年だった。
玄吉が旅立ち、雪の心は凪いだ海のように静かになった。葬儀の時には涙がとめどもなく頬を伝って落ちたが、それ以降、不思議なことに悲しいとか寂しいといった感情が想ったほど湧いてこなくなった。そして、今までのようにズンズンと進んで行こうと言う気持ちも湧いてこなかった。穏やかな表情は、ともすれば柔らかな笑みを浮かべているようにも見えた。それでも、雪のことを良く知る周りの人達は、そんな雪の気持ちに気づいて励まそうと考えた。ただ、雪の前に立つと、表情の裏に隠されている悲しみの深さが伝わってきて、言葉をかけることができなかった。
ある日、美ら海スマイルの事務所でデータを整理していた時、高梨が離席して高橋と雪の二人になった。
「高橋さん、私達の活動っていつになったらゴールに辿り着けるんですかね。おじさんは、私が先頭に立てばみんなが後押ししてくれると言ったけど、どうすれば良いのやら」
「県知事を目指したらどうだ」
「え、沖縄県知事ですか?そんな無謀なこと・・・」
「なんだ、お前でも尻込みすることあるのか」
「当たり前じゃないですか、私のこと、なんだと思ってるんですか」
「ん、猪突猛進・・・、まあ、それはさておき、今の知事は賛成派を標榜しているが所詮は体裁を取っているだけだ。今以上の推進力を発揮するとも思えない。それと、今は活動に引っ張られることがないから乗っかっているが、何かあればコロッと態度を変える可能性が高い。できるだけ早く、陣頭指揮を取れる県知事が必要だと俺は思っているよ」
「それなら高橋さんが目指せば良いじゃないですか。議員歴も私なんかより長いんだし」
「まだそんなこと言っているのか。これまでの活動を振り返れば明確だろ、誰が適任かは。関係者の大半が押すのはお前さんだよ」
「私に知事なんてできないですよ」
「そりゃ、今のままではダメだ。お前は元々政治家志向じゃなかったから、沖縄の経済・生活・安全など、まだまだ学ばなければいけないことが沢山ある。そういった分野における持論を展開でき得る知識を早く身につけることだな」
飄々とした顔を思い浮かべながら、玄吉に問い掛けた。
【おじさん、私どうしたら良い?】
【先頭に立てって言ってたけど、それって県知事になれってことなの?】
【私なんかに県知事が務まるかなぁ・・・】
高橋の突然の提案は、有無を言わせず雪の背中を押した。考えるより前に、その勢いに押されるように現場に出て行く時間を増やした雪は、以前にも増して精力的に活動し始めた。条例推進や地元住民へのケアは勿論、それ以外にも金融機関の会合に参画して沖縄の経済について学んだり、基地問題を検討する場に出向き様々な立場の人の意見を聞いて回ったりした。そう言った行動は、今まで見えていなかった状況を知ることにも繋がり、結果的に条例推進のヒントにもなっていった。寸暇を惜しんで行動しているうちに時は過ぎ、気づいてみたら議員になってから二度目の県議会選挙が目前に迫っていた。そんなある日、雪の元を珍しい人間が訪ねてきた。
「大垣さん、ご無沙汰しています。局長になられたそうで、おめでとうございます」
「いやあ、局長なんて柄じゃないよ。現場に出る回数も減っちゃって、つまらない日々が増えちゃいましたよ」
「あはは、大垣さんらしいですね。ところで今日はどうされました。沖縄で会合でもあったのですか?」
「うん、全国の系列テレビ局に出向いて、今後のテレビ界についてどうしていくか意見交換をしている、と言うのは表向きで、息抜きで全国行脚かな」
「たまには良いんじゃないですか」
「ところで、ここに来る前に高橋さんに会ったのだけど、随分と精力的に活動しているらしいね」
「彼に唆されて、政治家としての勉強をする日々ですよ。もう、毎日大変で・・・」
「それは大変だね。そう言えば、高橋さんが言っていたよ。沖縄もそろそろトップが交代して、新しい風を吹き込まないといけない、って」
「トップ交代ですか、誰か良い人いませんか?」
「え、海藤さんじゃないの?」
「え、どういうことですか。高橋さん、何か言ってました?」
「いや、海藤さんがどうこうは言ってなかったよ。ただ、トップ交代なら海藤さんかなって思って」
「やめてくださいよ。私みたいな若輩者には荷が重過ぎますよ」
「そうかなぁ、沖縄って基地問題というとてもセンシティブな問題を抱えているよね。だから、ありきたりの政治家じゃ、なかなか風を起こすのは難しいよね。その点、海藤さんなら、今までの概念を打ち破る可能性があると思うけどなぁ」
「それは買いかぶりですよ。私なんて政治家と言ってもズブの素人に毛が生えた程度ですし」
「でもさ、海藤さんの周りには強力な人達が集まってくるじゃない。そう言った味方が集まってことを起こすのって面白そうじゃない?やるなら僕も協力するよ!」
那覇空港で帰りの便を待つ間、大垣はスマホを取り出し電話をかけた。
「ああ、例の件、焚き付けておきましたよ」
「ええ、高橋さんの予想通り、自分は器じゃないって謙遜していました。でもね、強力な味方が沢山いるよねと話したら、少し顔つきが変わったように感じましたよ」
「ええ、そうですね。来週辺りでどうですか。僕はリモート参加になりますが、今後、テレビの出番があれば現地入りしてプッシュしますよ」
高橋は、議員二期目の雪がどういう行動をしているのか、常日頃、チェックしていた。そして、知事候補として担ぐタイミングを見計らっていた。そんな時、大垣が沖縄に来ることを知り、行動に移すことを決めたのであった。まずは大垣に、雪がはじめの一歩を踏み出すキッカケを作ってもらい、その裏では、キーマンを集めて【チーム雪】の立ち上げ準備を開始した。キックオフのメンバーは、議会関係者として高橋・佐々木・飯島、首都テレビの大垣、海洋大学の藤原、美ら海水族館の藤澤、エネエーシー社の近藤、そして、事務局は美ら海スマイルの貝塚・高梨が担うことになった。雪を除くメンバーが事前に集まり、雪を沖縄県知事にするためのチームとして活動することを全員で確認した。その後、雪を交えて打合せを行なった。
「あれ、今日は美ら海スマイルの会合じゃないんですか?珍しいお顔が沢山ありますね」
「海藤、今日は美ら海スマイルの会合を中止して他の議題を検討することにした」
「え、それじゃなんの会合なんですか?私も居て良いんですか?」
「もう、雪さんはこういうこと、ほんっと鈍いですよねぇ」
「え、高梨ちゃん、なんなの一体」
「海藤、今日はお前を沖縄県知事にするための会合だよ」
「えぇ!高橋さん、何、言ってんですか。以前、県知事を目指せと言われたことはありますけど、その時はまだまだ素養が足りないと言ってたじゃないですか」
「ああ、その通りだ。ただ、その後、お前はお前なりに頑張ってきたよな。その姿を見ていて、そろそろ良い時期なんじゃないかと思って、みんなに声掛けをしてみた」
「海藤君、私は政については素人ですが、沖縄の海のことについてはある程度知っているつもりです。あなたが知事になる際、沖縄の海のことでわからないことがあったら、私やそこにおられる藤澤館長に、何でも聞いてください」
「藤原先生、藤澤館長、ありがとうございます」
「沖縄の企業経営や経済については儂に聞いてくれればいいぞ。あと、山のことも少しずつわかってきたからそっちの方もある程度教えられるぞ」
「近藤社長、お忙しい中、わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「議会関係は厄介なことが沢山あるだろうから今後も更にメンバーを増やさないといけないけど、今は、この三人に頼ってね」
「エマさん、飯島さん、高橋さん、ご指導、よろしくお願いします」
「僕はマスコミ関係かな。と言うか、個人的に海藤さんのドキュメンタリーを作ろうと思っているよ。楽しみにしていてね」
「大垣さん、そんなことできるんですか」
