「相対的地獄」と「破壊衝動」
まず、前回の記事を、ひと言ふた言でまとめようとするなら。
『世の中や世の人々が荒むと、とどのつまりは巡り巡って、自分の寿命(いろんな意味での)も削られていく。
だから、互いに誰もが「他者を不要に荒ませない配慮」を持ち合わせていたほうが、(自分のためにも)いいはずだよね?
(「美しい○○」とか「人としての○○」とかそういうこととは全く別の観点から。)』
という話であった。
「簡単に戦争になだれ込んだり巻き込まれたりしそうな情勢の世界」
に生きるのも、
「平然と嘘をつく人間が統治する国や県・市町村」
に住まわされるのも、
「頻繁に強盗がおこる治安の街」
に暮らすのも、
私は、かなり、精神的にしんどい。
――多少の個人的な生活上の融通を失ってでも、そんな世界や国にますますなっていくのを避けられるものなら、避けたいものだ、と。
*
いや、前回記事を書き終えて、改めて考えてみたのだ。
「何故、わざわざ戦争や強盗を行おうとする人が存在するのだろう??」と。
――その心理とは、これ如何に??
「戦争」も「強盗」も、場合によっては犯してしまう本人もまた命がけだし、少なくとも「これまでの生活」は続けられなくなる可能性があるわけだし。
「戦争」――やろうやろう!という人は、別に今現在、必ずしも喰うものにまで困っている状況でもないだろうになあ。
(まあ、イスラエルのネタニヤフなんかは、戦争を続けないと自分の首が飛ぶ状況では既にある、なんてことが言われているようだから、だからあんな虐殺行為を続けているんでしょうけど……って、そこらへんの、各事案ごとの事情や背景の詳細までは、また別の機会に検証するとして。)
……う~ん、「何故?」って、思いません??
「強盗」――「借金苦」だって「生活苦」だって、いくらでも、法に則って救済される道は(日本の中にいれば)一応あるにはあるしなあ。
……ううううう~ん、これもまた「何故?!」って思いません???
だって、
他者や他国や社会に向けて「暴力」を振るう以上、それは「返り討ちにあう」「一生モノの制裁を受ける」危険性(それも結構高い)は、必ず発生するわけでしょう??
それなのに?
それでも何故そこまでしてわざわざ??と。
もちろんそれらのことについて、「実働部隊」は、「逃げる方法があってもそれを知らないせいで、そのうえ落ち着いて考えてまともな判断をするような余裕も奪われたまま、ただただ命じられてやらされている・やらざるを得ない状況に置かれている」だけだったりはするが。
にしても、
その「実働部隊」が存在するその裏には、必ず司令塔である「それをやらせている人間」もまた存在するはずなわけである。
いやいや、
自分で直接戦場に行ったり他人の家に押し入ったりしなくてもさ、「指示を出しやらせている」時点で、その人にとってだってそれは「自分の身の安全を脅かす状況に、わざわざ自分を置きにいくような行為」になるわけじゃないですか。
……何故なんだあああっ?!?!
自分の身を危険に晒してでも、「(個人的・直接的には面識もないような)他者に危害を加え、他者から更にまだまだ奪えるだけ奪いたい」という、その心境や如何に??
うーん???(解らなすぎる!!!!!)
いや~、
これって、絶対、単なる物欲や金銭欲だけでは、この「衝動」には結びつかないような気が個人的にはするんだよなあ。
――「領土」なり「お金」なりが「ただ欲しいだけ」という、そんな動機で、対象に自分をも含むこの「破壊衝動」(にしか私には見えないよ、こんなの)は、はたして起こるものだろうか??と。
その答えは、
「私にはわかり得ない」
ということなのかもしれない。
「破壊衝動」――そもそも「暴力」というもの、それが生まれる仕組みなり心理なり、理解しようとするのは、そう簡単ではないのかもしれない。
「暴力が生まれる背景を想像してみましょう。」
――うむ、台詞にしてみると、これまたどこか、そしてどこまでも、「白々しい」というか。
「想像」だけで「理解」ができるほど、そんなに「人間の心のうち」って、一筋縄ではいかないものだよね??と。
(経験談。……自分の想像の、良くも、そして悪くも、斜め上をいく方々に、これまでも実生活で数多く出会ってきたではないか。笑)
「暴力的なもの」は、「暴力的なもの」に触れないと、その心に生まれてこない。
と、思う。
そうかそうか、それならば、そもそも暴力的なものがこの上なく自分は嫌いなもので、だから、うまく想像できないのかにゃ?
