見出し画像

まぼろしの五色不動【5】江戸時代、五色不動はなかった

(1)『続江戸砂子』の三つの不動

 さて、こうして目黒・目白・目赤という江戸時代に存在したことが明らかな三つの不動を見てきたわけだが、そのどこにも「天海」の文字は出てこない。ましてや「五色不動」としてセットで建立された形跡もまったく見られない。むしろ、将軍家光と鷹狩りというテーマが共通して出てくる。もっとも、これも目黒に合わせて目白・目赤の縁起が作られた可能性も捨てきれない。さらに、対立する宗派がそれぞれに絡んでいる。
 要するに結論は「三つの不動は別々に発展した」というしかないわけである。
 では、残りの目青・目黄はどうなのか……ということを探る前に、江戸時代の文献で五つの不動がどの程度記されているかを一覧にしてみよう。

1662 江戸名所記……目黒 目白
1677 江戸雀…………目黒 目白
1713 和漢三才図絵…目黒 目白 目赤
1732 江戸砂子………目黒 目白 目赤
1733 江府名勝志……目黒 目白 目赤
1735 続江戸砂子……目黒 目白 目赤
1741 夏山雑談………目黒 目白 目赤 目青(目黄)
1795 四神地名録……目黒(目白 目赤)
1834 江戸名所図絵…目黒 目白 目赤
1838 東都歳時記……目黒 目白 目赤

 目赤不動は18世紀になってから定着する。この中で異色なのは『夏山雑談』で、目青・目黄という名称は確かにここには(ここだけには)登場するのだ。ただ、このことをもって「江戸時代に五色不動があった」と結論づけるのは早急にすぎると思われる。その詳細について検討する前に、確認として見ておきたいものがある。それは『続江戸砂子』だ。

 この本は『江戸砂子』の続編であるが、その巻之四に、江戸の不動霊場のまとめ記事がある。

五 不動霊場  来由前集にあり。
 ○目黒不動 慈覚作 めぐろ龍泉寺
 ○目白不動 弘法作 めじろ長谷寺
 ○目赤不動 作不知 駒込南谷寺
 ○砂尾不動 良弁作 はしば不動院 (※台東区橋場 橋場不動院)
 〔増〕逆流不動 作不知 立像五尺 湯嶋根生院護摩堂
 〔増〕幸不動 慈覚の作 修験 宝玉院 神田かぢ町二丁目
 ○三日月不動 深川 心行寺
 ○波切不動 浅草寺町 大乗院
 ○飛不動 下谷 大音寺前正宝院 (※台東区竜泉 正宝院)
 ○大山不動 駒込 願行寺
 ○薬研堀不動 よこ山町 明王院 (※中央区東日本橋 薬研堀不動院)
 〔増〕滝不動 日暮里道灌山より三丁ほど北の方、田端六あみだのひがし、二丁ほどに、一茂りの小山あり。御用やしきと云。此所に少しの滝あり、下に石仏の不動まします。

 ○は『江戸砂子』にも載っているもの、〔増〕は『続江戸砂子』での追加分である。また、三不動以外に今も残っているものには現在の住所を入れておいた。

 筆頭に目黒・目白・目赤の三不動が載っており、当時の不動としてはこの三つが特に有名だったことをうかがわせる。しかし、その後には砂尾不動などが続き、目青と目黄は名前すら登場しない。やはり、この当時は目が付く不動は三つであって、五つセットではなかったということである。
 このような状況を見てみると、やはり『夏山雑談』という本は異様だ。

(2)『夏山雑談』に書かれた目青・目黄

 江戸時代に五色不動について記したとされる唯一の資料『夏山雑談』――これは都立中央図書館で、それほど苦労せずに見つけることができた。吉川弘文館『随筆大成』第二期十巻に収録されている。
 ゆっくりとページをめくるうちに、目当ての文字が飛び込んできた。

「○目黒目白目赤目青」

 こう続けて書かれると、なかなか勢いのある言葉である。目黒、目白、目赤、目青。「四不動」の説は、間違いなく、江戸時代からあったのだ!――

 いや、結論づけるのはまだ早い。もう少し本文をきちんと読んでみなければならない。そう思って読み直してみたとき、一つ気になることがあった。この「○目黒目白目赤目青」の直前の項目に、「○京の東西南北なる岩倉のこと」という項目がある。どうもこれが気になって仕方がない。
 まずはこの二項目を現代語訳してみよう。

○京都の東西南北にある岩倉のこと
 京都の東西南北に岩倉というところがある。遷都のとき、東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武の四神をまつっていらっしゃったところである。