「まあ、局長なんて肩書き貰っちゃったからね、多少の融通は利くよ。あ、個人的に、と言うのはここだけの話にしておいてね」
「あと、事務的なことは貝塚君と高梨さんに担ってもらうことにした。ただ、今後、二人じゃやりきれなくなるだろうから、早めに増員する予定だ」
「貝塚さん、高梨ちゃん、引き続き、よろしくお願いします」
その時、会議室のドアが開いた。
「すみません、遅くなりました。企画部との打合せが延びてしまいました」
「朱里、どうしてここに?」
「雪、いよいよだね。【チーム雪】の話を高橋さんから聞いたの。私にも何かできるかなと思って、高橋さんにお願いしてメンバーにしてもらったの」
「え、でも、朱里には自分の会社の仕事があるでしょう。大丈夫なの?」
「今、仕掛けている離島の活性化活動をこのチームの活動に繋げれば貢献できるかなと思ったの。会社の了解は貰ってあるから大丈夫よ」
「彼女の活動は、そもそも条例と密接な関係にある。と言うことは、ここにいる全員が重要な役割を担う関係者とも言える。使わない手はないだろう?」
「驚いた、そんなことまで考えているんですか」
「当たり前だろう。そもそもお前が先頭に立って始めた条例も今年で十年だ。ある程度成果が出てはいるが、今後も成果を出していくためには色々と工夫しないといけないじゃないか」
「それは、そうですね」
「雪さん、私達が担ぐ神輿になる覚悟はできましたか?」
「神輿ですか、、、わかりました!」
雪は立ち上がり、一度、深々とお辞儀をした後、一人一人の顔を見た。そして、みんなに告げた。
「みなさん、頼りない神輿なので、しっかりと担いでくださいね!よろしくお願いします!」
【チーム雪】は四年後の知事選をターゲットとして活動を始動した。現在の原田知事は就任して二期を務め、三期目の活動を開始した。基地問題では政府寄りの姿勢を見せているものの、若干玉虫色の感が否めず、県民の評価はそれほど高くないと言われている。ただ、那覇市内に本店を構えるスーパーサンユーの社長という経歴が大きな地盤を築いていた。今回行われた知事選では、力を持った対抗馬がいなかったこともあり三度目の当選を果たしていた。
「原田は地元スーパーの元社長であり、庶民の気持ちはよくわかっている。ただ、海洋問題に真摯に取り組むかと言うと疑問符がつく。これまではイメージ戦略の一環として肯定してきたが、みんなも知っているようにそれほど積極的に関与してはいない。知事選の争点として大きなポイントになるはずだ」
「それなら条例に積極的に肯定している議員に根回ししていきますか?」
「いや、今から動いて原田の耳に入れるのは時期尚早だと思う。まずは、海藤のイメージを沖縄県民に知ってもらった方が良いと思う。どうですか、大垣さん」
「そうですね、高橋さんが言われるようにイメージは大事だと思います。私は沖縄県知事選のことはあまりわかっていませんが、東京や神奈川など、関東の知事選ではメディアで好印象を発信できた人が当選していることが多いように思います。幸いにも海藤さんはある程度の知名度が確立されていますから、そこを上手く活用して【沖縄の将来を任せられる人】としてイメージングさせてはどうでしょう」
大垣が主導して、首都テレビの系列局である海人テレビのワイドショーに【美ら海を元気にするプロジェクト】のコーナーを設けた。勿論、メインコメンテーターは雪が担い、大垣のコネクションを利用して、ゲストに各界の著名人を招いた。また、以前出演した琉球R A D I Oでも、時間枠を拡大してプロジェクトのコーナーを再度、放送することができた。メディアの影響は大きく、テレビのターゲットである主婦層およびラジオのターゲットである二十代から四十代の女性層を味方につけることができた。勿論、視聴者の共感を産んだ一番の要因は、雪の人となりが彼女達、ウチナーンチュの心に響いたからであった。
高橋達【チーム雪】の面々は、これらメディアにおける情報発信の際にひとつの工夫を凝らした。それは、海洋生物を守ることと、沖縄県民の生活、例えば経済のことや基地のこと雇用のことなどを関連させながら発信するようにしたのである。一方、S N Sを駆使して、議員、海藤雪の目指す沖縄について、踏み込んだ内容の発信を続けた。メディアで雪に関心を持ってもらい、更に雪がこれから成して行くことに賛同してもらえるよう、視聴者の身近な問題を交えながら説明した。そこでは、政治ありきではなく、庶民の生活ありきの政治を目指したいと言う雪の気持ちを表していた。
【チーム雪】の活動始動から一年半ほどが過ぎた頃、琉球R A D I Oの女性リスナーからメールが届いた。そこには、基地問題が大事と言われてもよくわからない。私達二十歳前後の、それも学生の身では何が正しいのかもよくわからない、と言ったことが書かれていた。雪は番組スタッフや【チーム雪】の面々と相談し、そのメールを番組で紹介する前に、送信者と話をすることにした。メールに返信したところ、会うのは構わないがあまりお役には立てないのでは、という消極的な連絡があった。打合せの場には、高梨が同行した。
「正直なところ、私も基地問題についてはよく分かっていないですね。事故や事件といった負の面がある一方、国からの補助金があって、経済的なメリットがある、くらいのことしかわからないです。」
「そうね、経済面での影響はかなり大きいよね。実際、それを当てにしている企業も多いから、そう簡単に基地の返還とか言えない事情もあるしね」
「先日の話では答えが出なかったじゃないですか。【チーム雪】としてはどうして行くつもりですか?」
「うーん、一言では難しいわね。個人的には日米地位協定の見直しに繋げたいけどね、そう簡単には行かない問題だね」
打合せの場に現れた女性は、Tシャツにダメージジーンズをサラリと着こなしていた。大学二年生とのことだったが、高校生と言っても通りそうな童顔だった。
「こんにちは、雪さんのラジオ、いつも楽しみに聴いています」
「ありがとう。そう言ってくれるのが何よりも嬉しいわ。ところで、メールの件ですが、どの辺りがわからないのか教えてもらえますか」
「ええと、基地は日米地位協定に拠って成り立っていると高校生の時に教わりました。あと、父や親戚の叔父さん達が、基地があるから沖縄の経済は成り立っている、と話しているのを聞いたことがあります。一方、先日もあったけど、基地のアメリカ人が事件を起こしても、日本の警察には捕まらなかったですよね。基地に関して知っていることはこれくらいですよ。正直、興味がないと言うのが一番かな。それ以上でもそれ以下でもない。だから、世間では基地問題、なんて言葉が出てくるけど、何が問題なのかよく分からないです」
「まあ、そんなもんだよね。私もあなたくらいの頃は同じような感じだったわ。今は、たまたま県議員なんてやってるから基地のことについて色々と調べて、何が課題なのか、自分なりに意見を持つようになったけどね。ところで、あなたの周りの子達はどうなんだろう。みんな、あなたと同じような感じなのかな」
「うーん、どうだろう。知識としては似たり寄ったりじゃないかな。あと、興味についても、大半の人が持っていないと思いますよ」
「それって、将来、まあ、沖縄に暮らすとして、心配になったりしないの?」
「なぜですか?私は多分、沖縄で暮らすと思うけど基地のことで心配なんて考えたことないですよ。今までだって、基地のことで困ったこととかなかったですしね」
「そっか、そりゃそうだね。間接的に影響していることってわかりにくいよね」
【チーム雪】の会合で、高梨から大学生に会った時の内容が報告された。チームの中で一番若い高梨は、大学生の発言に何ら違和感はなかったと伝えた。
「そんなもんだろうな。父親とか、身近にいる人間が基地と関係していれば話は別だが、サラリーマンの家庭に育ったりすれば、生活に基地が影響することはほぼないだろうからな。で、海藤はどうするつもりだ」
