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享楽的だろうと刹那主義だろうと

享楽的と言われようが、
刹那主義と言われようが、
そんなのどうでもいい。

今現在、
何を見ても笑えないなんてなるのは
まずなんとしても避けようと思うし、
今現在、
何をやっても楽しく感じられないなんてなるのもまた
まずなんとしても避けようと思う。

そのためだったら、自分は、
一回、未来すら捨ててもかまわないような気がしている。

それでいいと思っている。

だって、「未来」とは、
ある時いきなり始まるものではないのだ。
「今現在」立っているこの道の先に、必ずあるものなのだから。

自分の「今現在」を、
とにかく今、自分で守れ、と思う。

――時々、何故だろう、
「自分の」今現在なのに、
それが怖くて、あるいは気が重くて、面倒に感じられて、
後回しにしようとしたりして、――つまりそれは
自らの「今現在」から、
目をそらしたり、逃げ出したりしてしまうことなのだけれど。

自分というものは、自分というものにもかかわらず、
案外簡単に、あるいは人に盗まれたりもする。
そして、盗まれているのに、
ずーっとそのまま、気づかなかったりもする。

言っておくが、
「今」という時間は、
「今現在の自分」は、
盗まれたら、二度と返されることはない。


だから、
享楽的と言われようと、
刹那主義と言われようと、
そんな他人の感覚も批判も気にしない。

「私の人生」の責任者は「私自身」なのである。

「今現在の自分」を、
とにかくまず自分が守ってやろうとしなくて
どうするのだ?と私は思う。