『ひとり上手』-一人でも面白がって生きていく-
♪ひとり上手と呼ばないで
ですって?
いいえ、
「ひとり上手」と
呼んでください。(笑)
このnoteを作成するにあたって、
元々は、
何か大きな統一テーマを
設けようかな?と
考えていた時もあったのであります。
私のnoteの「マガジン」の
ラインナップを見てもらうと、
その候補の名残が
そのまま判るかもしれない。
他にも、
長時間散歩(旅とか含め)レポートに特化したnote
とか、
喫茶店レポートに特化したnote
とか、
今暮らす街の紹介に特化したnote
とか
いろいろ考えておりました。
(そこら辺は結局
今のところあまり書いていないので、
「毎日note」をやめたら
そのうち書くようになるかも?です。)
いや、いまだに
複数アカウント作ってでも、
記事内容は
バラけさせないほうがいいのかもな?
なんてことも思うんです。
割と思った以上に
読みに来てくださる方の割合が
「常連さん」が多いので
(いつも本っっ当~に、
ありがとうございます!!!)
そうすると、例えば
一昨日の「知世記事」など(笑)、
いつもの記事の方向性と
ポンと違ったりするものを入れたりすると、
せっかく寄ってくださったのに
ガッカリさせてしまったりもするだろうか、
なんてことも考えたり。
(なので、なるべくタイトルだけで、
記事内容の想像がつくように、
あるいは、
その想像を大きくは裏切らないように、
と、するようにはしております!)
しかし、結果的には
あっちこっち分けて作りたくなくて
結構「雑多な」感じの、
(自分本位の、笑)
我がnoteページになってしまっております。
(スミマセン!笑)
で、統一テーマの候補で、
割と最後まで「そうしようかな」と
考えていたものがあって、
それが、
「一人でも楽しく生きている」
というテーマでした。
――と、いいつつ
縛られるとやはり自分で
書きにくくなる気がするので、
これもまた
今のところ不採用ではありますが。(笑)
*
とにかく何でもやたらと、(笑)
「上機嫌なほうへ、上機嫌なほうへ」
と、
意識的にでももっていきたいと考えている、
この頃の自分なわけですが。
樹木希林さんが
「何でも面白がればいい」
というようなことを生前よく仰っていて、
まあ、そうだよなあ、と
しみじみ頷いたりもするわけです。
俯瞰の視点で見ると、
「すべて」を面白がれる、と、
私も実感としてそれは思う。
そして、
それがいつか「楽しい」に変わる時、
自然と、「能動的な力」が、
自分の内側から湧いてくる気もする。
――「がんばり」で
絞り出し捻り出しする力を、
否定はしないのだけれど、
やっぱりそれって、
どこか「自然に湧いてくる力」に
敵わないところがあるんですよね。
だからこそ
「面白い」「楽しい」という感覚は
大事であります。
負の要素ももちろん
「面白がる」ができたらいいし。
(たぶん、希林さんは、
そのことを主に言っていたのだと思うが。)
あとは、
フツーの、当たり前の
「繰り返しの日常」なんかも。
衣・食・住、
当たり前になっているすべてが
俯瞰で見ると、
当たり前ではないし。
改めて、生活のすべての部位が、
面白がれば、たぶん、
楽しくもなってくるのではないかと思われ。
「面白がろう」「楽しもう」を
意識的に表出させてみると、
生活に差す色もまた
変わってくるだろうし、
同じ生活が
変わって見えてもくるだろうなあ、と。
で、「面白い」「楽しい」は
自然とその人に
「集中力」を生じさせるので、
「余計なこと」に
気をとられなくてすむ。
言い換えると
「面白くも楽しくもない」ことは
「余計なこと」なので、
意識から排除するか、
そうでなければ
(またはそれができない場合には)
「面白がれる」ように
視点を変えるのがいい、
ということなのでしょう。
*
私は元々、
「人見知り」な上に、
「独り耐性」も相当強いので、
あまり寂しいと感じることもないし、
何なら(強がりではなく)
一人のほうが楽しいくらいだったりします。(笑)
『一人きりで泣けても
一人きりで笑うことはできない』
なんて歌詞もありますが、
いいえ、
私は一人でもニヤニヤ笑ってます。
(良い子はマネしないでね!笑)
「平穏に暮らしていること」
これ自体が奇跡と言えば、奇跡だし。
(そうじゃない人もいるわけだから。)
既に「当たり前」になってはいるけど、
この現在のフツーの日々は、
もしかすると、
フツーであるからこそ、
楽しいんではないかな?
と、意識すると気づくところも
あるわけです。
美味しいものを食べたり、
着るものを工夫したり、
洗剤やら歯ブラシやら
生活必需品だって、
お気に入りを
(といってもどれもスーパーにあるものですが)
常々数あるものの中から選んでいるし。
読んだり聴いたり観たりと
鑑賞も何かしらしているだろうし。
(本もテレビもラジオもインターネットも
生活の中に出てこない人は
ほとんどいないですよね??)
――日常的に行っているすべて
「当たり前」になっているけど、
意識してみると
楽しんでいることばかりだと思う。
*
まあ、それでも、
かなしいことや
さみしいことは
やって来ないわけはなく。
しかし、
純粋なかなしさやさみしさは、
それはそれで、
じっと目を凝らして見たり、
じっと研ぎ澄ませて感じれば、
透明度が高く、
いずれ、
美しいものにも変わっていく。
――たぶん、
それらが濁って感じられる時、
それを濁らせているのは、
かなしさやさみしさではなくて、
そこに混ざってしまいやすい感情
――怒りだったり恨みだったり
執着だったり
そういうものなのではないかと思います。
そして、
透明度が高い
かなしさとかさみしさとか
そういったものは、
(特に私みたいな性格の者は)
一人でいないと見つめにくかったりします。
静寂が、必要だったりするからです。
かなしさや、さみしさを知らない
そんな人生は
それはそれでよいものだと思いますが、
でも、
それを知っている人生のほうを
私は選ぶかなあ、と、
今では、不思議と、
思えていたりします。
*
インターネットを見ている時って
だいたい、ほとんどの人が、
一人でいることが
圧倒的に多いですよね?
と、いうことは、
今この文章を読んでくださっている
あなた様も、
きっと一人でこれを
読んでいる可能性が高い。
まあ、誰かといても、
そうして一人でいるし、
一人で暮らしていても、
よっぽど電気もない山奥での
仙人みたいな暮らしでなければ、
誰かしら人が
生活の中に存在している。
(たとえば、今、
「ここ」に私「時澤言森」がいるように、です。)
「一人で暮らす」も
「誰かと暮らす」も、
究極的に一人ではないし、
逆に、
究極的に常に誰かといられるわけでもない。
それを踏まえた上でいえることは。
一人でも楽しい、と
「一人でいること」を肯定できれば、
即ちこれ、最強、ということです。
既に誰かと生活を一にしている方は
ここから先、
二通りに分かれるかもしれません。
→「それなら自分は、
二人以上でいるから、なおさら大丈夫。」
あるいは
→「いざとなったら、
一人でも楽しいわけだから、大丈夫。」
つまるところ、
一度、「一人でも問題なし」と
「自己完結」をしておけば、
この先何がどうなっても、大丈夫。
何だかそういう意味での
自分の「礎」みたいなものにもしたくて、
そんなことを統一テーマにして
書き綴るのも悪くないのか、なんて
思っていたところもあるので、
そのうちまた、ちょいちょい
そういうことも書くかもしれません。