○目黒・目白・目赤・目青
 江戸の地名に目黒・目白・目赤・目青というところがある(今、江戸にこんな地名はない、とある人が言っている)。江戸幕府草創のとき、慈眼大師南光坊天海が命令を受けて、江戸鎮護のため四方に不動の像を建立し、不動の目を赤・黒・青・白の四色になさってから、その地名になったのだ、とある人が言っていた。東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武を表わしているのだろう。(頼国は「浅草寺の勝蔵院に目黄不動がある」という。しかし、そんな話は伝わってこない。)

 『夏山雑談』の多くの項目はランダムに配列されているのだが、どうもこの二つの項目は連続しているようである。というのも、青龍・白虎・朱雀・玄武の「四神相応」の話が共通しているからだ。

 まず、四神について話さなければならない。
 これは、古代中国に起源を持つ。古く『周礼』に四神についての記述があるのだ。日本ではまだ縄文時代に書かれた書物である。
 中国では、四つの方角それぞれの星座を動物になぞらえた。東が龍、南が鳳凰、西が虎、そして北は亀と蛇が一体になったものである。これは、飛鳥の高松塚古墳の壁画にも描かれていたから、かなり古い時代から日本にも伝わっていたことがわかる。
 四神の名前は、この四聖獣が属する各方位と対応している色を頭につけたわけだ。中国では、四方位にいろいろな意味が込められている。
 「青春」という言葉もあるとおり、東は春と青に対応する。それで「青龍」が東に置かれるわけである。
 南は夏、そして朱色。「朱雀」といえば、平城宮や平安宮の南正門の名前となっている。この朱雀門から南に伸び、都を東西に分ける広い道が「朱雀通」だ。
 北原白秋の名にも使われている「白秋」は、人生の後半の意味でも使われる。四神との対応では「白虎」ということになる。明治維新の際、会津で自刃した白虎隊の名前は有名だろう。
 そして、北は「玄武」だが、玄は黒の意味を持っている。
 つまり、東西南北は青白赤黒と対応しているというわけだ。さらに、これを地形にたとえる方法がある。もし、条件に合っている土地があれば、それがすなわち「四神相応」として吉祥の地とされるわけだ。実際、平城京や平安京もこの条件にのっとって選ばれた、といわれている。

  方角 四神  地形   平安京
  東  青龍  川    加茂川
  南  朱雀  池か海  巨椋池
  西  白虎  道    山陽道
  北  玄武  山    船岡山

 もっとも、この四神相応を地形に当てはめて都の場所を選ぶというのは、どうやら日本特有の考え方らしい。
 もともとは中国の風水における考え方だが、中国の風水の本では、この四神の当てはめられる方位は固定されていない。龍脈と呼ばれる大地のエネルギーの流れをたどっていって、それが龍穴として現われる場所の左手が青龍、正面が朱雀、右手が白虎、残る背後が玄武という対応である。だから、西から東に龍脈が伸びている場合、左=北が青龍ということになる。方角と四神と地形を固定するのは日本の陰陽道の特徴なのである。
 ただし、方角と四神は固定のままだが、地形については拡大解釈されるようになっていった。江戸の四神相応については、『柳営秘鑑』や『落穂集追加』といった江戸時代の書籍で、方位は気にするものの、地形にはとらわれない解釈をしている。
 『夏山雑談』でも、四神相応の一例として、平安時代までの「東に川、南に池、西に道、北に山」というパターンではなく、都の四方に「岩倉」が祀られていることを挙げるようになっている。これは、次のような四カ所と対応しているものだ。

  東岩倉 京都市左京区粟田口大日町・大日山
  南岩倉 八幡市男山
  西岩倉 京都市西京区大原野石作町・西岩倉山金蔵寺お経塚
  北岩倉 京都市左京区岩倉・山住神社

 四つの岩倉は平安京を囲むように存在している。都からみて正確な東西南北ではないが、だいたいの方位は一致しているといえよう。『江戸の都市計画』によると、北岩倉と南岩倉を結ぶ線、東と西を結ぶ線の交点に、ちょうど都の南門・羅生門が位置している。この門は都の正門、玄関口ともいうべき場所だが、四つの岩倉はこの羅生門を守護するように作られた、と考えることは可能だ。

(3)江戸四色不動説はたわごと?

