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【仕事編・星座に至れなかった粒とつながり線(亡霊)とのつきあい方】 0ポイントと出会う旅

ひたひた、ひたひた、ひたひた、…………  それはやってき続けていた。

ひゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

振り向けばそこに………

ザ・亡霊

ひゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

※ホラー調で頭の中で再生してみてください。
岸田今日子がいいかもしれません。

「便利」「効率的」「速い」などが目的になると、
容易に有機的自律運動は無視されやすくなるだろう。
有機的自律運動を優先できないでなにか別の目的が優先されているとき、
なにか「線」に沿って有機的自律運動が成っていくとき、本来発生してくるはずだった「粒やつながり線」は、
こぼれ落ちている。外れていく。
この、こぼれ落ちた、外れていく、「粒やつながり線」は、消えてなくなるわけではない。あるのに、なかったことのように透明化している、だけなのではないかな。

と、前回書いた。

有機的自律運動で、「沿ってない」からと脱落していった「粒とつながり線」の軌跡は、誰に(自分にも)拾われることなく、透明化していた。
だが、「はたらき」の軌跡はなくなってはいない。
だから、まるで「ザ・亡霊」

誰に振り返ってももらえない、浮かばれない怨念のような………。

成仏させてやろうじゃないか。
と、言葉にして言ったわけでないし、意識できていたわけでもない。
でもわたしは、その亡霊を成仏させてやりたかった。
そうに違いない。
わたしは知っていたのだ。
意識できなくても、「わたしという個体」は、知っていたのだ。


わたしは30ヶ所ほど転職してきた。
「苦しい」に対して、その場から外れる、をした。
なにか線に沿っているかのような有機的自律運動にこれ以上入っていないように。

ひとつの集団の輪っか、例えば所属している会社とか、組織とか、から、外れる。

別の違う集団の輪っかに入る。

ひとつの集団の輪っかを経験して
→ 外れる

別の集団の輪っかを経験する
→外れる

を経験する。

集団から外れて、集団の輪っかは外れるか?
簡単には外れない。
なぜなら
目に見えないし意識できもしていない。
考え及ばないことは「あってもないこと」になる。

ひとつではなく幾つもの「集団の輪っかに入る・外れる」をしてみたことで、見えてくること。
これは、30ヶ所ほど転職してきたわたしにみえてくること。

同じ集団の輪っか(構成員や時代や諸々の要素で変化はしているとはいえ大きくは変わらない)が続いていく中では
わたしは「居続けられない」ということ。


集団の輪っかに気づいて自覚的に「外れる」をしている人もいるだろう。

わたしのように、集団を去っても、「集団の輪っか」という現象に気付けていないと、例えそこから外れることが叶っても、「集団の輪っか」から外れることはできていない。
集団の輪っかという視座から外れない限りは、「集団の輪っか」は見えてこないし、外れることもできない。
パラドックスだ。

「内在化されている集団の輪っか」は、気がつくことも、そこから外れることもできない。背中に張り付いている透明フィルムのよう。

「集団の輪っか」にスッポリ足を突っ込んでいるままで、自分の0ポイントに正直になることはできないだろう。
だって、「見えない線=集団の輪っか」に有機的自律運動のはたらきが沿っていってしまうんですもの。


さて、わたしはどうしたか。

「居続けられない」
このことを、先ず、尊重してみようじゃないか。

「ひとつところに落ち着いて働けない、ことがダメ」なのではなくて
いや、例え誰に「ダメ」と評価されても構わないが、
その評価の手前に、明らかになった現れがある。
このことを先ずはそのまんま、尊重してみよう。

集団の輪っかにスッポリ入っているときには怖くて思えなかったこと、
「沿えない」に、「まあいっか」と応える。

その応答をしてみたら見えてくること。

・「資本主義システム」とか「集団の輪っか」とか、なにか「線」に有機的自律運動が回収されていくことを継続していく中に、居続けることはできないということ
・自分の0ポイントを失い続けていく中に組み込まれ続けることはできないということ
・そのことを集団の構成員で共有できないことは苦しいということ
・自分を責める回路が発生していくということ

このようなことが見えてきたかもしれない。

透明になって、亡霊化していただけで、わたしの0ポイントは、ちゃんと現れていたのだ。

ただ、見えなかった、だけだった。
「沿わなきゃ」という「線」の元にいる間は、透明フィルムは背中に貼り付いているのである。
外れてみても外れてみても、「沿わなきゃ」「集団の輪っか」は、わたしの血肉だったから、ほんとうには外れることは叶っていない。

その状態は苦しく、沿えない自分がわがままに思えて、嫌になっている。
だから、また、今度こそと、次の「沿っていく」に挑んでいく。
自分の0ポイントは尊重できないまま。

とっくに、わたしの0ポイントは呼びかけてくれているのに。
これ以上は「沿えませんよ」。
これ以上は「自分の0ポイントをないがしろにできませんよ」。
と、わたしが応答するまで、そこで呼びかけ続けている。
待っている。

有機的自律運動はいつだって、はたらいている。
意識できていなくっても、そこに「呼びかけ」はある。
所属する集団の「集団の輪っか」「システム」の立ち位置からしたら例え「好ましくない」としても。
自分が見たくないとしても。

わたしの周りで起き続けている有機的自律運動の、「粒とつながり線」の先を、
「沿っていないから」と退けてはならなかった。

その先にはたらいていく可能性を尊重しなくては、どうしていいか、きっとわからなくなる。

だから、勇気出していこう。
「うーうーうー」を尊重して、「うーうーおー!」と叫んでみよう。
言葉がまだないからと、「沿っていく」を優先しなくていい。
先ずは「うーうーうー」の亡霊を、尊重しよう。
とか、思ったんです。


もうひとつ、わたしが試みていた方向性がある。

演劇を、入れようとした。
もう少し正確には、高校演劇部のときの有機的自律運動を取り入れようとした。

これについては次回以降、記述できるだろうか。
どうだろうか。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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