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雪解けした夏の日。

買い物してくる、と街へ出かけた夫が夕方帰ってきたので「なんか良いもの買えた?」と聞く。
「いや、自分のはピンとこなかった」
「そっか」
「自分のは買わなかったけど、娘に誕生日プレゼント買ってきた」

文字にするとなんてことない会話なんだが、私の思考はピタッと一時停止した。

ムスメニタンジョウビプレゼントカッテキタ。
…って言った?
ほんとうに言った? 
言ったよね?
停止した頭が、徐々に騒がしくなってくる。
急にどうした!
もしや明日は雪でも降るのか! この真夏に!

努めて平静を装いつつ、私の脳内はてんやわんや。と同時に、じわじわ喜びが滲み出てくるのもわかった。なんなら、少し泣きそうな気持ちがわいてくる。

娘と夫の仲がこんなに悪化したのはいつからだったろう。
間違いなく義母の他界は影響している。娘の支えであり、夫のことも優しく諌めてくれていたあたたかい義母がいなくなってもう4年経つ。

順調に反抗期を迎えた娘と、男兄弟しかいない夫は些細なことで衝突が増えていった。
幼い頃は怒鳴れば黙った娘だけど、中学生ともなればそうはいかない。頭ごなしに言ったって解決しないのに、夫はその辺りが上手じゃなかった。

ある日、言い合いが悪化したとき。
「お前の面倒はもうみたくない」と夫が投げつけ、娘も反射的にこう返してしまった。
「お父さんに面倒みてもらわなくてもいい」
これが決定的に溝を深めた。

この日から夫は娘の存在を無視するようになってしまった。

おはよう、おやすみ、の基本的な挨拶すらお互いにしない。
どちらかが洗面台を使っていたら近づかない。
一緒のテーブルにつかない。
家族で外食などの時、車に乗せはするけれど会話が生まれない。
夫は息子の方しか見なくなり、必然的に私が娘のフォローにまわることが増えた。
息子のことしか話さない夫。さりげなく娘の話題を振っても「あいつのことは知らん」と返されて会話は途切れてしまう。

これだけならまだ耐えられたけど、やがて夫は娘のものに触れることすらしなくなった。
洗濯物を娘の分だけ避けて畳む。
娘が使った食器だけ洗わないで放置。
面倒みないから自分でやれ、と言いたかったのだろう。
だけど娘もやるわけがない。基本は自分の部屋に籠りきりで、リビングやキッチンには最低限しか来なくなっていたから。
結局、私が家事を溜めないように全てやり切るしかなかった。

やがて高校受験の時が来た。
私学出身の私は「行きたい学校なら公立でも私学でも構わない」というスタンスだったが、公立の難関高出身の夫はそれを許さなかった。
「公立しか許さない」
「私学に行く金は出さない」
「普段から勉強してないから学校が選べなくなるんだ」
などと娘に言い放ち、彼女を余計に追い詰めた。

確かに娘の成績はちょうど真ん中くらいで、なんなら受験前は中の下くらいにやや低下していた。
だけど、そんな言い方しなくてもいいじゃないか。
大体、うちは共働きで年収もほぼ同じなんだから、お金の話は夫だけがするものじゃない。

もし、今ここで、私が事故かなにかで死んでしまったら。
娘のことは誰が守ってくれるんだろう。
唐突にそんな考えが過り、私の精神は限界を超えた。

ある夜、夫に話をした。
冷静に話そうとしたけれど、最後は泣いていた。
私たちは親なんだから。娘は勝手に生まれてきたわけじゃない、私たちが望んで来てくれた子どもなんだから。
最低限の面倒はみてほしい。私ひとりに全てやらせないでほしい、と。
夫の態度は多少緩和したものの、相変わらず洗濯物や食器は避けられていた。

やがて娘は無事に公立高校に合格した。
合格発表の時、お祝いにサーティーワンのバラエティパックを買ってきた夫に少し雪解けを期待したけれど、結局彼は卒業式にも入学式にも出なかった。
気持ち的に無理だから。たった一言、私のLINEにそう告げて、夫は家で寝ることを選んだ。

幼い頃は、あんなに仲が良かったのに。
思っても仕方ないことだけど、つい考えてしまう。
夫が娘を抱っこしたり、一緒にブランコに乗ったりする過去の写真を見つめては「この時のこと、もう忘れちゃったのかな…」と悲しくなる。
もうこのまま、娘が家を出るまで変わらないのかもしれない。
そんな風に悩む日々がずっと続いていた。

だからこそ、私の脳内は疑問符と感嘆符でしっちゃかめっちゃかなのだ。
娘に誕生日プレゼント買ってきた。
夫が。自発的に。
私は何も言わなかったし、もちろん娘も何もねだったりしていない。
内心パニックなどお構いなしに会話は続く。
「この色なんだけどさ…使ってくれると思う?」
購入した商品の写真を見せながら、やや自信なさそうに聞いてくる。
画面を覗くと、それはスマホと鍵などが入るショルダーバッグだった。
娘が欲しがっていたものだ。え、なんで欲しがってたの知ってるの? 会話ないのに。こわい。
イエローとブルーで迷ってさ。店でだいぶ考えたんだけど、イエローにしたんだよね。
こわがる私に気づくことなく、買い物について語る夫。
娘のために色を悩む夫…想像つかない…。
正直、娘が好む色はブルーだった。だけど、自分では選ばないだろう鮮やかなイエローは、夏生まれの彼女によく似合う。
「喜ぶとおもうよ」
そう返すのが精一杯だった。

プレゼントの包みは、車の中に置かれた。
娘は自分の座席に乗り込もうとして、椅子の上にあるリボンのかかった袋を見つける。
「わ! なんかある! プレゼント? これ誕生日!?」
そう言いながら私を見てくる娘に「私じゃないよ」と小声で告げて夫を指差した。
娘の目が一際大きくなる。そりゃそうだろう。
「おとーさん、買ってきてくれたの? ありがとう!」
中身を取り出した娘は予想以上に喜んだ。
わー! こーゆーの欲しかったんだよね!
色も綺麗!
めちゃくちゃ使うわ!
後ろの座席から聞こえる声に、夫は「サンタクロースだいぶ早く来たな」などと返している。

次の日の洗濯物は、娘の分も美しく畳まれていた。

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