 では、江戸の四色不動も四神相応にのっとっているだろうか。
 どうも、そうではないような気がする。じっくり『夏山雑談』の記述を読んでみると、どうも怪しく感じられてしまうのだ。
 京都「岩倉」についての記述はいい。これが四神相応のものとしてつくられたということがはっきりと述べられている。しかし、江戸のほうは歯切れが今一つ悪い。
 こんな地名はない、と茶々を入れられているし、四神相応の話をした直後に、それを打ち消してしまいかねない目黄不動の話が注として入る。さらに、その目黄不動も、「そんなの聞いたことないよ」と否定されているのだ。岩倉の記事の信頼度が一〇〇とすれば、四色・五色の不動の話は、信頼度がせいぜい五くらいのものである。
 もう少し突っ込んでみよう。目黒と目白はたしかに地名として存在する。しかし、目赤、目青は、注の「ある人」の言葉どおり、そんな地名は今に至るまで存在しない。存在しない地名の由来が、不動の目の色というのも不審である。しかも、目の色に由来するというのは奇妙な話だ。黒い目はいいとして、白目のお不動さんというのはかなり気味が悪い。ただし、目赤不動は伊賀の赤目四十八滝に由来し、赤目は赤い目の牛に由来する、というのはすでに述べたとおりである。
 百歩譲って、四色不動が四神対応しているということにしてみよう。それでも不審な点が残る。目青は場所がはっきりしないのでおいておくとして、目黒・目白・目赤の場所を調べてみると、これが見事に四神と対応していないのだ。
 まず、北にあるはずの目「黒」は、江戸城から見て南西の「裏鬼門」の方角に近い。逆に、南にあるべき目「赤」が北に位置している。西にあるべき目「白」はかろうじて北西方向だが、どうも「江戸の四方に建立」したというようなロケーションとは考えられない。
 ましてや、そこに目黄不動が登場するというのはどういうことだろうか。

 こんな頼りない書き方をしている『夏山雑談』とは、一体どういう本なのだ? それを知る手がかりは、その序文にある。少々長くなるが、現代語訳を載せておこう。

夏山雑談 序

 かつて元文戊牛の年(一七三八年)の春、鶴の林に薪がついた日、難波のお寺の奉納舞楽を見に行こうと思って、趣味の同じ連中二、三人を誘って行った。
 ある席に知人がいたので、「見に来たよ」と申し入れると、「よくこちらまで」といって、席を開けて呼び入れてくれた。舞楽もなかば過ぎたころ、横を見ると、八十歳にもなろうかと思われるお爺さんが、子供を一人連れて、人々に押しやられてずいぶん苦しそうに見えた。何となくかわいそうになって、「こちらへどうぞ」と招いたところ、お爺さんは喜んで、「それではすみませんなあ」と言って来た。お互いに膝を譲り合って、落ち着いて見ることができた。お爺さんはこう言う。
「年寄りのくせに、こんな群衆のいるところへ来たというのは、みっともないと思わはるやろな。私も年の若いころは、ひちりきを吹いて、音楽の席にも加わったもんや。ほんまかどうか、『六時堂の前の鐘の音は、黄鐘調の音階にぴったりやから、このごろはいろいろなものの音をこの鐘の調子に合わせるのである』とか聞いたから、それを確かめようと思って来たんや」
 という。口もしぼんでこわそうではあるが、ものの言い方、立ち振る舞いがふつうの人とも見えなかったので、「どのようなお方でしょう。どこから」と尋ねてみた。すると、
「私はもとは都の者で、なにがしの大臣の家に勤めて、名を秋山の色樹と呼ばれ、お仕えする役職もいただいとった者です。二十年ほどまえに引退しまして、名前も嗜楽麿{えらぎまろ}とあらため、城南の鳥羽の片隅に隠居しとりました。ところで、息子は幼いときから人のところにやっとったんですが、医者の仕事をしておりまして、今、この難波でちょっと知られるようになった者です。その息子の世話で、七年ほどまえからこの難波へ下ってきて、福島というところに庵をつくり、そこで住んどります。すぐそこですよって、野田の藤を見はるようなときは、必ず訪ねて来とくれやす」
 という。
 舞楽はまだ終わっていなかったが、日も西に傾いたので、みんなで誘って帰った。爺さんも一緒に座摩の宮のあたりまで行ったが、「子供のところへ行きますので」というので、そこで別れた。
 この爺さんの言葉が気になって、故事来歴など聞きたいと思った。そこで、三月の初めごろ、住まいを訪ねた。しかし、「すぐそこ」とは聞いていたが、どこかわからない。すると、竹の柵で片折戸のある家から、ほのかにもひちりきの音がするではないか。「ここだな」と思って中にはいると、爺さんは喜んで下にも置かぬおもてなし。さすがに都のほうの人だと思った。
 日ごろ、ものの名前は聞くものの、どういうことかわからない故事来歴などを尋ねたところ、初めのころは「故事など何も知りまへん」と言って、話してくれなかった。ところが、それからあと、お互いに行き来して、心も隔てない仲となり、故事来歴からはじめていろいろなことを打ち解けて話してくれた。おもしろく思ったことばかりである。
 私はもともと、生まれつき頭が鈍くて、聞いたことを忘れやすいので、その話をふところ紙に書き記しておいたのだが、年月を重ねて、箱にいっぱいになった。そのまま虫の巣になるのもいやなので、かき集めたらたくさんの書になったのだ。夏山が茂るように言葉が多い話なので、古い言葉を借りて「夏山雑談」と名付けたのである。

