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持っているだけで既に傲慢?

前回は親の認知機能の衰えについて記事にしたが。

いやいや、どっこい、自分自身の脳機能も、加齢による著しい衰えを感じる今日このごろである。(笑)

いや~、歳をとった分、そりゃあもちろん、経験値とかそういったものは上がったせいか、例えば精神的にタフになって生きやすくなったかな?とも思える、そんな「利点」もあるにはあるけれども。
(「鈍感になっただけですよ」という皆様からの総ツッコミは、一人で総スルーする所存です。笑)

しかし、
老化によって「目に見えるように失われていくもの」もまた、いろいろ、確実に、あるわけであり。
――正直に言えば、やはり先に挙げた例のような「歳をとることで得たもの」よりかは、「失われていくもの」のほうが、それを強く感じやすいんですよね……私の性格としては。(直したい。笑)


言うまでもなく、そっちばっかり気にして憂鬱になっても良いことはないので、
「失われたものもあれば得るものもある。――それらどちらも自分にとっては大切なもので、
で、
そういう大切な所有物の『入れ替え』があること自体が、そもそも生きているってことであり、
実はその『新陳代謝』がいまだ行われ続けていること自体にもまた、生きるということの素晴らしさがあるのだよね?」
と、割り切ってはいるのだけれども。
(てか、ここで「割り切る」って言い方を使うんじゃないよ!……性格ッ!!笑)


で、タイトル。

わかりやすい例でいこうと思う。

私も歳とともに、頭髪の本数が、目に見えて減ってまいりました。

うむ。

で、「失ってみて、初めて気づく」わけである。

イイエ、違いますよ?
「頭髪の大切さ」に初めて気づきました――「髪がある時は頭頂部の地肌で降り始めの雨を察知することはなかったよね?」
……とか、そういうことを言いたいのではないですよっ?(笑)


いや、人って、「既に持っている」時って、それだけで、少し傲慢な気持ちにどこかでなっていたりするものなのかも?と。

――いやいや、だから違います。
私、髪の薄い人をバカにしたことなんて、ホントにこれまで一度も、フサフサの若い時分ですらもありませんっ!(心の中でも。)(「一度も」っていうと怪しくなるかな?でも二十代以降はないです!その点については自信あります!笑)
だって、むしろ、自分も年齢とともに薄くなるタイプだろうなあ、という覚悟もあったしね。(笑)
だから「薄毛でもカッコいい人はいるもんね」という意識で(少なくともここ二十年くらいは)いたとも思います。
その他諸々「見た目の老い」に関することについては、同様だなあ、と。


しかしである。

「無意識下のどこかで」の話であるが。

「持っている」と、どうしても、もうそれだけでそこに「優越感」みたいなものを、どこかで感じていたのではないか?
みたいな、そんなことを「失ってみて初めて」――「薄くなってみて初めて」いやいや頭髪だけでなく(笑)、脳やその他身体のその機能についてもまた「衰えを感じてみて初めて」、言うなれば「そっちの持たない側になって初めて」、思ったりしたわけである。


と、こうなると、逆側からも考えてみたい。

私がかろうじてまだ持っているもの?
(なんだろう??)

――例えば、健康な身体とか、かな?
(たぶん、自分は大雑把に言えば、かなり丈夫なほうである。)

「自分が健康(なほう)である」というそれだけで、
――もうこれは「自ずと」。
どこか不健康な人を「無意識的に」見下したりしているような??
(意識的にそれをすることはないけどさ!絶っっっ対にない!!
けれども、今回のポイントは「無意識・心の奥底のどこかで」ということ。

何なら自分は、見た目からいかにも丈夫そうで、平均よりかは、背も高くて身体もガッチリしているほうかもしれない。
――これもまた、どこか無意識下、心の奥の奥のほうで。
自分より小柄な人や華奢な人を、「無意識的に」どこかでほんのりと見下してないかな??
(これもまたそれを態度に出すことなんて、もってのほか、自分のプライドに賭けてもンなことは絶対にしない!とは思ってはいるんだけれども……。)

いや、誤解のないように。
「人を見下す」ようなもの言いとか態度とか自体、ハッキリと、自分の中では、「無様」で「どうみてもカッコ悪いこと」で「みっともないこと」であると、そっち側に分類はできているから、その結果として「絶対そうなりたくない・したくない」と自分では自ずと意識できてもいるし、で、その意識の通りに日々実践もできているとは思うのだ。


でも、その胸のうちのどこかにでも(それが「そこはかとなく」「微かに」あるいは「完全無意識下で」だとしても)抱いているものというのは、実は「滲み出る」ような形で、そう、それはまるで目に見えぬ「匂い」のように、その人の周囲に漂うものだったりもするのである。
――それがたとえ微量でも、「漂う」類いのものというのは、「漂う」ことにかわりはないのだ。
そして、ましてやそれが「独特の匂い」なら、特にそれを気にしている・厭う人にとっては殊更、敏感に感じられてしまうものではないですか。


で、「匂い」とまではいかなくても。

歳をとると、その人のそういう「心根」みたいなものってのも、どうしても、なんとなーく、近くにただいるだけでも、「察知」できるようになってきたりしてしまうものなのよね。
(こんな能力は、なんともいやはや、うれしいような?……ん~?いや、そんなにうれしくないような??笑)




「優越感」って、何だか、(誰かから奪い取ったわけでなくても何故か)卑しい匂いを発したりもする。
「生まれもって得ているだけ」なら尚更だが、「その人が自分の努力の結果得たもの」についての「優越感」であっても、それですらも、ちょっと、そんな「臭気みたいなもの」の類いは、否応なく出てしまうところがあるかもしれない。