と、結論付けようと思う。(にゃ?笑)
おしまい♡
……。
……と、しようとしたのだが。
そんな結論にもまた、気づけばこれ「違和感」を感じたりもして。
(「違和感」の正体は「にゃ」ではありませんでした。笑)
「違和感」――暴力的なものをこの上なく嫌う自分の中に、はたして、「暴力的なもの」は皆無だったか?ということである。
(「これまでずーっとそうだった」と言い切れるか?)
うむ。
幸いなことに、これまで肉体的な暴力を振るわれたことは頻度としてはそこまでなかったが。
(ま、幼少の頃に、親や兄にぶん殴られたことはあるけど、でも、それも恒常的なものではなかったし、成長してある程度図体が大きくなると、あまり身内からもそういう目に遭わされずに済むようにもなりましたしね。笑)
(話を戻して、)
しかし、「精神的に踏みつけられたな」と感じたことは、今現在(齢51)に至るまで、あらゆる場面であったわけである。
その時、私の中にはそれでも、「暴力性」――「やり返せるものなら、やり返したい」みたいな、例えば「復讐心」とか?――そういった類のものが、ひと欠片も生じなかったと言えるであろうか??
そんな「自分の胸に手をあてて考えている私」が、ふと思う。
「戦争」も「強盗」も(引き続きあえて一緒くたにして語るが)
本を正せばそれらは
「呪う気持ち」が行動原理になっているのではないか?と。
「大量によその国の奴を殺せるだけ殺してこい」
「自分より体力的に弱者の老人や女子供を、力にものを言わせて殴りつけて、奪えるだけ奪ってこい」
う~ん、
「まともな神経」の時だったら、こんな「狂気としかいえない発想」には至らないよなあ、と、(どんなに生活や金銭に困っていてもなあ、と、)
「今の私は」思うけど。
――そうなのである。
この「今の私」なら、そう思うけど、
でも、戦争も強盗も起こっているのは、空想世界ではなくこの同じ現実世界、私が立つ地面と続いている世界の中のことであり、
それならば、
「今の私みたいじゃない人間」は(それが狂気だろうとなんだろうととにっかく)今の、ここから地続きのこの世界に、確かに存在はしている、と、こうなるはずでもあるわけなのだ。
(そして「今の私」はいつまでも「今の私」でいられる保証もない、ということも、これははらんでいると思う。)
「あの時、私は『痛い』って言っていたのに。
誰も助けてくれなかった。
誰も耳を傾けてもくれなかった。
それどころか、誰も気づいてすらくれなかった。」
――「本物の地獄」とは、きっと、出口が見当たらないものなのだろう。
言うなれば「救いがない」というものである。
「この地獄の外に、地獄じゃない世界があるはず」と思えれば、まだ「逃げよう」と思えるのに。
そう思えなかった場合、人はどうなるだろう??
――いや、違うな。
「この世界はどこもかしこもこういうものなのだ」と、「この世とは即ちこういう場所なのだ」と捉えていたなら、「地獄」という概念自体もなくなるものかもしれない。
――そう考えると、「地獄」とは、もしかしたらもっと「相対的」なものなのかもしれない。
つまり、
「この地獄の外に、地獄ではない世界は確かに存在して、そこに生きる人もまた確かに存在している……にもかかわらず、自分は地獄から出る術がない」
という、
これこそが「本当の地獄」なのかもしれない。
そんな「相対的地獄」にいるからこそ、
人は「地獄的なルール」を、あえて自ら
設ける、あるいは、選択・適用して、
生きていこうとするのではないだろうか??
*
世の中には「暴力というものを知らない」言うなれば「人に踏まれたことのない」というタイプの人も、確実にいる。
――うらやましくて仕方がないです。(笑)
私も「暴力」なんてものはどんな些細なものでも知らずに育ち、そんなものはどこまでも知らないままで、この世を後にしたかったです。
が、しかし。
「踏まれる」ことを知らないと、「踏んでいる状態」も知らない、そのことに気づけない、ということもまた起こる訳である。
――「暴力を知らない」からといって、「暴力をふるう可能性もない」ともならないのが、この世界の難しいところなわけである。
私は実際、「気づかずに人を踏んでいる」こともこれまであったし、いや「気づいているのに踏んだまま」(つまり今でも踏んでいる)という事案もあると思う。
あえて極論で言えば、
「私は平和に過ごしているから、戦争に加担していない」わけでもないし
「私は強盗なんてするわけがない、だから、その案件には関係ない」とも言い切れないのだと私は思う。
「私は人から物を奪ったりしない」けれど、奪っていることはあるのだ。
「私は絶対差別主義者ではない」けれど、無意識に差別をしているることはあるのだ。
「私は他者を自分より下に見たりするのは嫌いだ」けれど、知らないうちに他者を下敷きにしていたりもするのだ。
「私は地獄なんて知らない・見かけたことも行ったこともない」という人間が、「地獄の一部分」を形成している、ということも、きっと、起こりうるのだ。
私は、実際「善い人」でも「やさしい人」でもないのだが。
(むしろ、結構「冷たい人」だと自分で思います。謙遜ではなく。笑)
でも、
(冒頭に戻るが、)
世の中や世の人々が荒んで、
そこはかとなく「破壊衝動」が空気中に満ち満ちてくると、
そこに地獄が発生し、
とどのつまりは巡り巡って自分の寿命(いろんな意味での)も削られていく。
だから、お互い「他者を不要に荒ませない配慮」を、できる範囲で持ち合わせていたほうが、(自分のためにも)いいはずだよね?