   寛保辛酉(一七四一年)八月上梓

 つまり、『夏山雑談』とは、京都出身・隠居してから大阪住まいの物知り爺さんの話を聞いてまとめたという体裁になっている。少なくとも、著者が関西の人間であったことは間違いなさそうだ。京都の話は実際に見聞きしたこととして書き、江戸の話は伝聞形になっていることも、それを裏付けているといえよう。

(4)大坂で生まれた五色不動都市伝説

 とすれば、先ほどの四色不動の話も、信頼度が低くて当然ということになる。この文から想像するかぎりにおいてだが、夏山雑談の著者は嗜楽麿という爺さんとこんな会話をしたのではないか。話題を切り出すのは著者のほうである。

「京に岩倉というところがおますな。あれ、四つあるそうですけど」
「ええ、京の東西南北に岩倉と名のついたところがおます。これは遷都のときに四神相応でつくったもんでしてな」
「はあ、なるほどなあ」
「そういえば、江戸にも似たようなもんがおますな。目黒、目白、それから目赤に目青っちゅうところがあるとか言いますな」
「そんなところがおますか」
「らしいでっせ。これは聞いた話ですけど、幕府がつくられたとき、南光坊が……」
「だれでっか、それ」
「慈眼大師ともいいますな。天海僧正です。この方が将軍様の命令で江戸鎮護のために四方にお不動さんの像を立てたそうですわ。その目を赤・黒・青・白の四色にしはってから、その地名になったとか言うてはりましたな」
「それも四神相応だっか」
「そうでっしゃろな」

 雰囲気としては、上岡竜太郎と笑福亭鶴瓶の、言いたい放題のやりとりみたいなものであろう(ネタが古いが)。聞いた話も推測も、もちろん事実も、何もかも入り乱れてしまっているような気がしてならない。『夏山雑談』をひととおり眺めてみると、もの知り爺さんの話を、真偽は別にして、ただ単にそのまま寄せ集めてまとめたもの、という雰囲気が全編にただよっているのである。

 五色不動の話題からは少し離れるが、いくつか見てみよう。

○天神地祇
 天神地祇は、天神は清音(=てんしん)、地祇は濁音(=じぎ)だ。古事記の神代巻に、「澄み明らかなるものはたなびいて天となり、重く濁れるものは続いて地となる」云々とある。このために、「天神」は澄み、「地祇」は濁っているのである。

○風雨をあめかぜと読むこと
 神代の巻に、「風雨」という字に「かぜあめ」とふりがなをつけてある。これは一文字ずつにかなをつけたものだからだ。本当は風雨と書いてあっても「あめかぜ」と読みなさい。我が国の言葉では「かぜあめ」とはいわない。「あめかぜ」という。漢字を借用したときに、「あめかぜ」に「風雨」という連続字を使ったのだ。
 神代の巻に限らず、和書にはこういった類のものが多いことだ。「風波」も「なみかぜ」、「山海」も「うみやま」、「昼夜」も「よるひる」、「夫婦」も「めおと」である。

 このあたりは本当かもしれないが、でたらめかもしれない。ただ、知らない人が聞いたら、なるほどと思ってしまいそうなウンチクばかり、裏付けのない受け売りトリビアの宝庫である。五色不動の項目は、その最たるものといえよう。さすがに怪しいと思ったのか、編著者も爺さんの話をそのまま載せるのではなく、いろいろな人に聞いて回ったり、目黄不動について調べたりしたようだ。しかし、結局裏がとれていないのである。
 四神相応の四色不動説は根拠薄弱と言わざるをえない。

 ここではっきりと言えることがある。江戸時代には、五色不動は存在しなかった。少なくとも三つの「目」のつく不動は並び称されていたが、それを「三不動」というようにセットにしたこともなかったし、ましてや目青・目黄の両不動は存在さえもしていなかった。
 しかし、現在の「五色不動伝説」そのものの萌芽は、この江戸時代半ばの『夏山雑談』にみられる。つまり、「五色不動は天海によって江戸鎮護のために作られた」という「都市伝説」は、この大坂のトリビア本『夏山雑談』に由来すると断定してもいいだろうということだ。

