何故人の脚を踏んではいけないのか
『何故人の脚を踏んではいけないのか』
このタイトルの答えは、当然ながら『人の厭がることをしてはいけないから』なのだが。
では何故、『人の厭がることをしてはいけないのか』。
――「学級会」や「道徳の時間」めいた「模範解答」を、私はここに書くつもりはない。
(どーせそんな「もっともらしいこと」言ったって今どきは「エラそーなこと言って鼻持ちならない奴だ」「ウザいんですけど」「うるせーよ」って目の前でビリビリに破り捨てられるのがオチなんでしょ?うん、知ってる♡笑)
私はケチだし、ある意味「自分さえよければいい人間」だし、なので正直に言えば「人の痛みなんか、知ったこっちゃない」わけである。
まず、大前提として。
「人の脚を踏まなければ、自分自身が生きてはいけない」のなら、容赦なく、老人や子供や、自分より弱い立場の人のその脚さえ、私は踏んでしまうかもしれない。
――私は「自分を犠牲にしてでも人を助けよう」なんて気は、さらさらない人間なのだ。
(って言っても実際はそりゃまあ「知っている人や近いところにいる人をわざわざ選んでその脚を目に見えるように踏む」なんてことは、私だって人目も気になるし自ずと避けますが――しかし、これはあくまで「ごく一例」でしかないけれど、「よその国の、自分が顔も知らない、今後知ることもないであろう貧困にあえぐ人々の脚」は、既に私自身は「気づかぬふりして、今、踏んでいて、その上で自分の生活が成り立っている部分がある」と思っています。
――繰り返しますが、「これはあくまで一例にしか過ぎません」。)
(話を戻します。)
それでも、
もう一つだけ、視点を加えてもいいならば。
「そこに踏む必要性がないのなら、あえて、踏まないようにしたい。(物理的にはもちろん、精神的にも。)」
ということもまた、私の中には確実にあったりする。
私は別に「自分の掌の上に余るほどの多くのもの」を欲しいわけではないのである。
(無論これもまた、物理的なものは言うまでもなく、精神的なものも指している。)
何故なら、私は「無駄が嫌い」つまり「ケチ」だから。
「自分の両手には乗り切らないような多量のもの」はいらない。
――「あれもこれも」と「多すぎるもの」を手に入れたところで、手の中からボロボロと「ムダに」溢しながら(一瞬だけその「ご満悦」的な気分に興じても、概してそれは一瞬だけのことでしかなく)結局のところその多くは、やはり「ムダでしかないムダ」「ムダ・オヴ・ムダ」「ムダ!ムダ!ムダ!」になるからだ。
(手が塞がっている分、本当に必要なものが来た時、それを掴めないという弊害も結構ある――けど、そっちまで広げちゃうとまた長くなりそうだから、その話は改めていつか。笑)
繰り返すが。
私は「ケチ」なので。(わかってます、三回目ですね。)
とにかく「無駄」が嫌いなのだ。(これも三回目。笑)
「特にその必要もないのに、人の足を踏む」と、その人のほうのエネルギーをムダに消耗させることになる。
で、その「奪ったエネルギー」が、それでもそのままキッチリその分、どこかの何かに有効活用されるのならいいのだが、そうなるのかといえば案外そのようにはならない。
――概して、その「ムダになったエネルギー」は、ゆくゆくは虚空の闇に吸収されるだけのことも多い。(そう、そっちのほうが多い気がする。)
――こうして、また「私の暮らす世界」は、削られていくばかりだ。
(私なんて、「この現世」の中でしか暮らしていけないのにね。)
もし仮に。
「でも、少なくともそれで私の気はおさまるのよ」なんてことがあったとしても。
さて、はたして、そこで他者からの「恨まれ」(場合によっては理不尽なものもそこには含まれるがそれもまたよくある「恨まれ」のカタチであるしそもそも「恨まれ」とはそういう性質のものなのだ)が発生している分、ホントにそれは長い目で見て、自分にとって「おさまる」状況になっているのか?ということもまずあるし。
そして、
「人から奪う」
→「自分の懐に入れる」
→「ハイ、おしまい」
これでは、ここに(「悪いもの」のほうはともかく)「よいもの」のほうのその「循環」は、何も生まれないのである。
――「循環」させていかなければ、「有限」な世界では、その先どうなるか。
ね?
