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近くて遠い世界。

どこに投げたら救われる思いなのか、いや救ってもらいたくもない思いなのかさえ分からないから、そのままに等身大の私を綴ろうと思った。

昨年の5月に祖母が死んでから、私の人生は大きく変化した。死に直面することがこんなにも大きな変化を生むなんて思いもしなかった。

一年経過した。

早かったようで、長かったと思う。

圧倒的に座学での勉強量は減って、体感するような学びが多くなった。

もっと自由に時間を区分して生活するようになった。

その中で、閉じたくなるような過去もあったし、開きたくなるような未来のために頭を使って、毎日一歩踏み出したり。

最近は学生団体とやってみたり、インターンをしてみたり、バイトをしてみたり、合宿の運営をしてみたり。忙しく過ごすようになった。

でも、途端に見えてきた終止符と、するべきことに苛まれて、いつかの過去に後悔したように、またそれを繰り返しそうになって、怖くなる。焦る。

このまま行動を続けた先にある未来が本当に自分の望むべき、両親の望むべき未来なのか私には分からない。

最近は、忙しさに比例して大好きな言葉を尽くす、ということも激減した。

忙しさからか、心がもうダメで、毎日のように泣いている。

そうすると、次の日から頑張れる。

涙ってこんなに簡単に流れるものだったかと最近思う。

振り返れば、何も考えず、ぼんやりとする、無駄な時間だったなと思う。

世間からみたら私はきっと裕福で恵まれているのだろうと思う。

それでも置かれた場所で生きていたら、それなりに苦しいこととか、もう辞めてしまいたいことだってあって。

きっと、このまま自分のやりたいこと、挑戦してみたいことばかりに囚われて、やりがい搾取の波に飲まれてはだめなのだと理解している。

だけど、タスクがなくなることが、今の活動を手放すことが怖い。それは何故か、問いかけられてもこの間までは答えられなかった。でも、抱えていたほうが、手放すよりずっと簡単なことに気付いた。終わりにする、途中で途切れる決心をする、というのはとても難しいことで判断が問われるから、そこまでの力量はなくて。

いつの間にか、拾い上げているし、手を広げて色々なことを掛け持ちしている。

そんなキャパシティがないことは当に分かり切っていることなのに。

時々、明日が来るのが怖くなる。そして朝まで起きていて朝4時の朝焼けをみて安心する。

私の睡眠時間を聞いて驚いた友人の一人が、怖いの?と主語をなしにして問いかけたことがあった。ああ、確かに、と納得してしまう自分。怖かった、色々抱えて、上手くやろうとするけど、全然だめで。パターン化された、マニュアル通りの仕事ばかり。それで達成感見出そうとして、馬鹿みたいだ。

誰かの役に立ちたい、と願う。その裏に、色々な憎悪や葛藤や、綺麗事だけで終わらせられる世界ではないのは、今まで沢山見てきて知っている。時にそのために内面は狂ったように喜怒哀楽が渦巻いているのに平静を取り繕わなければならないことを知っている。

でも、夢や思いは変わらなくて。でもだめで。

それから、逃げてしまう日もあって。

そんなとき、マイペースでいいんだよって言われて、悔しくて、何がだめでこうなっているのかメタ認知できなくて。人と比べ始めたら、途端に苦しくなって、要領がよかったら、もっと違う遠い景色を望むことが、出来るはずなのにできなくて。目指すのに、力不足で何も出来ないなんて、悔しすぎる。

向きあうと涙が出てきて、思考停止で、このままだったらダメだとはっきりわかるのに、進めなくて。進んだ気がする仕事ばかりに逃げて。

仮説は立て続けて、考え続けて。
最低限、それは継続しなければ。

物事には流れがあって、それに飲まれるときも、揺蕩うときも、逆らうときも、どんなときもその主導権を握るのは私だった。
誰かにそれが委ねられているように錯覚する日もあったけど、自分がどれだけ考え、行動したかで全部変わった。

誰かが言ってくれた、元の力で進める、乗り越えられる。

その言葉に行動で結果でプロセスで私は還元していきたい。

一番、大切にしていることが本質が時々私の視界からはフェードアウトして、いなくなってしまって、怖くなる。

心の底から思い出して、見つめ続けて、深く考えて。

私の内には、信じたい気持ちと疑いたい気持ちが交錯し、前へ進みたいという強い想いが湧き上がる。

もっと、遠くにいけるように、なりたい。


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