 五色不動はなかった。
 五色不動という都市伝説は、江戸時代半ばの大坂で生まれた。
 これが結論だ。

(5)浅草勝蔵院の「目黄不動」の正体

 『夏山雑談』の記述について、もう一点だけ洗い出しておこう。

 頼国は「浅草寺の勝蔵院に目黄不動がある」という――『夏山雑談』の一節にはこう書かれている。しかし、浅草寺の勝蔵院について調べてみても、目黄不動についての記述はまるで見当たらない。途方にくれていたのだが、別冊宝島『徳川将軍家の謎』がようやく手に入ったのは世紀が改まってからのことだった。そこに収録された井上智勝氏の「江戸守護の呪的バリア「五色不動」とは?」という記事に、こんなことが書かれている。

 文政八年(一八二五)、永久寺でも最勝寺でもない、浅草の浅草寺が幕府に提出した文書に同寺の塔頭勝蔵院の不動堂の本尊が「目黄不動尊」であると記されているのである。だが、これも「三不動」説を揺るがすほどのものではない。なぜなら、勝蔵院の「目黄不動尊」は、幕府に文書を提出するわずか十年ほど前までは「明暦不動尊」の名で呼ばれていたからである(『浅草寺志』)。「メーレキ」が十年前後の間に「メキ」に転じてしまっただけのことで、江戸時代の早い時代からあった目黒・目白・目赤の三不動に、江戸時代後期以降、目黄や目青が加えられていった、という事実を補強してくれるだけだ。

 この記述に従って『浅草寺志』などを調べてみた。すると、確かに勝蔵院の明暦不動についての記述が見つかった。

 『浅草寺誌』(文化十年=1813年)には「南馬道角○正蔵院 不動」とだけ書かれている。それよりも6年前に書かれた 『浅草寺志』(文化四年=1807年)巻十の方はやや詳細だ。ここにはその由来なども書かれている。

 勝蔵院は南馬道町にあった。当時の住職の名前は香秀という。
 明暦三年(1657年)正月のころ、どこからともなく浅草川の岸に不動明王像が流れついた。それを、だれかがこの勝蔵院の門のところまで持ってきて、置いていた。だれもそれを気に止めず、しばらくそのままになっていたという。ところが、同じ月の十九日、本妙寺から出た火災でこの一帯はみな焼失してしまったのだが、この勝蔵院の門だけが残ったのである。これはまさに不動明王の加護に違いない、というわけで、お堂を建てて安置してから、明暦不動と呼ぶようになった。

 というのが一つの由来だが、もう一つの説も同時に載せられている。

 この尊像は昔から勝蔵院にあった。明暦三年の火災のとき、白い服を着た山伏が出てきて、人々にまじって院の家財などを運び出したのだが、その様子がただ者とは思われない。鎮火してからこの山伏を捜したが、ついに行方がわからなかった。これこそ不動明王の化身であろう、ということで、いつとはなしにこの像を明暦不動と言いふらすようになった、という。

 なお、『浅草寺志』巻十七の注によれば、勝蔵院は明治中期、正智院に併合し廃寺となったようである。その後の明暦不動の行方は定かではない。
 しかし、井上氏のいう「浅草の浅草寺が幕府に提出した文書」は存在を確認できなかった。

 ところで、これを年代順に並べてみると、奇妙なことになる。

1657年 明暦三年正月十九日の火事。明暦不動の名の由来。
1741年 『夏山雑談』に浅草勝蔵院の目黄不動と書かれる。
1807年 『浅草寺志』に浅草勝蔵院の明暦不動の詳しい由来。
1813年 『浅草寺誌』に浅草勝蔵院の不動とだけ記される。
1825年 幕府提出文書に勝蔵院本尊は目黄不動?

 『夏山雑談』の目黄不動が、浅草寺志よりも先に出ているため、「明暦不動が後に目黄不動になった」とは単純に言い切れない。考えるに、正式名称はつねに明暦不動であったが、メーレキ=メキ不動という呼び方も平行して用いられていたのかもしれない。
 ところで、この明暦不動は『続江戸砂子』に載っていない。不動としてはかなりマイナーなものであったと思われる。夏山雑談で「頼国は「浅草寺の勝蔵院に目黄不動がある」という。しかし、そんな話は伝わってこない」というのもそれを裏付けているように思われる。
 少なくとも、1657年の火事がきっかけで命名された明暦不動は、1643年の天海の死後のものであるし、また家光も鷹狩りも、ましてや目黒や目白や目赤との関連もまったく出てこない。それどころか、現在、目黄不動を名乗っている二つの不動尊のどちらとも関係がないのだ。

