まぼろしの五色不動【2】五色最古の目黒不動を歩く
(1)目黒駅から目黒不動へ
何はともあれ、五色不動を訪ねてみよう。私は仕事の合間を縫って、五色不動まで実際に歩いてみることにした。最初の目的地は、もちろん、五色不動の中でも最も由緒の古い目黒不動である。
ところで、インターネットでの情報公開はここ数年で急速にしっかりしたものになったわけだが、以前は図書館で「目黒区史」でも探しに行かなければ見つからなかった「目黒」という地名の由来も、今はちゃんと目黒区ウェブサイトの「目黒の地名 目黒」というページに書かれている。
ここには五つの説が書かれている。
1. ●馬畔(めぐろ)説
2. ●地形説
3. ●馬の毛色説
4. ●目黒不動説
少なくとも鎌倉時代には目黒という地名があり、その由来ははっきりしていない。
目黒不動があるから目黒になった、というのは、どうやら根拠が薄い、というよりも、目黒にあるから目黒不動というのが妥当なように思われる。このことは後で江戸時代の資料を読むときに判明する。
昭和三十六年発行の『目黒区史』で採用されている最有力説は「馬畔(めぐろ)説」、つまり「馬と畔道(あぜみち)を意味する馬畔という音」に由来するというものである。この目黒区のページにも書かれているとおり、関東には馬、牧場に由来する地名が多い。都内だけでも駒場、駒沢、上馬、下馬、駒込、馬込といった関連地名がある。「メグロ=馬畔」説はかなり説得力があると思う。
ただ、地形説も興味深い。「め」はくぼ地や谷、すなわち目黒川流域の谷、「くろ」は嶺、すなわちその周囲の丘陵地帯という説だ。
JR山手線目黒駅を降りて、車の往来の激しい目黒通りを南西方向に歩いていくとしよう。それはなだらかな下り坂となっている。これが権之助坂である。その左右には繁華街と言うには少々古めかしい感じの店が軒を連ねている。
正直に言わせてもらうと、目黒という街はあまり垢抜けた印象がない。垢抜けない筆者に言われたくもないだろうが、隣の恵比寿がおしゃれの街・渋谷と代官山の勢力圏にあってかなりハイソな印象があるのと比べると、どうしても目黒(厳密に言えば駅前からの下目黒地区)は生活臭にあふれすぎている。一方で、反対側にあるオヤジビジネスマンの歓楽街・五反田のようなオトナの街というのでもない。
人通りは多く、活気はある。目黒雅叙園という超高級総合宴会場もある。だが、その影響は目黒という街全体には及んでいないような気がするのだ。良くも悪くも、昭和の町並みが残っているかのような印象を受ける。
権之助坂を降りきったところで、目黒川にかかる新橋を渡る。そこからさらに商店街をくぐり抜けると、前方に広い幹線道路が横切っているのが見えてくる。これが山手通りだ。そして、自動車の往来の途切れることのないこの大きな通りを挟んで、前方に大きな神社が見えてくる。これが大鳥神社である。
大鳥神社といえば、私は大阪府堺市の鳳駅前にある和泉国「大鳥大社」を思い出す。ここは日本武尊(ヤマトタケルのみこと)を祀った有名な神社だ。実は、この目黒の大鳥神社は和泉の大鳥大社から勧請(つまり神社ののれん分け)されたものだという。
最初、私はこの大鳥神社は完全にスルーしてしまっていた。文字どおり、神社を横目に通り過ぎてしまっていた。ところが、よくよく調べてみると、ヤマトタケルを祀る神社がこの目黒にあるということは、実は目黒不動と切っても切れない関係があったのである。何度目かの目黒不動来訪の途中で、ようやくこの大鳥神社にも立ち寄ったのだが、何ごとも無視するわけにはいかないようだ。
だが、とりあえず今は目黒不動への歩みを進めるとしよう。
