
人間ほど「うまくできていない」生物はいない
いつでも
「何かが足りない!!」
となっているのは、
きっと自然なことなのだ。
最低限の食料が足りてきたら、
今度はもっと美味しいものが食べたい!
となるのは自然なことだし、
最低限の寝床が確保出来たら
次はもっと良い住環境を探したい!
となるのも自然なことだ。
植物が、野放図に、
茎や枝を伸ばし葉を茂らすように、
我々も
「もっと!もっとだ!」
と叫び続けるのは
元気があってよろしいのである。
但し。
我々は、ちっとばかし、
脳を発達させ過ぎた気もする。
小手先のアタマ先だけで
――この世界に対しては狭すぎる
この脳みその中だけで――
「考え過ぎる」のである。
(「私の脳みそにある世界が
この世界のすべてだ」と
どこか甚だしい「勘違い」をしたままで。)
そうそう、そうなの、
「本能の赴くままに」「やり過ぎる」は
もとから生物全般の
「お決まりコース」ではあるのだけど。
でも、我々、
頭の中で考え追求し続け
場合によっては実行できてしまう、
その「力の大きさ」と「ベクトル」については、
これまでの世界になかった
「まったく新しいタイプ」でもありまして。
――一言で言うと
「ヤバい」生物でありまして。
神様も(いたとしたらだが)
「手を焼いている」のが
目に見えるようである。
「妙な生物を作っちまったなア」
と、思っていると思う。
「脳を大きくし過ぎて
バランスを明らかに崩しているから
(一個体としても生物界全体としても)、
そろそろ人間は絶滅させて、
元の脳サイズまでで
生物界は揃えないとかな?」
と、
神様みたいなものが思ったとしたら、
それは「賢明な判断」であると私も思う。
(「この世界」のためを思えば
それがいいにきまってますよね。笑)
神様……がもしいたとしたなら、
それを防ぐための策として
予め人間に
「心のようなもの」を
お与えになったのだと思うのだが。
今度は
各種の「やり過ぎ」
――「欲しがり過ぎ」然り「考え過ぎ」然り、
それらが結局、
その「心のようなもの」の
人間ならではの基本機能を、
狂わせたり失わせたり、
あるいは
自ら破壊させたりしてしまうわけである。
特にその点で、
人間は、まったくもって
「うまくできていない」生物だと思う。
――せっかく備え付けられた
「ヒト科の心」が、
台無しであるからして。(笑)
「心なんて!
こんなもの、
持っていてもシンドいだけだ!
捨ててしまったほうがいい!」
……なんて思う日も(個人的には)ありますが、
でも、
その「しんどさ」こそが
「それならストップ!そこまでっ!」という
信号を出してくれる
ある種の「センサー」になっているわけで、
(と、ある時気づきました。笑)
やはり「必要なもの」である
……はずなんだけれども。
必要だからこそ
心は「不快感を示して」、
予め反応しているはずなのに。
……何でそこを無視する?というね。(笑)
「そこまでこだわり過ぎたら不快」
「そこまで戦い過ぎたら不安」
――せっかく「心のようなもの」が
そんなセンサーを鳴らして
ブレーキしているはずなんだけどなあ。
何で?
何でせっかくのそのブレーキ、
無視して突っ走っちゃうの??
「眠れなくなるくらいなら、
それについて考えるの一切やめません?」
「やり返されるの怖いですよね?
なら、はじめから戦争しなければいいのでは?」
「気になって何も手につかないなら、
もういっそ全部捨てれば?」
どう考えても「もういいじゃない!」と
――「やめたほうがいい」「しないほうがいい」「手離したほうがいい」
そんなものを、
それでも!どうしても!と
握りしめ続けてしまうのは
「壊れている」ということではないのか?
「生物・人間」よ!!!
