復帰70チャレンジ その6「空襲、敗戦、台風、年が明けたら行政分離に天然痘にチフス流行(昭和20年春~昭和21年春)」
12月25日の復帰記念日まであと65日。
私事ですが今日は友人からお誘いを受けて裏千家の大宗匠、千玄室さんの講演を聴きに行ってきます。なんと御年100歳の元海軍特攻隊員。
現在も毎朝行う「海軍体操」が健康の秘訣だとか。
戦時中鹿屋の旧串良海軍航空基地に所属されていた事から、鹿児島や奄美にもコロナ以前から何度もご来島されています。
千玄室さんが死を覚悟して、鹿屋で特攻命令を待機していた頃、昭和20年春からの奄美はというと…とにかく「災厄」の連続でした。
時系列で追うと
昭和20年8月15日 終戦
昭和20年9月17日 昭和の三大台風「枕崎台風」通過
昭和20年秋以降 戦前に台湾や満州に移住していた人達が行き場を失い、故郷である奄美群島に引き揚げてくるも建材などの物資がなく慢性的な家屋不足状態。
なお終戦後の労働報酬は、「焼けたトタン」「焼けた釘」など。
とにかく建材をいかにして手に入れるかが重視された頃でした。
空襲の危機は去ったものの、相変わらず本土からの物流は以前のようには復旧せず。
にも関わらずどんどん増えていく人口。
それでも「戦争は終わったんだし、どうにかなるだろう」と楽観的に考えていたシマッチュに突然の知らせが舞い込みます。
昭和21年2月2日。
北緯30度以南の島々は、日本本土からの行政分離開始。
以降、吐噶喇列島の口之島から南は、米軍政府の統治地域となりました。
更に昭和21年2月、島内で天然痘の感染者が出ます。
南海日日新聞設立者である村山家國氏の「奄美復帰史」によると
新型コロナによる令和2〜4年の感染対策でも相当大変でしたが、医療施設もワクチンもままならぬ終戦直後の奄美。
致死率の高い感染症流行による不安はどれだけのものだったか。
そんな時期を歯を食いしばって生き抜いてきた方々、そして令和のコロナ禍を生き延びた現在の80代以上の記憶が、もっともっと今の奄美群島内の若い世代にも伝わるといいな、と思う日本復帰70周年の秋です。