「批判」を「非難」にしないためにはどうしたら?(まだ思案中)
3年程前、私は「エコーチェンバー現象」について一つ記事を書いたことがあった。
エコーチェンバー現象とは。
で、
エコーチェンバー現象について私が書いたその記事がこちらなのであるが。
その中から、だいたいどんな内容かわかる部分を記事中から一部抜粋。
自分で言うのもなんだが、この時の私は結構、やわらかく、誰かのやり方に対する「非難」にはならないように、これを書いたつもりなのだが。
しかし、この記事を出した途端、3人(それもコメントを常々寄せてくださるくらいの)フォロワーが減ったんですよね。
(もしかしたら、気づかぬうちに、その後もっと減ったのかもね?笑)
で、何故、今回私が、こんな大昔の記事のことを掘り返したかと言うと。
作家の星野智幸氏のこんな文章を読んだからなのである。
で、いたく共感する部分があったからなのである。
(後半部分は有料記事なのだが、星野氏がこの文章で書こうとしている方向性は、無料で読める前半部分でなんとなくはつかめるのではないかと思うので、その前半部分から、概要となりそうなところを以下に抜書きしてみたいと思う。)
(……あんまりこういう文章で、一部分だけ抜き出す・切り取るのって、その作業をする人――つまり今回は私になるのだが――の恣意的なものになったりすることもあるから、よくないかとは思うんだけど!)
《元々は「個人の考え」であったはずなのに、いつのまにか「集団の主義・思想」として絡めとられ包囲されている、あるいはその「先鋒」みたいな役割を担わされることになっている、それらのことに対する困惑。》
――と、私は(勝手ながら)星野氏のこの文章を読み解いた。
私も、何かの考えを述べる時に、「群れを成す」感じになってしまうのが(たとえそれが同意見の同士だったとしても)元々どうも苦手だ。
(私の場合は星野氏とは違って、別にその主張の先陣を切って進まされる役割を担うことはまずないから、そこは全然違うけど。)
(でもそもそも「集団に組み込まれる」みたいになるのが、ただただひたすら苦手なのだ。)
「いや、だって、集団を形成しないと、対立意見を持つ(多勢の)相手を打ち負かせられないじゃないか」と(特に主義・思想的なものが絡んでくると)人々は口にするけれど。
でも――何かの「主張」を持っているとしてもだ。
その反対側の主張を持つ相手方を「打ち負かそう」という意識は、いらなくない?
昨今はもはや、「そういうの」は、ないほうがよくない?
そんなふうに、あえて「戦い」に引っ張っていこうとするの、もうやめにしない?
だって、「矛」を向けた相手側は、絶対「盾」を用意して、「徹底抗戦」みたいになるじゃない?
――それじゃあいつまでも、この(「団体戦」みたいになっている)「戦い」は終わらないじゃない?
てか、やりたいのはそういう「より多く仲間を集めたほうが勝ち」の「多数決」の「勝負」じゃないんだってば。
(たとえそれが「選挙」という「多数決がらみ事案」であっても、あまりにもその空気を露骨に出すのは、何か中立派(例えば「無党派層」と言われる方々)を遠ざける結果になっている気がする。)
目指すは「対話」「話し合い」で、「少しずつでもわかってもらいたい」、できたら「(できる範囲での)協調」を互いにしたいわけじゃない?
何ならそこに多少の「妥協」が含まれたっていい、それは仕方ないかな?
だって!
――そうしないと、いつまでたっても我々「平行線」なままで。
で、
そういう「終わりがいつまでも見えない」感じが漂っていると、多分、中立的な人から離れていくじゃない?
で、――実際。
今、そうなっているじゃない?
……と、私なんかは思ってしまうのだ。
が。
私が今書いたこれも、どこか「批判」の姿を借りた、「特定の誰か」に対する「非難」になっていたりしますかね?
(そういうつもりはホントに毛頭ないんだけど!)
ンもうッ!
ムズカすぃ~~~いっ!