「よいもの」――これは「富」に喩えてもいいし、「良い気分」「機嫌」みたいなものに喩えてもいいと思う。
(つまり、有形無形とわず、いろんなものがここには含まれる。)
動物は、栄養をはじめとする諸々を、自分の懐に入れ続けていなければ生きてはいけないものである。
(植物だったらまだ、空気と水と光だけでも、それを基に自分の生きていく分のそのためのエネルギーを「自家発電」して、いくらでも生きていけるのにね。――動物のほうは、そうした「自家発電」をして生きていけない以上、必ず他生物から「奪う」ことはしていかなければならないのである。)
だからよそ様から「奪う」「奪いたい」は、動物の習性とも、ある意味ではいえるのかもしれない。
しかし、
「循環」させずに「ハイ、おしまい」だけ、そればっかりをし続けていれば、その先、どういう結末が待ちうけているか、(人間なら)誰でもそれは想像でき得ることなのではないだろうか。
自然の摂理に従っていれば、人間以外の動物ならば、その「自然の摂理全体」までゆくゆくぶっ壊していくことには、あまり至らないんでしょうけど。
唯一、人間という動物だけは、そこを「ぶっ壊すところまでなら」――それをできるほどの小賢しさ「までなら」――持ってしまっているのよねえ。(笑)
だからこそ、「人間ならば、」想像をせねばならない、ともいえるわけである。
(だって、我々人間には、その機能が備わってあるんだから。
――「想像力」って、もしかしたら、そのためにこそあるんじゃないの?)
「この世」とは、「有限」の世界である。
それなのに「何かしらを返すつもり」すらもないのなら、そもそも「奪って奪って奪いっぱなし」ではいけないのではないか。
――習性として自ずと「奪おう」としてしまう(そのうえ人間の習性なのかそういうのを「ついやり過ぎる」)ものなのだから、それについて少なくとも意識的にブレーキを踏み、「無駄には奪わないようにしよう」と、我々はしないといけないのではないか。
それは他者のためではない。
そのうち、「自分の吸う空気や水」(これは「ものの喩え」も含みます)が、きっと涸渇してくるからだ。
だから、私自身は、まあ、
「他者の痛みなんて知ったこっちゃない」のだけど、
せめて「ムダには脚を踏まない意識」を持ちたいし、
踏んだのなら、あるいは、今踏んでしまっているのなら、
「踏んでいること」自体に
せめて気づける自分でありたい。
繰り返すがこれは、別に他者のためではないのである。
私は「ケチ」で「無駄が嫌い」なので。(だから何度目だ!笑)
これは、めぐりめぐって「自分のため」なのである。
以上、
「自分のこと第一主義」のワタクシめが、ここまで書いたことを踏まえてみるに。
「やさしさ」や「他者への配慮」といったものだって、(「奪い合いが基本的ルール」のこの生物世界においてですら)人間の本能に(本来ならば
)組み込まれていておかしくないものなのでは?とも思う。
――それは巡り巡って、それらが(他者というより)自分のために(も)なるものだ、と結論できるからだ。
人間は、太古の昔より、独りでは生きていけない(いきにくい)生物だ。(野生動物に比べたら、ホント、最弱なんじゃないかと思うくらい――だって、一対一の素っ裸勝負だったら、なかなか勝てる相手の動物、いないんじゃない??笑)
そのことから、集団を形成しようとする性質を持つ以上、「個々体としてはもとより、形成している集団としてもまた生き残っていく」という術(としての仲間に対する「やさしさ」や「配慮」)も、人間のその本能内に組み込まれていても、おかしくはないはずなのだ。
かといって。
「集団至上主義」――「集団のために、個々体としての命や健康を差し出す(進んで自ら差し出すのも、他の個体に差し出させるのも)ようなこと」という「自己犠牲(を自他共に強要する)精神」もまた、ある種の「バグ」「機能的エラー」のような気もする。
と、いうか。
理由や原因がどんなものからであれ。
こういった「犠牲を強いられる、またはそれに類する経験」のような「バグ」「エラー」が積み重なり、個々の人間が本来なら持っていたはずの「やさしさ」や「親切心」「他者への配慮」などの「正常な機能」が、次々破壊されていった、ともまた考えられる気もする。(いかがだろうか?)