大鳥神社からは、今までどおりまっすぐ進むルートと、大鳥神社の角で左に曲がり、山手通り沿いに進んでいくルートがある。まっすぐ進むと有名な「目黒寄生虫館」があるので、寄生虫をわざわざ見に来るカップルたちに混じってキモチワルイ思いをした後で五色不動に向かって道を折れてもいいし、あまり風情のない山手通り沿いに進んで標識どおりに曲がっていってもいい。
今さら言うのも何だが、実は目黒駅からのルートは目黒不動への参詣ルートとしては裏口になってしまう。もし正面から目黒不動のある滝泉寺に向かいたいのであれば、東急目蒲線の不動前駅から行くのが正道だ。とりあえずそちらの道は帰りにたどることにしよう。
住宅街を抜けて歩みを進めると、やがて赤い門が見えてくる。目黒不動尊のあるお寺の正式名称は滝泉寺。
目黒区教育委員会による解説文が脇に掲げられている。
仁王像の間をくぐり抜けると、やや広い境内が広がっている。そして、独鈷の滝の水かけ不動尊や、江戸時代の木像不動尊が祀られている前不動堂がある。だが、これはまだ入り口にすぎない。奥には急な石段があり、その上に目黒不動尊の祀られる本殿がある。そして、本殿の右手には、石造の不動明王とそのとりまきである八大童子の像がある。
そのほか、境内には「甘藷先生」こと青木昆陽、二・二六事件とゆかりの深い北一輝、目黒に住んでいたという童謡作曲家・本居長世の碑がある。
(2)江戸時代の文献に残る五色不動
目黒不動について書かれた江戸時代の文献を探してみると、以下のようなものが見つかった。
・寛文二年(1662)『江戸名所記』第六 一
・延宝五年(1677)『江戸雀』
・正徳三年(1713)『和漢三才図絵』
・享保十七年(1732)『江戸砂子温故名跡誌』巻之五
・享保十八年(1733)『江府名勝志』巻之下・寺院略記
・寛政七年(1795)『四神地名録』
・天保五年(1834)『江戸名所図絵』巻三
最初の江戸タウンガイド『江戸名所記』からすでに目黒不動は大きく取り上げられている。目黒不動の来歴は平安時代にさかのぼるが、その後、江戸時代に入って、3代将軍家光の保護を受けてから、観光地としてにぎわうようになっていたという歴史が明らかになる。
それでは、これらの文献に書かれた目黒不動の由緒来歴をまとめてみよう。
(3)円仁、目黒の里で不動明王像を刻む
延暦十三年(794年)――この数字を見れば「鳴くよウグイス平安京」と語呂合わせの年代暗記法が思い浮かぶ人も多いかもしれない。平安京(京都)に遷都がおこなわれ、平安時代が始まった最初の年の秋、東国の片田舎、下野国都賀郡(今の栃木県下都賀郡)で、壬生氏に一人の子供が生まれた。これが円仁である。
円仁は、幼いころに父親を亡くし、九歳のときに兄から学問を学んだ。しかし、仏法を学びたいという思いが強く、同じ都賀郡にある大慈寺(栃木県下都賀郡岩舟町)の広智菩薩を師として仕えることとなったのである。
十五歳のときというから大同三年(808年)のことだ。円仁は不思議な夢を見た。身の丈は六尺――180センチを越える背の高い僧侶が出てきたのだ。その姿は麗しく、世にもまれなものと思われた。円仁は思わず深く頭を下げ、礼拝する。すると、その僧侶はにっこりと笑って、いろいろな教えを垂れてくれた。
僧侶の横にはもう一人いて、円仁に尋ねる。
「お前は、この僧侶を知っているか」
「いえ、存じません」
「この方は比叡山の大師である」
目が覚めてから、円仁はすぐ、このことを師の広智に語った。
「それは不思議なことだ。それでは比叡山に行ってみよう」
というわけで、円仁は師とともに京の比叡山に向かって旅立ったのである。
京までの道程は長い。武蔵国に入り、高台や谷を越えていく。そんなある日、目黒の里というところで日が暮れた。そこで、一夜を過ごすこととなった。
