川端康成、並びに近代文学等についての雑記 

 川端康成の『雪国』を読了したものの、わたしには或るひとつの幻想が脳裏で胡坐をかいている。その名は『水晶幻想』の攪乱的な仮現運動である。
 川端の文学というと、戦前における日本の景色を絵筆でなく文字の力で描いてみせる類の作品が語られるが、そういった作品よりも『水晶幻想』の言い知れぬ作品世界を展開し、進行させるということをやってのける作品が、わたしには『伊豆の踊子』よりも『雪国』よりもずっと魅力的なのであった。
 ……22の齢になって、漸く志賀直哉の作品を素直に読みうるようになってきた。思えば文学への目覚めは中学三年の時で、あの頃は森鴎外の「杯」やら「普請中」やらを面白がって読んでいた。「興津弥五右衛門の遺書」に至っては、当時読んだこともなかった候文の特異さや硬質な作品世界に、筆舌に尽くせぬ欣喜の感がほとばしったほどであった。無論今でも読み返している。
 それが高校に入学すると前衛文学の虜になり、珍妙さの不足した文学に飽きては、あらゆる手を使ってそうした変な文学を読むことに暇がなかった。まったく前衛至上主義であり、通常の表現には一縷の価値さえないと本気で思い込んでいたのだった。今思えば、それがかえって文学史の学習や、文学の素養を育み、物書きとしての感性をも同時に養う一助になったのかもしれないが、ずいぶん奇妙な道程を影にしてきたと思う。
 かような文を書くことに大した理由などない。ただ昨日、或る人に恋人はいないのか、欲しいと思わないのかという会話から生じた、文学好きが高じて物を書く男に驚異的なる恋愛感情を抱く女人などあろうかという、わたしのひどく世俗的な疑問によるものである。
                    収穫

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