意味の手前【写真】
なんだろう?
と、カメラと、(それ)を掬いとる。
写っているかどうかは、わからない。
心細いまんま、カメラと、(それ)に触る。
フィルムを現像してプリントして見る。
ぜんぜん撮れてない、と思う。
置いておく。
スマホで撮る。
なんとなくスマホに残ってる。
デジカメで撮る。
わあ、って、撮れてる気がする。
置いておく。
何年かして、振り返る。
ぜんぜん撮れてない、と思っていた中に、ふっと、なにかを感じることがある。
残ってる中に、あれ?と、思うことがある。
なんか、映ってる、って初めて見るみたいに思うことがある。
なぜ、今、それなのか?
その、1枚に、気にかかるのか。
それが、聞こえる、ということ。
(それ)が聞こえるわたしの体が、今、あるということ。
だから、次の瞬間には違っちゃうかもしれない。
いいかげんで、誠実。
うかつで、正直。
出会った時、接した時、(それ)と受容体であるわたしが出会う。
わたしの中で粒が発生している。
すでに始まっている。
つながり線になりそうになり、カメラと掬いとる。
その場では、自分がなにを掬いとったのか星座は立ち上がっていない。
そのときに「意味」は考えたら台無し。
「意味」は、撮る時のわたしの仕事じゃない。
わたしという固体をそのはたらきのままに解放してやる、それがわたしの仕事。
どれくらい、余白があればそれは星座に成るのだろう。
わたしは知らない。有機的自律運動のはたらきだから。
有機的自律運動のままに任せるより他にない。
星座に成ることもあれば、いつまで経っても星座に成らないこともある。
この一連のこと、出会い、接し、受け取り、離れ、粒になり、つながり線へ運動していく、有機的自律運動がはたらいている。
この最初のところにカメラがあるっていうのは、瞬間しか切り取らないカメラという道具は、だからこそ、ふさわしい。
筆の人もいるだろうし、iPadの人もいるだろうし、楽器の人もいるだろうし、声の人もいるだろうし、計算機の人もいるだろうし、いろんな道具を介して(それ)と向き合っている人たちがいる。
わたしの場合は、たまたま、カメラがよかった。
たいそうなことじゃなくて、とっても単純なこと。
そういう、わたしの成り方なんだ、ということ。
他の人と星座の成り方が、タイミングとか、密度とか、余白の必要さとか、なにやかや違っているとしたら、わたしはわたしの成り方を知りたい。
写真は、いつまで経っても終わらない。
可能性ばかりを浮き上がらせる。
「意味」は「撮る」中にはない。
「撮る」は「はたらき」の先っぽに触れているだけで、そのあとのことまでは追えない。
自分の中に確固としたものがないこととか、揺れやすいところとか、先行きが見えないところとか、「はたらき」の中に居て「はたらき」に任せるしかないところが、写真とわたしは似ている。
それでもたまに、ああ、そうだったな、ってくらい、ほんの微かな星座が立ち上がって、しみじみする。
それは「意味」じゃなくて「発見」と呼びたい感じ。
見えなかったものの前に目が開かれるような。
※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな、主観の言葉です。
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