(のたうち回ってます。笑)
で。
「星野氏の文章に私もどこか共感できる」という感想だけだったら、わざわざこんなふうに記事にしなかったと思うんですが。
そこを何故記事にしたかと言うと。
この「ムズカしさ」について、私なりに考えたことをちょっと書き留めておきたかったからなのだ。
実はこの星野氏の文章に対するSNS上のリアクションで、気になるものがあったのである。
私は、平野啓一郎氏も能町みね子氏もまた好きな書き手なので、「ああ……そういうリアクションになっちゃう?」みたいな感想を持ってしまった。
いや、平野氏の意見の中で、「それはそうかな」と思えるのは、『それがリベラルの大多数ですか?』という部分。
星野氏の文章の中には、確かに「すべての人がそういうわけではない」という「但し書き」部分は、(有料部分も含めて)なかったと思う。
でも――書かれてなかったとしても、そこは「言外部分を汲み取る」でいいんじゃないかな?と。
(完全に全てのことに「但し書き」して触れる文章ってのは、文字数もあるし、難しいですよね。)
能町氏の言う「視野狭窄的」というのも、星野氏の文章のそういった「言葉足らず」な部分に対する反応という気もするのだが……。(スミマセン、大雑把な解釈かもしれませんが!)
でも、星野氏の文章は、わかりやすい、よくできている文章で、「これ以上の完全無欠・至る箇所にまで及んだ言及」を求めるのは、なかなか難しいものだと思う。
――文章って、そういう「説明や言及が足りなくないですか?」の部分を探そうとすれば、いくらでも探せてしまうものじゃないですか。
あとは、平野氏のツイートから、
『内容は、昨今のリベラル批判の大波にスッポリ呑み込まれて、その尻馬に乗っているだけじゃないですか。』
という部分。
……でも、これもなあ、と私は思う。
「大波」が発生しているからには、やはりある程度の「今一度、改めて考慮してみるべき何か」が、そこにあるからなのではないだろうか??
実際、正しいことを述べている割に、あるいは、相手方の、例えば「もはや政治家以前、人として酷過ぎない?」な部分を指摘している割に、その言説の輪も支持も広がっていかないというか、それ以前に、発している言葉が人々の間に(もっと浸透していきそうなものなのに、あるところまで以上には一向に)浸透していかない、というのには、何かしらの「原因」があるはずで。
で、(その全てではもちろんないけれど)星野氏の先の文章の中には、その「原因」を探るヒントが、多分にある気が、私はするのである。
至極ザックリした言い方に換えれば。
「主張、あるいは主義や思想の対立」が、「勝ち負けのみを争いたい集団同士のただのケンカ」みたいな印象に(実際はそうでなかったとしても)傍から感じられてしまったら、関心が薄い層は「これは私達が参加する話ではない」と、内容をよく聞きもせず離れていってしまうだろうし、でも今、「輪を広げていく」ためには、関心が薄い層にも響くやり方(これは「ただのケンカ」とは違うと感じてもらう)をとらないと、どうにもならないんじゃ?
と、私は(あくまで個人的に)感じたりもするわけである。
ふと思う。
「怒り」とは、それを伝えることが必要な場合でも、「感情」にして発露させてはいけないのかもしれない、と。
(いや、「怒り」は「感情」なんだけれども、それでもさ!)
「耳の本当に痛くなる話」こそ、弱めて「ちょっとだけ耳の痛い話」に変換しないと、誰も聞いてくれない(それじゃ話す意味もなくなる)のと、これは一緒のことかもしれない。
いや、今回のヒントとして。
国会質疑なんかを聴いていて、「聴いていてひたすら気持ちいい」質問というものも、稀にあったりするのだ。
舌鋒鋭く切り込んではいるが、ひたすらなめらかで淡々ともしており、感情は込められてはいるものの「感情的」ではない。
そこには「清々しさ」「爽やかさ」さえ漂ってしまう。
――案外、若手の人で、これができている人がいて、「そうそう、議員みんながこの調子でやってくれたら、その言葉にもっと「人々の耳が傾く」のでは?」なんて私は思う。
――こういうの、すごーく参考にしていきたいものだな、なんて思うのである。
さて。
(また話が広がり過ぎているので元に戻します。笑)
(むしろここからが本題かも?)