(6)『東都歳事記』の不動記事を洗い直す

 『江戸名所図絵』を刊行した斎藤月岑が天保9年(1838年)に刊行したのが『東都歳事記』である。これは、江戸の年中行事を、名所・風俗とともに紹介したものだ。これは非常に詳しく記載されているものだが、ここにもやはり「五色不動」は見えないのである。
 この本から「不動」をキーワードにして関連記事を探してみた。その語尾などを現代語に直して引用しよう。

正月
 二十八日〔毎月〕不動参り目黒瀧泉寺(正・五・九月は祭礼であって、二十日頃より参詣群集し、二十七日、二十八日の両日はことに賑わう。二十七日の夜より籠りあり。飴・粟餅・餅花を土産とする。つねに百度参り等があって、詣人が絶えることはない)。目白新長谷寺目赤南谷寺(駒込)。深川寺町法乗院(開帳)。赤坂一ツ木威徳寺。四谷新宿太宗寺。下谷通り新町永久寺(開帳)。三田寺町宝生院(荒浪不動)。両国薬研堀(開帳)。坂本町成田旅宿。
 ○不動尊、正・五・九月開帳の場所。駒込追分願行寺(大山同木不どう)。牛込原町報恩寺。亀戸東覚寺。

五月
 二十八日 ○目黒不動尊祭礼(二十日頃より賑わうこと甚だしい。二十七日より本堂籠りあり)。
 ○牛込原町報恩寺、不動尊開帳。
 ○駒込追分裏願行寺、大山同木ノ不動尊開帳。

八月
 二十八日 ○駒込目赤不動尊開帳。

九月
 二十八日 ○目黒不動尊祭礼(当月中参詣多し。二十七日・二十八日の両日、わきて群集す。二十七日夜より本堂籠りあり。路すがらの茶店・酒肆、菊の花壇を造りて行人の足をとどむ)。
 ○駒込願行寺、大山同木不動尊開帳。
 ○牛込原町報恩寺、不動開帳。

十二月
 十三日 ○目黒不動尊、煤払いで開帳あり。十二日酉の刻(午後6時頃)より今日巳刻(午前10時頃)まで。

 というようなわけで、不動尊関係の行事だけ抜いてみても、目黒・目白・目赤は明らかに確認できるものの、目黄・目青の記載は全くない。
 ただし、正月二十八日の不動参りの項にある「下谷通り新町永久寺(開帳)」とは、今の三ノ輪の永久寺を指しているものと思われる。ここは現在、目黄不動の一つであり、永久寺の不動尊があったことそのものは確認できるわけであるが、しかし、これが当時目黄不動と呼ばれていなかったこともまた明らかなのだ。

 さらに、この書物には付録があり、数多くの霊場の「セットもの」が掲載されている。その項目だけをひたすら並べてみよう。

○江戸三十三所観音参り
○同三十三所観音参り
○山の手三十三所観音参り
○近世江戸三十三所観音参り
○同三十三所観音参り
○上野より王子・駒込辺西国の写し三十三所観音参り
○葛西三十三所観音参り
○浅草辺西国写し三十三所参り
○深川三十三所参り
○西方三十三所参り
○九品仏参り
○最初建立江戸六地蔵参り
○江戸六地蔵参り
○江戸南方四十八所地蔵尊参り
○江戸山の手四十八所地蔵尊参り
○江戸東方四十八所地蔵尊参り
○江戸山の手二十八所地蔵尊参り
○荒川辺八十八所弘法大師巡拝
○弘法大師二十一ヶ所参り
○同江戸八十八ヶ所参り
○円光大師遺蹤写し二十五箇所巡拝
○江戸十ヶ所祖師参り
○閻魔参り拾遺
○妙見宮不動尊金比羅権現百社参り、聖天宮百社参り
○弁財天百社参り

 これらの多くは三十三ヶ所なら三十三ヶ所すべての場所が書かれているが、中には深川三十三所参りのように「未詳。」とだけ書かれているようなものも含まれている。となれば、この中に「五色不動」というセットものの名称すら書かれていないということは、そういうものは存在しなかったのだ、というふうに解釈していいと思われる。
 何しろ、六地蔵は二種類も載っているのだ。五色不動なり三不動なりといった認識があったなら、そう書かれているはずである。
 ここまで来れば、結論は動かし難い。江戸時代に五色不動は存在しなかったのだ。

