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正しい「悩み」の取り扱い方について

最近、「なんかつらいなぁ」とか、「なんかうまくいかない」とか、そういう漠然とした「悩み」を抱えていることがよくある。加えてそういうことを考え始めるときは、もっぱら頭や体が疲弊していることが多い。そんな状態で、時にはそれを聞いて共感してほしくて、私は「悩み」を周りに言うことがある。

そして気が付いたことがある。それは、相談相手がそれに対して「共感」ではなく「解決策の模索」をしてくれるということだ。すなわち、どうしたら解決できるかを探し、それを見つけ出そうとすることで、もやもやの解消を図ろうとしてくれる。そういう状況に対して私は最近、「解決策の模索とかはいらない、ただ共感してほしいだけなのに」といった不満を抱くのを感じた。

でもふと、元気な時に思ったのだが、その不満はお門違いなのではなかろうか。相手は自分を苦しめるためではなく救ってくれようとして解決策を提示してくれているのだ。それに不満を抱くなんてよくない。そもそも、なんでそんな不満が生じているのか。

それは、私はそんな「悩み」を抱えることで重大なことを考えている振りをして、実際は何にも考えていないからではないか。「悩む」ことで、現実の諸問題から目を背けているからなのではないか。私の、「なんかつらいなぁ」とか、「なんかうまくいかないなぁ」とかいう「悩み」は、どうしようもない類のものではなく、解決策の検討が十分にできる類のものだということだ。しかし私は、ぼおっと考えるだけで行動を起こそうとしていない。そんな類の「悩み」だったから、それを相談した相手は「解決策」を見出してくれたのだ。でも私は、「解決策を探すこと」が億劫だと感じているから、解決策を見出そうとしてくれる相手に不満を抱いていた。

思えばそんな悩み方は時間の無駄だし、精神衛生上も悪い。解決策を見いだせないのは頭が疲れている時だから、そういう「悩み」が頭を占有し始めたときはまず休んで回復すべきだし、考えるなら「どうすればいいか」まで考えないと、自分の時間もそれを聞いてくれる相手の時間も無駄にしてしまう。

解決策を考えようとしないで、ただひたすら悩む。これは私の良くない癖だ。ぼおっと悩み始める瞬間が増えたらまず休む。元気が出たら解決策を見いだす。どんな結論に達しようと、すっきりした頭で考えたことに対しては、きっと自分も納得できるはずだから、そこで決めたことにはきちんと納得して、ぐちぐち言わないで取り組む。それでもぐちぐち言いたくなる時は、人にぶつけるのではなくほかの形での発散も考える。今の自分はどうやら甘いものを食べるか、抱き枕を抱きしめるかするのが落ち着くらしい。

悩むのではなく考える、考えたら行動する。「悩み」が生じたら、そういう方向にに転換していくのが、「悩み」の正しい取り扱い方なのではないか。




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