そこで円仁はまたもや夢を見た。怒りたける力強い姿の者が、右手に剣を下げ、左手には縄を持っている。そして、円仁の枕元に立って何やら呪文を唱えているのだ。さらに、枕元を荒々しく踏みしだく。その激しい音に驚いて目が覚めた。
円仁がふと横を見ると、広智も目を覚ましていた。聞けば、まったく同じ夢を見ていたらしい。さらに、その物音に驚いたのもまったく同じだった。本当にこれは不思議なことだ。
円仁は、霊木を探してきて、夢の中の姿を刻んで木の像を作って、ここに建てておいた――というのが、後に「目黒不動尊像」と呼ばれる仏像の由来とされている。
もっとも、これが定説というわけではない。江戸時代後期の『江戸砂子』という書物には、別の話が書かれている。
もともと、この目黒の里には、日本武尊(ヤマトタケルのミコト)が祀られていた。それは、何の神という名前もなく、ただ住民から「荒人神」として祀られていた。ご神体もなかったようだ。
そこへたまたま、比叡山へ上る途中の円仁・広智の二人がとおりがかったのだ。夜、この地に泊まることになり、里の農民たちは偉いお坊さんが来たということで、円仁に頼んだのである。
「ここの荒人神というのは、もともと日本武尊のことなのです。どうか、ご神体を彫刻して、神殿へ移してもらえないでしょうか」
そこで円仁がどう考えたかは書かれていない。ただ、円仁は素直には日本武尊の像を作るのではなく、別の像を作った。おそらく、仏教徒であるのに日本古来の神道の神像を作るわけにはいかないが、しかし、里の民の願いをむげに断るのもまずいと考えたのだろう。
円仁は不動明王の像を刻むことにした。というのも、日本武尊の姿と不動明王の姿は似ていたからである。
日本書紀にはこんな説話がある。日本武尊が東国へと遠征したとき、駿河国(静岡県)にやってきた。そこの賊たちは尊に従うようなふりをしておいて、ウソをついた。
「この野には、大鹿が非常に多くいます。その鹿の吐く息は朝霧のようになり、足は茂る林のように多いのです。さあ、狩りをなさいませ」
日本武尊はその言葉を信じて、野に入って鹿を追い求めた。それこそが賊たちの狙いであった。周囲から枯れ野に火を放ったのである。尊はそこで、ふところにあった火打ち石で逆に火をつけていき、外からの火が迫らないようにして免れた、という話もある。
もう一つ別の説があって、尊は伊勢神宮の倭姫から一本の剣を受け取っていた。それを叢雲(むらくも)の剣という。尊の危機にあたって、この叢雲の剣は勝手に抜けて、かたわらの草をなぎ払った。このために尊のまわりには燃えるものがなくなり、焼け死なずに済んだという。ここから、この剣は草薙(くさなぎ)の剣と呼ばれるようになった。これこそが、皇室の三種の神器の一つ、草薙の剣である。
さて、日本武尊は死を免れ、逆に賊どもに向かって火を放って、ことごとく焼きつくしてしまった。そこから「焼津」と名付けられたという。
そのときの尊の姿はどうであったか。猟犬を連れていて、その綱を左手に持っていた。そして、右手には草薙の剣を握っていた。その姿で、火焔の中に立っていたわけである。これはまさに不動明王と同じだ。不動明王は、右手に降魔の剣を持ち、左手に羂索(青・黒・赤・白・黒の五色の線をよった縄)を持ち、大火焔の中に立っているからである。
そういうわけで、円仁は不動明王像を日本武尊の像ということにして、里人たちに渡した。それは社の内陣に収められたという。
今、目黒不動の近くには、日本武尊を祀る大鳥神社がある。この大鳥神社は、大同元年(806年)、つまり円仁が十一歳のときに、神勅によって創建されたものといわれている。目黒不動と日本武尊伝説が融合したのは、この神社の伝説が混同されたものかもしれない。
(4)円仁、長安で不動を見、目黒で滝を生む
さて、比叡山に上った円仁は、中国に渡って天台の教えを学んできた有名な師、最澄(伝教大師)の弟子となった。円仁は優れた弟子となった。
