復帰70チャレンジ その10「もはや忘れ去られている復帰協議会以前の復帰運動」
12月25日の復帰記念日まであと24日。
先月以降、色々と復帰運動関連の講演なども増えてきましたが、色々参加して、すこーし、いやだいぶ残念に思うこと。
それは
「まるで奄美群島の日本復帰運動が、復帰協議会が結成された昭和26年2月からやっと始まったみたいな啓発してないか…?」
というポイント。
小学生までなら「島内みんなで頑張りましたー」でいいかもしれないけど、これを機にもっと終戦から日本復帰までの流れを知りたいと思うようになった人は多分そこで「あれ?」となる。
「昭和26年までは、シマッチュは何もしてなかったのか?」と。
そんなことありません。
コロナ禍のマスク不足など比べ物にならぬ物資不足と生活苦の中でも、「やっぱり奄美は日本の統治下であるべきだ」と主張できないか、いろんな方法で挑戦してました。
それが今のシマッチュに伝わっていないのは、令和の世の、特に今年の復帰行事関係者がちゃんと調査や準備せず、今年になってから慌てて以前の復帰記念行事準備のコピペみたいな事しかしてないからです。
なんで断言出来るかって?
記念式典には多くの島々の唄や踊りが行われてました。が、
あれだけ昭和21〜28年の間、本土から流行歌の情報も音源も入ってこない中で、島内独自に生み出され、愛された新民謡が「一曲も」
ほんっとうに、一曲も使われてなかったからです。
これまで「この人に聞けばor頼めば当時のことを教えてくれるから大丈夫だろ」と頼ってた当時を語れる世代が殆どいないなら、今のシマッチュでちゃんと学んで覚えて、伝えていくしかないんだけどなー。
直接の復帰関係の活動としても、復帰嘆願は昭和22年(1947)の段階で、すでに市町村会と学校長会議で決議されてたし、それ以外にも政治でストレートにやる以外に、島内の各種文化面で、色々とギリギリ間合いを図るような試みがあった。
なのに、なんでたった約3年の短い期間の説明しかしないんだろ?
奄美共産党の活躍に触れたくないのであれば、余計に当時の文化論から説明する方がやりやすいのに。
動画系統も、私が5年前に鹿児島県から許可もらってから奄美市と報道で使用される頻度高くなった昭和29年製作の県政ニュース以外、いまだにいろんな場面で用いられる復帰関連画像は大体昭和26年2月以降のもの…いや、奄美市博物館にもまだまだあるはずなんだけど。
県立図書館にもあるはずなんだけど。
なんだったら鹿児島の黎明館も持ってるはずだし、鹿児島県の記録保管庫にもまだ映像あるだろうし、沖縄公文書館にも、在日米軍にも、まだまだシマッチュが知らない史料はあるだろうにな。
なのに、ただただ、それらの史料を公式に扱える人たちがちゃんと調べて、島内の我々に出してくれてないのは、かなり残念な事です。
何より、今後島を離れて、もしかしたら島に一生戻ってこない中高生に「知る機会」を与えずに去らせてしまう事。
これが一番の残念ポイント。
そんな訳で、ここ1ヶ月の復帰行事関連に参加して思ったことでした。
あ、いい点もありますよ?
終戦直後武装解除時の、高田少将の逸話がだいぶ浸透してきたなーとか。
沖縄の奄美出身者についても関心が高まってきたなぁ、名誉回復までいくといいな、とか。
60周年時には考えもしなかった現在の冷戦2.0の状態で、改めて国際政治の視点絡めた復帰運動と日米安全保障の関係性考証とか。
でもまずは、昭和20年代前半の奄美で。
米軍政府による、戦時中よりは緩い、でもやっぱり厳しい「検閲」「規制」の中で。後々、復帰運動の中心に関わるようになっていったシマッチュたちがどういう行動をしていたのか、をささやかながらこのnoteで伝えていきます。