私は、平野氏や能町氏のこの「反応」って、どこから生じるものなのだろう?なんてこともまた考えてしまうわけなのだが。
何かの「批判」の対象に、「あれ?これ、私も含まれている話なんじゃない?」と思いがけず個人が感じると、「ということは、私、この人から『非難』の対象にされている?」というふうにまで、(無意識下も含めて)感じられてしまうものなのかも?なんてことを思ったりもする。
私にはそれは、一種の「過剰反応」のように感じられてしまうが。
(と、かくいう私もちょいちょいこの「過剰反応」をこれまでしてきた気もするのだが。笑)
(いや、でも人ってどうしてもそういうふうになりがちですよね……全ての人がそうではないでしょうけれどもね。)
「意見」に「批判」が含まれてくる時、そうか、そこには「批判対象」に含まれたと感じる方々からの、「反発」は起こり得るものなのか、と。
(そりゃそうだ、当たり前の事……なのだが、しかし案外、必ずしも、そのことを意識・覚悟して人は「批判」というものをしないものだよね?)
無論、「批判」自体は、悪いことではないし、時に必要なものだと私は思う。
それは「怒り」も同様。
(そのことはこれまで数回、別に記事にしたから、もうここで再度詳しく書かなくていいですね。さすがにクドいものね。笑)
でももう、いっそのこと、私個人としては、「批判」「怒り」をあからさまに伝わるように表明した文章は、これからはあえて避けていこうかな?なんて考えている。
――いやいや、違うのだ、これは「人の顔色をうかがうため」では、今回はないのだ。
「一部から反発が起こるであろうことを承知の上で」の批判なら、私は別にいいような気すらしている。
何なら、昨今のSNSの事情を鑑みて、『もう「論争必至」の折り紙付き』、というか、何なら『俺が論争を巻き起こしてやるぜ』みたいな意図をもって行う、そんな「批判」「怒りの表明」も、全然否定しない。
そういうのがあっても別にいいとすら思うのだ。
(話題に上がることで、「無関心」が「関心」に変わることは、いくらでもあるし、それを狙う人がいてもいいと思うから。)
でも、私としては、少なくともそのやり方って結局「建設的ではない」――は言い過ぎだと思うので、言い換えると、「かえってずいぶん遠回りというか、できるかわからない『スクラップアンドビルド』を狙った建設的」のように思えてしまうのだ。
「炎上」って、ある意味「力技」なのだ。
無論、それで世論が動いた前例はあるんだけど。
でも、「即時に白黒はっきりつけにくい」分野で「炎上」を起こすと、概してその後には「焼野原」だけが残る。
そうそう、「焼野原」の景色が好きな人もいる。
既に心に「焼野原」を抱えている人には、その景色は「共震」というものなのか、響くのだ。
――私もいまだに心のある部分が「焼野原」のままなので、それはよくわかる。
でも、そんな「焼野原」に、「緑の野原に暮らす人々」は、なかなかどうして近づいてはこない。(それはもはや、生物の本能的なものだろう。)
「嵐」に近づこうとするのは、よっぽどの物好きでない限り、あとは「自分の中に嵐が巻き起こっている人」のみだ。
「焼野原」や「嵐」に、「そこにはいまだ無関係な人」を「巻き込もう」と意図するのは、どんなものなのだろうか?
――「関心はもってほしい」「共感をしてほしい」というのは、当然の心理なのだが。
「一緒に怒ってほしい」「一緒に血にまみれて戦ってほしい」と願うのは、(「正しい・正しくない」は置いておいて)はたして「得策」なのだろうか。
――でも、ついつい、「怒り」を持っていると、無意識のうちにそれをどこかで願ってしまってはいないだろうか?
「あなたも私と一緒にめちゃくちゃ怒ってほしい・怒るべきでは?」になってしまっていないだろうか?
で、あるいはまた、「対立する相手」との向き合い方においても。
(また繰り返してクドいけど、笑)「怒り」自体は必要な感情なのだが、その怒りの炎をもって、自分側のみならず、相手側の「導火線」に「引火」させたところで、「一時的に腹の虫がおさまりました!」にしかなってないのではないだろうか?
――双方共に燃え盛る炎の現場で、それでもそこで「意見のすり合わせ」ができるかといえば、それはかなり難しいだろう。
「そのまま全て焼き払えばいい」?
「そのまま全員打ち負かせばいい」?
――いやいや、でも、実際に、そんなのって現実的に出来得ると思う?
