遠縁の伯母の話
夏の思い出について書こうかと考えていたのだけど、今日は広島原爆の日なので、遠縁の伯母について書き記そうと思う。
私の遠縁の伯母は、従軍看護婦だった。戦争が始まったら、外地勤務のため日本軍とともにあちこち移動していたそうだ。いろんな国に行ったと言っていたけど、一番記憶に残っているのが、フィリピンだったと。
もちろん、いい印象で記憶に残っているわけではない。
フィリピンでは、ジャングルを移動しながら、洞窟を見つけて夜はそこで過ごすという生活をしていたそうだ。ケガをしている日本兵の看護をしながら、夜は敵の攻撃を警戒して過ごす、それが毎日、ひたすら続くわけで、その緊張度合いは想像すらつかない。
ジャングルでは、ネズミを捕まえて食べていたらしい。優先して食べるのはもちろん日本兵で、従軍看護婦は残ったら食べられた。
戦争が終わって無事に日本へ戻った時、ホッとしたのかと思いきや、自分は生き残ってよかったのか?と、かなり悩んだらしい。
誰かが親しい人の戦死を知って泣き崩れる場面を見るたび、自分が変わりに死んだらよかったのではと鬱々と思ったそうだ。
というのも、伯母は天涯孤独で、日本に帰ってきても伯母を待つ家族はいなかった。家族がすでに亡くなっていたのか、そのあたりは知らない。
伯母は運よく病院勤務の看護婦としての職を得て、新しい人生がはじまったけれど、抱いた葛藤は生涯消えなかったのではないかと私は思っている。
晩年、伯母は足を骨折し、病院に入院した。これは平成に入っての話。当時90歳近くになっていたと思うのだが、足以外に悪いところはなかった。
綺麗な病院だったので、伯母にとってはよかったなと周りは思っていたけど、お見舞いに行くたび伯母は泣くのだ。
「早くうちに帰りたい」
伯母は団地で一人暮らしをしていて、近所に住む私の母(伯母にとっては、遠縁のいとこ)が面倒を見ていた。
伯母は母にこう言ったらしい。
「病院にいると、フィリピンの洞窟を思い出す。ネズミが走り回る音や、遠くで砲弾が爆発する音が聞こえる気がする。頼むから、家に帰らして欲しい」
伯母が入院していた病院は、病棟を新しくしたばかり。施設としては非常に整っていたし、静かな環境にあった。
だから、実際に音に悩んでいるのではなくて、本当にフィリピンにいた頃のことをリアルに思い出してしまったのだろう。
しかし、大腿骨骨折の伯母を連れて帰れるはずもなく、泣いて頼む伯母をなだめるのが大変だったと母は言っていた。
そう言えば、伯母は花火が嫌いと言っていたな。特に空に打ち上げる大きな花火は嫌いだと。それを聞いた当時は、なぜ嫌いなのかよくわからなかったけど、今は想像がつくし、その想像はたぶん当たっているだろう。
伯母は結局その病院から退院することなく、静かに旅立ってしまった。骨折の治療中にガンが見つかったのだ。
伯母は治療を拒否したし、医師も積極的な治療は伯母のQOLを下げることになるから勧めないと言ったので、結局何もせず、伯母は静かに亡くなった。
伯母の人生には、戦争以外にもさまざまな嵐が吹いて、それは壮絶だった。けど、口下手だったのもあって、いつもじっと耐え、どれだけ損をしても周りの力になれることはないかと考える人で、今から思うと尊敬しかない。
最後まで人を信じ、一途に信じるがゆえに上手く利用され、それでも人を信じることを止めなかった人。
伯母はもう生まれ変わっているだろうか? もし生まれ変わったら、今度は戦争のない人生を心から満喫してもらいたい。つまらないことで大笑いし、人を好きになって一喜一憂し、家族に囲まれながら過ごす、そんな人生を送っていて欲しい。
令和の今、私は心からそう願っている。