見出し画像

花のように、自由。

一度根を下ろしてしまえば、咲く場所を自分で選べるわけでもなかろうに。

それにしても、花とは、なんと「自由」なものだろう。

そして。

花と一口に言っても、色も形も大きさも、その種類は様々で。

なのに。

いずれの花も
「もれなく・一様に・それぞれが」美しい。


水辺の花が、高木の枝に咲く花を妬んでいるようにも見えないし、
一輪きりでただただ伸びていく向日葵が、皆で野に咲く一面のラベンダーたちをうらやんでいるようにも見えない。


蕾の花もまた美しく、
枯れていく花もまた美しい。

花こそが、一瞬一瞬ごとのその「刹那」を、楽しんでいるようにもまた見える。


さげすむ様に咲く花を見たことがないし、
ひがむ様に咲く花を見たこともまたない。

花が何者かを蔑む、花が自分を僻む――そう見えたとしたら、それは「自分の心」が、勝手に解釈してそこに映っていただけだろうな。(笑)


「花」を、「花として」、ただただ眺めれば。

「ああ、自由だなあ」と思う。
「美しいなあ」とも、また思う。

「心が洗われるようだ」とはこのことだ、とも、しみじみ思う。

風に吹かれていても、雨に打たれていても、
はじめから、
「解放されている」のだ。


――それに比べて、
「人間サマ」である、私はどうだろう。

ちょっとした梯子を使って上の位置から人を見下ろしただけで、悦にいるような、そんな卑しさは然ることながら。
ちょっと踏まれたくらいで、一瞬にして、自ら花を散らし葉を枯らし茎を折り曲げて根を腐らせる、その弱さもまた、いただけない。

他者からの悪意には、絡めとられて身動き一つとれなくなる、
その割に、
自己満足の追求に追い立てられては、根を張るべき場所でも、いつまでも浮足立っている。

「不自由」である。

――肉体的・物理的にはともかく、精神的にここまで「その浅さ故に不自由」なのは、如何ともしがたい。

「美しくないなあ」と、我ながら、あらためて思ってしまう。



花が我々に語りかける時、花は、誰かのふりをしない。

花は「自分自身の言語」で――「共通ではない共通言語」で、私達に語りかけるだけである。

蓮華は蓮華、紫陽花は紫陽花、秋桜は秋桜、椿は椿。
—―それぞれ好みはあってもいい、
が、しかし、
秋桜が春先の風の中に揺れたいと願っても、椿が真夏の日差しのもとに花開こうと試みても、徒らで由なしで、それは何というか、どこまでも「不自由」とも思える。
(つまり、意図した「狂い咲き」は、もやは「狂い」咲きではないから、そこに興は感じられない。)


あらためて、
「自由でありたいなあ」
と、私は思う。

「自らによる」と書いて、「自由」。

――自由であればこそ、はじめて、「自分」になれる。

冬の花が、
「夏の朝顔より私は美しい」だの
「春の夜桜より私は劣っている」だの
「秋の日暮れ時の彼岸花より私は豊かだ」だの、
そんなことを言い出したら、
ただただ「興ざめだ」としか思えないし、
比べること自体、
「荒れているなあ、どうしたの?」
とすらも何なら感じるかもしれない。


ただただ、咲いているだけ、それだけで、「とってもいい!」のになあ。

「ただの人として、そこにそうしている」
それだけでも、
一つの、自ら発せられる「光」に、温かさを携える「灯」に、なっているのになあ。


人と比べ続けては落ち込むことを延々と繰り返したり、人と諍い続けてはその報復を今か今かと恐れたり、人を欺き続けてはその制裁に今度こそはと怯え続けたり。
必要以上に—―何なら終わることなく、
わざわざ、
競い合い続け、奪い合い続け、(自分自身に対してをも含めて)欺き合い続け。

自らの世界を、飽くることなく、縛り続け。

「何故、あえてその道を選ぶのか」
と、考えるに、
――いや、改めて考えれば考えるほど、
――考えても考えても、
「人間ほど愚かしい生物もまたいないのかもな?」
なんて結論に至ってしまう。


今時、「心安らか」なら、それが何よりじゃないか。
それだけで、よくないか??と。

何故、自分からそれを壊しにいくかのように、
「更なる余計なこと」をわざわざ考えて、
「更なる不要なもの」をわざわざ集めようとするのか。

どうかしている。

と、
路傍の花を眺めて、ふと我に返る。


一輪の、花のように。

私も、自由になりたいものだ。


↑前回の記事が、少しカタく難しくなってしまった気もしたので、「眉間のしわを伸ばしてから」(笑)、やわらか目に書き直してみました。

言いたいことはどちらも、突き詰めると、おんなじことです。