「あなたの考えは間違ってますから、その考え、跡形もなく抹消してください」というのが「正しいこと」だとしても。
でも、「形ないもの」――例えば「個人の中にあるものの考え方」とか「その人が正しいと一度信じきってしまったこと」とか――って、「跡形もなく消す」というのは、結構難しいことなのではないかな??
意見が対立している相手方に対し、「それでもなんとか譲歩を引き出したい」なんて目論む場合のそこで、「批判を盛り上げることで、相手方からの反感を更に膨らます」ことは、はたして「近道」だろうか?
「対立をますます深めるような構図」――その「深すぎる谷」を、試しにでも飛び越えてみようか?と思う人は、ますます減っていくのではないか?
それはあまりにも「不器用」ということになりはしまいか?
――私くらいの歳になると「だって自分、不器用なもんで、テヘヘ」というのは、もはやあんまり傍から見て微笑ましくもないのである。
(わかんないけど、たぶんね。――若い人々からの冷たい視線が刺さるわ。笑)
迎合といわれようと、何でもいい。
例えば、とにかく私はここnoteでなるべく、「機嫌の良い文章」を心がけようかと思う。
(くれぐれも。別に私は、他者にそれを求めてはいない。)
(私自身は「不機嫌な文章」を読んだくらいで、もはや自分自身の機嫌がそれに引っ張られることも、歳をとったせいか、あまりない。「機嫌」を感じ取るのではなくその「中身」を読むくらいのことはできる……と思う、たぶんね。笑)
いや、閲覧数を集めたい、注目を集めたい、と狙うんであれば、むしろ、「機嫌が悪い」文章のほうが、昨今はウケるのかもしれない。
――例えばその「怒りの矛先」「批判の対象」が同じ向きになっている方々からは、「強い共感」を得られるわけだとも思うので。
でも……うーん。
それが、短期ではなく中期・長期的な目で見たとき、「(本来のシンプルな意味のほうの)建設的」かと問われればやはり「……はて?」というのが、私の感想だ。
特に今どきの「SNS上」の敵は、どこか「仮想敵」みたいになりつつあって、「怒りの標的でしかない」みたいになりがちだ。
――その「標的」の位置に、実際「本当の敵」「変えなければならない対象」は、いないのにもかかわらず。
実は「肝心なところには、な~んにも、届いていない」のにもかかわらず。
その「仮想敵の標的」に、いくらSNS上で「火炎瓶」投げ込んだところで、肝心の「本丸」には届いていないといえばいいのか――だけれども、たぶん投げ込んだ人々は、留飲を下げた「ような気になっている」というような構図を、私は感じてしまうのだ。
(「ような気になっている」だけで十分に私はスッキリしているので、それで満足ですから!というのなら、それを咎める気も私はないけど。)
気づかぬうちに、無意識下で、「批判」が「ケンカ目的」みたいになっているのを、ちょっと離れたところから眺めると、感じられる場面も時々ある。
――そうだよね、「怒り」はやはり、(それが仮に一時的なものだとしても)「解消したい」となるのが、人間の自然な反応だとも、私だって思うしね。
(あ、今回とりあげた、お三方の批判は、「ケンカ目的」感は全然感じられませんでしたけど!それとは別の話です!)
でも私は(あくまで自分自身が、であるが)「無益」に感じられるやり方は、避けていきたい。
――それを職業にしているわけでもない私に「書く」時間は、そこまでたくさん、与えられていないからだ。(てか、すんごく限られているっ!少ないっっ!笑)
早い話が、「延々と続くケンカ」「出口の見えない口論」など、「その先にまで進展する可能性が薄そうな感情的なやりとり」に終始しているヒマは、私にはもうないのだ。
あとで振り返った時に、「今という時間」を、「自分の機嫌が結果的には悪くなるばかりで、俯瞰で見るとな~んにも、進展どころか変化もしなかった・言葉が作用していなかった・虚しい時間だった」と、感じたくはない。
それは避けて通りたい。
――この記事も結構長くなってきたので、そろそろ(とりあえずのものでも)結論を出そう。
私は、なるべく、「面白おかしい」文章に、「すべて」を込めていこうと思う。
(ここまで延々と書いてきて、何なんだよ!この大雑把すぎる結論は!!笑)