(7)明治時代、五色不動はまだない

 ついに江戸時代に五色不動の存在を確認することはできなかった。次に五つの不動が登場するのは、明治に入ってから、しかも1881年という19世紀も終わりに近づいたころである。……だからといって安心してはいけない。一癖も二癖もあるのだ。森銑三の『明治東京逸聞史1』(平凡社)からそのまま引用したい。

東京日日新聞 明治14年1月27日
目青不動
 目黒・目白・目赤の三不動は、昔から府下にあるが、それに対して、目黄を昨年下谷坂下町へ新設した。今度はまた、横浜野毛新田に目青不動を安置して、この二十八日に正遷座をなし、大護摩を焚くという。西洋人の居留地に近いだけに、「目青とは、よい思ひつきかな」といっている。

 この記述を信用するなら、
・「三不動」は東京府に昔からあったと知られていた(当時は東京都ではなく東京府である)。
・明治13年、下谷坂下町に目黄不動が「新設」された。
・明治14年、横浜野毛新田に目青不動を安置した。
ということになる。
 下谷の目黄不動とは、今の三ノ輪の目黄不動のことだろう。
 そして、目青不動がなぜか横浜なのである。ここにいう横浜野毛新田の不動というのは、成田山延命院の野毛山不動尊のことであろう。この不動についても調べてみたが、建立された時期はちょうど合致するものの、目青不動と呼ばれたという資料はこれ以外に見つからなかった。ましてや、今の目青不動とつながる記述は、ここにはない。

 それから四半世紀後。明治も終わりに近づく。織田純一郎・田中昴・木村新之助・塩入太輔が編集したという明治37年3月発行の『東京明覧』という本(集英堂発行)の目赤不動の項目を見ると、ここでもなお「三不動」と明記されているのである。

▲目赤不動 駒込片町三十八番地に在り東方道路に面して赤門あり目赤不動尊の扁額を掲ぐ堂于狭小観るべきものなし嘉永六年二月奉納雑兵の額及び目赤不動尊と書したる額の外往年此地より発掘して坪井博士の調査したる古器物(食器二十三片粗製雷斧三片磨製雷斧一片)を排列せる額面あり境内亦広からず左に稲荷の小祠、右に方丈、庫裡、窓翁筆冢と刻せる文政二年三月建立の碑及び石灯籠四基、不動の石像等あるのみ原と天台宗に属し寺を大聖山南谷寺と号せり本尊不動尊は伊賀国赤目山の万行和尚廻国の時携へ来りしものにして初め千駄木阪(今の団子坂)に在りしを寛永年間今の地に移しゝなりと云ふ此不動は目白、目黒の不動と合して之を江戸の三不動と称するも其繁昌遠く他の二不動に及ばず

 内容自体は今まで述べてきたことが中心だが、ここで「この不動は目白・目黒の不動と合わせて、これを江戸の三不動と称するが、その繁昌はとおく他の二不動に及ばない」と書かれている。
 ただ、ここまでは「江戸の三不動」であって、「三“色”不動」ではないことにも着目したい。

 明治44年(1911年)といえばもはや明治の終わりだが、その年に出た若月紫蘭の『東京年中行事』の付録が、現在と同じ五つの不動が登場する「最古の文献」ということになる。そう、五つセットという考え方は20世紀になってようやく誕生したのだ。

不動様には高田老松町の目白不動、目黒の目黒不動、本郷駒込片町南谷寺の目赤不動、青山南町四丁目教学院の目青不動、下谷三の輪永久寺の目黄不動、同じ下谷最勝寺の目黄不動などがある。

 最後の「同じ下谷最勝寺」は「下谷」ではなく書き間違いであろうが、これで現在と同じく、「目黄不動が二つの五色不動」が勢揃いしたのであった。この後、目白、目青、最勝寺目黄不動は移転することになるが、連続性ははっきりしている。しかし、ここには「五“色”不動」という呼び方が書かれていない。

 厳密なことを言えば、「五色不動」は明治時代にもまだなかったのである。

(8)大正時代、ついに五色不動登場

 いよいよ大正時代に入る。大正8年(1919年)9月に発行された武蔵野文化協会の『武藏野』第貮巻貮号に、鶴岡春三郎という人(おそらくは武蔵野の郷土史家と思われる)による「五色不動」という論文が掲載されている。執筆されたのは六月二十一日。これが現時点で確認された五「色」不動の初出であるが、このときにはすでにある程度、五色不動のラインナップは有名になっていたようだ。