最澄は弘仁十三年(822)年に亡くなったが、その後の円仁は法隆寺や天王寺で経典の講義を行なうなど、各地で伝道を行なった。関東に残る多くの古寺はこの時期に円仁が草創したものと伝えられるものが多いが、確かな記録としては残っていない。
承和五年(838年)、数え年45歳の円仁は遣唐使の留学僧として博多を出発、唐の揚州に到着した。中国での円仁は、梵語を学び、密教の教えを受け、曼荼羅や仏舎利なども伝受されたのであった。翌年、一時帰国することとなったが、途中で暴風にあって中国に舞い戻ってしまう。そこで、由緒ある五台山華厳寺で天台の教えを受けた。それから、長安に上って多くの寺院で教えを受けることになる。
長安の青龍寺では、不思議なことがあったという。その寺の仏像を見て、円仁は驚いた。それは、目黒の里で夢に見た、あの不動明王とまったく同じ姿だったというのである。
一通り学び終えたところで、中国では皇帝・武宗による仏教弾圧が起こった。さらに次の宣宗が即位すると、外国僧も本国へ送り返すという勅命が下った。そこで、日本の商人の船に乗って博多港に戻ったのは、承和十四年(847)のことである。
帰国後、円仁は『入唐求法巡礼行記』という旅行記を書き記している。
円仁は帰国後、目黒不動ともう一度接点があるとされている。それは、遣唐使として唐に渡って、帰国後、関東に下向してくるとき――というのが目黒不動伝説に共通した見解なのだが、帰朝後の円仁は比叡山でも有数の実力者となって、朝廷との関係を深めている。関東までやってくる余裕があっただろうか。
むしろ、唐に赴く前、関東一帯で多くの寺社を創建したという時代の話とした方が、辻褄が合いそうである。
ともあれ、比叡山から関東にやってきた円仁は、あるとき、またこの目黒の里で一夜を明かした。夜もすがらお堂にこもって祈願していたという。そこに、また新たに不動明王のお告げがあったのだろうか。
「この場所には滝水があるはずだ」
と言って、丘の上に上って、独鈷という密教の法具を持って、地面を掘り始めた。すると、たちまち滝水がわき出てみなぎったのである。落ちてきた水は、素晴らしい音を立てていた。
これが「御手洗の滝」と呼ばれた。そして、炎天下でも枯れることがなく、大雨でもあふれることがない、不思議な霊水として信仰を集めたのであった。なお、『和漢三才図会』には「倶梨迦羅の滝」とあり、江戸時代末には「独鈷の滝」と呼ばれている。
不動尊像と滝はあったが、目黒に寺はまだなかったようだ。小さなほこらだけだったのかもしれない。目黒不動の祀られる滝泉寺は、天安二年(858年)に建立されたともいわれている。
また、貞観四年(862年)、清和天皇から「泰叡」の勅額を賜わったともいわれる。これによって「泰叡山」という山号が決まったというわけだ。
貞観六年正月十四日(864年2月24日)、円仁は亡くなった。そして、慈覚大師というおくりなを与えられたのである。ここまでが平安時代の目黒不動・円仁伝説である。
(5)江戸時代、霊験と家光伝説
それから長い月日が経った。
江戸時代に入って2代将軍秀忠の時代のことである。
元和元年(1615年)の春(元和三年説もある)、目黒の里で火事が起こった。それは、不動尊の本堂の裏手の民家から出火したのである。里人たちが気付いたときには、炎はすでにお堂に燃え広がってしまっていた。
里の人々は男も女も走って集まり、不動明王のご尊像をなんとか救い出そうとした。しかし、黒い煙が立ちこめ、猛火が激しく燃え上がっているので、どうしようもない。
「もはや、明王も同じように灰になってしまったのだろう……」
と嘆き悲しんでいた。ところが、である。だれかが驚きの声を上げた。皆、振り返ってみると、明王の尊像が滝の上に立ち、汗を流しているのだ。不動尊像は自らの力で猛火を逃れていたのである。
