復帰70チャレンジ その7「行政分離期の文化活動〜あかつち会〜」

12月25日の復帰記念日まであと64日。

昨日は、投稿したとおり裏千家大宗匠・千玄室さんの講演を聴講してきました。(あと久々にお抹茶も頂きました)
その中で旧海軍特攻隊の思い出も語ってらっしゃいまして。
奄美から南に飛んで行ったら、もうグラマン(注:第二次大戦時、米軍の主力戦闘機)とかどんどん飛び交ってて
と、まるで「なんかあの辺行ったらトンボがいっぱい飛んでて」みたいな明るい口調で仰ってましたが、控えめに言ってそれ死んでもおかしくないです、って心の中で突っ込んでました。特攻隊生き残りのメンタル強すぎる。

日付変わって本日はお友達の才木さんが2ヶ月に一度開催してる「奄美の鳥さんワークショップ」に参加して、小学校以来ウン十年ぶりに水彩絵の具でルリカケス塗ってきましたがいやー難しい。
山の中で探さなくてもうちの庭に勝手に現れる天然記念物さんですが、改めて「こんな特徴あったの?」と再発見もありました。

そんな文化的な週末を過ごしたので本日の復帰ネタは
「あかつち会」

行政分離期の奄美における文化活動全般を「あかつち文化」と呼びますが、手法が美術、文芸、音楽、演劇、と幅広い。
しかも「あかつち会」が立ち上げられた時期は昭和21年2月末。
この月の2日、行政分離が開始されたばかり。
にも関わらず、人や文化の往来が禁じられた奄美で早々に文化的運動が開始されたのは驚きです。

「あかつち会」の由来は、
「生まれ育(はぐく)まれた島を端的に表現する」こと。

同年7月には名瀬国民学校(現在の名瀬小学校)にて第1回文化講座を行い、100名余りが参加しています。
翌年の昭和22年には「あかつち」創刊号発行。
前年末に設立されたばかりの南海日日新聞にて50部程度の活版印刷。
表紙はのちに東京藝術大学卒業後、彫刻家となった基俊太郎氏(奄美市役所に壁画あり。奄美市らんかん山のくれないの塔も同氏による設計)による水彩手描き。
この号、どこかに保存されてるなら復帰70周年なので是非、シマッチュに向けて公開してほしいものです。

講演や討論活動だけではなく、貸本事業やレコードコンサートなど、まだまだ復興及ばぬ奄美で少しでも文化の灯りを、と熱心に提唱されたこの運動ですが
主力となっていた高校生らが本土へ向けて進学・復学・就職のために島を離れたり、また「政治活動のための団体ではない」として、昭和23年7月3日に解散の日を迎えます。

ただし
「あかつち会」に参加していたメンバーは学生以外にもいました。
中村安太郎、泉芳朗、村山家國など、このあと復帰運動の中心で活躍した先人達の戦後の活動原点は、このあかつち会。

その「シマのために」という萌芽は、昭和23年以降も群島内において次第に大きく伸びていくのでした。

参考文献:「全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動」(間 弘志、南方新社刊)

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