 その小論は、こんな書き出しから始まる。

 昨年武藏野會で催された城北の史跡調査の際駒込の目赤不動へ行つた時、種々話が出て、目黒とは珍しい名である、東京には目黒、目白、目赤と云つて各所に不動尊を祀つてあるが、その何れも色彩に關した名稱を有つてゐるが大變面白い、これは駒込馬込など附近にある地名から考へて馬に關した名稱ではなからうかといふ事であつたが、私はこの機會に於て是等の不動に就て私の考へて居たことを少しばかり述べて見たいと思ふのである。
 實をいふと東京には以上の不動の外に、色彩に關する名を有つた不動があと二つある、その一つは目黄不動の一つは目青不動と云つて合計五つになる、所謂五色不動である、この内地名としては目黒、目白のみであつて他の目赤、目黄、目青は単に不動としての名であつて決して地名ではないのである

 しかしどうも歯切れが悪い。「色彩に関する名をもった不動があと二つある」「いわゆる五色不動である」ということで、少なくとも目青・目黄はさほど有名ではなかったようだ。
 これに続けて、目黒・目白・目赤がいずれも「馬」(牧場)に関する名称ではないかという論考が続く。目黒は馬込領の一部だし、目白は近くに駒井町・駒店町・駒塚橋など馬と縁がある地名が多い。目赤も駒込の一部である。というわけで、この三つは馬に関するものではないか、というわけだ。
 さて、これに続いて、改選江戸志・夏山雑談の名が挙げられ、一部内容が夏山雑談から引用されている。これらの文献については、以下の項で記したとおりだが、鶴岡氏も疑問を呈している。

・【3】目白不動のにぎわい(1)存在しなかった「改撰江戸志」の謎
・【5】江戸時代、五色不動はなかった(2)『夏山雑談』に書かれた目青・目黄 ~ (3)江戸四色不動説はたわごと? ~ (4)大坂で生まれた五色不動都市伝説

 目黒は古い地名なのに、御草創(江戸幕府のはじめ)にできたというのはおかしい。目青の地名が判明していない。目白不動の瞳孔は白ではなく、他の不動の目も色彩と関係がない――ということで、証拠にはならないと述べている。

 さらに、別の説も紹介されている。現代語訳して引用すれば、「徳川氏が江戸城鎮護のために密教の四種の祈祷法に準じて四不動を勧請したのである。目白を息災とし、目黒を増益とし、目赤を敬愛とし、目黄を調伏とする。息災の祈祷はすべて白色と応じ、増益は黒色と応じ、敬愛は赤色と応じ、調伏は黄色と応ずる。そして、目は隠語であって、なづく、と読むのだ」という説が紹介されている。これについては特に解説がないが、目青はどこに行ったのだろうか、ということだろう。
 また、参考として五色不動の所在地が記されている。

 目黒不動 荏原郡目黒村瀧泉寺 慈覺大師作亜
 目白不動 小石川關口水道町新長谷寺 弘法大師作 元和四年創建
 目赤不動 本郷區駒込淺嘉町南谷寺 僧滿行元和年間開基
 目黄不動 本所區表町最勝寺 勸請年月不明
      下谷區三ノ輪町永久寺 同
 目青不動 荏原郡世田ヶ谷村三軒茶屋教學院 同

 「五色不動なるものは江戸人が洒落半分に名付けた名称」と鶴岡氏は述べているが、むしろ明治以降の人が洒落半分に目黄・目青を「作り出していった」というのが真相ではないだろうか。「ゆえに、その縁起なども伝わっていないし、いつとはなしに世間からも忘れられてしまった」というが、実は江戸時代に存在せず、むしろ大正以降、現在に至るまで、この都市伝説は強化され続けているのである。

 最後に、鶴岡氏は文化五年(1808年)の柳樽四十六篇から一つの川柳を紹介している。

五色には二色足らぬ不動の目

 これこそ、江戸時代に五色不動は存在しなかったという決定的な証拠といえよう。

 というわけで、「五色不動」という名称についていえば、江戸・明治を通じて存在しない。おそらく、明治末から大正の前半に五色不動という概念が作られ、定着していったのであろう。

 こうして見てきて、はっきりしたことがある。それは、「五色不動は決して江戸幕府によって意図的に作られたものではなかった」ということだ。風水はおろか、密教も、四神相応も、その他「江戸の町の霊的バリヤー」も、天海僧正も、何一つ関係がなかった。
 あえて関係があるとすれば、三不動に共通して伝えられる「徳川家光」の「鷹狩り」と「不動尊像」、そして「馬」というキーワードである。「馬」以外はもしかしたら後付けの理由なのかもしれないが、天海の魔術というよりは信憑性がある。

(初出:2006年9月10日)


➡ まぼろしの五色不動【6】増殖する目黄不動
⇦ まぼろしの五色不動【4】赤目の目赤不動

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?