「彼女に会う前から色々と考えてはいるんですが、まだ、答えは出ていないです。個人的には地位協定の見直し、若しくはそのきっかけ作りまで行きたいと思っていますが、ハードルが高過ぎますからね」
「その話の具体策は知事になってからだな。知事選に向けて、基地問題への姿勢を見せる時にそこまで突っ込んだ内容にするか、それとも、総花的な内容にするか。藤澤さんは確か東京出身でしたよね。今は沖縄県民になっているけど、基地問題に対して何か感じるところがありますか?」
「沖縄に来る前は、何か問題が起きた時にマスコミが騒ぐので、一瞬、考えたりはしました。ただ、普段はまるっきり考えもしなかったですね。実は、沖縄に来てからも、あまり変わっていないです。まあ、基地問題がマスコミに登場する頻度は多くなりましたが、それでも、普段は考えないですね。すみません」
「いや、謝ることはないですよ。基地問題が今の状況にあるのは、勿論、国の政策が大きく影響しているけど、県民の意識や行動も少なからず影響していますからね」
「条例と絡めたらどうなりますかね。ほら、数年前に断念された基地施設の新設、あの時は予定地の一部がやんばる国立公園に影響を及ぼすことが懸念された為でしたよね」
「新たに作るとか、移転するとかであれば色々と指摘できる可能性はあるが、既存の施設や軍の有り様について条例と絡めるのはそう簡単ではないぞ」
「こうやって考えると、沖縄県民にとって、基地って当たり前のことになっているのですね。今更ですが」
「高橋さん、みなさん、こう言うのはどうでしょう。【基地問題について日々考える習慣を作りましょう!】です。今、高梨ちゃんが言ってくれた【当たり前】ということ、多くの県民に当てはまると思うんですよ。だけど、日本人が暮らす、日本の土地に米軍の基地があることが当たり前で本当にいいのでしょうか」
「それは、基地問題をネガティブに捉えていこうということ?それとも中立?ポジティブではないのよね?」
「当面は場を作るだけでどうでしょう。特に若い子達に常日頃から基地のことを考える習慣を身につけてもらいたいなと思ったんです」
「県民への問いかけということであればそれで良いかも知れん。ただ、チームとしての方針はどうする?さっきのお前の発言だと、最終的には地位協定に言及することになるが、推進なのか反対なのか、現状維持なのか縮小若しくは撤廃なのか。そこの意思統一をしておかないと、原田に突っ込まれるぞ」
「私は議員になってから基地問題について色々と学びました。その結果、今の有り様は良くないと思っています。基地があることによってもたらされるメリットを何らかの形で代替えしながら、最終的には基地をなくすべきと考えています。それではダメですか?」
「今の海藤の考えに異論や疑問を持つ人はいますか?」
「高橋さん、少し良いかな」
Zoomで繋がった画面越しに大垣が言った。
「東京に住む者にとって沖縄の基地問題は他人事なのです。メディアに携わる者としてこんなことを言って良いのか、と言われそうだけど、それが現実です。だから、基地に関することでも瑣末なことでは関心が薄くなりがちで、メディアの扱いも自然と小さくなります。知事選に出馬する海藤さんが今話した内容を発信したら、沖縄県外のメディアも色々と取り上げると思いますよ。それを知事選に利用しない手はないですね」
「蛇の道は蛇、と言ったとこですか」
「なんだか、人聞きが悪いなぁ」
【チーム雪】は沖縄県内の基地の有り様を見直すことを方針のひとつとした。ただし、基地に対する県民の意識改革を促し、県民の意思を大事にすべく、県民、取り分け二十歳前後の若者に基地問題を考える場を提供して行くことにした。
雪は玄吉の月命日に大浦家を訪れることが習慣になっていた。仏壇に向かった後、恵美子や由佳と持参したケーキを食べながらとめどもない話をしていた。たまたま、基地の話題になり、若者と一緒に考える場を作ることを二人に話した。
「そんな場に人が集まるのかなぁ。今更って感じだよ、基地のことなんて」
「やっぱりそうなんだね。先日、ラジオにメールくれた子もおんなじような感じだったよ。だけどさ、由佳はこの先も沖縄に住むんでしょ?そうしたら基地問題ってずうっとついて来るんだよ」
「うーん、確かにそうだけどね。だけど、基地があろうがなかろうが、私達の生活にそれほど影響があるようには思えないよ」
「ところが、そうでもないんだよ。直接関係することは確かに少ないけど、間接的には色々なところで影響を受けているんだから」
「へぇ、例えばどんなこと?」
「わかりやすいところだろ、基地交付金が国から都道府県に配分されるんだけど、沖縄県は七十億円くらいかな」
「え、そんなに?って言うか、それが多いのか少ないのかよくわからないけど」
「そうだよね、ただ単に七十億円とか言われてもピンとこないよね。でも、全国で三百五十億円の予算があって、そのうちの七十億円が沖縄県に配分されると聞いたらどう?」
「五分の一、二十パーセントかぁ、それは確かに多いね」
「単純には言えないんだけど、基地があるから配分率が高くなっているの。そして、その交付金が沖縄県内で使われることで沖縄の経済が活性化するのよ」
「あれ、でも雪姉ちゃん、基地はいずれ無くすべきって言ってなかったっけ?そうしたら、その交付金だっけ、減らないの?いくら減るのかわからないけど、減ったら県民の生活レベルが下がることにならないの?」
「確かに交付金の額だけを見ればその可能性は高くなるわ。だけどね、由佳、基地があるだけなんだよ。なんで基地交付金が他県の何倍も配分されると思う?」
「うーん、米軍人が起こす事件の補償とか?」
「まあ細かいことを言えばそういったことも含まれるわ。他にも、米軍機による騒音や施設整備などによる環境問題は割とわかりやすい問題ね。更には、有事に対するリスクとかもそうなんだよ」
「有事って沖縄で戦争が起こるってこと?」
「そうよ、今も世界ではあちらこちらで戦争が行われている。仮に日本の周辺で戦争が起こったら、沖縄にある米軍が関与することになる。そうしたら相手国はこの沖縄に攻撃を仕掛けて来る可能性があるよね」
「なんだか、怖い」
「ああ、ごめん、ごめん。そう簡単に有事は起きないから安心して。でも、沖縄に基地があることの理由とか、基地が機能するとはどう言うことなのか、とか、私達沖縄県民は基地のことを常日頃、考えて行くべきだと思うの」
「そう言われると、私、基地のこと、全然わかっていないよ。多分、私の周りの人も似たり寄ったりだと思うな」
「由佳達だけじゃない。大人でも、基地の施設新設とか移転に際して反対を唱える人は多いけど、基地のことをきちんと理解している人は少ないと思う。ただ、このままじゃ基地に対してYesともNoとも言えないと思うの。だから、考える場を作っていこうと思って、まずは、若い人向けの場を作ろうと言うことになったの」
「そっか、何となくだけど、雪姉ちゃんのやろうとしていることがわかったような気がする。手伝えることがあればやるから言ってね」
「ありがとう、由佳」
由佳は父や雪の後を追うように海洋大学に入学し、二年生の頃から山岸研に顔を出すようになっていた。山岸研は藤原が退任した際に講師として藤原をサポートしていた山岸が担当しており、由佳が入学した際、藤原を介して紹介されていた。三年生となり、正規のメンバーとなった今、先輩も含め、全員と顔見知りになっていた。雪から基地の話を聞いた数日後、休憩を取りながら雑談を交わしている時に基地のことをみんなに聞いてみた。すると、そこにいた大半のメンバーが由佳と似たり寄ったりの認識であることがわかった。たまたま他の用事で大学に来ていた藤原が、途中からその場に加わった。藤原は、雪が学生から聞いた内容とほぼ同じであることに少なからず衝撃を受けていた。雑談が終わると藤原は部屋を出ていこうとした由佳を呼び止めた。
