時を超えて救われること
よく話をする友だちがいて、彼女は私の書くこのnoteを読んで感じたことや思ったことなど、いろんなことを伝えてくれる。
それが本当に嬉しくて、このnoteを書く励みになっている。
少し前に私は、人間関係で悩んだことや昨年手術をした際の検査時期のことをnoteで書いた。
それを読んだ友だちは、私に
「そのときに気づかなくて悔しい」と言った。
「そのときに元気づける言葉のひとつもかけられなかった」とも。
それを聞いて、私は時を超えて救われた、という不思議な感覚があった。
あのとき悩んでいた自分が救われ、そして今の自分も一緒に癒された。
私は基本的に悩んでいる最中や、落ち込んでいる最中はそのことを誰にも話さない。
というより、「誰かに話す」という選択肢があまりない。そんなことができないくらいに自分でいっぱいいっぱいになってしまう。
しばらくして落ち着き始めた頃に「あぁ、この人に話してみよう」と思う。
そのときに話を聴いてくれる人がいることはとてもありがたく、私にとっても「あぁ、そろそろ抜けてくる頃だな」という目安になる。
そして話しながら振り返り、落ち着きを取り戻して力が戻っていく。
そして友だちからそんな言葉をもらったときに、昔付き合っていた彼のことを思いだした。
付き合い始めてしばらく経った頃「数年前に人間関係で悩んだことがあってあのときは辛かったなー、でも今はそんなことも忘れるくらいになってきてるんだ」と話したのだ。
実際に私が悩んでいた時期、彼とは顔と名前は知っているけれどほぼ話したことがない、というくらいの関係だったから、私の事情なんて何も知らなくて当然なのにこう言ったのだ。
「そのときに戻って、力になってあげたかった」
「そのとき、力になれなくて残念だ」と。
それを聞いて、悩んでいた時期の私も救われた感覚があったし、彼に話しているそのときの自分も救われて、とてもホッとした覚えがある。
友だちも、そして当時の彼も心からそう思って伝えてくれたことが、ひしひしと伝わってきて本当に嬉しかったし、そういう人が傍にいてくれることがありがたかった。
そして私は安心してそこにいられた。
時を超えても、救われることがある。
それをまた強く感じたこの9月。
自分も、そして周りの人たちも大きな大きな変化の中にいることを感じるけれど、大好きな人がそこにいるという安心感が私を私でいさせてくれる。
ありがとう!もう会うこともないけれど、大好きだった人たち。
そして、大好きな友だち。
あなたたちがいてくれることが、私の宝物だ。