【仕事編・レンタルビデオ屋④ 資本主義と少数】 0ポイントと出会う旅
しっとり雨の後の外が静かだ。
緑色が落ち着いている。
空気と緑と街が混ざり合っている。
至福感に包まれる。静かだ。
前回は、レンタルビデオ屋の棚を作ろうとしたことを書き始めた。
DVDに移行する時期で、まだVHSも並んでいた。
ここまでにVHS化された作品が、DVDで再販される保証はなかった。
いい作品がたくさんある。
オンデマンドで将来見られるようになるとは夢にも思っていなかった。
「なくしちゃいけない」
と思った。
誰の目にも留まらなくなったら「作品」はこの世から「ない」ものになる。
「ある」のに、「ない」ことになることがわたしにはいたたまれない。
それは今もなにかにつけ強く感じる思いで、作品に限らず、自分の思いとか。市井の人のなにかとか。
わたし一人が拾える範囲はこの世界で極々些細でちいさい。
それでも、わたしの身体が感じ取っていたなら、拾っていたい。ないことにしたくない。
今から25年ほど前だろうか。
VHSの命が残り少ないことはわかっていた。
資本主義のすばらしいところであり容赦のないところなんだが、新しい商品が広く受け入れられると、需要の数が少ないもの、少なくなっていくものは作られなくなる。
VHSテープが残っていたとしても、再生する機械が作られなくなっていく。
すべてが市場で連動していく。
まるで市場にないものは「ない」かのようになる。
ピーターグリーナウェイ、デビットリンチ、クローネンバーグ、ダリオアルジェント、ガスヴァンサント、レオスカラックス、……。
これら監督の作品が、レンタルビデオ屋の、コーナーに散らばっていた。
「ホラー」「ドラマ」「恋愛」「サスペンス」
埋まってしまっている。
他の監督作品がわかりやすいと言いたいわけじゃないが、そのようにジャンル分けしてしまうとこぼれ落ちて「ないこと」になってしまう要素がこれらの監督作品にはあって、
人に「このようなジャンルですよ」と提示することの恐ろしさを思っていた。
そうじゃない。
これらの作品に詰まっていることが逆に見えなくなる。
ジャンル分けの分類は見つけやすいようで、「見つけにくく」する面がある。
店でいつも気にかけている作品たちを、わたしは見過ごすことをやめた。
棚を作る。
なんの棚だ、と聞かれれば
いいから手に取ってみてみて、ジャンルを念頭に置かないで、
というような棚。
勤めていたレンタルビデオ屋は特別コアな作品を仕入れているわけじゃない。
そんな中でも、まだ店に残っている作品がある。
これらを、廃棄処分にしないために(←ここ、ツッコミポイントだね、店の売上は二の次になっている 笑)
一人でも多くの人に手に取ってみてほしい。
熱い。
わたしの心は底からもえあがっていた。
一つの棚を、商品を全部出す。
わたしがピックアップしたい作品をジャンル別の棚から取り出す。
床に並べる。
さあ、どんなふうに、並べる?
監督別?
いままでにないジャンル分け?
あいうえお順?
詳細は覚えていないが、
ものすごく、もんのすごく、
個人的に並べた。
この作品の「感じ」は、この作品に通ずるなにかがある、となれば隣に置く。
みたいな。
………。
見る人が見れば、
「あ、これ」「あ、こんなのあったの」「これみそびれてた」
みたいな、「わかるわかる」とつながっていく感じ。
つながっていく
これ、わたしのテーマ。
話は飛ぶけど、昨晩、ノートにわーっと考えを書き出していたら
「つながる」「混じる」「ひとり」ってことが、
わたしにとって優位に「たのしい」感じだってことがわかってきた。
だから、この、「棚つくり」も、「たのしい」が全開だった。
つながるつながる。あの要素とあの要素が混ざってくる。全体的にまとまっていく。
これがわたしという「ひとり」の「個体」の中で起きていく。
記憶の海の中の「粒」が「つながり」を伴ってくる。
有機的自律運動が自動でどんどん高まっていく。
わたしは「わたしという個体」の「容器」の中で運動が起きているのを「たのしく」感じられている。
これは、わたしの「0ポイント」だといえる。
ただ、困るのは、当時の社会の中で、この「棚の存在意義」「棚を作る行動の意義」はいかほどか?という点。
誰にも、頼まれてない 笑。
わたしが店長という立場を行使して好き勝手にした。
だいたい、営業中に、ひとつの棚を全部入れ替えるなんて、お客さんにとって邪魔でしょうがない。
営業妨害。
CDでも、それをやった。
その店は荻窪、西荻窪辺りにあったんだけど
ひとつのコーナーを「好き」につくった。
インディーズ好きのアルバイトがいて、わたしはその人の趣味が好きだったので、コーナー作りに協力してもらった。
ポップも作ってもらった。
フィッシュマンズが何枚か並んでいて、ある日、お店に来たお客さんがそのコーナーの前に立っていて長い間見ていて、フィッシュマンズを借りていってくれた。
そのお客さんは、コーナーを作ったアルバイトさんの、好きなバンドの人だった。
わたしもすぐに「あ、〇〇さんだ」ってわかって、わ、と思った。
けど、アルバイトさんもわたしも、声はかけなかった。
なぜなら、また、来てほしかったから。
また来て、あのコーナーをゆっくりみてほしかったから。
他の人を気にしないで、あのコーナーの前に立ってほしかった。
店舗が売れるもの、多数をとれば、失われる「個」があって、
その「個」は、その「個」なりの好みに出会いたいのに、
たくさん並んでいる商品の中から自分の「好み」にたどり着くことが時間がかかったり難儀だったりする。
探し当てた時の喜びもひとしおだが、コストが余計にかかっていることは否めない。
ズズズズズっと、後退して退いているものを
うんと前に引っ張り出す。
それが、レンタルビデオ屋でわたしがしたくなった欲求で、
少なからずそこに多くはなくても需要はあった。
そして、わたし自身の気持ちも救われた。
わたしは店長としてはアルバイトの教育とかぜんぜんできなかったし、売り上げを上げることに興味が持てなかったし、シフトを作ることが劇的に苦痛でモタモタしたし、
店長としては「使えない」こと甚だしく。
ただ、
「自分」の「好き」に棚を作って、「ないこと」にしなかった作品たちが、
わたしがいる間はあの店に存在し続けたことは、自分スゴいって今でも思えている。
誰になにを言われても、ビビりはするけど、オロオロするけど、大満足。
ひとりの作業のように思えて、その実、
この世界にある「在るもの」との、共同作業だったと本当は感じている。
※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?