それを見た人々はだれもが心打たれたのであった。そして、里人たちは力を合わせ、以前のような本堂を再建して、不動像を安置したのである。
それから約10年。寛永元年(1624年)ごろ、3代将軍家光がこの目黒の地で鷹狩りをした。将軍家にとって、鷹狩りを行なうのは、江戸の支配のために重要な行動だったのであるが、その詳細についてはまた後でまとめることになろう。
このとき、家光の鷹がそれて、雲路かなたはるかへと飛んでいってしまった。将軍の鷹がいなくなるとは一大事。そこで、この目黒・滝泉寺の別当を呼んできた。別当というのは神宮寺、つまり神社に付属して置かれた寺の住職である。もしかしたら、当時の滝泉寺は大鳥神社の神宮寺だったのかもしれない。
その別当の名前は実栄。この実栄が祈祷したところ、たちまち鷹が飛んできて、宝前の松のこずえに止まったのである。さらに、家光が鷹を呼ぶと、その声に答えて、将軍の手に移ってきた。そこで、それまでは匂い松と言っていたが、鷹居松と改名することとなった。
また、家光はこの件で感動し、この寺の本堂を建立した。また、十年後の寛永十一年(1643年)、さらに再興し、立派な寺として生まれ変わったのだった。
それから約20年。寛文二年(1662年)に出版された江戸最初のタウンガイド『江戸名所記』にはこのように書かれている。
「本堂の後ろは高くそびえ、山のすそに堂がある。堂に登るには平地から石の階段を伝っていく。階段の下の左側に松があり、勾松という。かの滝水は今もなおみなぎり落ちて絶えることがない。人はこの水に打たれて諸病をいやす。前に仁王門あり。門の前は大道であって、茶屋がある。」
この風景は、今もその名残を残しているようだ。以下の写真は2005年2月22日に撮影してきたものである。
滝泉寺の本堂。この中に目黒不動尊が秘仏として納められている。
本堂のアップ。
松の左手に独鈷の滝、松の横の石段を登った右端に少し見えるのが本堂。
鷹居(たかすえ)の松跡。今は当時の松の跡に標石が立っている。横にあるのは新しい松というわけだ。それでも当時を偲ぶことはできるだろう。
独鈷の滝。
目黒不動=泰叡山滝泉寺の仁王門。
(6)行楽地化する目黒不動
『江戸名所記』に書かれた句では、当時から目黒と目白が並び称されていたことがわかる。
『江戸雀』の発句では、不動明王が持っている縄が強調されている。これは羂索(けんさく)といい、人々を仏法にからめとる力を象徴するものだ。
糸桜=しだれ桜を不動明王の「縛の縄」にたとえたのが一句目、花に見とれてその場に立ち止まった様子を不動明王に縛られたとたとえたのが二句目である。なかなか風流な句だ。
享保十七年(1732年)の『江戸砂子温故名跡誌』には、目黒の賑わいが書かれている。この地の産物としてあげられているのが、餅花、御福の餅、粟餅、川口屋飴。門前に茶店が多く、食物はよりどりみどりであるという。
【餅花】餅を小さく丸め彩色して柳の枝などに沢山つけたもの。小正月に神棚に供える。季・新年。(広辞苑)
【御福餅】神仏に供えたお下がりの餅の意。神社仏閣の門前で参詣人に売る餅。(嬉遊笑覧)(広辞苑)
【粟餅】糯粟(もちあわ)を蒸してついた餅。(広辞苑)
【川口屋飴】不詳だが、雑司が谷の鬼子母神境内の駄菓子屋「川口屋」の飴のことか。参照→学習院大学新聞社 レトロな世界へご招待 心の和む駄菓子屋
江戸幕府が始まって一世紀以上経った享保の時代には、それ以前と比べて「行楽地化」が進んでいることがうかがわれる。産物として、餅を素材にしたものや飴などが売られるようになっており、単に「不動明王の威徳」だけでなく、行楽地としての繁昌が始まったのだ。