「少し話せるかな」
「ええ、大丈夫です。次の講義まで一コマ空いていますから」
「さっきの基地の話、叔母さんから聞いたのですか?」
「ええ、先日、同じ年代の学生から聞いたとかで、私にどう思うか聞いてきたのです」
「他のみんなも似たり寄ったりだったね。やはり、普段から基地のことを話す習慣がないみたいですね」
「そうですね。高校までは授業で少し習いましたけど、先日、叔母が話していたような、メリットとかデメリットみたいなことはなかなか聞く機会がないですね」
「想像はしていたけど、これは生半可なことではなさそうですね」
「あの、試しに海洋大学生を集めて討論会みたいなのやってみましょうか?」
「え、君がやるのですか?」
「ええ。藤原先生はご存知ですよね、私が美ら海水族館で働きたいと考えていることを。あそこには県外や海外から様々な人が来るじゃないですか。彼らから基地のことを聞かれることもあるかも知れないですし、その時、基地のことをきちんと知っておかないと、何にも言えないですからね。それに、大学内の活動なら気楽だし、どんな意見が出るのか、面白そうじゃないですか」
「面白いって、、、いやはや、そう言うところはお父さんと言うより、叔母さんに似たみたいですね」
由佳は早速準備に取り掛かった。大学内で協力してくれるところがないか探したところ、【社会科学研究会(略称:社研)】が基地問題も扱っていることがわかった。サークルのメンバーに話を持ちかけると、是非とも一緒にやろうということになり、二ヶ月後に開催される学園祭で開催すべく検討を行うことになった。ただ、学園祭の内容はほぼ確定しており、場所の確保や告知など、今から間に合うかどうかが懸念された。由佳はサークルメンバーと一緒に実行委員会に出向き、是非とも開催させて欲しいと頼み込んだ。
「沖縄に住む、私達学生が基地について語り合うことはとても意義のあることです。是非とも開催させてください。当日は、私の叔母、海藤雪がスピーカーとして登壇しますから、内容も大変意義のあるものになるはずです」
「え、あの海藤雪さんが来るのですか。それは個人的にとても興味深いなぁ。でも、開催する場所がないですよ。講堂は既に埋まっているし、大きめの教室もほぼ決まっちゃいましたからね。場所が空いたら連絡します」
学園祭での開催は断念し、単独で開催するか他のイベントと同時開催するか検討を始めたところ、実行委員会から連絡が入った。
「オープニングに予定していた講演会が急遽中止になってしまいました。講堂を使って大々的にやる予定だったのに。。。すみませんが、先日話していた討論会を開催してもらえないですか。海藤雪さんが来るとのことなので、講堂であれば広さも十分でしょう。我々としてもできるだけお手伝いしますから、是非ともよろしくお願いします」
由佳はこのイベントを継続させることが大事だと考えていた。雪から話を聞いた時、正直言ってピンと来なかった。ただ、その後、周りにいる人達の基地に対する認識や反応を見ていると、より多くの人がこの問題について話をするべきだと考えるようになっていた。討論会を開催するにあたり、由佳は社研の中に基地のことだけを話し、考える部会を作ってくれるようお願いした。
「大浦さん、それなら新しいサークルを作った方が良いと思うよ。学園祭までは時間もないし、社研主催でやった方が良いと思うけど、その後も継続してやって行くのなら、新しく作った方が何かと動きやすいと思うよ。まあ、当初メンバーは社研のメンバーが兼任してもいいし」
由佳は、討論会の開催までに新しいサークルを立ち上げ、定期的に会合を開催することにした。社研や山岸研のメンバーに協力してもらい、文化系のサークル【基地研究会(略称:基地研)】を立ち上げた。
「討論会に出るなんて一言も言ってないわよ。何勝手に話し進めているのよ」
「ごめん、話の行きがかり上、そう言った方が説得力あるかなと思って」
「まあ、こちらとしては助かるから良いんだけどね。でも、日程が合わなかったらどうするつもりだったの」
「あの時は、そんなことこれっぽっちも考えなかった。今思うと、ほんっと、危なかったわぁ」
「恵美子さん、由佳のこの性格、どっち似?」
「決まっているでしょ」
学園祭の討論会に雪が登壇することを聞いた琉球R A D I Oの花田が、当日の模様を放送してはどうかと提案してきた。花田は雪がリスナーに語りかける姿を見ているうちに、雪を応援したいという想いが強まっていた。自分にできることがあれば、と思っていた時に登壇の話を聞いたのだった。雪が出演する番組では女子学生のファンは多い。ただ、男子学生の認知度はそれほど高くない。今回、雪が登壇する模様をラジオ局が放送すると聞けば、男子学生も興味本位で集まるのではないかと考えたのである。この情報が功を奏したのか、当日の会場には多くの学生が集まった。
「このように、沖縄に基地があることはいろいろなところに影響をもたらしています。そして、これからも沖縄で生活をしていく人々は、その影響を今後も受け続けて行くわけです。今回、基地をテーマにした文化系のサークルが発足すると聞いています。そこでは、みなさんが、自分事として基地について考えることができます。その際、今日、私がお話しした内容が少しでも参考になれば幸いです。本日はお招きいただき、ありがとうございました」
由佳の狙いは的中した。学園祭の後に琉球R A D I Oで放送されたこともあり、基地研に新たに二十名ほどのメンバーが集まった。大半は女子学生だったが、四名の男子学生も含まれていた。基地研の活動は、時々、雪を通じて琉球R A D I Oで発信されたこともあり、メンバーのモチベーションが持続された。その結果、月に二回の活動も停滞することなく継続していった。また、ラジオ局には【自分達の大学に来て話して欲しい】と言う内容の問い合わせが複数届き、【チーム雪】の面々は全員でサポートして行くことにした。
【チーム雪】の活動は思いの外、スムースに進展していった。なかでも、メディアを上手く活用して認知度を高めたことはその後の知事選における得票に大きく影響すると考えられた。知事選まで半年に迫った頃、それまでの勢いを買って、そろそろ立候補の意思表明をしてはどうかと検討していたところ、想定外の問題が起こった。それは、雪が米軍と通じているという内容だった。発端はS N Sに投稿されたメッセージだった。そこには、雪が沖縄に駐留する米軍のマーヴェリック司令官と頻繁に会っていることが写真付きでアップされていた。写真は解像度が低く、雪本人かどうかも曖昧だったが、そこに記されたメッセージと共に拡散されていった。メッセージにはこう記されていた。
【基地問題に反対することを表明している海藤議員が、駐留米軍のマーヴェリック司令官と頻繁に会い、今後も米軍の支援をお願いしていた。表向きには反対を表明し、大学生を唆してやっている感を出そうとする手法は、某知事と同様の姑息な手段であり、決して許されることではない。】
「雪さん、これ、どういうことですか?」
「どうもこも、身に覚えのないことよ。私の方が聞きたいくらい」
「まあ、原田陣営の嫌がらせだろうな。この写真、人物をぼかすのはまだしも、背景もぼかしていて、何が写っているのかさっぱりわからん。それに、マーヴェリック司令官って誰のことだ?実在するのか?」
「ネットで調べたところ、航空団の司令官みたいです。ただ、高橋さんが言ったように写真がボケていて、本人かどうかはわからないですね。」
「海藤、軍関係者と会ったことがあるのか?」
「公の場でご一緒したことはありますが、その場で軍のことについてお話ししたことはありません。それ以外で個別にお会いしたことはないです」
「となれば、九分九厘、嫌がらせだな。先方も、そろそろこちらが意思表明をすると見込んで先手を打ってきたというところだろう」
