Lessonで見失い listenで発見されるもの
知識、技法を身につける、個人として能力を高めて問題の解決をはかる 個人
という視点と
みんなで起きていることをみる、みんなの真ん中に現象を置く構図 を、起こす
という視点
おはようございます。
しっとり湿度のある朝です。
30回転職してきたわたし、つまり、30回は仕事を辞めているわたし。そんなわたしに
「問題が起きる→個人へ責任を帰す」
という視点は染み付いている。
これは、「知識、技法、を個人の能力に帰す」ことと裏表にある。
働く場では、この構図はさまざまに入り込んでいる。ほとんど無意識であるほどに。
この視点に立って問題を考えると、個人の責任にしかならない。
30回転職している、仕事を辞める時というのは、わたしなりにいろんな理由がある。
上司が怖い、シフトがキツい、苦手な人がいる、仕事量が多い、理由としてあげようと思えばいくらでもあげられる。
実のところ、ほんとうは、これら「起きている現象」を説明できない状況こそが、辞めるに至る最も大きな要素だと振り返ってみて思う。
説明できる気がしない時、他者を説得できる気がしない時、無力感に孤立し、「自分で頑張る」が発生する。そして、頑張れる範囲を使い尽くす。
手がなくなるのだ、次の一歩を踏み出す。
職場という集団の、「集団の輪っか」から外れることは、とてもこわいことだった。わたしにとって。「生きていけない」と思えていたくらいに。
「その場に居続けることができない」わたしにとって、働くとは「居続けなければならないこと」で、集団の輪っかと同化しようとする指向を呼び込む。
「居られない」から、「居ようとする」のだ。
実のところ、ほんとうは、これら「起きている現象」を説明できない状況こそが、辞めるに至る最も大きな要素だと思う。
聞く耳、というのは、どういうものだろう。
もし、わたしに起きている現象「その場に居られない」を、聞く耳があったなら、わたしはどのようだったろう。
けっして、
知識、技法を身につける、個人として能力を高めて問題の解決をはかる 個人
の視点ではわたしに起きている現象を「聞く」ことはできないように思える。
起きた問題→なにが起きたか現象をみる
有機的自律運動のはたらきからみると、個人に成果や失敗の要因を帰すことがナンセンスだとわかる。
個体と環境があるとき、有機的自律運動は折り合いポイントに向けてはたらく。
もし、有機的自律運動に視点を置いて、話ができたなら。そんな場があったなら。
聞ける構図があって、叶うことのような気がする。
聞く、とは
耳でのみ聞くにあらず
聞く、とは
拾うことでもある
耳、目、皮膚、固体に備わっている受容体のすべてが刺激の素を拾える可能性を持っている
刺激の素が受容体と接して粒になる
粒になってつながり線になったら、建設的な話ではなくてもかまわない
なにか、どんな感じか、どんな現象が起きているか
交わすことはできないだろうか
もしかしたら、聞く、見る、感じる、は
転じて
問い、の力
なのではないか
答えっぽいもの、いらないんじゃない?
誰もが、実験しながら、今を生きる。一緒になにかをやっていく。問いを頼りに。
そんな時代なんじゃないだろうか。
知識、技法を身につける、個人として能力を高めて問題の解決をはかる 個人
から
みんなで起きていることをみる、みんなの真ん中に現象を置く構図 を、起こす
へ
もし転換できれば、今までの視点からいえば問題が起き続けるだろう。その時それでも個人の責任に帰すことをしないでみんなで「なにが起きているか」を見ることができれば、自ずと流れる水の道が見えるはず。
それを、アイデア と呼ぼう
直線的な思考では出てこない、個人に帰してしまっては発生しない、有機的自律運動、星座のまたたきがある。
ひとつの個体だけじゃなくて、いろんな個体があって、ひとつの現象に対していろんな有機的自律運動が起きるとき、星座はさまざまに現れるはず。
有機的自律運動を止めない。
みんなの中に象られた星座を交わそう。
そのとき、それまでの集団の輪っかとは違う水脈が流れる。
集団の輪っかに居ながら、集団の輪っかの外に流れていく水脈。
集団の輪っかは、都度、変化し続ける。
風通しのいい、集団になりそうではないか。
※ここまでに出てきた言葉をまとめています。
ひとりよがりな、主観の言葉です。
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