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【仕事編・コピーライター⑥ 旅立つ準備ができた】 0ポイントと出会う旅

昨日は「松本清張」原作の映画を観た。
「疑惑」。
何回か観ているが、今観るとまったく違う見え方がしてくる。
実際の事件をもとに書かれているが、小説に書く際に主要人物2人の性別を変えている。
それによって、社会で、どういう立場の人間が偏見に晒されやすいか、また、見えない苦労があるか、そしてその苦労が他者に理解され得ないこの世界で、それでもしたたかに生きる、みたいなことが見えた。
「偏見」は、罪の意識もなく、むしろ正義の顔をして、ひとりひとりが「集団」となった時に現れ人格を持つ。
そして1人の個をジャッジする。

松本清張のそういう、元も子もない感じが好きだ。
大きな強いものと、誰にも顧みられることのない小さな些細なことが重なっていって、ある時点で思いもよらない形で顕になる様が、ああ、人の世だな、人間だな、と思えて大好きだ。


前回の続き。

デザイン事務所でのコピーライターの仕事をしていた後、わたしは上京した。
演劇をやってみよう、と、挑戦するつもりで。

デザイン事務所での仕事はやりがいみたいなものを感じられるようになっていた。
地元の日本酒の醸造所の、週に1回の小さな新聞広告連載を担当していて、取材して写真と文章を載せた。
新聞一面の、「生涯学習」の広告を担当させてもらったこともある。

痛い失敗をしたこともある。
やれている感じがあった頃だった。
新聞に載った後で、上司である副社長の先輩コピーライターから、手紙という形で教えられた。
言葉数が少ない人だったから、手紙という形をとったのだと思う。
多分言いにくいことを、きちんと伝えてくれたのだと思う。

「やれている感じ」の時って、やれているんじゃなくて、調子に乗っているだけなんだ、って、この失敗と手紙の指摘でわかった。
自分が了解している範囲なんて、スカスカで、全方位神経を行き届かせられてなんかいない、っていうこと。
誰をも傷つけず、その上で依頼者の益になることを発信できること、そういうむずかしいことに臨んでいるっていうことに、わたしは考え到っていなかった。
考え至れていないことを、わたしは気づかないまま、「やれている」感じになっていた。
そういうむずかしいことに臨んでいるっていうことの自覚があれば、いつまで経っても、「やれている」感じにはなり得ないんだろう。
そして、それで、いいのだ。
迷いながら、不安に思いながら、臨んでいる、進行形でしかないのだろう。

失敗を指摘された当時にそこまで考えられていたかはわからない。たぶん、「チェッ」みたいな、感情が湧いていたと思う。
なんだよ、一生懸命やって、一回くらい失敗したからって。
みたいな。
直接言ってくれよ、手紙なんて陰険だよ。
みたいな。
まったく…不遜である。

でも、ちゃんと指摘してもらったことっていうのは、ちゃんと深いところで受け取っていて、ずっと残るものだ。
30年経った今も振り返ることができていること、ありがたい。


慰安旅行にも行かせてもらった。
東北を回った。
十和田湖や宮沢賢治の家や、フェリーで湖を渡ったこと、懇意にしているいつものメンバーである写植屋さん、カメラマン、イラストレーター、みんなで行った。
すごく楽しかった。
ひとりひとりバラバラで、誰と誰が特に仲がいい、なんてことはなく派閥もなく。
旅の間中ずっと、全体でチームだな、って感じがあって。


1991年か1992年だったと思う。
バブル崩壊で広告業界は急速に変わった。
写植も、カメラマンのデジタルカメラ移行も、いろいろなことが一気に変わっていった。
業績が急速に悪くなっていく中、会社として対処しなければならない事態になっていた。
社長と副社長は会社についての話し合いを頻繁にするようになっていて、なにか逼迫した雰囲気があった。

わたしは、解雇を言い渡された。
だが、わたしはそれで構わなかった。
話を繰り返しいろいろな案が出て、最後の決定だろうことがわかっていたから。

在職中にわたしは自分の劇団の2回目の公演をしていた。
その公演にも、デザイン事務所のひとりひとりが、つきあいのある業者の人が、観に来てくれた。
1人は公演のスタッフとしても関わってくれた。
大切につきあってもらえていたことが、わたしには伝わっていた。

わたしは、東京で、演劇をしたい、もっといろんな人と演劇をやりたい、そう思うようになっていた。

解雇の事実は、「東京に行きます」という言葉と入れ替わった。


ずっと後になって、20年後くらいに、このデザイン事務所を訪れたことがある。
すごくお世話になったし、事務所のあるビルや、その前の河原や、壁一面の本や、仕事していた環境や、出入りしている業者さんや、デザインチームのみんなや、社長や副社長や、なにもかもに感謝していて、なつかしかった。
事務所のあったビルがまだ建っていて、いつか、訪れようと思っていて、ある日、行ってみたのである。

ひどく驚いていたが、社長がいて、お茶をいれてくれた。
ひとりひとりが今どうしているか、教えてくれた。
社長は、わたしを解雇したことをずっと気にしていた、と言った。
わたしは、全然、気にしていない、むしろ感謝している、ここで働いていた間わたしは満ち足りていた、しあわせだったと。
社長は、信じてくれただろうか。
ずっと、解雇したことを気にしてくれていたなんて、やっぱり、当時からずっと優しい人だ。


東京に演劇をしに行こう、と思えたことも、ここでの日々があったからかもしれない。
なにか、大きな決断や次への展開の前は、やっぱり、自分、0ポイントが存分に感じられていないと行けないと思うから。

なにか大きなものに沿って行こうとしていたり、「集団の輪っか」に沿っていくことにきゅうきゅうとした毎日では、自分は立ち上がってこない。

周囲と存分に有機的自律運動が活性化していて、不遜なくらい自分の0ポイントに正直でいられている、そういう時、個体であるわたしは力が発揮される。
ジャンプするためにしゃがむ余白がある、そういう状態。



※ここまでに出てきて言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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