「でも、結構拡散されていますよ。知らない人が見たら誤解しちゃうかも知れないですよ。それと、ネットだと便乗して煽る輩が結構いますから何らかの策を取った方が良いと思います。」
「そうだな、放っておくのは得策ではないかも知れんな。ただ、同じS N Sで反論したところで、騒ぎが広がって面白がられるだけじゃないのか」
「S N Sでの情報発信は難しいですよね。美ら海水族館でもS N Sを活用していますが、以前、イルカの不調についてお知らせした際、表現が曖昧だったことから、水族館からイルカがいなくなる、と誤解されて拡散されてしまったことがありました」
「どう対応したんですか」
「あらゆる手段で誤報である旨をお知らせしました。それでも、しばらくの間、イルカに関する問い合わせが続いて、散々な目にあいました」
「そうすると、今回も丁寧に説明して行くしかないんですかね」
「手間は掛かりますが、それが一番無難かと思います」
「いっそのこと、知事選への出馬表明をしちゃったらどうですか。時期的にも丁度良いのですよね?であれば、インパクトもあるし」
「そうだな、逆手に取って相手の出方を見るのも面白いかも知れん」
「高橋さん、面白がっていませんか?」
「なんだ、海藤、こういうことを楽しむの、お前の方が得意なんじゃないか?」
「みんな、高橋さんが壊れ始めてる。守ってあげて!!」
翌日、雪は飯沢に呼び出されて、県庁近くの小料理屋に出向いた。ついてみると飯沢と高橋が難しそうな顔で出迎えた。
「どうしたんですか、お二人とも渋面して、何かあったんですか」
「海藤さん、大変なことになりました」
「大変なこと?何があったんですか?」
「実は、次の知事選に原田さんが出馬しないことがわかりました」
「え、それって、他に候補が出てくるということですか」
「そのようです。那覇市議会にいる仲の良い議員から聞いたのですが、中央から圧がかかって、基地推進に積極的な候補者を立てるらしいです」
「しかも、その件で既に根回しが進んでいるらしい。先方はお前が出馬することをどこからか聞きつけたのだろう。飯沢さんや俺らに気づかれないよう、那覇市議会、沖縄県議会の議員や派閥に働きかけているらしい」
「そんな、、、」
翌週には雪の出馬表明を海人テレビで放映する予定でいたが、根底から見直す必要が生じた。【チーム雪】の想定では、当選に向けて県民の支援状況と議員の条例に対する賛同率を重要な指標として考えていた。また、前回の知事選では、原田知事が獲得したのが三十万票、それ以外の立候補者が二十九万票を獲得しており、今回の選挙も過半数を超える得票が必要と推測した。有権者数、約百二十万人、投票率を六十パーセントとして、最低でも三十六万人の票が必要と考えた。これまでの活動で得た支援者から得られる票を読むのは難しかったが、高橋が中心になって、テレビ局およびラジオ局から提供されたデータやS N Sのデータを分析していった。その結果、上積みする浮動票の数、雪以外の議員を支援している有権者の票数の目安が示された。そこから、沖縄県議会、那覇市議会の議員をどの程度味方につければ良いのか推論したところ、全議員八十八名のうち、半数程度の支援が必要であるとの結論に至った。条例に賛同している議員を、積極派、消極派、中間層、に分けて試算したところ、積極派が六十名となり問題なしと考えていたが、飯沢が持ってきた情報によって各議員がどちらにつくかわからなくなってしまった。
「いずれにせよ、今回の知事選に立候補するのであれば、すぐにでも表明すべきだろうな。これまで、知事選に関しては何も公言していないのだから、百二十万人の有権者に海藤の想いを伝えるにはある程度の時間が必要だろう」
「でも、議員のみなさんがどう動くかわからないですよね。もし、多くの議員が基地推進派についたら・・・」
「海藤、お前さんはなんでここにいる?なんで知事になろうとしている?」
「それは、沖縄の海を守っていきたいからです。引いては、それが、沖縄のみなさんの生活を豊かなものにすると信じているからです」
「雪さん、やりましょうよ。相手が誰だろうと、雪さんの沖縄を愛する気持ちは絶対に負けないですよ」
「高梨ちゃん、ありがとう。うん、気持ちは誰にも負けない・・・」
「海藤君、いつもの元気はどこに行きましたか。休憩はここまでにして、一気に沖縄県知事まで駆け上がりましょう!」
「藤原先生、先生もこんなに熱くなるんですね。元気、出ました!!」
「海藤さん、私からひとつ提案があります。役者の高倉健二と基地に関する対談をしませんか。先日彼と話をする機会があったのですが、そこであなたのことを話したらいたく興味を持たれたようで、後日、細かいことまで聞いてきました。彼はお祖父さんが先の大戦で戦死していて、兼ねてから反戦とかアメリカとの関係について興味を持っていたそうです。彼は、年齢性別を問わずファン層が広いから、今の状況を県民に伝えるには適任だと思いますよ」
「大垣さん、それ、うちを舞台にしてやりませんか。美ら海水族館は沖縄の海洋を守り広めるための場ですが、私は平和の象徴の場だとも考えています。水族館は、来館されるお客様の分け隔てはなく、誰でもが少年・少女になれる場だと思っています。そういった場で、雪さんと高倉さんが沖縄の未来について語れば、県民にとっては自分事として受け止めやすいのではないでしょうか」
「藤澤さん、それ、いいですね。企画、いただきます!!」
「みなさん、ありがとうございます。どこまでできるかわかりませんが、残り半年、知事を目指して頑張ります!」
翌週のテレビ放映で、雪は知事選に出馬する旨を視聴者に伝えた。と同時に、S N S上で発信されたメッセージがフェイクである旨を、テレビやラジオ、S N Sなどで有権者に伝えた。当初は相手を刺激しない内容にするつもりでいたが、出馬表明と合わせることになったことから、徹底的に先方の非を指摘する内容とした。また、番組の最後に、高倉健二との対談を実施する旨の案内したところ、視聴者から多くの反響があり、急遽、詳細な案内を流すことになった。
一方、推進派も原田の後継として財務官僚出身の菅部が出馬表明を行った。沖縄県議会、那覇市議会における根回しがどの程度進んでいるのかはわからなかったが、条例推進委員会の会合を欠席する議員が散見されるようになった。また、菅部陣営もメディアを活用して基地の重要性をアピールし始めた。真っ向勝負となった沖縄県知事選は、メディアやS N S上で盛んに議論されるようになった。それは、沖縄県内に留まらず、日本全国、引いては欧米諸国でもメディアが取り上げるようになった。
知事選まで三ヶ月となったある日、菅部陣営から連絡があった。
「高橋さん、先方は何て言って来たんですか」
「テレビ沖縄で討論会をやりましょう、だとさ」
「討論会ですか」
「先日、菅部さんの経歴を調べましたが、ディベートが得意みたいです。海藤さんは良くも悪くもすぐに熱くなるから、上手く対応しないと言質を取られてしまうかも知れませんね」
「飯沢さん、私、そんなに簡単に熱くなってますか?」
「え、そ、それは・・・」
「あはは、雪さん、みんなそう思っていますよ。ただ、ほとんどは良い方だから大丈夫ですよ」
「高梨ちゃん、本当?もしかして気を遣ってくれてる?」
「まあ、それはさておき、どう対応するかだな。こちらは大垣さん達のお陰で、高倉健二と言うビッグネームの後押しで世論は有利に展開しているからな。先方はそこをどうにかしたいと踏んでいるのだろう」
「高橋さん、そこはあまり気にしなくても良いのではないかな」
「近藤社長、どう言うことですか?」
「うむ、海藤君は素のままでも世論は味方につくと儂は思っとる。勿論、知名度を高める必要はあるが、海藤君の思考や性格を考えると言質を取られるようなことにはならんじゃろう」