「個体としての自らが、何かの犠牲になる」ということ――「力をもってして他者から奪われた」記憶や「不躾に他者から踏まれた」記憶を重ねていけば、それらを「自分もそれに則って生きていくしかない」という「ルール」あるいは「習性」として、学習・習得してしまっても、おかしくないわけだから。
また、
(自主的なものも含めて)「犠牲」を許容する世界は、「だからみんなも、これまでの私と同じく、次は犠牲になってねっ!」というメッセージを含まざるを得ない世界でもある。
そんなこんなの「負の連鎖」ともいえる風景を目の当たりにし続けているような気分にさせられる、昨今のこの「世界」状況であるが。
「ムダに・延々と・かわりばんこに」殺戮し合ったり、奪い取ったり、弱者から食い物にしていったり、
と、
「人間にとっての天敵・害虫は、人間自身」
であるかのようで、
これははたまた、人類にとっての、
「ゆるやかな集団自殺」にもみえなくはない。
話が始めに戻るが。
だから、少なくとも私自身は。
「そこに踏む必要性がないのなら、あえて、人の脚は踏まないようにしたい」し、
そして
「もし、脚を踏んでしまっているのなら、せめて踏んでいる事実に気づくくらいのことはしたい」
とも思う。
踏まれている人側の「痛い」という声が聞こえているのか、聞こえていないのか。
聞こうとしているのか、聞こうとすらしていないのか。
この二つの差は、かなり大きい。
「聞こえているだけじゃ意味ない」「聞こうとしているお気持ちだけじゃ仕方ない」とは、私には思えない。
何故なら、人というのは、自分が踏まれていることにはすぐに気づけるが、踏んでいる側にいる時には、必ずしも気づけないものだからだ。
そして、「踏んでもいい」世界は、「踏まれても仕方ない」世界でもあることを、自覚するべきだ。
その自覚もないまま、
「踏んでいることには気づかず、踏まれていることにだけは気づく」
となると、
『「私は踏まれ続けている」と「皆、誰もが」思っている世界』
の一丁あがり!になるからである。
(ちょっとした「地獄絵図」。)
そして、
私の世界は、「私が認識している世界」でしかない、とも言えるわけで、
「この世界のバグとエラー」は、まず私自身の中にあるのである。
――つまり、デバッグ・修正すべきは、真っ先に、「私自身の中」にまずはありそうだ。
『世界は今、自分の首を、自分の手で、緩やかに、でも、確実に、締め始めている』
というのは、誰もが感じる――いや、
まず、私自身が感じているところでもあるからして。
「バグ」が増え続け、「システムエラー」が生まれ続けているのは、そう、間違いなく、
まずは「私という人間」自身の中身の話なのである。
そして、その上で、基本的なところに話を戻すが。
「人の脚を踏んでいるなら、せめてその事実に気づくくらいのことはしないといけない」
のは、
「がっこうのどうとくのじかん」じゃあるまいし、別に道義的・人道的観点から言っているわけではないのだ。
「私の脚を踏んでいることに気づかないなら、気づかせてやりたい」
あるいは
「力にものを言わせて奪う気なら、こちらも力で奪い返してやる」
それがダメとなれば次は
「皆に私と同じ痛みを味わわせてやる」
「全員を道連れにしてやる」
といった、恨みつらみが基本概念の世界になっていくからだ。
(事実、もう既になっている部分は大いにある気もする……。)
(これじゃあ「集団自殺」どころか「ゆるやかな無理心中」になってしまうよ。)
ついつい、これまでの記事で述べたことと同じことをまた言ってしまうが。
「地獄を作るのは、他でもない、人間自身だ」
「鬼は、人間が姿を変えたカタチだ」
と、私は思う。
――私は「いい人」になろうなんて気はさらさらないし、なれないとも思う。
が。
「やさしさ」
「親切」
「配慮」
といった、
「地獄に在ってはならないもの」
をなるべくこじんまりとでも自分の前に並べていくしか、「そういう世界」から逃れる術はない気もまたしている。
(もうそれらは「自分の内側にはなくてもいい」し、何なら「これみよがしでもいい」気すらしています。笑)
(「偽善」?――ニセモノでもホンモノでも、善は善でしょ?要は「私の魔除けになるか、ならないか」なので、あんまりそこにこだわりはありません。笑)
(あ、でも、先に述べたことを繰り返しますが、「自己犠牲」なんてものはそれはそれでまた「地獄の入り口」ですから、それから派生した「やさしさ」「親切」「配慮」ならば、むしろいらないと思います。笑)
というかさあ。
一個人でできる「地獄絵図からの包囲網」なんて、せいぜいそれくらいが限界じゃないですかね?
(でも、「せめて自分は地獄絵図から逃れたいし、それをこの世界では観たくない」と、「誰もが皆」思いさえすれば、「地獄絵図」は発生しようがない、とも言えるんだよなあ。)
(だって現世でのそれは、確実に我々人間が作っているんだから。
――神様だって「知らねーよ、お前らでどうにかしろw」だよね。)
(「人のため」なんて純粋なものじゃなくていいの。
「自分のため」でいいし、何ならそれは「これみよがし」の「偽善」だってかまわない。
物理的にも精神的にも
「人の脚をできれば踏まない・なるべくなら踏みたくない」
という意識を持つだけ、ただそれだけで、人類はきっと、もう少し、生きのびることができる気がするんだけどなあ。
――「そういう意識」が何かしらそこかしこに確認できる場所には、やっぱり、「地獄」とか「鬼」とかは、発生しにくいと思うから。)