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【粒】(わたしは粒で考えるようになった)

【粒と星座】という言葉をわたしはどんなふうに使ってきたか、共有するために、まず説明からいってみよう!

ひとつひとつ、雑談やエピソードを交えながら、のんびり行くよ! 道草の旅だね 🌱

ある日 スケッチブックを開いて図にしたのは 🗒


水素〈H〉と酸素〈O〉が接触して形を成すと、それは水という物質になるように
あらゆるものは刺激の素としてなにかとくっつく可能性を備えている、よね

刺激の素・受容体

あらゆるもの、くっつく可能性をもつものを「刺激の素」と呼んでみる。
実際にくっつくものを「受容体」と呼んでみる。
なにかがくっついて変化していく運動のとき、たぶん、それらは双方向的に「刺激の素」であり、かつ「受容体」なんだろう。

これは、イメージの話で、実際こんなことが起きていると物理の説明をしたいのではないんだが、どうしてもこういうことになっちゃう。

こうなっちゃってることにはきっかけ、発端がある。高校生の時に、

この世の物体は全て粒子でできている
工業化学科の先生

と先生が言って


え  いま、なんと …?

この机の角も、キリキリに尖っているハサミの先も、真っ直ぐなはずの定規の直線も… !
この世の物体はなにもかも粒子が集まって形を保っている

しかも!
「ブラウン運動」といってブルブルと微かに震えながらその物の形を保っている

と、言うではないか    ……!

にわかには信じられない
そして、ものすごく、
へーーーーーーーーーーーーーーーー!
ってなった。
ワクワクした
あれもこれもそれも、実は、みんな、丸いんだって!

平等じゃん!
元を辿ればこの世界のものはみな粒子じゃん!
ブルブル震えながら形になってて、フラジャイルじゃん!

 人のふりを見て自分ごとのように考えることが幼少期からむずかしかったわたしは(なぜむずかしかったかというと、人は平気なことが自分には平気じゃないことが多すぎて、とても他者を参考に自分のことを考えるなんてむずかしかった)、
 他者をお手本にしたり倣ったりができにくくて、困ったことがあると自然を見て自然の中に教えを乞うていた。無意識に。
 例えば川の流れをみて、自分の移ろう変化に思いを馳せてみたり。
 渡り鳥が渡ってゆくのをみて、ああ、あれは、組み込まれた摂理が働いているからあのようなのだ、と気がついたり。

すべてが粒子だってことがまずあって、自然の中で組み合わさって影響しあって、小さいものから大きなもの目に見えないものから聞こえないものあらゆるものが世界に成っている。

そんなふうに、物の、人の、粒子のところから思いを巡らせるのがわたしの思考の当たり前になっていたのかもしれない。


話は戻ります。

そんな、自然の中にあって影響しあって組み合わさってみたいな働きがわたしの体でも起きていて
わたしの体と世界の間で絶えず応答が起きている。

刺激の素とわたしの体という受容体

そうしてその接触はわたしの身体で痕跡(粒)となる。
これを「記憶」と呼んでみよう。
「記憶」は、意識されようとされなかろうと、蓄積されている。
(痕跡はときに意識にのぼって、やっと「知覚」と呼べるのかなと思っている)

意識してがんばらなくても、わたしと世界の間で「応答」は絶え間なく起きている。
それら運動は、世界の片鱗、世界を成している一側面、なんだろうとわたしには思える。


次は、【粒と星座】の、星座を説明できるかな
説明がんばってみるね!

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