「社長、それは買い被りですよ。私だって、討論になったら何を言わされるか、自信がないです」
「あんたは良くも悪くもシンプルじゃ。それはここ数年、近くで見ていてよおくわかった。そんなあんたから言質を取るのはそう簡単ではないよ。まあ、勢い込んで、とんでもないチョンボはしそうじゃが、それはそれで愛嬌じゃよ。ワハハ・・・」
「社長、、、」
「それよりも、議員の取り込みの方が怖いのじゃないか。有権者は海藤君が良いと思っても、日々の生活を支援してくれる地元議員の頼みはそうそう断れるものじゃない。今回の討論会、先方は知名度を上げることが目的なんじゃないか。新しい候補者の存在を有権者に知ってもらい、取り込んだ議員から依頼して票を集める。そんな絵を描いているように思えるけどな。勿論、あわよくば、海藤君から言質を取れればとも思っているじゃろうがな」
「そうすると、今度の場は有権者に訴えるのではなく、議員に訴えかけるのが良いと言うことですか」
「高橋君は相変わらず勘が良いねぇ。議員と言えど、ウチナーンチュじゃ。心の中では基地なんてない方が良いと思っている連中が沢山居るはずじゃ。そ奴らの心に訴えかけてみるのも面白いと思わんかね」
「でも、議員に訴えかけると言っても、取り込まれた議員には圧力が掛かっているんですよね。その上で推進派につくと言うことは、本心では基地反対と思っていても、それを飲み込んだ上でのことなんじゃないですか。それを翻すには、彼らにとって言い訳となり得る何か、若しくは交換条件のようなものを提供しないといけないのではないでしょうか」
「大垣さん、テレビ沖縄は富士テレビ系列でしたかな」
「ええ、そうです」
「今度の討論会、富士テレビで放映するかどうかわかりますかな?」
「今のところそう言う話は聞いていませんが、念の為、確認しておきます」
「あと、討論会を首都テレビで放映することはできますかな?」
「え、系列を飛び越えてですか。可能ではありますが、相手の出方次第といったとこですね」
「そうか、首都テレビで討論会を放映して、更に高倉健二に後押しをしてもらえれば、日本国内の世論を基地反対に向けることができる。今回の知事選は、日本全国で注目されている。そこで、基地反対に弾みをつければ、沖縄の議員もおいそれと基地推進の旗を上げることはできない。そう言うことですね、近藤社長」
「まあ、そう上手くいくとも思えんが、やってみる価値はあるんじゃないかのう」
【チーム雪】は菅部陣営の申し入れを受けた。大垣は沖縄テレビと富士テレビの局長に交渉し、首都テレビ系列で放映する了承を得た。ところが、討論会を三日後に控えたタイミングで富士テレビからリアルタイムでの放映は認められない旨の連絡が入った。
「富士テレビの局長にクレームの連絡を入れたのですが、【申し訳ない】と謝るばかりで理由は教えてもらえませんでした。あと、富士テレビでは、討論会の模様を当日夜の報道プライムで特集として取り上げるようです。上に報告しても【仕方ない】としか言われませんでした。どうやら、圧力が掛かったようです」
「それで、首都テレビはどうするんですか」
「一応、三日後の夜、報道ジャパンで特番を組めないか調整中です。ただ、富士テレビの報道内容によっては、こちらの出方を変えなければいけないかも知れません」
「恐らく、菅部に有利な内容になるだろうな」
討論会では、雪が沖縄の将来について語った。海洋環境や県民の生活環境を変えていくことの必要性を県民の目線で訴えた。一方、菅部は基地が存在することで得られるメリットに焦点を絞り、今後も基地が必要であることを、経済面を中心に語った。その内容は、当日の夜に富士テレビ系列で放映された。明確に基地推進を支持することはなかったが、予想通り、菅部に有利となるような編集が行われていた。S N Sでは、両陣営がそれぞれの主張を伝えたが、テレビの影響力は強く、この時点では明らかに菅部陣営がリードした形となった。三日後、首都テレビでも特番を組んで放映したものの、一度流れた情報を覆すのは難しく、S N S上でも基地推進を支援する声が増えつつあった。
効果的な対応策を講じることができないまま、一週間が過ぎた。知事選の告示まで二ヶ月を目前としたある日、【チーム雪】の定例に一報が届いた。
「さっき、S N Sで【海藤雪】がトレンドとして急上昇し始めました」
「え、私の名前が?どう言うこと?」
「それがですね、沖縄出身の女子プロゴルファー、宮沢藍っていますよね。私はあまり知らなかったのですが、世界でも活躍した選手ですよね。その彼女が雪さんの活動についてS N Sでつぶやいたみたいです。それが反響を呼んで、トレンドになっているのです。合わせて【基地反対】も急上昇です」
「藍さんが私のことを」
雪は子供の頃、藍に憧れてゴルフの練習に明け暮れた日々を思い出した。怪我のせいで夢は断念したが、夢を見させてくれた藍が今度は自分を肯定してくれた。これまで頑張ってきたことは間違っていなかった。そう思うと、溢れてくる涙を抑えることができなかった。
「泣いている暇はないぞ。この機を逃さず、一気に盛り返すぞ!」
「そうよ、雪。これまでに築いたネットワーク全てを活用して、一斉攻撃するわよ」
「高橋さん、朱里、、、そうですね、泣いている場合じゃないですね。よーし、頑張るぞぉ」
「高梨ちゃん、S N Sに発信する原稿を作って。大垣さん、首都テレビで枠を取れるよう調整してください。藤澤さん、美ら海水族館でイベントできないか検討してください。藤原先生、基地研から学生向けに発信するよう由佳に指示してください。近藤社長、条例に関係している企業への根回しをお願いします。飯沢さん、先方に取り込まれたと思われる議員に接触して状況を確認してください。できれば、こちら側につくよう、説得してください。朱里、、、」
「みなまで言うな、私の持っているチャネルに何人のウチナーンチュがいると思っているの。しっかりとアピールしておくわよ」
「流石、朱里、三十年も付き合っていると何でもわかるんだね。さあ、みなさん、残り二ヶ月です。できる限りのことをやりましょう!」
【チーム雪】は各自が受持つテリトリー内で精一杯の活動を行い、菅部陣営に追いつく勢いを見せた。一方、菅部陣営も既得権益を前面に押し出し、メリットを享受している企業や議員を中心にアピールを重ねた。その内容はかなり露骨なものも含まれていたが、目先のことを重視する人達にとっては大事なことであり、その勢いを止めることはなかなかできずにいた。そして、告示日まで一週間となった日、【チーム雪】の定例では難しい顔をしたメンバーが言葉少なに打ち合わせを行なっていた。
「昨日の報道プライム、あからさまに菅部陣営の有利を伝えていましたね。まあ、裏で繋がっているから仕方ないけど、浮動票に悪影響を及ぼさないと良いのですが」
「まあ、こちらも海人テレビで海藤が直接話しているから、そこは五分五分じゃないか。それより、既得権益を享受している企業の取り崩しが十分にできていないことが気になるな」
「一応、産業振興公社や商工会議所を通じて説得はしているのじゃが、如何せん、各企業の利益に直接影響することじゃからな。徐々に変えていくと言ってもなかなか良い顔をしてくれる経営者はおらんのが現状じゃ」
「他はどうですか?雪さんが直接訴えかけてきた視聴者とか」
「テレビやラジオで海藤の話を聞いた本人はある程度見込めるとは思う。ただ、推進派を支持している家族がいるとどちらに転がるかはわからんな」
「そうすると、やはり、浮動票の取り込みがポイントですかね」
「あと、これまで投票に行ってなかった人の票を獲得する」
「そんなこと、今からできるんですか?」
「これまでにやってきた活動で雪さんを支持するようになった人の多くは二十代から四十代の女性ですよね。彼女達はこれまで投票に行ってない可能性があります。彼女達が投票に行けば自然と投票率は上がるのではないでしょうか。勿論、その分、雪さんの得票が増えますよね」