――ま、とはいえ、そうなのである。
「その匂い」が好きな人たちも世の中には確実にいるにはいるのである。

けれど、私は「その匂い」の類を、そこはかとなくならまだしも、あまりにも自分から強く発している人は、多分苦手なのだ、と、思う。(笑)

そうそう、これもまた、
若い時分は、そういう匂いに「惹きつけられる」自分もまた、どこかにいたのかもしれない、
けど……でも、歳をとって、ハッキリ「そういう匂いについて、自覚的であり、自分でも制しようと意識できる人」のほうが、人として深みが感じられ、魅力的にも思えるし、また親しみを持ちやすいともなってきたかな?と。



そして、もちろん、
自らそれを発することで、その人が持つ「その他のコンプレックス」を覆い隠そうとしている、あくまでその「手段」に過ぎないということも多いのかもしれないし、
そもそも「優越感」を持つこと自体、悪いことをしているわけでもないのだ。

が……しかしそれでも。

「それを隠さないこと」は、正直である、とも、とれるけれど。
でも「ありありとしているソレ」は、私は、ただただ苦手ではあるんだろうなあ。
(ま、所詮、※個人の感想です。笑)


「優越感」――無意識に生まれてしまうものまでは、だって仕方ないじゃない?そもそも人間って誰もがそういうものじゃない?
という考え方もまた頷けもするし、事実、(やはりこれもまた私個人の考えとしてはだが)実際、それは仕方ないものともまた思えたりもするのだが、
しかし、ま、「持っているだけで、そういう匂いを自ずと発していることがあるんだよ」という意識があるだけで、ちょっとその「匂い」の「クセの強さ」くらいは、抑えられる気もまたしないでもない。




今回、ここまでは、「脳の機能」とかあるいは「外見的なこと」とかを例に挙げてきたけれど。

これは「富」「豊かさ」然りだし。

場合によっては「属するのが多数派なのか少数派なのか」ということもあるだろうし。

あと、「男女差」とか?
――もちろん「意識上」の私(おっさん)は、「絶対的に、男女は平等であるべき!それが正しい!」と完全に思ってはいるのだけれど、だからこそ「でもそんな自分だからこそ気づきにくくなってしまう」側面もまた発生してしまう感もあり。

つまりそれは、意識が届かなくなる「無意識下」で生まれやすい、ということで。
――(そうでなくても「図体がデカい」自分でもあることから)その「優越感」を、知らず知らず「享受」している自分が、どこかにいるような気がする。
(例えば、「ひと気のない夜道に立っている、それだけで威圧感」みたいなことって、立っている本人に悪気が一切そこにない分、自分では気づきにくいことなんですよね。)


そういや、この流れでまた、ふと思い出す。

例えば。

我々の国、今、経済的国力も衰えてきて、ちょっと「惨めな気持ち」になったりしていません?

ニュース映像なんかで、訪日観光客の皆さんが、「安い安い!」って言って、日本の(住んでいる私達からするとそんなに安くはない)商品を買い漁っているのを見て、ちょっと「屈辱的」な気持ちになったりしていません??
(本来なら「毎度あり!」と、「ただただ純粋にとっても感謝すべきこと」のはず……なんだけどねぇ?
だって他所ではなく我々の住むトコにわざわざお金を落としていってくださっているのだからさ。)


あからさまな言い方をすれば「貧富の差」の、その「貧」のほうに、これまでから立ち位置が移り変わっただけのことなんだけど。

途端、なんでこんな「踏みつけにされている」ような気になるんでしょうね??
(それも勝手に。――実際、物理的に踏まれているわけでもなかろうにね。)


てか、私達、悪気なく、意識せずとも、これまでは他人様のことを知らないうちに「踏んでいた」――「そっち側に立っていた」のかもしれないですよね??
(「物理的に」ではなくても「精神的に」。)

――「知らないうちに」「悪気なく」って、かえってそっちはそっちで「厄介」かもしれないですよね???


「他人様より多く持っている、それだけで、既に傲慢」
ということを、私も歳をとってきて、そろそろ感じてもいい頃なのだろうなあ?
(とはいえ、若いうちには、そんなことを感じなくてもいいのかも?
「若い!それだけでお前ら傲慢だ!」ってこうなると私が今立っているこちら側から叫んでみるのも、むしろよい感じです。笑)


――いや~、進行する薄毛から、こんなことを感じるなんて。(笑)

「失って、初めて(こんなことにまで)気づける」
ならば、失うことも悪くないですね??
(と、思いたい。笑)


余談。

※ホントはこの記事、もうちょっと、いや、かなり書き足したいのだが、するとまたもや「大長文記事」ができあがってしまう気配がするので、ここで一回止めてみます。(「学習能力」をようやく発揮。笑)

※ここから先は、もう少し熟考(「少しだけ熟考する」ってどういう状態よ??笑)してから書きたい、というのもある。

※そして、「テーマを深く掘ること」と、「入りやすさ・手に取りやすさ・読み切りやすさ」等々とを、記事掲出にあたってどちらをとるべきなのかは、毎度毎度、悩ましい問題です。
(どちらもとれれば、そりゃあ言うことなしなのだが……私の文章構成力では難しいっす!笑)


《2024年10月29日 追記》

今回は特に、
記事を読んでくださった皆様からいただくコメントが面白いので、
よろしければ是非、コメント欄もご覧いただければと思います!