それからさらに半世紀後、寛政七年(1795年)の『四神地名録』では、名産として、餅花、飴が挙げられている。また、子供の手遊びに、栗の花・かやの穂で馬・猿・虫など、その他いろいろな細工を作って売っているという。十八世紀末には、目黒不動で子供のおもちゃも売り始めていたようだ。
幕末の『江戸名所図絵』では、目黒のにぎわいぶりがさらに強調されている。
「この地ははるかに都下を離れているが、詣でる人は常に絶えない。特に正・五・九の月二十八日には、前日より終夜群参して、はなはだにぎわう。また十二月十三日は、煤払いで開帳がある。これも前夜から参詣が群をなす。門前五~六町の間、左右に貨食店が軒を並べ、詣でる人を憩わせている。粟餅・飴および餅花の類を売る家が多い」
五色不動の筆頭に挙げられる目黒不動は、このようにはなはだにぎわう観光地であったが、その由緒来歴には天海僧正の影はみじんも見られないのである。
(7)目黒不動の経歴まとめ
ここで、目黒不動の来歴を以上の史料に基づいて整理しておこう。
【平安時代:円仁とヤマトタケル】
・(年代不詳)日本武尊が東征にあたって目黒に立ち寄る。十握剣を社に奉納した。という伝説がある。そこで日本武尊が荒人神としてまつられていた。
・延暦13年(794)円仁、下野に誕生。壬生氏。
・大同元年(806)神勅により大鳥神社創建。日本武尊を祀る。
・大同3年(808)円仁は師の広智とともに延暦寺に向かうが、その途中、目黒で不動尊を夢に見、目覚めてからその像を作る。延暦寺に入り、最澄に師事する。15歳。
・別説。日本武尊の尊像がほしいと村人に頼まれたので、円仁は不動明王像を作って収めた。なぜなら、駿河で火攻めに遭ったときのヤマトタケルの姿は、右手に犬の綱、左手に草薙の剣を持ち、炎の中に立っていて、不動明王の姿そのものだからである。
・承和5年(838)唐へ渡る。天台教学・密教・五台山念仏等を修学。長安の青龍寺で不動明王像を見、夢に見た姿と同じであると知る。
・承和14年(847)武宗の会昌年中の仏教弾圧にあい、帰国。
・円仁が故郷に戻る途中で目黒に立ち寄ったとき、独鈷で地を掘ったところ、滝水がわき出た。この独鈷の瀧は、旱魃でも涸れない。
・天安2年(858)寺が建てられたという説がある。
・貞観4年(862)清和天皇から「泰叡」の勅額を賜わったという説がある。
・貞観6年(864)正月16日円仁入寂、このとき71歳。
少なくとも目黒不動の像が「円仁(慈覚大師)が比叡山に登る途上で目黒に立ち寄り、そのときに刻んだ像である」と伝えられている部分については共通している。
【戦国時代】
・弘治3年(1557)、寺号創定(泰叡山瀧泉寺)。改築の際、棟札に「不動明王心身安養呪願成就、瀧泉長久、天安二年」とあるのを発見したという。
【江戸時代:初期】
・元和元年(1615)、火災に遭う。このとき不動像が滝に自力で逃れたという伝説がある。
【江戸時代:徳川家光】
・寛永元年(1624)、家光公が目黒の地で鷹狩をし、鷹が行方不明になった。そこで寺の別当の実栄に命じて祈願したところ、鷹が帰ってきて、松のこずえに止まった。家光が声をかけると、手に移った。この松を匂松から鷹居松と呼ぶようになった。
・寛永11年(1634)、鷹狩りの件に感動した家光公によって再興成る。
・以後、行楽地としてにぎわう。子供のおもちゃ屋や飲食店が並んでいた。
・ある年に滝が枯れたが、江ノ島の弁才天に祈願したら元に戻ったという話もある。
(初出:2005年3月18日~4月7日)
➡ まぼろしの五色不動【3】目白不動のにぎわい
⇦ まぼろしの五色不動【1】「大江戸五色不動」伝説の謎
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