「そうだな。ただ、彼女達の票はある程度折り込み済みだから、別の浮動票を取り込みたいな。それと、これまで投票してこなかった人は、なんだかんだ、直前になって行かないこともあるかも知れん。もうひと押ししておきたいな」
「影響力のある人にアピールしてもらえないですかね。これまでの経緯を踏まえて、高倉健二とか宮沢藍とかでしょうか」
「高倉さんには私から打診してみます。宮沢さんとは面識がないのですが、どなたかチャネルありますか?なければ私の方で探してみますが」
「私に任せてもらえませんか」
「海藤、宮沢藍と会ったのは子供の時だろう、大丈夫か?」
「藍ちゃん、じゃなかった、宮沢さんには恩があるんです。それに、今回、何もお願いしていないのに後押しをしていただけたし、直接お会いしてお礼を伝えたいんです」
「わかりました。連絡先は私の方で調べてみます」
「大垣さん、お手数掛けて申し訳ありません。よろしくお願いします」
「ここまで来て何を言っているのですか。私も【チーム雪】のメンバーですよ。それに、これくらいのこと、餅は餅屋ですよ」
「ただ、告示後だと横槍が入るかも知れない。何とか、告示前にアピールして欲しいですね」
「え、一週間ですか。そりゃ時間がないな、急いでコンタクトしないと。それじゃ、私、すぐに調整に入ります。今日はこれで失礼します」
大垣が奔走し、三日後には高倉の了解を得ることができた。事情を知った高倉は、急遽、他のスケジュールをキャンセルして、翌日には収録に応じてくれた。一方、宮沢藍とは翌々日に会えることになった。会合を抜けた大垣が宮沢藍の連絡先を調べ、高梨からコンタクトの連絡をしたところ、是非とも雪に会いたいとの回答が届いたのである。打合せの場に現れたのは、綺麗な白髪を持った、凛とした老婦人だった。
「初めまして、宮沢です」
「初めまして、海藤です。でも、実は初めてではないんです。もう四十年ほど経ちますが、藍さん、あ、宮沢さんがジュニアのレッスン会をされた時にお会いしています。勿論、覚えてはいないと思いますが」
「そうらしいですね。連絡をいただいた高梨さんから聞きました。何でも、私からゴルフクラブを贈らせていただいたとか。覚えていなくてごめんなさいね。あ、あと、藍で構いませんよ、ふふ」
「いえ、私の方こそ、その節は本当にありがとうございました。藍さんにいただいたクラブ、とても嬉しくて、とっても大事にして、練習しました」
「今もゴルフを?」
「いえ、当時は幼心にもプロゴルファーになると決めていたんですが、練習しすぎて身体を壊してしまって断念したんです。それ以降、ゴルフからは離れてしまって。せっかく、クラブを贈っていただいたのに本当に申し訳ありません」
「いいえ、そんなに頑張ってもらえたのであれば、贈った甲斐があると言うものです。逆に、身体を壊す原因になってしまって、こちらこそ申し訳なかったわね。ところで、今日は知事選のことで私にお願いしたいことがあるとか、どんなことかしら」
「あ、はい。既にご存知のように、今回の知事選に立候補を予定しています。ただ、基地推進派に対抗するためには、これまで投票に行かなかった人達の票も集めないと厳しい状況なんです。そこで、投票に行くよう、キャンペーンを打とうと考えています。その先頭を、藍さんと高倉健二さんに担っていただけないかと考えています」
「あら、私なんかで良いの?元はプロゴルファーだったけど、今はどこにでもいるおばあちゃんよ。こんな人が言っても効果ないんじゃない?」
「いえ、そんなことないです。藍さんは沖縄出身で世界を股にかけて戦った、ウチナーンチュの誇りです。その藍さんの言葉はとても重みを持って県民の心に響きます。現に、先日S N Sで発信していただいたコメントのお陰で、一方的になりそうだった状況を変えていただけました。私は子供の頃に藍さんから夢を貰いました。そして、今、また、藍さんから応援していただき、とても心強く想っています。是非とも、キャンペーンで沖縄県民に訴えかけていただけませんか。よろしくお願い致します」
「そんな、大袈裟に言われちゃうと受けないわけにいかないわね。で、私は何をすればいいの?」
「あの、実は今回のキャンペーン、知事選の告示前に行いたいのです」
「知事選の告示って、来週でしたっけ?」
「ええ、五日後です」
「あら、そんなに早いの?え、それって間に合うの?」
怒られるのを覚悟でスケジュールを伝えた雪に、宮沢は茶目っ気たっぷりの顔で引き受けてくれた。そして、二日後には海人テレビのスタジオを使って収録を行なった。同時に東京で収録された高倉バージョンとコラボさせた映像を使い、告示日までの三日間、首都テレビ系列の全テレビ局、ラジオ局でキャンペーンが展開された。合わせて、S N S上に動画がアップされ、【チーム雪】を支援する若者によって一気に拡散された。こうして、知事選は告示日を迎えた。
選挙戦が始まると菅部陣営は初日から大物政治家を招き、人が集まる那覇の市街地で、沖縄の発展には基地がとても重要であることをアピールした。また、人口が比較的少ない北部地方や離島にも名前と顔の売れた政治家を送り込み、万全の体制で選挙戦を進めた。一方、政界の基盤が脆弱な【チーム雪】は、物理的に沖縄県全体をカバーすることが難しいため、ネットをフル活用して雪の人となりを最後の最後まで伝えることにした。
選挙戦が後半に入ると、県内のローカルメディアは連日選挙戦のことを報道した。メディアによって多少の違いはあったが、拮抗、若しくは菅部陣営が若干リードといった内容が多かった。そして、選挙戦の状況は全国規模のメディアでも連日報道された。報道内容は系列によってバラツキが見られ、特に富士テレビ系列では菅部陣営の有利を指摘する内容が増えていた。解説を担ったコメンテータは、【全国向けに放映するのは、地方の知事選としては異例なことですね】とコメントしていたが、もしかすると、菅部陣営の息がかかっていることを皮肉っていたのかも知れないと大垣は感じた。
投票日の前日、【チーム雪】のメンバーと別れて家路に向かう途中、たまたま同じ方向に歩を向けていた高橋に声を掛けた。
「いよいよ明日ですね」
「そうだな」
「どうなりますかね?」
「なんだ、弱気なのか?お前らしくないな」
「弱気と言うか、よくわからないんですよ。今の自分の心境が」
「なんだそれ」
「さっき、チームのみなさんの顔を見ながら思ったんです。私はなぜ、ここにいるのかなって。なんで知事になろうとしているのかなって」
「おいおい、そんな、今更なことを考えていたのか」
「そうなんです。今更なんです。分かりきったことなんです。だけど、ふと、そんな気分と言うか、想いと言うか、、、なんて言えばいいのかよくわからない感情が湧いてきたんです」
「まあ、わからなくもないけどな。この半年間、経験したことのないことばかりだったしな。俺も、今、心にポッカリと穴が開いたような気分ではある」
「高橋さんもですか」
「ああ」
「明日、大丈夫ですかね」
「まあ、明日になったらこんなのんびりしたこと言っている暇はないだろうから、、、大丈夫だろ」
「そうですね。知事になろうが、ならなかろうが、私がやることの本質は変わらないですしね」
「なんだ、わかっているじゃないか」
「ええ、高橋さんに散々鍛えていただきましたから、これくらいのことはわかるようになったみたいです」
「俺じゃないさ。元々お前自身に備わっていたものだよ。そのことに、俺やチームみんなの言動で気づいただけさ」
投票日の朝、地元沖縄のメディアは、総じて菅部陣営がやや有利であると報道した。
【チーム雪】は那覇市内の選挙事務所に集まり、即日開票の結果を待った。
【二十時〇〇分、開票率三十パーセント】
「菅部仁、十万五百三十六票、海藤雪、九万九百八十一票、下嶋豊、一万八千二百六十一票」
