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生まれ月あれこれ
わたしは3月の終わりの方に生まれた。
誕生日はいつだって春休み中で、学校で「おめでとう」を言われる友だちにちょっと憧れていた。
小学校も中学校も高校も、そして大学も
卒業式の後に同級生と同じ年になった。
「18歳… ってことは高3?」という会話は、わたしにとっては頭の中で計算する時間が他の人よりも必要だった。
母はわたしが保育園に入るとき、少し心配したらしい。
わからないでもない。
わたしが「おぎゃー」と生まれたときに、同級生の誰かはもう歩いているのだ。
だが、当の本人にとってはそんなことは少しも関係なかった。
保育園のかけっこ大会では誇らしげに「1番」のメダルをかけている写真があるし(後に、この栄光は保育園のときだけだったと知ることになるが…)、背の順で並んでもいつも真ん中より少し前辺り。
勉強に関しても、困った記憶はほぼない(自らの学力には困っていたが、早生まれだから…というわけではない)。
それは、例えていうなら飛び級をしているような感覚だった。
一つ上の人たちと同じことを、ちょっと先取りしているような感じ。
みんながどんどん年を重ねていく中、わたしだけが少し先に体験できるような、なんだかお得な感じ。
対して、わたしの妹は4月の頭に生まれた。
わたしと全く真逆である。
先日、彼女に4月の頭生まれで感じたメリットとデメリットを尋ねた。
いいと思ったことは、
人よりなんでも早くできたから、自己肯定感が高まったこと。
それが成功体験に繋がっている。
というようなことを言っていた。
そして、ちょっとまあこれは…と思ったことは
みんなより先に年を取ってしまうこと。
らしい。
なるほどね。
しかし、わたしが思うに、彼女の自己肯定感及び成功体験は誕生日によるものではないような氣がする。
(細かいことにはあまりこだわらず、大らかな性格なのだ)
わたしは30歳くらいまでは、自分の年齢をくっきりといつでも覚えていたし、29歳と30歳の違いは割と明確な線が引かれていたような氣もするけれど、今となってはどうでも良くなってきている。
妹も同じ感覚らしい。
今なんて、自分がいくつなのか計算しないとわからないことが、たまにある。
40歳を超えた辺りから、その辺りが適当になってきた。
そしてわたしも妹も
「自分の生まれ月、もっというと誕生日がここで良かったなー」と思っているのだ。
3月末生まれと4月頭生まれの真逆のわたしたちが。
なによりこの世に生まれてきたことが、すごいんだよなーと思うのだ。
わたしは自分が生まれ出たときのことを、全く覚えていない。
しかし両親、祖父母、叔父たちにとって、わたしが生まれたことはとても嬉しく喜ばしいことだったのだと聞いた。
生まれたときのことを聞くたびにくすぐったい氣持ちになる。
わたしが覚えていないところで、生まれたことでだれかの人生に彩りを添えたことがあるのだ。
それはちょっと誇らしく、とても嬉しいことのなのだと思う。
それが何月何日だとしても、とても素晴らしい日だったのだろう。