そんなふうに、
その「センサー機能」を
繰り返し繰り返し
(自他共に)
無視したり踏みつけにしたりして
蔑ろにしていると、
肝心な時に働かなくなるし。
何なら「誤作動」だっておこしてしまう。
(その結果の一例が
例えば「戦争」という
「同属殺し合い大会」だったりするというね)
――頭の中だけの
「思考でっかち」「理屈でっかち」で、
「感覚的なもの」を後回し後回しにした
その挙句、
自分達でわざわざ
「生きていくのに不安な世界」を
一致団結して(皮肉です)作り出している、
という
この不器用さや、如何に。
(頭いいんだか悪いんだかわかんねーな、
てか、
「中途半端な賢さを持ったバカ」が、
一番手に負えないということか。笑)
「サル以下」
――人間自身が、自分逹が生きるこの世界そのものとか生態系とか最終的にぶっ壊して戻せなくなったら、「生物としての失敗作」確定である。
……って、そういう「行き過ぎ失敗作」がいずれ出ては、揺り返してまた振出しに戻る、という、それもコミでの「神がお創りになられた世界」「自然の摂理」なのやもしれぬが。
「恐竜が身体を大きくし過ぎたせいで絶滅した説」のように、人間も脳を大きくし過ぎた(または中途半端な大きさで成長が止まった)せいで、いずれ絶滅というか自滅しそうな予感しかしないではないか。
(どうしたらいいのっっ?!笑)
一体何が、
「人間さま」を
狂わせてしまうのだろう???
「ハングリー状態」がなければ
「ハングリー精神」は生まれないわけだし、
だから、
変に予め悟り切ってしまって
「足るを知る」オンリーでは、
きっと
文字も言葉も、
書物も絵も、
テレビもラジオも電話も、
車も船も飛行機も、
コンピューターも、
インターネットもスマートフォンも、
便利家電も快適な衣類も、
生まれなかっただろうから。
「もっと!もっとだ!」精神は
まったく否定する気は私もない。
(むしろそこまでは健全かも。)
けど、
「不快」とか「不安」とか、
そこにある時ふと生まれ出でる
「ブレーキ」の感覚を
――それは自分のはもちろん
他者のものも含めて、
つまり「互いに」だが――
注意深く「受け止める」精神、
その「センサー」は、
あらためて
「完全に失わないうちに」
自分達の手中に
戻しておいたほうがいい気がする。
――別に
「人にやさしく」だの
「思いやりの心を大切に」だのと
言うつもりはさらさらないのだ。
(ないんかい。笑)
ただただ、
たとえば。
自分が「脅かされない」ために
誰かを「脅かさない」とか。
「全てを疑ってかかる」のも
かなりの手間だから、
ならばまず
「自分は誰かを騙さない」とか。
うっかりでも「踏まれる」のが
自分は痛くて鬱陶しくて嫌なら、
うっかりでも誰かを「踏まない」
とか?
(ここのところ繰り返しているが、
「踏んでいる側にいる」ことについては
我々ってば案外
気づきにくいものなのよね。)
それだけのことよ。
――そうして、どこかでこの世は
「鏡」の様相を呈していることも多いものだから、
それならば、そこらへん、
「自分の機嫌や居心地のよさ」を守るために、
配慮できたらしたほうがいいのにね?
という話でしかないのよ。
(それのことを
「やさしさ」とか「思いやり」とか
解釈したほうが「気分が良い」なら、
全然、そう解釈するのは
やぶさかではない。
――だって「気分が良い」は
最強の原動力になるからさ!)
だから、
正確な「センサー」や
適切な「ブレーキ」のもととなる
「素直な心の動き」(自他共に)にも、
もっと敏感でありたい。
それを後回しにはしたくない。
そのためにも
「何が気分がいいか」
「本当の御機嫌とは何か」
を、
もっと我々、
本腰をいれて探求してみてもいいのでは?
――たとえば、
「清々しい」というような、
「心理的な感覚」が、
何のために、
我々各々に備わったのかを、
もっと徹底追及してみてもいいのでは?
「そんなことはどーでもいい」
なんて、どうか思わずに!!!
そこんとこ、
たぶん、
思ったより大事なんだ!
だから蔑ろにせんでくれ!!
――「気持ち悪さ」や「居心地悪さ」、
つまり「感覚」というものを、
そんなふうに理屈で毎度毎度
後回しにして
「麻痺」させて、
さてさて、
そうやって結果として
自分達で自分達を振り回して追い詰めて
いったい、
何がしたいんだ??
どこへ向かえば気がすむんだ???
人間世界よ!!!
……とかなんとか、
世界の端っこにいながらも
叫ばざるを得ない気分の、
今日このごろの私なのである。(笑)
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