「菅部候補が若干リードしていますが、予断を許さない状況です」
【二十時三十分、開票率五十パーセント】
「菅部仁、十六万三千二票、海藤雪、十六万五百六十七票、下嶋豊、二万七千八百八十九票」
「かなりの接戦になっています。選挙前の予想通り、菅部候補と海藤候補の一騎打ちとなっています」
【二十一時〇〇分、開票率六十パーセント】
「菅部仁、十九万九千四百三十九票、海藤雪、十八万九百九十九票、下嶋豊、三万百十二票」
「菅部候補がリード。海藤候補にもまだ逆転の余地はあるものの、残り票数を考えるとかなり厳しい状況になっています」
「大接戦となった沖縄県知事選、当確が出たようです。開票率七十パーセント、大逆転で当選したのは、海藤雪、基地反対を唱えた新知事の誕生です!」
アナウンサーが絶叫するように叫んだ。事務所は一瞬、静寂に包まれたが、次の瞬間、大歓声が挙がった。
「雪、おめでとう!!」
雪の隣に座っていた朱里が雪に抱きついた。その瞬間、雪の中から一切の音が消えた。雪は茫然としたまま、テレビの画面と抱きついてきた朱里の頭を見た。
【朱里のつむじってこんな形なんだ・・・】
【あれ、私、何やってたんだっけ?】
急に音が蘇った。チームの面々や事務所に集った支持者から発せられた祝福の声が、嵐のようになって雪の耳に飛び込んできた。
嵐のような知事選を終えて一週間、多忙なスケジュールの中、何とか時間をやりくりして雪は玄吉の家を訪ねた。そして、仏壇に向かって報告をした。
「みんなのお陰で、何とか県知事になれたよ。これからどうなるのかわからないけど、叔父さんが教えてくれた素晴らしい海を守るため、頑張ってやってみるよ。これからも応援してね」
報告をしながら雪は想った。今の自分があるのは、幼い頃から海のことを教えてくれた玄吉のお陰であると。そして、子供の頃から今までに出会った人達の顔を思い浮かべた。その人達に助けられてこれまで走って来られた。自分は何と幸運な人間なのだろうと想う雪だった。
「雪ちゃんが県知事かぁ、すごいね」
「そんなことないです。私はただ、みなさんに担いで頂いただけです。それに、これからも私は単なる代弁者だと思っています。チームをはじめ、県民みなさんの望むことを代弁していくだけです」
「そうだね。たまに知事になった途端、言動が変わる人がいるけど、雪ちゃんはきっと変わらないだろうね。でもね、県民は雪ちゃんに期待しているよ。今回の選挙を見ていて私も思ったよ。雪ちゃんならきっと沖縄を変えてくれるってね」
「恵美子さん、そんなにおだてないでくださいよ。そんなこと言われたら、プレッシャーがかかっちゃいますよ」
「あはは、雪ちゃんでもプレッシャーとか感じるのね。初めて知ったわ」
「えー、ひどーい」
雪が知事になったこの年、由佳は海洋大学を卒業して美ら海水族館に就職した。玄吉や雪の後を追って、水族館にいる海洋生物と過ごすことを選択した。条例の先行きが不安視され、崇宏と共に活動の立て直しを図った後に産まれた亜希は、この春、小学校四年生になっていた。先日、学校で書いた作文【いつかやってみたいこと】には、【世界中の海に行って、どんな生き物が住んでいるのか見てみたい】と書かれていた。そして、雪が先頭に立って進めてきた条例は制定から十四年の歳月が流れ、沖縄県のあらゆるところに根付きはじめていた。本島は勿論、住民が比較的少ない離島でも、学校や観光施設などが中心になって啓蒙活動が行われた。地元の企業も積極的に協力し、山や川や海に優しい活動が採られるようになっていた。
雪は知事就任の挨拶をする際、冒頭で、【県民の生活を守り、大事な海や山を守り、人生を、暮らしを楽しむ沖縄を作りたい】と述べた。そして、暖かく見守るみんなの笑顔を確認して、最後にこう告げた。
「とっても難しいことだけど、みんなが一緒ならきっとやれます」
Epilogue 美ら海
「雪姉ちゃん、昨日の首都テレビ見た?」
「ん、沖縄特集?それなら見たよ」
「珊瑚礁が大幅に増えてきていることを伝えていたね。良かったね」
「そうだね、由佳達が頑張ってくれたからね。本当に良かったよ。ありがとね」
「私なんか何にもできていないよ。未だに一介の飼育員だからね」
「そんなことないよ。由佳達が大勢のウチナーンチュを導いてくれているからこそだよ」
「そう言われると少し照れるな。あ、そう言えば、亜希が次の館長に就任するらしいよ。急な話でびっくりしたわ」
「そうみたいだね。夕べ、【今度、美ら海水族館の館長になるわ】って一言だけメッセージが来たよ」
「え、それだけ?相変わらずねぇ、あの子は。海洋大学だって、入学して一年で中退してオーストラリアの大学に行っちゃったし、しかも、その後、向こうで大学の教授になるとか、訳わからなかったよね、あの頃は」
「ふふ、本当に、、、まるであなたのお父さん見たいよね」
「あはは、確かに。あ、でも、雪姉ちゃんも似たり寄ったりだから、きっと、海藤家の血筋だよね」
「あら、私はそんなことないわよ。私なんかより、由佳の方がすごいんじゃない。一介の飼育員とか言いながら、海外派遣、何回行った?もう、多すぎて覚えていられないわよ」
「えへへ、十回ほど行かせてもらいました。毎回、楽しかったなぁ。今度は、イースター島とか行けないかなぁ」
「えー、イースター島って、あの、モアイ像があるところ?そんなところに水族館とかあるの?」
「知らない。だけど、イースター島って太平洋のど真ん中でしょ。【ザ・海洋生物】って感じしない?」
「はいはい、好き勝手言ってなさい。それより、そろそろ朱里を空港に迎えに行かないと間に合わなくなるわよ」
「あ、そうだ、忘れていた。朱里姉ちゃん、遅れると本気で怒るからなぁ」
朱里は、役員として招かれた会社で手腕を発揮し、従業員五〇〇名、年間売上七〇億円の優良企業に発展させた。七十五歳で相談役を退いた後は、日本国内のみならず、世界各地を旅行することにハマっていた。旅行の途中に沖縄に寄ることもしばしばで、今回は、タイ旅行のついでに顔を出すと連絡してきていた。
「朱里、バスを乗り継ぐみたいに言わないでよ。まさか、タイ旅行の帰りだなんて思わなかったわ」
「あら、いいじゃない。バスも飛行機も似たようなものよ。それより、亜希が美ら海水族館の館長って、どういうことなの?大学教授として世界各地を渡り歩いていたわよね?」
「うーん、私も全然わからないの。さっきも由佳と話していたんだけど、夕べ、館長に就任するとだけメッセージを送ってきたのよ」
「まあ、亜希なら大丈夫だから良いけどね。ところで、シーミーはどうするの?確か、崇宏の三回忌だったよね」
「うん、まあ、いつも通りにやるよ。亜希も久しぶりにお墓参りができるって喜んでたし」
「恵美子さんは?足の具合はどうなの?」
「うん、もう歳だからね、車椅子に乗ってることが多くなったかな」
「シーミーの時は私が押すから大丈夫だよ」
「そうだね、美ら海で日頃鍛えているから車椅子のひとつやふたつ、どうってことないわね」
「朱里姉ちゃん、それはちょっと言い過ぎですよ。まあ、この三十年間でそこら辺の男達より力持ちになったのは事実だけど・・・」
「もう、由佳ったら」
開け放った窓から夕方の涼しげな風に乗って波の音が聴こえてきた。かつて、今は亡き玄吉が住み、雪に海の話を沢山してくれた家。今は政界から引退した雪が住んでいた。
「いつ来ても、ここから見える景色はホッとさせてくれるよね。私が育った那覇市内とは全然違う景色なのに不思議だよね」
「朱里も私もウチナーンチュだからね。美ら海が心の根っこにあるからだよ」
窓から見える海を眺めていたら玄吉の声が聴こえてきた。
「おまえは生まれてからずうっと、毎日この海を見て、この海で育ってきたから、この海の素晴らしさが当たり前過ぎてわからないのさ」
【そうだね、そんなもんかも知れないね、玄吉おじさん。】
水平線の先に沈む夕陽が三人の顔を朱く染めていた。
完