と、思うわけである。
「目に見えている地獄」は、この世に確かに存在するものである。
「この世に存在するもの」は、必ず「私と繋がっている」。
「私と繋がっている」ということは、その「地獄」に、いつか私も立つ可能性がある。
と、こういうことである。
――自分が今、つくづく肌で感じる「世界」は、そういう「きな臭さ」に満ち満ちている。
いや、だから、これは「思いやり」とかの話ではないのだよ。
人のあいだでの上下が生じるところまでは仕方ないにしても、その時、下の位置になっている人の気持ちを想像もできないなら、つまり、それを「ないもの」かのように無視し続けるなら、この世の中には、ただただ行き場なく彷徨うばかりの「呪う気持ち」が残されていく、という、そういう話なのだよ。
(実際の世界が今そうなっているのを、すごーーく、私は個人的に肌で感じるなあ、という話。)
「いや、だってそういうルールでしょ?」
というのはその通りだとしてもだ。
「ルールだとわかっていても、それはそれ、踏まれたり下敷きにされたりして『呪う気持ち』が生まれたら(ルールなんてあろうとなかろうと関係なく)それも止められない」
というのもまた、人というものなのだ。
で、その気持ちを「無視」し「気づかぬふり」をし続けていると、この世に残されたそれはそのまま、泥のように沈殿し、堆積していく。
(そういう「人を呪う気持ち」は、重たいから、だいたい底のほうに沈むんだよね。)
「その泥」でできている「沼」に、脚をとられでもしてみろ、と、こういう話を私はしたいのだ。
今、世界の空気はあまり「流れていない」のではないかと思う。
――本来なら動き続ける性質のものが、「行き止まり」で停滞し、その「行き場のない空気」は、ただただ逃げ場なく漂うばかり――それは濁っていて、視界が悪いのを、誰もが感じているのではないか。
みんなの「羨む気持ち」「妬む気持ち」「呪う気持ち」が、底から堆く積み上げられてきて――自分の上を泳ぐ者のその脚を掴もうと、手を伸ばしているのが目に見える。
そしてそのまま「気づかぬふり」をしていると、これまで自由に泳げたはずのその澄んだ水は、どんどん、その水深を失い、この世は「沼地化」していく一方だ。
――もう既に、多くの人が、水底の「泥」に、自分のつまさきが何度も触れているのを――いや、場合によっては捕らわれているのを――感じ始めているのではないか?と、私は思うのだが。
もしそれに気づいてないなら、それは「非常性バイアス」を働かせすぎているような気もする。
どう考えても「今の世の中おかしい(主に気味悪い・狂気じみている、という意味で)」に、これ、かなりなってきていると私は思うのだが……。
我々、「力がものを言う世界」にしてはダメだと思う。
力—―腕力然り、権力然り、経済力然り、とにかく何でも、そういった「力の差」で、人と人との間に勾配をつけようとしては、いけないと思う。
せめて、意識の上だけでも――「上の位置にのし上がってご満悦」とか、ほどほどにしておかないと。
そもそも、シンプルに、あんまり露骨なそういうのって「人間性の面において」全然カッコよくないです。
「人間性」――我々、「サル」では最早ないんだからさ、と。
我々、
刃物も使えるし、火も使えるし、薬品も使えるし、鎖も牢屋も使えるし、爆弾も使えるし、化学兵器も使えるし
……って、そうそう、
「あ、力がものを言うルールなのね?
だったら、使えるものなんでも使って、上の位置になったもの勝ちじゃない?」
ってなるじゃないですか?
実際、世界は今
「使えるものはなんでも使って、力をつけて、のし上がったものが生き残る」
みたいな空気に満ち満ちでいるじゃないですか。
早い話が、
こんな「物騒なルール」の中で、我々、生きていきたいですかね??
という、そういう話なのでした。