きみ は だれ
昔、子育てのブログをしていたことがある。子供が元気いっぱいでヤンチャだったので、書くネタに困らなかった。あったことをぼやかしながら毎日書き続けたことで、子育て自体が楽しくなった。
子育てと家族をつくることは、私の人生前半のメイン課題であり、そこが居場所だったのだ。気忙しく思い通りにならないことばかりだったが、相応におもしろかったと振り返って思う。
そして子供が思春期に入り、ネタ的にブログに書けることは少なくなった。子供のプライバシーもあるし、将来私の書いたブログが子供の目に触れたらどう思うだろうかと考えるようになった。子供たちに無許可で書いていたことと、自虐気味な表現が多かったので、私はおもしろいと思っても、子供にとってはそうではなく、自分を否定されたように感じるかもしれない。
だから、ブログをやめた。
そこからさらに年月が過ぎて、今。私のメイン課題となっているのは、仕事だ。専業主婦がことごとく性に合わなかった私は、働くことを迷わず選んでここまで来たのだけど、仕事でブログやSNSをやる必要性が出てきたのだ。
家族や家庭のことは書けないなと思ったので、ネタを懸命に探すも、見つからない。自分語りはできるけれど、アップして数日後に読み返すと、とんでもなく惨めな気持ちになる。
当たり前のことだが、矛盾があるのだ。わかったように書いているけれど、実際の自分の言動はどうだろうか。そんな完璧なわけがない。文章のあちこちに、何かや誰かを批判しているニュアンスを感じるのも、なんだかなぁ。
自分のブログを読み返すたび、思っていた。
この人 だれ ?
なんで こんなに えらそうなの?
そのブログにあるのは、嘘だけだ。そんな風に感じたから、そのブログも全削除した。
私が書いたけれど、わかった風に書いているけれど、何もわかっていない自分を確かにそこに感じて、惨めになり耐えられなくなったのだ。
この頃、家人が私によく問いかけた。
「わかったように言っているけれど、本当は何もわかっていないことを認識した方がいい。空っぽな人間ほど、声高に、さもわかっているかのように主張するものなんだから。そんなテクニックを得たところで、意味がないだろ」
屈辱的だった。私なりにいろいろがんばってきたつもりだったし。が、実は昔から親によく言われていた。
「あなたは正論ばかりで、おもしろくない。」
正論の何が悪い。と思う一方で、ということは、正論しか言えていないってことか? そんなはずはない、と思ってきたけれど。
去年、さまざまなことがあり、ようやく私は、この家族の助言を認めて受け入れた。そしたら、なんでか楽になったのだ。
何もわかっていない自分でも大丈夫、と実感したのも大きかっただろう。
”きみは だれ”
このフレーズは、大好きなKingGunの楽曲『カメレオン』に出てくる歌詞の一部だ。
この歌詞を聞くたび、私は身が引き締まり、心の中で思う。
わたし は わたし。
いびつだけれど それは たしかに わたし。